11.青と白銀
理核石の確認が終わると、午前の行事もひとまず終わりとなった。
教室を出る頃には、張り詰めていた空気が少し緩み、生徒たちもどこかほっとした表情を浮かべていた。
ルチアは胸に理核石の重みを感じながら、廊下を歩く。
塔の高い窓から差し込む光が、石畳に白い影を描いていた。
「ここが食堂?」
ラウルが戸口の前で小さく息を呑む。
木の扉を押すと、思っていたよりも温かい香りが広がった。
長いテーブルに白い皿が整然と並び、陽光が窓辺の花瓶を照らしている。
そこだけ小さな庭のように、淡い色の花が咲いていた。
「席どこにする?」
「ここでいい。」
ルチアは窓側の一番奥の席を選んだ。
人目から少し離れたその場所が、いくらか落ち着ける気がした。
椅子を引くと、木が低く軋む。
ラウルも隣に座り、安堵したように短く息を吐いた。
「なんだかここだけ別の世界みたいだね。」
「そうかも。」
淡い光の中にいると、先程までの重い空気も少し遠ざかる気がした。そんな時、背後から近づく気配に、ルチアは振り向いた。
「よ、久しぶり。」
イグニスだった。
手に食器を抱えたまま、どこか照れくさそうに立っている。
「…久しぶり。」
ルチアも照れくさく感じて、声が小さくなった。
「ここ空いてるか?」
「空いてる。」
イグニスは短く頷いて、ルチアの正面に腰を下ろした。
椅子がわずかにきしむ音が、妙に大きく聞こえた。
「……一年ぶりだな。ルチアとこうして並ぶの。」
「1年か…ちょっとお互いにごたついてそんなに会えてなかったんだね。」
「変わったかと思ったけど、あんまり変わってないな。」
そう言って、イグニスは口の端を上げた。
昔、訓練の度に泣き笑いしていた顔と、ほとんど同じだった。
「そっちこそ。」
「俺は変わったよ。多分。きっと。」
視線を落として、パンを小さくちぎる手に少しだけ力がこもる。
周りの生徒たちがひそひそと声を潜めるのが耳に入った。
青炎。全属性適性。どちらも珍しい。
それだけで、注目を集めるには十分だった。
「また同じ場所にいるんだし、よろしくな。」
「こちらこそ。」
短い言葉が胸の奥で繋がる。
ラウルは気まずそうに視線を泳がせたが、何も言わずにパンを口に運んだ。
イグニスは顔を上げ、ルチアをまっすぐに見た。
「変なこと言うけどさ。」
「何。」
「ルチアがいてくれて、少し安心した。」
ルチアは少しだけ目を細めた。
「僕も。」
その一言に、イグニスはほっとしたように笑った。
その笑みだけで、ここが自分の居場所になる気がした。
──
食堂を出る頃には、日差しが傾きはじめていた。
高い窓を透かす光は柔らかく、石畳に長い影を落としている。
足元を見ながら歩くと、胸の奥にじんとした感触が残っていた。何度も夢に見た学院の最初の日。
その一歩が、こんなに静かなものであることが、少し意外だった。
寮の廊下は昼間よりひっそりしていた。
すれ違う生徒たちもほとんど言葉を交わさず、それぞれの部屋に散っていく。
誰もが胸に理核石の重みを抱え、言葉にできない感情を抱えていた。
ルチアは与えられた部屋の扉を開く。薄い布をかけた寝台と、木の机が一つ。壁には星辰理の紋章が彫られた真鍮の燭台があり、短い蝋燭が小さく揺れていた。
机の上には理域戦の要項が置かれている。
明日、最初の演習。
それは逃れられない儀式のように思えた。
扉を叩く音に振り向くと、ラウルが顔を覗かせていた。
「……ちょっと、話していい?」
「いい。」
ラウルは遠慮がちに入ってきて、机の前に立った。
手に持った紙を少ししわくちゃに握っている。
「これ理域戦の説明。明日いきなりやるって。」
「知ってる。」
「ルチアは理域戦が怖くないの?」
短く間があった。
蝋燭の光がラウルの不安を映す。
ルチアはゆっくり言葉を探した。
「怖いよ。」
「やっぱり。」
「理核石によって全部を見られる。どれだけ扱えるか、どこまで制御できるか。隠してもすぐに分かる。」
「でもルチアは強そう。」
「僕だってこういうのは初めてだよ。強いかどうかは分からない。」
そう答えたルチアを、ラウルはじっと見た。息を吐き、顔を伏せる。
「俺、自分に自信が無いんだ。生まれた家の格が低いからじゃなくて、何も取り柄がないのがバレそうで…。」
「それは、違うと思う。」
「え?」
「理域戦は競うものだけど、勝ち負けだけが重要なわけじゃない。自分の理がどこにあるのかを知るためのものだと思うよ。」
「そんな風に考えられるのすごいな。僕は未だに理がなにかよく分からない。」
「僕だって分からないけど、だからこそ知りたい。」
ラウルが目を上げる。
「自分がどこまでできるか怖いけど、それでもここに来た。きっと、みんな同じだよ。」
静かな声が、部屋の小さな空気を震わせた。
「……そうだね。」
少しの沈黙があった。
ラウルは理域戦の紙をそっと机に置き、ためらいがちに笑った。
「明日もし隣になったら、よろしく。」
「分かった。」
「おやすみ。」
「おやすみ。」
扉が閉まると、また静寂が戻る。
蝋燭の火は穏やかに揺れていた。
ルチアは目を閉じ、理域戦の光景を思い描く。
そこに立つ自分と、見知らぬ何人もの影。
それでも、進むしかない。
夜が深くなると、寮の廊下も息をひそめるように静まり返った。
遠くで階下の時計が小さく鈴を鳴らし、十二の時を告げる。
寝台に横たわっても、すぐには眠気は訪れなかった。
瞼を閉じると、昼間の光景が何度も脳裏に蘇る。
理核石を掲げた瞬間の視線。
イグニスと交わした短い言葉。
ラウルが浮かべた不安な笑み。
どれも鮮やかすぎて、胸をざわつかせた。
やがて意識が深く沈む。
揺れるような感覚の先で、柔らかな白い光が見えた。
夢の中で立っていたのは、白銀の湖のほとりだった。
水面が月明かりを受けて、深い静寂に輝いている。
足元をくすぐる水草の感触が、生々しく伝わった。
「……」
声にならない呼吸を吐いたとき、
対岸に立つ影に気づいた。
白い布を纏った女性の姿。
その瞳は何も語らず、ただこちらを見つめている。
理の底に在る、清冽な光のように。
——母。
夢だと知っていた。
それでも、目を逸らせなかった。
「……どうして、僕はこんな所にいるの。」
声は思いのほか幼く震えた。
理に選ばれることが、祝福か呪いかも分からない。
この道の果てに何が待つのか、まだ知らない。
けれど、母は何も言わずに、片手をゆっくり伸ばした。
掌からこぼれ落ちる細い光。
それは湖面を滑り、波紋を描きながらこちらへ届く。
「……」
指先に白い光が触れた瞬間、胸の奥で何かが微かに鳴った。
言葉ではない、理でもない、ただ深い温度を持ったもの。
母の影はそこで溶けるように消えていった。
白銀の湖だけが残り、さざめく水音が耳に満ちる。
——理を超えることを、恐れるべきではない。
胸の奥に、それだけが残った。
次に瞼を開いたとき、蝋燭はほとんど溶け、最後の光を放っていた。
部屋はしんと静まり返り、窓から淡い月の光が差し込んでいた。
ルチアはゆっくり上体を起こし、机に置いた理核石に触れた。
冷たく澄んだ結晶の重さが、指に伝わる。
この先、何度もこうして夜を越えるだろう。
理の重みと共に。
孤独と共に。
それでも。
「……進む。」
誰もいない部屋に、低く声を落とす。
結晶は何も答えなかったが、心は少しだけ整っていた。
朝が来る。
理域戦が来る。
全ては、その先から始まる。
───
朝は、思ったよりもあっさりと訪れた。
窓の外で鐘が鳴りはじめ、尖塔の影が少しずつ光に溶けていく。
蝋燭はとうに消えていたが、部屋にはまだ夜の冷たさが残っていた。
理核石に手を伸ばすと、指先がかすかに震えた。
この結晶の中には、昨日の自分の全てが刻まれている。
理を扱った瞬間、感情が波立った痕跡。
そのどれもが記録となり、評価の一部になる。
隠すことも、誤魔化すこともできない。
寝台から立ち上がり、薄い布を肩にかける。
床を踏む音が静かに響いた。
鏡はないが、今の自分の顔は容易に想像できた。
不安も、覚悟も、混ざった色。
「……」
理に選ばれたという言葉を、幼い頃は呪いのように思った。
けれど今は、まだ正体の知れないそれを、少しだけ正面から見つめられる気がする。
部屋を出ると、廊下にはもう人の気配があった。
理域戦の準備で早く起きた生徒たちが、低い声で情報を交わしている。
「理核石の使い方は?」「どこで評価される?」
どの声も、不安と期待を隠せない。
ゆっくり階段を降りると、正面の広間に大きな掲示が出ていた。
理域戦の会場と組み合わせ表。
数十人の生徒が紙の前に集まり、名前を探していた。
ルチアは一歩近づく。
視線を走らせると、自分の名が見つかった。
そして、すぐ隣にもう一つ。
——イグニス・アッズーロ。
昨日の食堂の光景がよみがえる。
気まずさと懐かしさが同居する、あの時間。
今日は、その延長の先に何があるのだろう。
背後で誰かが低く息を呑む気配がした。
少し遅れて気づく。
並ぶ名前が珍しい組み合わせだと、周囲の誰もが思ったのだ。
だが、それでもいい。
何を言われるのも構わない。
視線を上げたとき、ふいにイグニスと目が合った。
彼も人混みを抜けてこちらに近づいていた。
浅い赤の瞳が、ほんの少しだけ柔らかく揺れる。
「おはよう。」
「……おはよう。」
それだけの言葉で、心の奥にあった緊張が少しほどけた。
「同じ組だな。」
「ああ。」
「……お前がいて、少し気が楽になった。」
「私も。」
言葉は短いが、それだけで十分だった。
人目もあるのに、イグニスが小さく笑った。
その笑みを見て、ルチアもほんの少し唇を緩めた。
理域戦。
一つの試練。
そして、始まり。
ふたりは視線を交わしたまま、一歩だけ並んだ。
鐘の音が高く鳴り、朝の光が広間を満たした。