第十五話 次は、もっと静かに来る
差し戻しの紙が回った翌日から、王都は何事もなかったように動き出した。
鐘はいつも通り鳴り、石畳はいつも通り濡れ、役所はいつも通り長い列を作る。人は“終わった”ことにしたい。終わったことにすると、息ができるからだ。
けれど、終わったのは裁きではなく、あのやり方だけだった。
あの署名、あの整いすぎた供述、あの速すぎる結審。あれはもう使えない。少なくとも、同じ形では。
リリアナは王太子付顧問室の机に向かい、紙束の角を揃えた。
角を揃えると、頭の中の音も少し揃う。揃ったところから順番に処理できる。順番に処理できるということは、相手の速さに巻かれないということだ。
エルナが扉の外から小さく声をかけた。
「入ります」
返事を待たずに入ってくるのは、この部屋では礼儀に近い。待っている時間が、余計な隙になる。
「監査局の回答です。保管ログの欠番、正式に“事故扱い”では通らない、と」
「良かった」
リリアナは短く言った。
良かったのは正義が勝ったからではない。事故扱いで流されない、という形が残ったからだ。形が残れば、次に押し返せる。
エルナは紙を机の端に置き、そのまま続けた。
「ただし、関係者の人事は“各部局の裁量”。宰相府は踏み込みません。……残しますね、あの人たち」
リリアナは頷いた。
「残る方が合理的です。失脚させると、敵が敵だと確定する。確定すると、殴り返す理由が生まれる。殴り返される理由は、こちらが作らない」
言いながらリリアナは、紙の束の一番上を一枚めくった。
差し戻し文書の控え。立証不能の文言。調達権一時停止の通知。監査対象の指定。形式は揃っている。揃っていること自体が、もう一つの壁だ。
「で、現場は?」
エルナの問いは軽いが、重い。
現場が救われなければ、制度の勝利はただの飾りになる。
リリアナは机の脇に置いた小さな封筒を指で押した。封筒には二つの控えが入っている。
一つは兵舎から届いた三行日誌の写し。もう一つは商店の受領控えの写し。どちらも、勝利の証拠ではなく、生存の痕跡だ。
「潰されてはいません。戻ってもいません」
「一番きついやつですね」
「ええ。一番きつい。でも、ここが踏ん張りどころです」
リリアナは椅子の背に体重を預けず、真っすぐ座った。
座り方は、気の持ち方に似る。ここで崩れると、次の刃が刺さる。
その刃は、すでに準備されている。
――
兵舎の朝は、音から始まる。
起床の号令、靴音、金具の鳴る音。音が揃っているのは秩序があるからだ。秩序がある場所は、間違いも揃う。
アレンは雑務班の端にいた。
端にいると、視界が広い。広い代わりに、誰も寄らない。寄らないのは冷たさではなく、感染を恐れているからだ。厄介ごとは移る。移ると思っている。
上官は依然として目を合わせない。
目を合わせないまま命令だけを投げる。命令は盾だ。盾は責任を守る。責任が守られると、誰も彼を守らない。
それでもアレンは倒れなかった。
倒れない理由は、“頑張る”からではない。倒れる前に、やるべきことが増えたからだ。
枕の下の封筒を思い出しながら、彼は三行を積む。
今日、雑務に回された。
申請の写しを別窓口へ回した。
受領印が押されなかった。
押されなかった、という事実が毎日増える。増えるほど、嘘がつきにくくなる。嘘がつきにくい環境は、だいたい敵に嫌われる。
昼過ぎ、軍法務の下役が一人、彼の作業場に来た。
顔は覚えていない。覚えていない顔ほど危険だ。
「お前、余計な紙を回したな」
「規定の範囲です」
「規定、ね」
下役は鼻で笑い、去った。去り際の視線が薄い刃だった。
規定の範囲で生きようとする者は、運用の側にとって邪魔になる。邪魔になるものは、静かに削られる。
アレンはその夜の三行に一つ足した。
「余計な紙」と言われた。
言われたこと自体が痕跡になる。
――
店の朝は、客の呼吸から始まる。
呼吸が戻らない朝は、空気が薄い。薄い空気の中で、帳簿だけがいつも通り重い。
ミレイアの店は営業していた。
営業しているのに、売上が戻らない。戻らない理由は明確だ。噂と距離。距離は生活に正直で、正義には無関心だ。
取引先は以前より慎重になり、納品の量を減らした。
減らす理由はいつも同じ口調だった。
「今は様子を見る」
様子を見る、という言葉は、責任を取らない宣言でもある。
店の奥に置いた二つの箱は、日々厚くなっていった。
受領控えと荷札の原本。写し。写しの移送先。日次照合表。門札の控え。通行税の納付票。
紙は増えるほど重い。重くなるほど、捨てたくなる。捨てた瞬間に、相手が勝つ。
ミレイアは捨てなかった。
捨てないのは信念ではない。捨てると、次に潰されると分かったからだ。
そこへ治安局の者が来た。
丁寧な口調、丁寧な手つき、丁寧な視線。丁寧は時に、脅しより怖い。
「地域安全の協力、引き続きお願いします。夜間の出入りも含めて」
「昨日も協力しました」
「ありがとうございます。では、追加で。――協力できない場合の不利益も、念のためお伝えします」
“念のため”。便利な言葉だ。
念のためと言いながら、相手の喉元に指を置く。
「営業許可の更新、遅れていますね。更新は更新。例外は例外。今は敏感な時期ですので」
敏感。便利な言葉だ。
敏感という言葉の中には、何でも入る。噂も、疑いも、裁量も。
ミレイアは怒鳴らなかった。
怒鳴ると、相手の望む絵になる。
代わりに、リリアナに教わった通りに言った。
「協力します。ただし、書面で。担当者名と根拠規定と目的と範囲を明示してください。口頭の依頼は、控えが残せません」
治安局の者の目が一瞬だけ細くなった。
嫌がった。嫌がるということは効いた。効いたなら続ける価値がある。
「……書面ですか。融通が利きませんね」
「融通が利くと、記録が残らないので」
丁寧な空気が、少しだけ硬くなる。
硬くなると、相手は次の手に移る。次の手は、だいたい静かだ。
その日の夕方、店に届いたのは“書面”ではなく、税務窓口からの通知だった。
追加課税。徴発協力金。名目は複数。期限は短い。
ミレイアは紙を見つめ、椅子に座ったまま動けなくなった。
殴られているわけではない。怒鳴られてもいない。
ただ、生活が削られる。削り方が合法で、静かで、正しい顔をしている。
これだ。
これが“次はもっと静かに来る”というやり方だ。
――
王太子宮の評議は、喧騒が少ない。
喧騒が少ない代わりに、一言の重さが増す。ここで飛ぶ一言は、町ひとつの生活を削れる。
ユリウスは窓際に立ち、外の空を見ていた。
雪が降るか降らないか、迷っている色だ。迷いは人間に似る。迷いを利用できる者が強い。
「徴発と追加課税が同時に来た。……軍の件が落ち着いた途端に、だ」
ユリウスの声は低い。低い声は怒りではなく警戒だ。
宰相ヴィルヘルムが淡々と応じる。
「動線が潰れた以上、別の動線で来る。想定内です」
想定内。
宰相はいつも想定内と言う。想定内と言える人間は強い。強いが、冷たい。
リリアナは前に出ず、机の端に立った。
前に出ないのは慎みではない。矢面に立つと、矢が集まる。矢が集まると、守るべきものが守れなくなる。
「別件で足を止める、という“札”が投げられました」
リリアナが言うと、ユリウスは短く頷いた。
「足を止められると、別の場所で結論を出される」
「ええ。だから、足を止められても止まらない仕組みが要ります」
宰相が視線を向ける。
「仕組み、とは」
リリアナは紙を一枚差し出した。紙一枚。
いつも通りのやり方。いつも通りが、一番強い。
「“入口”を常設化します。王太子付顧問室が関与するのは、事件ではなく運用です。徴発・追加課税・治安介入が同時に発生したとき、必ず要件と根拠と記録化を求める。求める文書を、先に出せるようにする」
ユリウスが紙を受け取り、目を滑らせた。
「相手を否定しない。順序を置く。記録を残す。……いつも通りだな」
「いつも通りが、相手にとって一番邪魔です。相手は速さと曖昧さで動く。こちらは遅さと明確さで止める」
宰相が紙の端を指で押さえた。
押さえる仕草が、許可に近い。
「ただし、敵は失脚しない。残る」
「残ります」
リリアナは即答した。ここで夢を言うと、足元をすくわれる。
「残るから、次が来ます。次は“罪”ではなく、“生活”で削ります。削るのは被告ではなく周囲。周囲が折れると、被告が勝手に沈む」
ユリウスの眉が僅かに動く。
「……商人や、納入業者。徴発対象。そういうところか」
「はい。そして裁きの場も変わります。軍の場では、もう同じ手が使えない。なら、治安名目の特別法廷。徴税の現場。行政の即決。静かな刃が使える場所に移る」
宰相が短く息を吐く。
息の吐き方が、少しだけ人間的だった。
「運用者は、椅子に座ったままだな」
「ええ」
リリアナは頷いた。椅子に座った者が強いのは、立たなくても手が届くからだ。立つのは危険だ。危険を負うのは末端でいい。椅子の側はいつもそう考える。
ユリウスが言った。
「なら、こちらも椅子を増やす。お前の椅子だ、リリアナ」
その言葉は軽くない。
椅子は味方であり、鎖だ。
椅子に座ると、見られる。縛られる。自由が減る。だが、手が届く範囲が増える。
「顧問室の枠を拡げる。案件単位ではなく、運用単位で動け。必要なら、治安側にも“窓口”を作る。勝手に例外を使わせないための窓口だ」
宰相が補足する。
「反発は必ず来る。軍より静かに。治安より執拗に」
「分かっています」
リリアナは言った。
分かっているから、怖い。怖いから、順序を守る。
「殿下、もう一つ」
リリアナが言葉を続けると、ユリウスが視線だけで促した。
「今までの刃は、署名と供述でした。次の刃は、たぶん“協力”です。協力の形を作り、協力しない者を潰す。協力の名で、全てを合法にします」
ユリウスが口元を引き締める。
「協力の強要は、秩序維持の名で正当化される」
「はい。だから“協力の条件”を制度にします。協力は否定しません。ただ、条件を満たさない協力は採用しない」
宰相が小さく頷いた。
「信仰は否定しない、根拠にしない。――その線の延長だな」
「ええ。否定しない、でも根拠にしない。協力も同じです。否定しない、でも条件がないなら根拠にしない」
ユリウスが机に戻り、決裁書類の束を手前に引いた。
紙が擦れる音が、王太子の仕事の音だ。
「やる。……ただし、こちらの足はまた止めに来る」
「止めに来ます」
リリアナは即答した。
「止めに来るなら、止められても動くようにします。顧問室の中で、動線を二つに分ける。殿下が動けない時のために、文書だけが先に走る仕組みを」
ユリウスが一瞬、笑うとも疲れるともつかない表情をした。
「お前は、紙で戦うのが本当に好きだな」
「紙は裏切りません。裏切るのは人です」
言い切ると、部屋の空気が少し締まった。
締まるのは、次の戦いが始まった証拠だ。
――
同じ頃。王都の会計監督官室の奥では、別の紙が作られていた。
そこは華やかさのない部屋だった。
香も薄く、暖炉も控えめ。余計な装飾もない。装飾は目立つ。目立つことは危険だ。ここにいる者は、目立たないことに慣れている。
男は机に向かい、淡々とペンを走らせた。
宰相でも神官でもない。軍でもない。
だが、徴税ラインと会計ラインに手を伸ばせる立場にいる。手を伸ばせるということは、生活を削れるということだ。
彼は「正しさ」を信じていた。少なくとも口では。
正しさを信じる者は、運用を正当化できる。運用を正当化できる者は強い。
紙のタイトルは控えめだ。控えめなタイトルほど、効く。
――地域安全維持に伴う臨時措置の整理――
整理。
整理は中立の顔をしている。
中立の顔をした刃は、刺さっても叫びが出にくい。
男は静かに笑った。笑いは短い。
長く笑うと感情が漏れる。感情が漏れると足がつく。
「同じ手は使えない」
彼は小さく呟いた。
だがその声に悔しさはない。むしろ楽しさに近い。
「なら、静かな手を使えばいい」
臨時措置。暫定対応。例外規定。協力要請。
全部、合法だ。合法の中で人は潰れる。潰れたあと、誰も責任を取らない。責任を取らないのもまた合法だ。
彼は書面に、条件を一つ加えた。
“協力が得られない場合、当該事業者に対し許認可の再点検を行う”
再点検。再点検は当然だ。当然の顔をして、首を絞める。
そして最後に、宰相府ではなく、治安局の名で回るように印の位置を調整した。
矢面は治安局。会計監督官室は影に残る。影に残れば、椅子は残る。
男はペンを置き、紙を乾かすために端を軽く持ち上げた。
紙は薄い。薄いけれど、生活を削るには十分だ。
――
夕方、リリアナは顧問室に戻った。
廊下でアーデルハイトとすれ違う。彼女はいつも通り表情が薄い。
「何か掴めましたか」
リリアナが聞くと、アーデルハイトは首を横に振った。
「掴める形には、まだなっていない。でも、動きはある。速さではない。……静かさだ」
「静かさは、生活に刺さる」
「そう」
二人はそれ以上言わなかった。
言わないのは秘密のためではない。言うと、言葉が先に漏れるからだ。漏れると、相手が形を変える。形を変えられるのが一番厄介だ。
部屋に戻ると、机の上にエルナが置いた紙束が整っていた。
整っている机は、戦場の前線に似る。何も散っていないのに緊張する。
リリアナは椅子に座り、封筒を開けた。
アレンの三行日誌の写しが増えている。ミレイアの照合表も増えている。
どれも勝利の報告ではない。生存の報告だ。
その報告を見て、彼女は慰めを言わなかった。
慰めは軽い。軽い言葉は重い状況を傷つける。
代わりに、机の引き出しから白紙を一枚出した。
白紙を出すと、次が始まる。
始めたくない時ほど、始めないと死ぬ。
ペン先が紙に触れる。
音は小さい。
だが、こういう小さな音が、相手の静かな刃を止めることがある。
リリアナは書き始めた。
新しい案件の入口を作るための、最初の一枚だ。
書き出しは短い。いつも通り、淡々としている。
徴発。追加課税。協力要請。許認可再点検。
治安名目。例外規定。臨時措置。
そして、特別法廷の影。
彼女は一つずつ言葉を並べ、順序を置いた。
並べるだけで、糸が見えてくる。糸が見えたら、切り口が作れる。切り口が作れれば、次は刃の向きを変えられる。
窓の外では、雪が降り始めていた。
降り方が静かだ。
静かな雪は、音を消す。音が消えると、誰かが動いても気づきにくい。
だからこそ、紙の音を消さない。
リリアナは書き終えた紙の端を指で揃え、机の上にそっと置いた。
そこに、新しい紙が一枚増えた。
それは総括ではない。
次の戦いの、入口だった。




