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「断罪の令嬢 ― 弁護士の記憶が織りなす逆転劇」  作者: 月白ふゆ
第四章

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第十五話 次は、もっと静かに来る

差し戻しの紙が回った翌日から、王都は何事もなかったように動き出した。

鐘はいつも通り鳴り、石畳はいつも通り濡れ、役所はいつも通り長い列を作る。人は“終わった”ことにしたい。終わったことにすると、息ができるからだ。


けれど、終わったのは裁きではなく、あのやり方だけだった。

あの署名、あの整いすぎた供述、あの速すぎる結審。あれはもう使えない。少なくとも、同じ形では。


リリアナは王太子付顧問室の机に向かい、紙束の角を揃えた。

角を揃えると、頭の中の音も少し揃う。揃ったところから順番に処理できる。順番に処理できるということは、相手の速さに巻かれないということだ。


エルナが扉の外から小さく声をかけた。


「入ります」


返事を待たずに入ってくるのは、この部屋では礼儀に近い。待っている時間が、余計な隙になる。


「監査局の回答です。保管ログの欠番、正式に“事故扱い”では通らない、と」


「良かった」


リリアナは短く言った。

良かったのは正義が勝ったからではない。事故扱いで流されない、という形が残ったからだ。形が残れば、次に押し返せる。


エルナは紙を机の端に置き、そのまま続けた。


「ただし、関係者の人事は“各部局の裁量”。宰相府は踏み込みません。……残しますね、あの人たち」


リリアナは頷いた。


「残る方が合理的です。失脚させると、敵が敵だと確定する。確定すると、殴り返す理由が生まれる。殴り返される理由は、こちらが作らない」


言いながらリリアナは、紙の束の一番上を一枚めくった。

差し戻し文書の控え。立証不能の文言。調達権一時停止の通知。監査対象の指定。形式は揃っている。揃っていること自体が、もう一つの壁だ。


「で、現場は?」


エルナの問いは軽いが、重い。

現場が救われなければ、制度の勝利はただの飾りになる。


リリアナは机の脇に置いた小さな封筒を指で押した。封筒には二つの控えが入っている。

一つは兵舎から届いた三行日誌の写し。もう一つは商店の受領控えの写し。どちらも、勝利の証拠ではなく、生存の痕跡だ。


「潰されてはいません。戻ってもいません」


「一番きついやつですね」


「ええ。一番きつい。でも、ここが踏ん張りどころです」


リリアナは椅子の背に体重を預けず、真っすぐ座った。

座り方は、気の持ち方に似る。ここで崩れると、次の刃が刺さる。


その刃は、すでに準備されている。


――


兵舎の朝は、音から始まる。

起床の号令、靴音、金具の鳴る音。音が揃っているのは秩序があるからだ。秩序がある場所は、間違いも揃う。


アレンは雑務班の端にいた。

端にいると、視界が広い。広い代わりに、誰も寄らない。寄らないのは冷たさではなく、感染を恐れているからだ。厄介ごとは移る。移ると思っている。


上官は依然として目を合わせない。

目を合わせないまま命令だけを投げる。命令は盾だ。盾は責任を守る。責任が守られると、誰も彼を守らない。


それでもアレンは倒れなかった。

倒れない理由は、“頑張る”からではない。倒れる前に、やるべきことが増えたからだ。


枕の下の封筒を思い出しながら、彼は三行を積む。

今日、雑務に回された。

申請の写しを別窓口へ回した。

受領印が押されなかった。

押されなかった、という事実が毎日増える。増えるほど、嘘がつきにくくなる。嘘がつきにくい環境は、だいたい敵に嫌われる。


昼過ぎ、軍法務の下役が一人、彼の作業場に来た。

顔は覚えていない。覚えていない顔ほど危険だ。


「お前、余計な紙を回したな」


「規定の範囲です」


「規定、ね」


下役は鼻で笑い、去った。去り際の視線が薄い刃だった。

規定の範囲で生きようとする者は、運用の側にとって邪魔になる。邪魔になるものは、静かに削られる。


アレンはその夜の三行に一つ足した。

「余計な紙」と言われた。

言われたこと自体が痕跡になる。


――


店の朝は、客の呼吸から始まる。

呼吸が戻らない朝は、空気が薄い。薄い空気の中で、帳簿だけがいつも通り重い。


ミレイアの店は営業していた。

営業しているのに、売上が戻らない。戻らない理由は明確だ。噂と距離。距離は生活に正直で、正義には無関心だ。


取引先は以前より慎重になり、納品の量を減らした。

減らす理由はいつも同じ口調だった。

「今は様子を見る」

様子を見る、という言葉は、責任を取らない宣言でもある。


店の奥に置いた二つの箱は、日々厚くなっていった。

受領控えと荷札の原本。写し。写しの移送先。日次照合表。門札の控え。通行税の納付票。

紙は増えるほど重い。重くなるほど、捨てたくなる。捨てた瞬間に、相手が勝つ。


ミレイアは捨てなかった。

捨てないのは信念ではない。捨てると、次に潰されると分かったからだ。


そこへ治安局の者が来た。

丁寧な口調、丁寧な手つき、丁寧な視線。丁寧は時に、脅しより怖い。


「地域安全の協力、引き続きお願いします。夜間の出入りも含めて」


「昨日も協力しました」


「ありがとうございます。では、追加で。――協力できない場合の不利益も、念のためお伝えします」


“念のため”。便利な言葉だ。

念のためと言いながら、相手の喉元に指を置く。


「営業許可の更新、遅れていますね。更新は更新。例外は例外。今は敏感な時期ですので」


敏感。便利な言葉だ。

敏感という言葉の中には、何でも入る。噂も、疑いも、裁量も。


ミレイアは怒鳴らなかった。

怒鳴ると、相手の望む絵になる。


代わりに、リリアナに教わった通りに言った。


「協力します。ただし、書面で。担当者名と根拠規定と目的と範囲を明示してください。口頭の依頼は、控えが残せません」


治安局の者の目が一瞬だけ細くなった。

嫌がった。嫌がるということは効いた。効いたなら続ける価値がある。


「……書面ですか。融通が利きませんね」


「融通が利くと、記録が残らないので」


丁寧な空気が、少しだけ硬くなる。

硬くなると、相手は次の手に移る。次の手は、だいたい静かだ。


その日の夕方、店に届いたのは“書面”ではなく、税務窓口からの通知だった。

追加課税。徴発協力金。名目は複数。期限は短い。


ミレイアは紙を見つめ、椅子に座ったまま動けなくなった。

殴られているわけではない。怒鳴られてもいない。

ただ、生活が削られる。削り方が合法で、静かで、正しい顔をしている。


これだ。

これが“次はもっと静かに来る”というやり方だ。


――


王太子宮の評議は、喧騒が少ない。

喧騒が少ない代わりに、一言の重さが増す。ここで飛ぶ一言は、町ひとつの生活を削れる。


ユリウスは窓際に立ち、外の空を見ていた。

雪が降るか降らないか、迷っている色だ。迷いは人間に似る。迷いを利用できる者が強い。


「徴発と追加課税が同時に来た。……軍の件が落ち着いた途端に、だ」


ユリウスの声は低い。低い声は怒りではなく警戒だ。


宰相ヴィルヘルムが淡々と応じる。


「動線が潰れた以上、別の動線で来る。想定内です」


想定内。

宰相はいつも想定内と言う。想定内と言える人間は強い。強いが、冷たい。


リリアナは前に出ず、机の端に立った。

前に出ないのは慎みではない。矢面に立つと、矢が集まる。矢が集まると、守るべきものが守れなくなる。


「別件で足を止める、という“札”が投げられました」


リリアナが言うと、ユリウスは短く頷いた。


「足を止められると、別の場所で結論を出される」


「ええ。だから、足を止められても止まらない仕組みが要ります」


宰相が視線を向ける。


「仕組み、とは」


リリアナは紙を一枚差し出した。紙一枚。

いつも通りのやり方。いつも通りが、一番強い。


「“入口”を常設化します。王太子付顧問室が関与するのは、事件ではなく運用です。徴発・追加課税・治安介入が同時に発生したとき、必ず要件と根拠と記録化を求める。求める文書を、先に出せるようにする」


ユリウスが紙を受け取り、目を滑らせた。


「相手を否定しない。順序を置く。記録を残す。……いつも通りだな」


「いつも通りが、相手にとって一番邪魔です。相手は速さと曖昧さで動く。こちらは遅さと明確さで止める」


宰相が紙の端を指で押さえた。

押さえる仕草が、許可に近い。


「ただし、敵は失脚しない。残る」


「残ります」


リリアナは即答した。ここで夢を言うと、足元をすくわれる。


「残るから、次が来ます。次は“罪”ではなく、“生活”で削ります。削るのは被告ではなく周囲。周囲が折れると、被告が勝手に沈む」


ユリウスの眉が僅かに動く。


「……商人や、納入業者。徴発対象。そういうところか」


「はい。そして裁きの場も変わります。軍の場では、もう同じ手が使えない。なら、治安名目の特別法廷。徴税の現場。行政の即決。静かな刃が使える場所に移る」


宰相が短く息を吐く。

息の吐き方が、少しだけ人間的だった。


「運用者は、椅子に座ったままだな」


「ええ」


リリアナは頷いた。椅子に座った者が強いのは、立たなくても手が届くからだ。立つのは危険だ。危険を負うのは末端でいい。椅子の側はいつもそう考える。


ユリウスが言った。


「なら、こちらも椅子を増やす。お前の椅子だ、リリアナ」


その言葉は軽くない。

椅子は味方であり、鎖だ。

椅子に座ると、見られる。縛られる。自由が減る。だが、手が届く範囲が増える。


「顧問室の枠を拡げる。案件単位ではなく、運用単位で動け。必要なら、治安側にも“窓口”を作る。勝手に例外を使わせないための窓口だ」


宰相が補足する。


「反発は必ず来る。軍より静かに。治安より執拗に」


「分かっています」


リリアナは言った。

分かっているから、怖い。怖いから、順序を守る。


「殿下、もう一つ」


リリアナが言葉を続けると、ユリウスが視線だけで促した。


「今までの刃は、署名と供述でした。次の刃は、たぶん“協力”です。協力の形を作り、協力しない者を潰す。協力の名で、全てを合法にします」


ユリウスが口元を引き締める。


「協力の強要は、秩序維持の名で正当化される」


「はい。だから“協力の条件”を制度にします。協力は否定しません。ただ、条件を満たさない協力は採用しない」


宰相が小さく頷いた。


「信仰は否定しない、根拠にしない。――その線の延長だな」


「ええ。否定しない、でも根拠にしない。協力も同じです。否定しない、でも条件がないなら根拠にしない」


ユリウスが机に戻り、決裁書類の束を手前に引いた。

紙が擦れる音が、王太子の仕事の音だ。


「やる。……ただし、こちらの足はまた止めに来る」


「止めに来ます」


リリアナは即答した。


「止めに来るなら、止められても動くようにします。顧問室の中で、動線を二つに分ける。殿下が動けない時のために、文書だけが先に走る仕組みを」


ユリウスが一瞬、笑うとも疲れるともつかない表情をした。


「お前は、紙で戦うのが本当に好きだな」


「紙は裏切りません。裏切るのは人です」


言い切ると、部屋の空気が少し締まった。

締まるのは、次の戦いが始まった証拠だ。


――


同じ頃。王都の会計監督官室の奥では、別の紙が作られていた。


そこは華やかさのない部屋だった。

香も薄く、暖炉も控えめ。余計な装飾もない。装飾は目立つ。目立つことは危険だ。ここにいる者は、目立たないことに慣れている。


男は机に向かい、淡々とペンを走らせた。

宰相でも神官でもない。軍でもない。

だが、徴税ラインと会計ラインに手を伸ばせる立場にいる。手を伸ばせるということは、生活を削れるということだ。


彼は「正しさ」を信じていた。少なくとも口では。

正しさを信じる者は、運用を正当化できる。運用を正当化できる者は強い。


紙のタイトルは控えめだ。控えめなタイトルほど、効く。


――地域安全維持に伴う臨時措置の整理――


整理。

整理は中立の顔をしている。

中立の顔をした刃は、刺さっても叫びが出にくい。


男は静かに笑った。笑いは短い。

長く笑うと感情が漏れる。感情が漏れると足がつく。


「同じ手は使えない」


彼は小さく呟いた。

だがその声に悔しさはない。むしろ楽しさに近い。


「なら、静かな手を使えばいい」


臨時措置。暫定対応。例外規定。協力要請。

全部、合法だ。合法の中で人は潰れる。潰れたあと、誰も責任を取らない。責任を取らないのもまた合法だ。


彼は書面に、条件を一つ加えた。

“協力が得られない場合、当該事業者に対し許認可の再点検を行う”

再点検。再点検は当然だ。当然の顔をして、首を絞める。


そして最後に、宰相府ではなく、治安局の名で回るように印の位置を調整した。

矢面は治安局。会計監督官室は影に残る。影に残れば、椅子は残る。


男はペンを置き、紙を乾かすために端を軽く持ち上げた。

紙は薄い。薄いけれど、生活を削るには十分だ。


――


夕方、リリアナは顧問室に戻った。

廊下でアーデルハイトとすれ違う。彼女はいつも通り表情が薄い。


「何か掴めましたか」


リリアナが聞くと、アーデルハイトは首を横に振った。


「掴める形には、まだなっていない。でも、動きはある。速さではない。……静かさだ」


「静かさは、生活に刺さる」


「そう」


二人はそれ以上言わなかった。

言わないのは秘密のためではない。言うと、言葉が先に漏れるからだ。漏れると、相手が形を変える。形を変えられるのが一番厄介だ。


部屋に戻ると、机の上にエルナが置いた紙束が整っていた。

整っている机は、戦場の前線に似る。何も散っていないのに緊張する。


リリアナは椅子に座り、封筒を開けた。

アレンの三行日誌の写しが増えている。ミレイアの照合表も増えている。

どれも勝利の報告ではない。生存の報告だ。


その報告を見て、彼女は慰めを言わなかった。

慰めは軽い。軽い言葉は重い状況を傷つける。


代わりに、机の引き出しから白紙を一枚出した。

白紙を出すと、次が始まる。

始めたくない時ほど、始めないと死ぬ。


ペン先が紙に触れる。

音は小さい。

だが、こういう小さな音が、相手の静かな刃を止めることがある。


リリアナは書き始めた。

新しい案件の入口を作るための、最初の一枚だ。


書き出しは短い。いつも通り、淡々としている。


徴発。追加課税。協力要請。許認可再点検。

治安名目。例外規定。臨時措置。

そして、特別法廷の影。


彼女は一つずつ言葉を並べ、順序を置いた。

並べるだけで、糸が見えてくる。糸が見えたら、切り口が作れる。切り口が作れれば、次は刃の向きを変えられる。


窓の外では、雪が降り始めていた。

降り方が静かだ。

静かな雪は、音を消す。音が消えると、誰かが動いても気づきにくい。


だからこそ、紙の音を消さない。


リリアナは書き終えた紙の端を指で揃え、机の上にそっと置いた。

そこに、新しい紙が一枚増えた。


それは総括ではない。

次の戦いの、入口だった。

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