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「断罪の令嬢 ― 弁護士の記憶が織りなす逆転劇」  作者: 月白ふゆ
第五章

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第六話 存在しない扱い

紙を出したのに、出していないことになる。


それが一番きつい。

怒鳴られても、殴られても、人は「された」と言える。

でも、出していないことにされたら、言葉の前に土台が崩れる。


ミレイアは朝から、封筒を二つ作っていた。

一つは税務向け。もう一つは許認可向け。

中身は同じじゃない。けれど骨格は同じだ。リリアナから渡された条件文テンプレで、提出物の一覧と「受領印欄」を強調してある。


受領印がない紙は、存在しない扱いになる。

存在しない扱いになると、期限だけが残る。期限だけが残ると、人は折れる。

だから今日は、受領印を取りに行く日だった。


エルシェは箱の位置を変えた。原本の箱は棚の奥へ。写しの箱は別の棚へ。

分散は面倒だ。面倒だから効く。

それでも、狙われたら終わる。だから、狙われる前に増やす。


「ミレイアさん……今日、役所行くんですよね」


「うん。受領印をもらってくる」


「昨日みたいに、また“窓口”って言われませんか」


「言われる。言われても、受領印はもらう」


エルシェは頷いたが、目は不安で揺れていた。

不安は店内に伝染する。伝染したら負ける。

だからミレイアは、明るい声を作って言った。


「大丈夫。紙は紙だから。押させれば残る」


大丈夫と言いながら、外套の内側にもう一通を忍ばせた。

顧問室宛の控え。

役所で何が起きても、ここだけは持ち帰る。


税務窓口は朝から混んでいた。

混んでいるのはいつものことだ。

違うのは、列の進み方が妙に遅いこと。遅いのに、誰も文句を言わない。文句を言うと目立つ。目立つと損する。

そういう空気ができている。


順番が来て、ミレイアは封筒を差し出した。


「追加課税の件です。期限短縮の通知に対する提出物です。受領印をください」


窓口の男は封を開け、紙をめくった。目が忙しい。忙しい目は、探している目だ。

探しているのは不備。

不備が見つかると“こちらの勝ち”になる。


「……書式が違いますね」


「違いません。必要項目は揃えています。あと、根拠規定の提示を求める文も添付しています」


男は口を閉じ、紙の下欄を見た。回覧番号。R-14。

目がそこで止まったのを、ミレイアは見逃さなかった。


「受領印を」


もう一度言うと、男は咳払いした。


「受領はします。ただ、受領印は不要です。こちらで受付番号を——」


「受領印が必要です。控えが残らないと、提出したことが証明できません」


「提出はされました。こちらで分かります」


「こちらで分かる、では困ります。控えが必要です」


男は、視線を横へ流した。

隣の席の上司らしい女と目が合う。女は小さく首を振った。

ほんの一瞬のやりとりで、答えが決まる。

現場判断ではない。現場判断の顔をした指示だ。


男は淡々と言った。


「今は臨時運用期間です。受領印の押印は控えます」


控える。便利な言葉。

押さないと言わない。控えると言う。控えると、後で押さなくても違反になりにくい。


「根拠は」


「内規です」


「番号は」


男の顔が固くなった。


「窓口ではお答えできません」


窓口では答えられない。

答えられないことが増えるほど、責任者不在が強くなる。

この国の“例外”は、だいたいこうやって息をする。


「受領印が押されないなら、受領した事実を記録してください。担当者名と時刻も」


ミレイアが言うと、男は露骨に嫌な顔をした。

嫌がるのは、記録されるのが嫌だからだ。


「担当者名は——」


女が割って入った。上司の女だ。口調が柔らかい。柔らかい口調は、拒否を正しく見せる。


「ご不安は分かります。ただ、今は混乱を避けるため、窓口対応を統一しています。手続支援窓口をご利用になれば、控えの整理も——」


「私は、税務窓口に提出に来ました」


ミレイアは声を上げない。

ただ、言葉を置く。


「受領印を押さないなら、押さない理由を書面でください。押さないことを“なかったこと”にしないでください」


上司の女は一瞬だけ黙り、そして同じ表情のまま言った。


「書面は後日になります。いまは受領のみ」


後日。便利な言葉。

後日は、だいたい来ない。


「では、私は控えに『受領印拒否』と書きます」


ミレイアが言うと、男が慌てて紙を引いた。


「勝手な記載は困ります」


困るのは、こちらの言葉が残るからだ。

残ると、後で言い訳ができなくなる。


「困るなら、受領印を押してください」


上司の女は、男に小さく目配せした。

男は紙を返してきた。受領印なしで。

代わりに、小さな紙片が一枚挟まっている。受付番号らしい数字が手書きされている。

数字はある。でも、誰が書いたか分からない。

誰が書いたか分からない数字は、ただの飾りだ。


ミレイアはその場で控えの右上に、鉛筆で小さく書いた。


「受領印なし。受領印押印を拒否。担当者名提示なし。時刻:午前九時十二分」


男が眉を寄せたが、ミレイアは目を合わせない。

目を合わせると、そこが揉め事になる。揉め事は治安の餌だ。

だから、書いて、折って、しまう。


次は許認可窓口。

こちらはもっと露骨だった。窓口の男は封を開けずに言った。


「支援窓口へ」


「許可更新の提出です。受領印をください」


「支援窓口へ」


会話にならない。

会話にならない時、人は大声を出したくなる。

大声を出すと負ける。

だから、ミレイアは紙を一枚出した。顧問室の条件文テンプレをそのまま。


「私は許認可監理局に提出に来ました。受領印が押せない理由と根拠を示してください。示せないなら、示せない事実を記録します」


男はようやく封を開け、紙をめくった。

そして、例のように下欄で目が止まる。回覧番号。R-14。


「……この様式は」


「あなた方が送ってきた様式です」


男は唇を噛んだ。

怒りではない。困惑でもない。

“揃っているのに、こちらが突いてくる”ことへの苛立ちだ。


「受領印は押せません。臨時運用です」


「臨時運用の根拠は」


「内規です」


「番号は」


「窓口では——」


またそれだ。

窓口では答えられない。

窓口では押せない。

窓口では示せない。

窓口でできるのは、支援窓口へ流すことだけ。


ミレイアは一度だけ深く息を吸い、吐いた。

ここで折れない。

折れると、契約書に手が伸びる。

契約書に手が伸びた瞬間、こちらの記録の自由が消える。


「受領印が押されないなら、書面で“受領した”と明記してください。担当者名と時刻を入れて」


男は視線を外し、背後の棚から一枚の紙を取り出した。

“受領確認票”と印字された紙。

そこに、案件名ではなく「手続支援窓口を案内した」とだけ書く欄がある。


案内した。

受領した、ではない。

案内した、なら、提出は受けていないと言える。

つまり、受付自体を“なかった”にする準備ができている。


「それ、受領じゃないですよね」


ミレイアが言うと、男は平然と答えた。


「現行の運用です」


現行の運用。

運用はルールの顔をする。

顔をするだけで、人を動かせる。


ミレイアは受領確認票を受け取らず、控えにまた鉛筆で書いた。


「受領印なし。提出扱いにせず。案内のみ。時刻:午前十時四十八分」


男の目が細くなった。

細くなるのは、こちらが“なかったこと”にされないための線を引いているからだ。


窓口を出ると、足が少しふらついた。

疲れではない。

地面が薄くなった感覚。

提出が提出にならないなら、立つ場所がない。


市場へ戻る途中、治安局の巡回が目に入った。

札を貼り替えている。

貼り替える札には、今日の日付が入っている。

日付が入っている札は、長く残る。長く残る札は、町を痩せさせる。


店へ戻ると、エルシェが顔を上げた。


「受領印、もらえました?」


ミレイアは首を横に振った。

首を横に振るだけで、エルシェの肩が落ちる。肩が落ちると、棚の光も落ちる。棚の光が落ちると、客が入らない。

この連鎖が嫌だ。

でも、連鎖が嫌だというだけで制度は変わらない。


「代わりに、これ」


ミレイアは控えを見せた。鉛筆で書いた時刻と拒否の記録。

エルシェはそれを見て、少しだけ目を丸くした。


「これ……怒られませんか」


「怒られるかもしれない。でも、怒られたってことも記録になる」


記録になる。

それだけが救いだ。


昼過ぎ、店に二人来た。治安局の腕章。昨日とは違う顔。顔が違うのに歩き方が同じ。

歩き方まで揃っていると、もう個人ではない。


「保全の確認です」


男が言った。

保全。便利な言葉。保全は正義の顔をしている。

正義の顔で、現物を散らせる。


「何を保全するんですか」


「記録です」


ミレイアの背中が冷える。

記録と言いながら、狙っているのは箱だ。控えの箱。写しの箱。

箱を持っていかれたら、こちらの“拒否の記録”も消せる。消えたら、なかったことにできる。


「記録なら、こちらにあります。閲覧は協力します。ただし、書面で。根拠と範囲と期間と保管先と閲覧ログ」


ミレイアは型どおりに言った。

治安局の女が少しだけ笑った。


「細かいですね」


「細かいので、書面が必要です」


男は店の奥を見た。棚の上。箱のある位置。

見ているだけで、持っていく算段をしている目だ。


「箱は何ですか」


「商いの控えです」


「提出対象です」


「提出はします。書面で」


男が一歩踏み出した。

その瞬間、エルシェが奥から出てきて、手に盆を持っていた。お茶だ。

出す必要はない。けれど出した。

エルシェなりの時間稼ぎだと、ミレイアはすぐ分かった。


時間を稼ぐのは大事だ。

時間を稼げば、紙が間に合う。

紙が間に合えば、向こうの手が鈍る。


「お茶、どうぞ」


エルシェが言うと、治安局の女は丁寧に断った。


「結構です。確認だけですので」


確認だけ。便利な言葉。

今日は確認だけ。明日は保全。明後日は移送。

順番が見える。


治安局はその日は箱に触れずに帰った。

帰ったのが怖い。

触れなかったのは諦めたからではない。

書面がないと面倒だから、別の手で面倒を消しに行く。


夕方、許認可窓口から電話が来た。電話は記録に残りにくい。残りにくいから電話だ。


「提出が確認できません」


ミレイアは息を止めそうになって、止めなかった。

ここだ。これが“なかったこと”だ。


「今日、窓口に出しました」


「受領印がありませんよね」


「受領印は押されませんでした。控えに、拒否と時刻を記録しています」


電話の向こうが一瞬静かになった。

静かになるのは想定外だからだ。

想定外は、向こうも脆い。


「……支援窓口を通してください」


「支援窓口は、管轄と権限の所在が不明です」


「現行運用です」


「現行運用の根拠は」


「内規です」


「番号は」


沈黙。

番号を言うと、追える。追われるのが嫌だ。


「回答は差し控えます」


差し控える。便利な言葉。

言わないを言わない顔で言う。


電話が切れた後、ミレイアは顧問室宛の封筒を作った。

今日の出来事を、淡々と並べる。

税務:受領印拒否。受付番号手書き。担当者名提示なし。

許認可:受領扱いにせず。案内票のみ。提出確認できないと後日連絡。

治安:保全名目で箱を視認。翌日の動き予告なし。

そして、鉛筆で書いた時刻と拒否の記録を写す。


書きながら、腹が冷えた。

こうやって書いている自分が、もう“普通の商人”ではなくなっていく。

でも普通の商人でいたら、普通に沈む。


夜、ルークが来た。

今日は一人ではない。背の低い男が同行している。地味な服装で、目立たない。目立たない人間が一番怖い。

怖いが、ルークが連れてきたなら味方だろう。


「内務記録局の下役です」


ルークが短く紹介した。

下役の男は頭を下げ、視線を上げない。

視線を上げない人は、見られたくないものを抱えている。


「何か、出たんですか」


ミレイアが聞くと、下役の男は一拍置いて、ルークの方を見る。

ルークが頷くと、男は懐から小さな紙片を出した。


紙片は、ただのメモだった。

文字は小さい。急いで書いた字だ。

でも、内容は異様に具体的だった。


「押印系統:代理決裁簿 113頁」

「R-14 欠番:台帳 28頁→31頁(29-30欠)」

「回覧基準:記録局控え 7番棚」


数字と頁番号だけ。

名前も部署名も書かれていない。

書かれていないからこそ、嘘が混じりにくい。

嘘ならもっと飾る。飾らないメモは、ただの救命ロープだ。


ルークが息を呑む。

ミレイアは、背中がぞわりとした。

この人は、内部から異論を出した人間だ。

正面から言えば潰される。だから言わない。

代わりに、痕跡だけ置く。


「これ……何ですか」


ミレイアが言うと、下役の男は小さく答えた。


「……一覧はない、って言うでしょう」


「言いました」


ルークが即答した。


下役は頷いた。頷き方が苦い。


「でも……頁は、あります」


頁はある。

一覧は存在しないと言いながら、頁は存在する。

矛盾の形が、初めて手のひらに乗った。


ルークがメモを指で押さえた。


「代理決裁簿の一一三頁。そこに、例外承認の線があるんですか」


下役は答えなかった。答えないのは怖いからではない。

答えると、声になる。声は潰される。

だから、紙だけ置く。


「……私は見ていません。見たことにできません」


下役はそう言って、深く頭を下げた。


ミレイアは喉が鳴るのを抑えた。

見ていない。見たことにできない。

それが内部の異論の出し方だ。

異論はある。だが、異論は記録にならない。

記録になる寸前のところで、こうして紙片だけが残る。


ルークはメモをそっと封筒に入れ、受領印を押した。顧問室の受領印だ。

内部から出た紙には、こちらの印で命を与える。


「ありがとうございます」


ルークの声は低かった。

低い声は敬意だ。敬意は相手を守る。


下役は黙って立ち上がり、帰ろうとした。

帰り際、エルシェが思わず言った。


「大丈夫ですか」


下役は一瞬だけ足を止め、首を横に振った。


「……大丈夫ではないです。だから、これだけ」


それだけ言って、夜の廊下に溶けた。

溶けるように消えるのは、狙われる側の歩き方だ。


扉が閉まった後、ミレイアはルークを見た。

胸の奥が変な音を立てている。怖い音だ。

でも怖い音の中に、少しだけ別の音もある。

道が見えた音。


「これが……痕跡?」


「はい」


ルークは封筒を軽く叩いた。


「受理印が押されないなら、押されないことを残す。欠番が増えるなら、欠番の頁番号を残す。閲覧が拒否されるなら、拒否される先の棚番号を残す」


言葉は軽い。

軽いが、重い場所へ繋がっていく言葉だ。


「明日から、向こうはもっと“なかった”にします」


ルークが続ける。


「だからこちらは、なかったにできない形を集めます。頁。番号。棚。押印線。――そういう、消すのに手間がかかるものを」


ミレイアは頷いた。頷くしかない。

生活はまだ削られている。受領印は押されない。箱は狙われている。

でも、内部から出たメモがある。

声にならない異論が、紙片になって残った。


その夜、ミレイアは帳面に新しい項目を足した。

「欠番頁」「代理決裁簿」「棚番号」。

店の帳簿が、少しずつ制度の帳簿になっていく。

嫌だと思う。

でも、嫌だと思えるうちに書く。


書き終えた最後に、ミレイアは小さく息を吐いた。

存在しない扱いは、まだ終わっていない。

でも、存在しないと言い切った側の足元に、頁が落ち始めた。

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