第五話 足が止まっても紙は走る
王太子がいない朝は、音が変わる。
廊下の足音が早くなる。扉の開閉が小さくなる。誰も声を張らない。
急いでいるのに静かだ。静かに急ぐ時、人は手続きを省き始める。省いたところに、例外が入る。
リリアナは顧問室の机で、白紙を三枚揃えていた。揃える動作が癖になっている。癖は心を落ち着かせるためではない。順番を崩さないためだ。順番が崩れると、相手の速さに巻かれる。
扉が開き、エルナが入ってきた。
「殿下、また呼ばれました」
「どこへ」
「宰相府の合議です。昨夜の閲覧制限の件で。『外部照会機関』と名指しされていないのに、名指しされたように扱われています」
名指しされない方が厄介だ。
名指しされると政治になる。名指しされないと事務になる。事務の顔で壁を作られる。
「戻るのは」
「昼過ぎの予定です。ただ、延びると思います」
延びる。
延びる時間は、向こうの自由だ。こちらの自由ではない。
だから、殿下がいない前提で回る仕組みが必要になる。
リリアナは頷き、机上の紙を指先で押さえた。
「足が止まるなら、紙を先に走らせます」
エルナは黙って、机の端に束を置いた。昨日から集めたR-14の写しだ。回覧番号が見えるように残されたもの。見えるように残された時点で、相手は急いでいる。
「ミレイアの店からも追加で来ています」
エルナが言う。
「協力契約の差し替え版。利益欄の増補。根拠欄は『内規』の一行だけ」
「空欄を埋めたつもりの空欄ですね」
リリアナは短く言った。番号がない内規は確認できない。確認できない根拠は根拠ではない。
ただし、根拠の顔をして迫れる。迫れるから危ない。
「殿下が戻る前に、何を出しますか」
エルナの問いは確認ではない。今ここで決める問いだ。
顧問室は、王太子の顔を借りなくても動ける範囲を持つ。だが、範囲を超えると、越権の札を貼られる。札が貼られると、また壁が増える。
リリアナは白紙を一枚引き寄せ、淡々と書き始めた。
「否定しない。条件を置く」
書くのはいつもの線だ。
線を置くと、相手が逸れる。逸れた動きが痕跡になる。
「まず、窓口に先に投げます」
「窓口というと」
「統合窓口。名前が出ていない方が好都合です。出ていないなら、正式名称を出させる」
エルナは頷いた。
「内容は」
リリアナは言葉を選ばない。選ぶと柔らかくなって、穴が空く。
「協力はする。だが、協力の前に要件を示せ。根拠、担当者、権限、範囲、期間、保管、閲覧ログ、異議申立て。これを欠く依頼は“協力したことにならない”」
この一文は、強い。
拒否ではない。条件だ。
条件は相手の顔を潰さない。潰さないからこそ、相手は断れない。
リリアナは書き終えると、紙の上に小さく番号を振った。テンプレ番号。
テンプレというのは、同じ話を繰り返すためじゃない。相手が揃えてくるなら、こちらも揃えるためだ。揃えた方が、後で“揃いすぎ”を証拠にできる。
「これが、条件文テンプレの一番目です」
エルナが息を呑む。
「テンプレ化、するんですね」
「向こうが書式を揃えるなら、こちらも揃えます。揃うほど、比較ができる」
比較ができると、癖が見える。癖が見えると、手が見える。手が見えると、椅子が見える。
リリアナは次に、別の紙へ図を描いた。簡単な線だけ。
上に「顧問室」。下に三つの箱。「治安」「税務」「許認可」。
その横にもう一つ、灰色の箱。「統合窓口」。
箱から箱へ、矢印を二本ずつ引いた。一本は正規ルート。もう一本は控えルート。控えルートは、出しても無視される前提のルートだ。無視されても痕跡が残る場所へ通す。
「提出先を複線化します」
「正面と、控え」
「正面はいつも塞がれます。塞がれた時に、控えが生きます。控えは、拒否された事実を残すために置く」
拒否された事実。
それが一番の材料になることがある。
拒否された事実は、相手が隠したい所を示すからだ。
「各部署は『統合窓口へ』と言うでしょう」
エルナが言う。
「ええ。だから統合窓口にも出します。ただし、統合窓口の“権限の所在”を問う文面で」
リリアナは条件文テンプレの二枚目に取り掛かった。
内容は少しだけ違う。
統合窓口の根拠、委託元、権限の範囲、窓口が作成した文書の責任者、保存方法。
統合窓口が出す“要約版”の作成基準まで求める。
「窓口が便利なら、責任も重い。責任が重いなら、名を出せる。名が出せない窓口は便利ではない」
エルナが小さく笑った。笑いは短い。
短い笑いは、息が戻った証拠だ。
午前中、リリアナはテンプレを三種作った。
一つは協力要請向け。
一つは閲覧制限向け。
一つは期限短縮向け。
どれも否定はしない。条件を置くだけ。条件は同じ骨格で揃える。
「殿下の署名がなくても出せる範囲ですか」
エルナが確認する。
「顧問室の照会文です。求めているのは説明と根拠。決裁ではない」
決裁ではない。だからこそ強い。
決裁を迫ると政治になる。
説明を迫ると、相手が“説明しない”という痕跡を残す。
リリアナは最後に、全テンプレの右上に同じ小さな見出しを書いた。
「受領印欄」
「受領印までテンプレに?」
「はい。受領印がない紙は、存在しない扱いにされます。存在しない扱いが増えているので、受領印を先に要求します」
ここまで整えると、戦い方が“型”になる。
型は単調に見えるかもしれない。
だが、型は相手の型を割るためにある。相手は今、型で押してきている。なら、こちらも型で返す。
昼前、ミレイアが顧問室に来た。
目の下に影がある。影は睡眠不足の影というより、“対応不能”の影だ。
人は違反していなくても、対応不能で潰れる。第四章で扱った恐怖が、そのまま第五章の現場になっている。
「今日も来ました」
ミレイアが言う。言葉が短い。短いほど削られている。
「税務、許認可、治安」
「順番は」
「税務が朝。許認可が昼。治安は夕方の予告」
予告。
予告という言葉は、相手が準備している証拠だ。準備している時ほど、書式が揃う。
リリアナはミレイアの持ってきた紙を受け取り、下欄を確認した。回覧番号。R-14。連番が伸びている。
そして、添付様式。脚注。文末の「念のため」。
「揃っていますね」
「揃いすぎて、怖いです」
ミレイアの言葉は弱音に見える。だが弱音ではない。観測だ。
リリアナは頷き、机の端へ紙を揃えた。
「怖いのは正しい反応です。整った圧は、止めにくい」
「契約書も、また差し替えが来ました」
ミレイアが出したのは、治安協力商会の協力契約書(下書き)。根拠欄には相変わらず番号がない。利益欄は増えている。
そして署名欄のすぐ上に、また“拒否を前提としない”。
拒否を前提としない、という言い回しの卑怯さは、相手の手口をよく表している。
「署名、しそうになりました」
ミレイアがぽつりと言った。
言ってしまった後、自分で少しだけ目を伏せる。恥ではない。恐怖だ。恐怖は人を正直にする。
「なりそうになるのが普通です」
リリアナは即答した。
慰めではない。正常化だ。正常化されると、人は少しだけ息ができる。
「だから先に型を渡します」
リリアナは机から一枚の紙を引き抜き、ミレイアに差し出した。
「書面要求の型です。あなたが言うべき言葉は、これ以上増やしません」
紙には短い文面が並んでいる。
“協力は否定しない。条件の提示を求める。口頭は受けない。受領印を求める。控えは二部。写しの交付を求める。拒否された事実を記録する。”
余計な言葉がない。余計な言葉がないと、相手は絡みにくい。
「これをそのまま読めばいい?」
「読んでいい。読んだ方がぶれません。ぶれないと、相手のぶれが浮きます」
次に、もう一枚。
提出先複線図だ。矢印が二本ずつ引かれている。
「この矢印、二本ある」
「正面と控えです。正面は窓口へ。控えは別部署の記録窓口へ。拒否されても残ります」
「拒否されても」
「拒否される前提で作っています」
強い。
強いというより、現実的だ。
現実的な戦い方は、救いにはならないが、生き残りにはなる。
「箱も増やします」
リリアナは三つ目の紙を出した。
“控えの分散”。
写しの移送先を二箇所にする。受領控えと荷札は別々に保管。日次照合表は毎晩複写。
分散は手間だ。だが手間は相手のコストを増やす。
「相手が狙うのは箱です。箱は消せる。分散すると消すコストが上がる」
ミレイアは頷いた。頷き方が、昨日より少しだけ固い。固い頷きは決めた頷きだ。
「日次照合は続けてください。四つだけ。門札、通行税、入出庫、受領控え。四つ揃えば、物の流れはあとで立てられます」
「物の流れ」
「はい。物は嘘をつきません。嘘をつくのは人と紙です」
言い切ると、ミレイアが微かに笑った。笑いは短い。短い笑いは、まだ折れていない笑いだ。
昼過ぎ、ユリウスが戻らないまま、顧問室に使者が来た。
宰相府からの呼び出しの延長だろう。使者は丁寧だった。丁寧な使者ほど、刃を隠している。
「殿下は不在と伺いました。顧問室へ、連名の回答をお持ちしました」
封を受け取ると、リリアナはすぐ下欄を見た。R-14の番号。
数字が増えている。増えるほど、相手は急いでいる。
封を切り、文面を読む。
内容は予想通りだった。
――顧問室からの照会は、統合窓口を通すこと。
――現場文書の直接閲覧は、所管部署長の個別許可を要する。
――要約版の交付を原則とする。
――円滑な運用のため(念のため)。
“円滑”と“念のため”。
また揃った言葉。揃いすぎている。
リリアナはそこまでは表情を変えず、最後の段落で初めて指を止めた。
――例外承認に関する根拠照会について、当該一覧は存在しない。
――個別案件ごとに現場判断のもと処理している。
一覧は存在しない。
その一文は、丁寧なのに乱暴だった。
存在しないと言い切るのは、存在するものを見せたくない時の言い方だ。
存在しないなら、統合窓口も回覧番号も整った書式も成立しない。
成立しているのに存在しないと言う。矛盾がそこにある。
エルナが横から覗き込んで、息を呑んだ。
「一覧がない、って」
「逃げ道です」
リリアナは短く言った。逃げ道だが、同時に穴だ。
「一覧がないなら、統合の責任もないと言える。責任がないなら、誰も裁かれない。……でも」
リリアナは紙を机に置き、指で二箇所を叩いた。
統合窓口の指定。
回覧番号の存在。
「統合しているのに一覧がない、は通りません」
通りません、と言いながら、リリアナは否定の文書を書き始めない。
ここで否定を書くと、論点を“顧問室の反発”にされる。
そうではなく、条件を置く。
白紙に、条件文テンプレを起こす。
“一覧がない”なら、一覧がない根拠を示せ。
一覧がないなら、誰が統合窓口を管理しているか示せ。
一覧がないなら、回覧番号の付番基準を示せ。
一覧がないなら、要約版の作成基準を示せ。
一覧がない、と言った瞬間に、説明責任が増える。
増やすのが目的だ。
増えれば相手はどこかで破綻する。
エルナが言った。
「殿下がいないのに、ここまで出して大丈夫ですか」
「大丈夫な範囲で出します。決裁はしない。確認だけする」
「でも、越権と言われます」
「越権と言わせる。越権と言うなら、顧問室の権限規程を出させる。規程を出させれば、規程の穴も見えます」
言い方が軽い。
軽いが、狙いは重い。
相手の言葉を引き出し、紙に乗せる。乗ったら逃げにくい。
その夕方、ユリウスが戻った。
顔に疲れはあるが、歩幅は崩れていない。崩れていないのは、殿下もまた順序で生きているからだ。
「また止められた」
ユリウスが言う。
「止められました。だから紙を走らせました」
リリアナは机上の束を指す。
条件文テンプレ。提出先複線図。控え分散の指示。
そして、今日届いた回答文。
ユリウスは紙に目を通し、最後の一文で眉を僅かに動かした。
「一覧は存在しない、か」
「はい」
「存在しないなら、どうして統合窓口が必要なんだ」
ユリウスの疑問は自然だ。自然な疑問ほど強い。
理屈ではなく、普通におかしい。
リリアナは頷いた。
「だから、ここを入口にします。否定しません。『一覧がないなら、統合の責任を示せ』と条件を置きます」
ユリウスは短く息を吐いた。
怒りの息ではない。仕事の息だ。
「やれ」
「はい」
「ただし、現場を止めるな。秩序を壊すな」
「壊しません。順序を置くだけです」
ユリウスは頷き、席を立った。
次の呼び出しがすでに来ているのだろう。足が止まらない。
だからこそ、紙が走る仕組みが必要になる。
ミレイアはその夜、店に戻って控えの箱を増やした。写しの移送先を二つにし、日次照合表を複写し、受領印の欄を強く意識するようになった。
口頭が来たら、型を読んで返す。
拒否されたら、拒否された事実を残す。
小さな店ができる抵抗は小さい。
でも、小さい抵抗が整えば、紙になる。
紙になれば、比較ができる。比較ができれば、揃いすぎが証拠になる。
顧問室の机の上には、新しい紙が一枚増えていた。
そこには大きく一行だけ書かれている。
「例外承認一覧は存在しない」
存在しない。
その言葉は、逃げ道のつもりだろう。
けれど、逃げ道は入口にもなる。
入口になった瞬間、椅子の脚が少しだけ見える。




