1. 白銀の湖の子
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「この夜を裂くものが、いつか遠い未来に在らんことを。」
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アウレリア聖国の北端、聖域アルゲントゥムの地は、深い霧に包まれていた。
理が交わり合うこの場所では、星辰理と精霊理と地脈律動が絶え間なく調和し、あるいは軋んでいる。
大陸に無数の都市と学府が生まれ、滅びていった。そうした盛衰の時代を越えて、ここだけは何も変わらない。
白銀の湖は、聖域の中心に在る。
理を孕んだ水は月光のように淡く輝き、周囲に並ぶ古の石碑がその光を受けてひそやかに影を落としていた。
この湖を取り囲む霧は、理そのものの息吹。
人々はそれを「理の祝福」と呼び、また「理の沈黙」とも畏れた。
ひとりの男が岸辺に立っていた。
黒檀の髪と深い褐色の瞳。
夜の冷気を受け止める白い外套を纏い、細身の指が胸元の銀の紋章に触れる。
公爵ベネデット・セラドニス
学者であり、星辰観測の権威であり、この地を治める公爵であり、同時にこの夜、ひとりの父になろうとする者。
「……この霧の奥で、君は待っているのだろうか。」
呟きは霧に吸われ、何も答えはなかった。
だが、白銀の湖がわずかに波立った。
理の循環が、さざ波となって湖面を撫でていく。
霧がふっと切れ、その向こうにひとつの影が立った。
人の形をしていた。
けれど、肌も髪も霧と同じ白さで、灯火に照らされれば消え入ってしまいそうだった。
ただ、その瞳だけは確かな意志を宿していた。
静かな、遠い星を思わせる淡い青。
彼女は湖の精霊とも、星辰の理そのものとも呼ばれた。
ベネデットにとってはただひとりの女だった。
人の理を超え、なお愛を交わした存在。
霧の中から、そっと腕が伸びる。
その腕には、小さな命が抱かれていた。
赤子だった。
白銀の布にくるまれ、ほとんど音もなく眠る。
だが、その胸には確かな息のリズムがあった。
霧に溶けるように淡く、しかしどこまでも凛とした気配が、その小さな体に宿っていた。
ベネデットは一歩進む。
霧がその足を絡め取る。
だが、その重みは恐れではなく、祝福にも似たものだった。
「その子が…。」
彼の声は、夜の理に響いていった。
女は何も言わず、ゆっくりと赤子を差し出す。
白銀の霧が、その輪郭を淡く照らした。
湖が微かに波を立てる。
遠い星がひとつ、雲間から顔を出す。
その光を映すように、赤子の睫毛がかすかに揺れた。
『この子に名を。』
言葉にせずとも、女の瞳はそう告げていた。
ベネデットは赤子を受け取る。
その小さな重みが、理よりも確かな現実を示していた。
「……ルチア。」
声にした瞬間、湖面が淡く光った。
赤子は微かに息を吐き、その頬にわずかな熱が宿る。
「ルチア。」
もう一度、その名を告げる。
それがこの夜に許された唯一の真実であるかのように。
女は静かに頷いた。
そしてベネデットの耳元でひとつの言葉を囁いた。
ベネデットの目が大きく見開く。
霧が再び濃くなる。
その輪郭が、白銀の夜に溶けていく。
「……待ってくれ!」
手を伸ばす。
けれど、その指先はもう何も触れられなかった。
彼女は、理に還る。
星辰の潮に抱かれて。
残されたのは、小さな命だけだった。
ベネデットは赤子を胸に抱き、深い息をついた。
視線を上げると、湖の向こうに古の石碑が並んでいた。
その一つに刻まれた紋様が、星辰の緋色をかすかに宿していた。
「理に選ばれし子か…。」
夜の理は何も答えない。
ただ、静かな波紋が足元を撫でていく。
湖の波紋はやがて消え、霧は静かに降り積もるように湖面を覆った。
夜風は微かに冷たく、星辰の潮の気配が大気を震わせている。
ベネデットは小さな赤子を胸に抱いたまま、しばしその場に立ち尽くした。
「……ルチア」
その名を、もう一度だけ低く呟く。
まるで何度も確かめなければ、目の前の現実が崩れてしまいそうだった。
理は人の思いに応えはしない。
星辰理は秩序を、精霊理は感情を、地脈律動は大地の命を保つ。
だが、そのどれもが「父としての幸福」を保証してはくれない。
霧の奥で、何かがわずかに軋んだ音を立てた。
星辰観測塔の巨大な歯車が、運命の歯音を刻むように回転する。
あれはいつか、この子が背負う理を告げる鐘になるのだろう。
彼は視線を湖に戻した。
夜の白銀の湖は、何事もなかったかのように静まり返っていた。
精霊理の祝福は、もうそこにはない。
けれど、その空白にこそ、この子が生きる意味が刻まれている。
理に選ばれし者は、理に縛られる者でもある。
「……お帰りを。」
背後から低い声が響いた。
振り返ると、一人の老僕が霧を押し分けて立っていた。
白い髭を胸元まで垂らし、淡い灯火を掲げている。
「お迎えにあがりました、公爵様。長居はお体に障ります。」
「…ああ。」
ベネデットは深く息をつき、赤子を抱き直した。
その顔を見下ろす。
小さな睫毛がわずかに動き、夢の中で何かを感じ取っているかのようだ。
「ロマヌス。」
「はい。」
「この子を……屋敷へ。」
「承知しております。」
ロマヌスは穏やかな手つきで、布を整えた。
精霊の母が遺した白銀の布は、赤子を包むというよりは、理の殻のように見えた。
「公爵様、この御子は…。」
「言うな。」
ベネデットは声を落とした。
老僕は口を閉じ、深々と頭を下げる。
二人はしばし黙した。
ただ夜の理だけが、淡い光と共に辺りを覆っていた。
「ルチア。」
名を呼ぶ小さな声が、波紋を残した。
それは静寂に沈む白銀の湖が、その名を覚えた証のようだった。
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夜が明ける頃、公爵の一行は沈黙のまま馬車に乗り込み、湖畔を去った。
残されたのは、古の石碑と、理の気配が満ちる水面だけ。
その湖の深みには、誰も知らぬ記憶が眠っている。
やがて来る紅の月、そして理の再生の運命を、その深淵はすべて知っていた。
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馬車の窓に結露がうっすらと曇り、その外側を白銀の霧が流れていく。
揺れるたびに赤子はわずかに息を吐き、細い指を布の端に絡めた。
ベネデットは目を閉じて耳を澄ます。
理を読む者であれば、この子の存在がいずれ何をもたらすか、理知の目で推し量るだろう。
だが父としての感覚は、ただひとつの答えを告げるだけだった。
この子は、愛すべき存在だ。
「ルチア。」
声に出すたび、胸の奥に痛みとも温かさともつかない感覚が募る。
理の秩序に生きてきた自分が、この子に何を与えられるのか。
精霊の母と交わした短い季節の記憶が、淡い残響として蘇る。
「公爵様……。」
ロマヌスが遠慮がちに口を開いた。
「この御子の件、屋敷では…。」
「当面は“親族の子”として記録する。公には認知しない。だが、いずれ…。」
ベネデットはそこで言葉を切った。
馬車の天井には、理を安定させるための結界紋が彫られている。
星辰理と精霊理を均衡させるその細密な紋様は、王立アカデミーにいた頃の自分が設計したものだった。
だが今、その理の結界の内側で、赤子の寝息だけが何より確かな現実を示している。
「この子は理に選ばれた。それが祝福か、災厄か。
だが……私の子だ。それだけは変わらない。」
「……承知いたしました。」
ロマヌスは灯火を手に、静かに視線を落とした。
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夜が明ける頃、馬車は公爵邸の裏門に辿り着いた。
まだ薄明の霧が敷地を覆い、灯籠の明かりが石畳に長い影を落としていた。
門番が一礼し、控えめに扉を開く。
誰も言葉を交わさず、そのまま邸内へと進む。
邸の奥には、理の加護を祀る小さな祠があった。
精霊理を象徴する七つの燭台が置かれ、夜の残光に照らされている。
ベネデットは一歩、また一歩と進んだ。
足元の絨毯がわずかに沈み、その感触が現実を強く引き戻す。
燭台の中心に、小さな揺らめきが見えた。
それは、いつの時代からそこにあったのかもわからぬ微光。
理の守護を告げる印。
赤子の睫毛がわずかに動く。
ベネデットは息を呑んだ。
「……理が、覚えている。」
誰に向けた言葉でもなかった。
だが、白銀の湖で交わした短い誓いが、その瞬間、再び胸に蘇った。
『この子が理を超えるとき、その運命が祝福であれ。』
言葉に出すことはできなかった。
けれど、理の深みには届いたかもしれない。
何も変わらぬかもしれない。
それでも…
「公爵様。」
ロマヌスが声をかける。
振り返ると、老僕の瞳には長い年月の疲労と、深い慈しみがあった。
「御子をお預かりいたしましょうか。」
「……いや。今夜だけは、私が抱いている。」
「かしこまりました。」
ロマヌスは一礼し、そっと背を向けた。
邸内の空気は霧の名残を孕んで冷たい。
だが、その中で赤子の体温は確かな命の熱を持っていた。
夜が完全に明けるころ、霧は屋敷の中庭から去り、淡い朝の光が差し込み始めた。
白銀の湖に抱かれていた気配は遠のき、現実の空気がひそやかに戻ってくる。
公爵邸の奥深くにある書斎は、理の研究と政務の部屋でありながら、今夜だけは父の安息の場となった。
ベネデットは深い椅子に腰を沈め、赤子を胸に抱えたまま目を閉じる。
長い夜が終わり、理に刻まれた運命が確かな始まりを告げていた。
白銀の布に包まれた小さな命は、まだ夢の中にいる。
その夢は、果たしてどんな光景だろうか。
精霊理の胎動、星辰理の律動、その狭間に漂う微かなぬくもりか。
「ルチア。」
静かに名を呼ぶ。
言葉にするたび、この小さな存在を失うのではないかという恐れと、絶対に守ると誓う意志が交錯する。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「入れ。」
ベネデットは目を開け、低く声を落とす。
入ってきたのは、整った顔立ちの若い執事だった。
彼は深く頭を下げ、視線を赤子に落とすと、ほんの一瞬、目を伏せた。
「クラウディア様が、お目通りを望んでおられます。」
「そうか。」
短い返事の中に、わずかな溜息が混じる。
正妻――クラウディア・セラドニス。
理の正統を背負う家系の娘であり、この屋敷の主人としての資格を持つ女。
そして、ルチアにとっては強い拒絶の視線を注ぐ者。
「通すが、短く済ませてくれ。」
「承知いたしました。」
執事が下がる。
静かな時間がわずかに流れた。
そして再び扉が開く音がした。
クラウディアは細身の体を黒紫のドレスに包み、夜の残響を纏ったように立っていた。
その瞳は澄んだ琥珀色。
理の貴族らしい整った顔立ちは、今や冷たい石像のように硬い。
「…公爵様。」
その声は感情を封じ込めていた。
けれど、その沈黙の奥には、ひりつくほどの感情があった。
嫉妬。
拒絶。
あるいは、怯え。
「クラウディア。」
ベネデットは短く応じる。
その視線は決して赤子から離れない。
「それが…。」
「…そうだ。」
言葉を遮るように答えた。
静かに、しかし絶対に曲げることのない意志が、声に滲んだ。
「この子は私の子だ。」
「…っ!」
クラウディアは目を伏せた。
数息の間、部屋にただ沈黙が満ちる。
「お覚悟のほどは?」
「理を読む者としてではなく、一人の父としての覚悟はすでにある。」
「…そう。」
小さく言葉が零れた。
その声には憎悪も軽蔑もなかった。
ただ遠い悲しみだけが滲んでいた。
「この子が、いつか…。」
「言うな。」
今度は、拒絶するように言葉を切る。
クラウディアは一歩後ろへ退いた。
白い指が胸元を掴む。
「…お望みのままに。」
それだけを残し、彼女は踵を返した。
扉が閉まる音は、何かが決定的に断たれた音のようだった。
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その音が消えた後も、部屋には長く沈黙が残った。
理の学者として、この瞬間の意味を思わずにはいられなかった。
星辰理は確率と必然を編む。
精霊理は感情と共鳴する。
だが人の心は、そのどちらとも違う。
ベネデットはゆっくりと赤子を見下ろす。
その顔には、何の影もない。
ただ眠るだけの幼い顔。
だが、この小さな命がいつか何を引き寄せるか、理はすでに知っているのだろう。
「…ルチア。」
柔らかく、名を呼ぶ。
白銀の布がわずかに揺れた。
赤子の細い指が、夢の中で何かを掴もうとするように動いた。
「理がどうあれ……お前は私の息子だ。」
夜が明ける。
白銀の湖で始まった物語が、静かに歩みを進める音が、確かに聞こえた気がした。
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朝の光は、屋敷の回廊を淡く照らし出していた。
柱の影が長く伸び、床の紋章を斜めに切り分ける。
夜の理の気配は遠のきつつも、どこかに微かに残っていた。
ルチアは小さく息を吐き、ゆるやかに睫毛を震わせる。
それは覚醒ではなく、理の胎動に似たもの。
幼い心が、この世界にわずかずつ馴染んでいく合図のようだった。
「公爵様。」
再び控えの者が扉を叩く。
今度は老僕ロマヌスだった。
白銀の髭に朝の光が淡く滲む。
「御支度を整えさせていただきます。御子の寝所も用意が整いました。」
「ああ。」
ベネデットは立ち上がり、赤子をそっと胸から離す。
その重みが去る一瞬に、奇妙な空虚が訪れた。
だが、すぐに深く息を吐き、その虚ろを置き去りにする。
「ロマヌス。」
「はい。」
「一晩考えていた。手元から離した方がこの子のためなのではないか、知らぬ方が幸せなのではないか…。しかし、理はもう定まっている。故に私は決めた。今日より、この子は“ルチア・セラドニス”。
余人の目を恐れるな。だが……必要以上に語るな。」
「御意。」
ロマヌスは、赤子を抱き取ると、まるで祈るようにその額を一瞬だけ見つめた。
そして静かに腕に収める。
「お前は、理の子だ。」
思わず零れた声に、赤子は眠ったまま、小さく息を整えた。
その瞼の奥に、星辰理の緻密な光が微かに揺れている気がした。
理を超える。
そんな言葉は、これまでただの寓話に過ぎなかった。
星辰院の研究者でさえ、それを夢物語だと笑う者も多い。
だが今、ベネデットの腕を離れたこの小さな命は、確かに何かを違えようとしている。
白銀の湖が証した存在。
精霊の母が遺した預言。
そして、あの夜に胸奥に刻まれた言葉。
「この夜を裂くものが、いつか遠い未来に在らんことを。」
決して語られることのない呪いの言葉が、どこかで理の深みに響いている。
「公爵様。」
ロマヌスが目を伏せたまま告げた。
「御子をお運びいたします。」
「ああ、頼む。」
老僕がゆっくりと歩み去る。
その背を見送りながら、ベネデットは書斎の奥に視線を向ける。
壁に並ぶ無数の星辰盤と理の記録。
理の理屈と秩序を集めた知の宮殿。
だがそのどれもが、赤子の寝息一つよりも静かで脆弱に思えた。
理は全てを定める。
それを支配しようとする者もいれば、従順に従う者もいる。
だがこの子は――
理を越える者になるのだろう。
父として、その行く先に手を伸ばすことはできないかもしれない。
それでも、彼は誓った。
たとえ理がこの子を試すとしても、決して孤独にはさせぬと。
やがて書斎に静けさが戻る。
霧が遠のいた白銀の湖は、今もなお何事もなかったように輝いていた。
だが湖の深みは知っている。
この夜に生まれた命が、いつか紅の月を終焉へ導くことを。
理の胎動が、ひそやかに世界を震わせていた。