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10. 隠された理

 初めてその門を見たとき、ルチア・セラドニスは胸の奥がかすかに冷たくなるのを感じた。


 星辰理学院――アウレリア聖国が誇る、理を学ぶ者の頂き。

 白銀に輝く尖塔が幾重にも重なり合い、薄い朝霧を突き抜けて天を目指していた。

 正門に彫られた星辰の紋章は、夜明けの光を浴びて鈍く光を返す。


 まだ十二歳。

 幼い少年の背には、この場所がどれほど大きな意味を持つのか完全には分かっていなかった。

 それでも、これから始まる日々がこれまでとは違うという直感だけは、はっきりと胸を刺していた。



 父の屋敷を発つ数日前、白銀のローブをそっと渡された。


「この布は……」


「お前が生まれた日に、湖のほとりでお前を包んだものだ。」


 父は多くを語らない人だった。

 だが、その言葉の奥にどれだけの願いが込められているかは分かった。


 小さな手でその布を握りしめた日から、ずっとこの感触は変わらない。

 薄くて、柔らかくて、どこか暖かい。


 今、その布は少年の肩を覆うローブとなっている。

 何もかもが変わっても、これだけは変わらない。



 列の中で一歩踏み出すたび、足の裏から冷たい理の気配が伝わった。


 門の前に立つ監督官は無表情だった。

 年老いた男で、記録用の帳面を小さな机に置いている。


「……次の者。」


 声がかすれた。

 目は誰にも感情を向けない。

 ただ役目を果たすだけの透明な視線だった。


「ルチア・セラドニス。」


 名前を呼ばれた瞬間、列の後ろから一つ二つ、短い息を飲む気配があった。


 一歩進む。

 星辰の紋章が微かに輝く。

 肌の奥が冷えたように感じたのは、きっと気のせいではない。


「理適性を示しなさい。」


 監督官はそう告げる。

 声も表情も一切変わらない。


 ルチアは静かに右手を掲げ、胸の奥に意識を向けた。

 理――世界を支える見えない潮。

 それは、まだ完全には理解できないもの。

 けれど幼い頃から、何度も感触だけは知っていた。


 深い湖の底に眠るような感覚。

 澄んだ冷たさが、胸の奥にわずかに揺らぐ。


 それを、ほんの少しだけ引き寄せた。


 星辰の紋章が白い光を帯びる。

 その輝きは、他の誰かが示したものよりも一瞬だけ強かった。


 でもすぐに収束した。

 目立たないように。

 何も知られないように。


「理適性、初等課程基準を満たす。通過。」


 監督官が淡々と帳面に記す音が、やけに大きく響いた。


 小さく頷き、一礼する。

 門が音もなく開いた。


 背後の視線が少しだけ強くなるのを、肩のあたりで感じた。

 だが振り返らず、一歩踏み出した。


 門を抜けた先は、広い石畳の中庭だった。

 空気がひやりとしていて、草の香りがかすかに漂う。


 先に通過した子どもたちが、思い思いに視線をめぐらせている。

 尖塔を仰ぐ者。

 案内の教師を探す者。

 手を握り合っている小さな兄妹のような二人組もいた。


 誰もが、今日からここに暮らす。

 名前も家も、理の前ではすぐに意味を失う。


 そう思うと、不安よりも安堵が少しだけ勝った。

 あの家の重さも、ここには届かない。

 理だけがすべてを計る。


「……ここで。」


 小さな声が、唇からこぼれた。

 ここで何かを変える。

 まだ言葉にできない、重い約束のようなものが胸の奥に沈んでいた。


 中庭の奥に、一つの掲示板が立っていた。

 理適性の基準を満たした者の名が、そこに記されている。


 人だかりができていた。

 小さな肩がぶつかり合い、気まずい沈黙があちこちに生まれては消えた。


 ルチアは少し離れた位置から、そっとその掲示板を見た。

 自分の名前はすぐに見つけられた。

 白い板の中ほど、端正な書体で「ルチア・セラドニス」と刻まれている。


 それは、確かな証だった。

 理の門をくぐった者として、この場所に立つ権利を得た。

 それだけで十分だった。


「……セラドニスって、本当に来るんだな。」

「理適性、どのくらいなんだろう……。」


 囁きが、背をかすめるように通り過ぎた。

 顔は見えない。

 でも声は幼い。

 同じ年頃の、まだ理の何も知らない子どもたちの声だ。


 特別な敵意はない。

 ただ、名を知っているというだけの遠い関心。


 それに胸を乱されるほど、自分は弱くない。

 理を示すのは、もっと先でいい。


「入学者の方は、こちらへ。」


 掲示板の脇で、教師らしき女性が柔らかく声をかけた。

 白銀の装束に、深い青の縁取り。

 胸元には理学院の紋章が縫い取られていた。


 ルチアは小さく息を吐いて歩み寄る。

 教師は一人一人に目を合わせ、名を確認していた。


「名前を。」


「……ルチア・セラドニスです。」


 名を告げると、一瞬だけ教師の瞳が細められた。

 けれど特別な反応はなく、ただ頷く。


「こちらに並んでください。」


 幼い心に、それだけで十分だった。

 何も測られず、何も問われない。

 それがどれだけ楽か分からなかった。


 行列ができる。

 同じように名を呼ばれ、案内を受ける子どもたちが、ひとつの列になった。


 見渡せば、誰もが緊張で表情が固い。

 生まれ育った屋敷や家族から離れてきたばかりの、幼い顔。


 ルチアは列の最後尾に立って、ただ静かに尖塔を仰いだ。

 その白さは、これから先に待つ何もかもを予感させるようだった。


 やがて鐘がもう一度鳴った。

 それが合図のように、列が動き出す。


 学院の中央へ向かう石畳の道を、一列になって歩く。

 理の学びの第一歩、まだ何も知らない。けれど、それでいいと思った。


 理に選ばれたかどうかは、証明しなくてはならない。それはこれからの時間で決まる。


 白銀の尖塔の足元に、広い玄関ホールがあった。

 磨き上げられた床に、星辰の紋章が大きく刻まれている。

 その中心で、年老いた男性が立っていた。


 白いローブに、銀の縁取り。

 この学院で最も古い理知の系譜を継ぐ者――と噂に聞いた。

 だがルチアにとって、それはただ遠い言葉でしかなかった。


 老いた瞳が、列をゆっくりと見渡す。

 視線が一人一人の顔に触れるたび、どこかひやりとするような感覚が胸をかすめた。


 理を知る者の目。

 幼い心には、それがとても重たく感じられた。


「これより、入学の宣誓を行う。」


 低く落ち着いた声が、広間に響いた。

 それだけで、しんと静かになる。


 手を握りしめる子。

 背を伸ばして顔を上げる子。

 泣き出しそうな顔を隠すように俯く子。


 十二歳という年齢には、あまりにも大きな宣言だった。

 理の道を歩むと決めること。

 それは一度進めば後戻りのできない約束だ。


「名を呼ばれた者は、中央に進み、手を置け。」


 老いた声は感情を持たなかった。

 ただ淡々と、決められた儀礼を告げるだけ。


「ルチア・セラドニス。」


 耳に届いたその響きは、不思議なほど遠かった。

 まるで誰か別の人間の名を呼んでいるように。


 足が動く。

 胸の奥に、白い湖の幻が揺れた。

 冷たく、透明で、どこまでも深い場所。

 そこから呼ばれるようにして、歩を進める。


 中央に据えられた星辰盤。

 淡く光る石の表面に、ゆっくりと右手を置く。


 冷たさが皮膚を刺した。

 それは恐怖ではない。

 ただ理に触れたという感触だった。


「お前は正しき道を進むと理に誓うか。」


「……はい。」


 声が震えないように、一度息を飲む。

 そしてもう一度、短く告げた。


「誓います。」


 広間に沈黙が落ちた。

 星辰盤がひときわ強く光る。

 ほんの一瞬だけ、白い紋様が盤面に浮かんだ。


 誰も息を呑むことはなかった。

 たぶん、それほど珍しい光ではなかったから。


 それでいい。目立たない。知られない。

 それが何より望んだことだった。


 手を離すと、冷たさがすっと消えた。

 星辰盤の光も、何事もなかったように淡い輝きへ戻っていく。


「席へ戻れ。」


 老いた教師の声は変わらず淡々としていた。

 誰も何も言わない。

 背中に注がれる視線もない。


 それが、ひどく救いに思えた。


 ルチアは深く頭を下げ、列へ戻る。

 一歩一歩、足が自分の意志とずれている気がした。

 ここに立つまでに、あまりに多くのものを失った気がする。

 それでも胸の奥には、まだ何かが残っている。それだけは消えない。


 やがてすべての名前が呼ばれ、宣誓が終わった。

 広間に集まった子どもたちは、改めて一列に並ぶ。


 老教師は静かに口を開いた。


「お前たちは今日から、この星辰理学院の一員となる。」


 その声は低く、どこか厳しい響きを帯びていた。


「この門をくぐることは、理に命を賭けることと同義だ。名も、家も、理の前では等しく無意味だ。証明できぬものは退けられる。示すことができるならば、たとえ平民であろうと理は応える。」


 それは、恐ろしいほどに公正な言葉だった。


 ルチアは小さく息を吐いた。それでいい、と心の奥で思った。理だけがすべてを決める。だからこそ、ここに来たのだと。


「本日より七日間は初等課程の導入講義が行われる。理の基礎、星辰盤の操作、精霊理の初歩。心得ておけ。」


 白髪の教師が一歩退くと、別の若い教師が前に進んだ。

 柔らかな青のローブに、銀の紋章が光る。

 先ほど中庭で案内をしていた女性教師だった。


「では、寮まで案内します。初等課程は全員、北棟の星辰寮で生活することになります。」


 まだ幼い顔が一斉に動いた。

 寮――この日から、家を離れ、一人で過ごす場所。

 家族の存在が遠ざかることを、本当に理解したのはこの瞬間だった。


 列は再び動き出す。星辰盤を横切り、白い廊下を進む。

 窓の外には高い尖塔と、理観測の装置がいくつも連なっていた。どこを見ても白と銀の光に満ちている。


 歩くたび、胸の奥に冷たい感触が落ちていく。恐ろしいのではない。

 ただ、理がここに息づいているのを感じるだけだった。


 北棟の星辰寮は、石造りの堅牢な建物だった。

 古い柱に絡む蔦が、淡く緑の香りを放っている。


「ここが、お前たちがこれから暮らす寮だ。」


 教師が短く言った。

 その声に、少年少女たちは足を止める。

 緊張と、わずかな期待と、何もかもが新しい生活の始まりだった。


「部屋は二人一組だ。割り当ては理適性の性質に基づいて決められている。同じ理属性を持つ者同士、学びを深めるためだ。」


 ローブの袖を握る手に、微かな力がこもる。隣が誰になるのかは知らされていない。

 それが不安でもあったし、少しだけ胸を高鳴らせた。


 一人ずつ名が呼ばれ、部屋番号と共に割り当てられていく。

 短い返事をして、鍵を受け取る。誰も声を張り上げることはなかった。その沈黙が、余計に空気を張り詰めさせていた。


「ルチア・セラドニス。」


 自分の名が呼ばれた。声は平らで、何の色も含まない。


「第三階、北翼、三〇一号室。理属性は未定。基礎講義の中で評価を行う。」


「……はい。」


 小さな声で返事をし、鍵を受け取った。

 冷たい金属の感触が、指先に重みを残す。


 全員の割り当てが終わると、教師が最後の説明を告げた。


「寮の規律は厳格だ。規律に背く者は学びの資格を失う。分かっているな。」


 多くのものが言葉を発せず頷く程度に留まった。誰だって来て早々、学べなくなることを考えたくはないからだ。


白銀の扉が開かれ、寮の廊下へ一歩踏み出す。石造りの床は靴底から冷たさを伝え、壁に埋め込まれた灯りが理の潮流を淡い光に変えていた。


三階まで続く階段を一人ずつ昇っていく。まだ幼い背中がどれも小さく震えている。


ルチアも小さく息を吐いた。この階段を上がるたび、過去の影が遠ざかっていく気がする。父の屋敷、冷たい母の声、兄たちの視線。


すべてを忘れられるわけではない。それでも、ここで証明する。理を知り、操り、超える。その覚悟だけが胸にあった。


三階の廊下は低い天井と白い壁が続いていた。扉にはそれぞれ番号が刻まれている。鍵を指先で確かめながら歩を進める。


隣を歩く少年も緊張で顔が青ざめていた。誰も声をかけない。それがこの学院の空気なのだろう。


目的の扉の前に立つと、廊下の奥からゆっくり足音が近づいた。振り返ると、同じように鍵を手にした少年が立っていた。淡い茶色の髪、まだ幼さの残る表情。


瞳の奥に理を怖がるような怯えが揺れていた。


「…同室、だと思う。」


小さな声。その言い方に、どこか安心を求める気配があった。


「三〇一号室?」


「うん。」


二人は視線を交わし、短く頷いた。鍵を差し込み、同時に回す。扉が音もなく開いた。


室内は質素だった。簡素な寝台が二つ、壁際に学習用の机。奥に理核石を安置する台座がひとつだけ置かれている。


理の学院である証はそれだけだった。けれどこの部屋は、これから長い年月を過ごす場所になる。それがわかるだけで、胸の奥に少しだけ重さが生まれた。


二人は荷を置くと、自然に向かい合った。


「僕、ラウル・メディシス。」


少年が小さく手を差し出した。震えているのが分かった。この学院に入るのは、誰にとっても試練なのだ。


ルチアは短く頷き、手を握り返した。


「ルチア・セラドニス。」


一瞬だけ、ラウルの目が見開かれた。だがすぐに逸らされた。


「…やっぱり、あの…有名なんだね。」


「何が?」


「だって、家のこと、噂で聞いた。」


その言い方は決して悪意を含んだものではなかった。


ただ純粋な興味と、少しの不安。それが伝わったからこそ、ルチアは頬をわずかに緩めた。


「別に、何も特別なことはないよ。」


そう言うと、ラウルはほっとしたように小さく息を吐いた。


机の引き出しに小さな革の手帳を収めると、扉の外から廊下を歩く複数の足音が近づいてきた。少しして、隣室の扉が開く音がする。


低い声で短く名を告げ合う気配があった。初等課程に集められた生徒たちの多くは、互いの顔をまだ知らない。


だからこそ、その最初の数日でどう振る舞うかが、この学園での立ち位置を決めるのだと、入学の手引に記されていた。


「……理優等寮じゃなくて、よかったの?」


ラウルがためらいがちに問いかける。ルチアは少し考えた末、簡潔に応えた。


「理域戦で上がるつもり。」


「理域戦…。」


短く繰り返す声に、まだ幼い不安が混じっていた。理核石を奪い合い、理の適性を競う実戦演習。


小さな頃から理を扱う家系に生まれた者でも、恐れを抱く者は少なくない。ラウルはその手を胸に当て、わずかに唇を震わせた。


「…僕、そんなに強くないんだ。」


「強さはこれから決まる。理は生まれで決まるものじゃない。」


ラウルは驚いたように目を上げた。ルチアはそれ以上、何も言わず視線を外す。


理を支配する家系に生まれたからこそ、その言葉が空々しいと取られるのはわかっていた。それでも、自分の中に揺らぎはなかった。


理の力は与えられるものではない。理を知り、理解し、手にする覚悟だけがすべてを変えるのだ。


荷を解く間、ラウルは何度か言葉を探すように視線をこちらに向けたが、ついにそれを口にすることはなかった。


夜になり、廊下の灯りが緩やかに落ちる。理核石の台座に淡い光が灯り、部屋を静かな銀の色に染めた。白い寝具に体を沈めると、昼間の喧噪が嘘のように遠ざかる。


壁越しに聞こえる微かな寝息、廊下を見回る教師の足音。それらすべてが、ここがもう「家ではない」という現実を教えてくれた。


目を閉じると、父の声が遠い夢のように響いた。


――お前は俺の子だ。


思い出しただけで胸の奥に淡い痛みが生まれた。けれど、それは冷たくはなかった。ただ、どこか遠い場所で灯る火のように、静かに心を支えていた。



翌朝、初等課程の集会が理堂で行われた。石造りの円形講堂は、高い天蓋から光を集めていた。中央の演壇には白銀の装束をまとう教師が立っている。黒髪をきちんと結い上げ、理核石を胸元に飾る女性。その瞳は冷たく澄んでいた。


「初等課程、新入生一同に告ぐ。」


響く声は余計な抑揚を持たず、それでいて抗えない重みがあった。


「この学院は、家格の優劣を認めはするが、理の優劣はそれと無関係だ。理を軽んじる者は、いかなる由緒を持とうとここで学ぶ資格を失う。」


ラウルが隣で肩を震わせた。ルチアは黙って視線を演壇に固定した。


「おのおの、これから理に生きると誓え。理は、敬意なき者を拒む。」


そう告げて、教師はゆっくりと一礼した。教室全体が息を呑む気配を残したまま、白銀の裳裾が静かに揺れた。


「……あの人、理知院の筆頭だって。」


ラウルが小さく呟く。ルチアは小さく頷いた。


「ソニア・ディ・アルディス。」


幼い頃に読んだ書物に、その名が刻まれていた。理の理論と精霊理の調和を追求した、学院の理論派筆頭。だが理論家であるだけでなく、理域戦の記録でも幾度も最上位を取った実戦の達人でもある。


「ちょっとだけ怖い、ね。」


ラウルの声は震えていたが、それは単なる恐怖ではない。理に触れた者が持つ、畏れにも似た敬意が混じっていた。理は力であり、知であり、感情さえも侵すもの。けれど、それを知ることでしか前に進めない。


星辰理基礎の教室に入ると、昼の光が差し込む高い窓から、淡く揺れる影が長い机に伸びていた。

真新しい理核石が一人ひとりの机に置かれ、白い布がかけられている。

その布の下に、これから自分の資質を示すものが眠っている。


けれどルチアの視線は、窓辺に並ぶ植物の鉢に吸い寄せられた。

濃い緑の葉がわずかに揺れている。

ささやかな命の気配が、この部屋にだけ別の温度を宿していた。


「ここが、僕たちの席、かな。」


ラウルが小さな声で言った。

黒板の脇にある木の札には、それぞれの名前が整然と記されていた。


ルチア・セラドニス

ラウル・メディシス


二人分の席が窓側に並んでいた。

この先、何百時間もここに座るのだと思うと、胸の奥がわずかにきしむ。


けれどその痛みは不快ではなかった。

初めて自分の意志で選んだ居場所。

その証のように思えた。


「入学初日は、理核石を取るだけで終わるって。」


「……そう。」


ラウルは小さく息を吐き、そっと机の縁に指を置く。

白い布の下に眠る結晶が、まるで生き物のように冷たい気配を漂わせていた。


他の生徒たちも、それぞれ決められた机に腰を下ろしていく。

誰も声を荒げる者はいない。

ただ、小さな緊張が部屋全体に張り詰めていた。


扉の前に立つ教師が名簿を確認すると、静かな声で告げた。


「一人ずつ呼ぶ。名を呼ばれた者は立て。」


数人の名が読み上げられ、生徒たちが順に立ち上がる。

少し前の席に座った少年が、唇を固く結んで立ち上がった。


「イグニス・アッズーロ。」


彼はためらわず歩み出て、机の前で一礼し、白布を外した。

結晶がほのかな蒼白の光を灯す。

それは一瞬、日の光よりも鮮やかに輝いた。


「青炎属性、確認。」


教師は淡々と告げる。イグニスは表情を変えず、結晶を両手で抱えた。

肩のあたりで、緊張を隠すように小さく震えが走っているのが見えた。


「……やっぱり、噂は本当なんだ。」


ラウルが小声で言った。

ルチアは何も答えず、ただ久しぶりに会う友の背を見つめた。


その震えは自分に重なる気がした。理に触れる覚悟は、どんな者にも同じ重さを背負わせる。


「次。」


教師の声が再び響く。


「ルチア・セラドニス。」


一瞬、部屋の空気がわずかに揺れた。

その揺らぎは視線になって背を刺す。

それでも、ルチアは立ち上がる時、まぶたを下ろすことはしなかった。


歩を進めるたび、脈が静かに早まった。

席の前に立つと、白布に指をかける。

息を整え、布を持ち上げる。


――光が、ゆっくりと満ちた。


理核石は澄んだ銀色の輝きを宿し、ふわりと淡い熱が指先を撫でる。

理の光に満たされながらも、胸の奥は冷静だった。

これは自分の一部。それ以上でも以下でもない。


「全属性適性、確認。」


教師の声に、低いざわめきが起きる。

だがルチアは微動だにせず、結晶を両手で抱えた。


肩越しに、イグニスが一瞬こちらを見たのが分かった。目が合うことはなかったが、それで十分だった。


沈黙の中、ゆっくり席に戻ると、ラウルが顔を伏せたまま小さく声を落とした。


「やっぱり…ルチアは特別な人だ。」


ルチアは少しの間、何も言わなかった。

それでも言葉を選び、目を伏せたラウルに向けた。


「特別じゃない。」


それだけを言うと、結晶を机に置き、息を吐いた。

部屋のざわめきはすぐに薄れていった。

けれど胸の奥で、何かが静かに形を変え始めていた。

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