第二話 協力の形をした命令
朝の札は、夜より薄く見える。
薄いのに、客足は戻らない。
戻らないのは札のせいだけじゃない。札が貼られているという事実が、町の“様子”を作る。様子ができると、人は勝手に距離を取る。距離を取られると、店は勝手に痩せる。
ミレイアは開店の札を出し、店の奥の二つの箱を確認した。原本と写し。写しの移送先を昨夜増やした。手間は増えたが、手間が増えるほど相手の手も鈍る。鈍らないなら、鈍らないという痕跡が残る。残るなら後で切れる。
カウンターに置いた紙はまだ乾かない。
追加課税、徴発協力、許可更新前倒し。
昨夜顧問室へ渡した控えの写しだけが、薄い安心になっている。
その安心を切るように、扉が叩かれた。
二回。昨日の税務より少し強い。
強いのに乱暴ではない。乱暴ではない強さは、拒否の余地を奪うために使われる。
ミレイアが扉を開けると、治安局の腕章が見えた。二人。男と女。背筋が揃っている。揃っている背筋は、ここが“個人”ではなく“組織”だと知らせる。
「地域安全の件で。協力のお願いです」
女の方が柔らかい声で言った。柔らかい声は、断りにくい。断りにくい声で断ると、こちらが悪く見える。悪く見えた瞬間、札が増える。
「具体的には?」
ミレイアが聞くと、男が即答した。
「出入りの記録、協力者名簿、夜間の施錠状況。あと、倉庫の保管状況」
倉庫。
その一語で背中が冷える。現物を握られたら終わる。終わるのは店だけじゃない。周囲の取引も、生活も、全部が細くなる。
「協力します。ただし、書面で。担当者名と根拠規定、目的と範囲、期間を明示してください」
ミレイアは昨日と同じ言い方を、同じ温度で置いた。
ここで声を上げると負ける。相手の絵になる。だから淡々と、条件だけ。
女は一瞬だけ笑みを薄くした。笑みが薄くなる程度の感情でも、十分なサインだ。
「書面、ですか。もちろん作れます。ただ……」
「ただ?」
男が言葉を引き取る。引き取る時点で役割分担が見える。女が柔らかく、男が締める。
「時間がかかります。臨時措置期間なので、こちらも迅速に動いています。まず口頭で協力いただけませんか」
迅速。
便利な刃。迅速は、拒否を“遅い”に変える。遅い者は悪い。悪い者には札が貼られる。
「口頭は控えが残りません」
ミレイアは首を横に振らずに言った。否定すると対立になる。対立になると治安の出番になる。
だから条件。条件は対立ではない顔をして、相手の手を縛る。
女が少しだけため息をつく。
「では、こうしましょう。協力の“窓口”があります。そこで書面も整えられます。あなたの負担も減ります」
窓口。
またその言葉だ。
役所ではなく“窓口”。窓口は便利だ。便利な窓口は、たいてい民間に置かれる。民間の窓口は、責任を曖昧にできる。
「窓口って、治安局の窓口ですか」
女は首を横に振った。
「協力事業者向けの、手続支援窓口です」
男が補足する。
「地域安全のための協力を、形式に落とす場所です。協力している事業者には、点検の簡素化や、手続の優先もあります」
優先。
優先は、選別だ。選別された者は助かる。選別されない者は苦しくなる。苦しくなった者が最後に折れる。折れた者が、みんなを増やす。
「協力しないとどうなりますか」
ミレイアは質問を“してしまった”と思った。
こういう質問は相手の土俵だ。
でも、聞かないと先が見えない。先が見えないと守りようがない。
男は表情を変えずに言った。
「協力しない、という言い方はしません。ただ、地域安全に関わる以上、再点検は必要になります。営業許可の更新も、審査が厳密になります」
厳密。
厳密は正しい顔をしている。正しい顔の圧は止めにくい。
女が柔らかく続けた。
「あなたの自由です。ただ、自由には手続きが伴います。手続きには時間がかかります。臨時措置期間ですから」
昨日と同じ匂い。
自由には手続きが伴う。正しい。正しいから怖い。
正しい言葉で削られると、人は声を上げられない。
ミレイアは息を吐き、紙を一枚出した。顧問室から渡された短い文面の控えだ。
「協力はします。条件を書面でください。根拠規定、担当者名、目的、範囲、期間、保管先、閲覧ログ。口頭では応じません」
男は紙を見て眉を僅かに動かした。
ここで彼の中の“仕事”が変わる。説得ではなく、別部署への回し。別部署への回しは、締め上げの開始だ。
「分かりました。では、協力窓口を案内します」
女が小さな紙を差し出した。昨夜の許認可担当が出したものと似た構図だ。治安局の印。けれど住所は民間。書式の余白が妙に多い。余白が多い書式は、後で都合のいい文言を足せる。
「ここに連絡してください。書面も整います」
「ここに連絡したら、今日の協力はどうなりますか」
男が即答した。
「協力する意思が確認できれば、こちらも調整できます。今は敏感な時期ですから」
敏感。
便利な言葉。敏感は裁量を増やす。
治安局の二人は、それ以上踏み込まずに帰った。
帰ったのが怖い。帰ったのは諦めたからじゃない。別の手を用意するためだ。
案の定、午前中のうちに次が来た。
税務窓口からの追加通知。
「納付相談の受付について」
文面は丁寧で、最後に一行だけ滑り込んでいた。
――地域安全協力の状況に応じ、対応が異なる場合があります(念のため)。
念のため。
便利な言葉。
念のための一行で、税が治安に結びつく。結びついた時点で、税は税ではなく首輪になる。
続けて、許認可担当からも紙が来た。
「再点検項目の追加」。
提出書類が増える。増える理由は正しい。
そして最後の一行。
――手続支援窓口を利用する場合、提出は簡素化されます(念のため)。
念のため。
同じ言い方。
同じ言い方が別部署から来る時、偶然ではない。誰かが文を整えている。
ミレイアは紙を並べて、指先で端を揃えた。揃えないと崩れる。崩れると泣く。泣くと折れる。折れると署名する。署名すると終わる。
終わりたくないから揃える。揃えるのは、祈りではなく技術だ。
午後、店の外で足が止まる気配がした。誰かが札を見ている。
見て、入らない。入らないという行為が、もう圧だ。
取引先からも小さな紙が届いた。短いメモだ。
「協力窓口、通した方がいい。みんな通してる」
みんな。
みんなが通した道は、拒否すると孤立する。孤立すると沈む。沈むと噂が確定する。噂が確定すると札が増える。
ミレイアはそのメモを破らず、箱に入れた。破ると痕跡が消える。痕跡が消えると、後で説明できない。説明できない者は負ける。
夕方、扉がまた叩かれた。今度は一回。短く。
短い音は、慣れた音だ。慣れた音は、相手が勝つ前提で来る。
「配達です」
少年が封筒を一つ差し出した。封は簡素。だが紙は厚い。厚い紙は“契約”の匂いがする。
差出人の欄には、見慣れない名があった。けれど、昨日の案内の住所と同じ場所だ。
表題だけが先に目に入る。
地域安全協力 協力契約書(下書き)
下書き。
下書きという言葉は優しい。優しいけれど、下書きはたいてい“先に署名させる”ための下書きだ。
完成させるのは、署名した側になる。
ミレイアは封を切り、内容をざっと追った。
文面が整いすぎている。整いすぎた文面は、反論の余地がない形をしている。
ところが、一箇所だけ妙に空っぽだった。
根拠条文欄。
条文番号も、規定名も書かれていない。空欄のまま。
空欄は危ない。空欄はあとで何でも入る。
他は埋まっている。
協力内容、協力期間、協力の範囲、提出すべき記録の一覧、閲覧の権限、立入の可否。
そして、協力した場合の“利益”が小さく書かれている。
・許認可再点検の簡素化
・納付相談の優先
・徴発協力金の早期精算(予定)
・監視札の解除に関する「調整」
調整。
解除ではない。調整。
解除は約束だ。調整は裁量だ。裁量はいつでも裏切れる。裏切っても違反にならない。だから裁量は怖い。
最後の頁に、署名欄がある。
署名欄のすぐ上に、薄い文字で一文が置かれていた。
――本契約は地域安全維持のための協力であり、拒否を前提としない。
――協力が得られない場合、必要に応じ再点検等を実施する(念のため)。
拒否を前提としない。
言い方が上手い。拒否してはいけない、とは書かない。
ただ、拒否を想定しない。拒否した者は想定外として扱う。想定外は、守られない。
念のため。
また同じ言葉。
ミレイアは契約書を机に置き、しばらく動けなかった。
怒りは出ない。怒りは熱で、熱は相手の得意分野だ。相手は治安と税と許認可の熱で人を潰す。こちらが熱くなれば、ただ燃料になる。
代わりに、背中に重いものが乗る。
選択肢が減る重み。
減っているのに、紙には「自由」と書いてある。紙の中の自由は、現実の自由を削る。
夜、ミレイアは二つの箱を開けた。契約書の写しを取る。根拠条文欄の空欄を赤鉛筆で囲む。
囲むと、そこが痛点になる。痛点が見えると、まだ動ける。
そして、顧問室宛の封筒を作った。
今日届いた二つの通知(税務・許認可)の「念のため」文言を写し、治安局の窓口案内、そして協力契約書(下書き)の写しを同封する。
最後に短いメモを添える。
「協力契約書が届きました。根拠条文欄が空欄です。『拒否を前提としない』『念のため』が共通文言。税務・許認可にも同じ文が入っています」
言葉は少ない。少ない方が重い。
感情を足さない。感情は消える。紙は残る。
封をして、写しの箱ではなく外套の内側に入れた。
箱は狙われる。なら、分散させる。分散は面倒だ。面倒だから効く。
裏口から出ると、雪はまた降っていた。静かな雪。音を吸う雪。
音を吸う夜は、刃が抜かれる夜だ。抜かれた刃は叫ばせない。
顧問室の廊下は明るかった。明るい灯りの下で、ミレイアの手が握っている封筒の角が白く光る。
白い角は、いま唯一、彼女が握れるものだ。
リリアナは机にいた。いつも通り背筋が揺れない。
ミレイアは封筒を差し出した。言葉より先に渡す。紙が残れば、言葉は後で作れる。
リリアナは契約書の写しを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
細めたのは怒りではない。ここが入口だと確かめた目だ。
「根拠条文欄が空欄」
「はい」
「拒否を前提としない。念のため。……税務と許認可にも同じ言い回し」
リリアナは淡々と指で追い、最後の署名欄で止めた。
「署名を迫る前に、条件を迫ってきた。上手い。上手いけど、雑です」
「雑、ですか」
「根拠が空欄です。空欄は、後から何でも入る。後から入れられるということは、今この時点では根拠が固定できていない」
固定できていない。
その一言が、少しだけ息を楽にした。
完全に詰んでいるわけではない。穴がある。穴があるなら、そこから順序で崩せる。
リリアナは白紙を一枚出し、短く書いた。
「契約書の受領は認める。ただし署名はしない。根拠規定の提示、担当者名、権限の所在、閲覧ログ、保管責任、異議申立て窓口。これが揃わない限り、協力は“協力したことにならない”」
ミレイアが目を見開くと、リリアナは軽く肩をすくめた。
「協力は否定しません。ただ、根拠にしない。条件を満たさない協力は、採用しない」
否定しない、根拠にしない。
この線は、ここでも効く。
「明日、相手は急がせます。『今夜中に』と言う。『みんなやってる』と言う。『念のため』と言う。あなたは答えなくていい。紙だけ受け取って、控えを残して、こちらへ回す」
「……はい」
ミレイアの返事は小さかった。
小さい返事でもいい。折れていない。
リリアナは机の端に契約書の写しを置き、そこに税務と許認可の通知を重ねた。
重ねると、文面の癖がよく見える。癖が見えると、手の形が見える。手の形が見えたら、椅子が見える。
「同じ手が整えています」
リリアナが静かに言った。
「治安、税務、許認可。別部署が同じ言葉で動く。偶然ではない。椅子に座って、文を整えている人間がいる」
椅子に座った人間。
その椅子は、まだ見えない。
でも、椅子の影は、契約書の余白に落ちている。
リリアナはペンを置き、短く締めた。
「署名はまだしない。ここから、例外の一覧を作らせます」
ミレイアは息を吐き、頷いた。
協力の形をした命令は、今夜も静かに増える。
けれど、静かな命令ほど、紙にすると重い。
そしてその重さが、次の刃を折る。




