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「断罪の令嬢 ― 弁護士の記憶が織りなす逆転劇」  作者: 月白ふゆ
第四章

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第十三話 立証不能という壁

特別法廷の扉が閉まったあと、廊下の冷気が妙に現実的だった。

中で交わされた言葉より、靴音の方がよほど大きく響く。そういう場所は、結論を急ぐのに向いている。


エルナが小走りで追いついてきた。肩に書類鞄、もう片方の腕に封筒の束。顔は落ち着いているのに、目だけが忙しい。


「保全命令の写し、治安局と軍法務と、それから門の税務窓口にも回しました。受領印も取れてます」


「良い」


リリアナは返事を短くした。良いと言ったのは、褒めたいからじゃない。受領印が取れている、という事実が必要だからだ。

紙は届いたかどうかより、届いたと証明できるかどうかで生死が決まる。


廊下の角で、伝令が待っていた。さっきと同じ顔だ。さっきより息が荒い。


「王太子殿下が至急。評議の間へ。……別件です」


別件。

さっきから、その匂いが床に染みている。


リリアナは足を止めない。止めると、相手の“速さ”に巻き込まれる。速さに勝つには、こちらは順序で走るしかない。


「殿下には、私も向かう。エルナは――」


「残ります。法廷側の議事録と、差し戻しの文言を固めます。軍法務の反発が来る前に、形式を先に取ります」


エルナの声が少し低くなった。

形式を先に取る。これが一番効く。相手が怒鳴る前に、紙で外堀を埋める。怒鳴った方が、後で困る形にする。


「アーデルハイトは?」


リリアナが聞くと、エルナは顎で奥を示した。

廊下の陰に、調査官アーデルハイトが立っていた。いつものように表情は薄い。薄いのに、怒りの温度だけが微かに漂う。怒りを顔に出さない人間の怒りは、長持ちする。


「管轄の壁は、まだ生きてる」


アーデルハイトが短く言った。


「生きてるから、殺す」


リリアナは軽く返した。軽い言い方で、重いことを言うのがいちばん安定する。

“殺す”と言っても人を殺す話ではない。運用の癖を殺す。癖が死ぬと、同じ手が使えなくなる。


「殿下の方は私が追う。あなたは、保全の“穴”を探して」


「了解」


アーデルハイトはそれだけ言って、廊下の反対側へ消えた。

消え方が静かで、逆に頼もしい。


評議の間に近づくほど、人が増える。増える人は、権限の匂いを運んでくる。

扉の前には軍法務の制服、治安局の外套、神殿文書係の白い袖が混じっていた。混じっている時点で、誰も線を引いていない。線がないところには、例外が住み着く。


中に入ると、空気が少し熱い。

声が多い。言い訳が多い。言い訳が多い場は、責任が薄い。


中央の席にユリウスがいた。王太子の席は、座っているだけで孤独が見える。

彼の前の机には、特別法廷の通知書の控えと、リリアナが出した方式要件の通達、それから今朝届いたばかりの抗議文が積まれていた。紙の層が厚い。厚い紙は、人を守るときもあれば、潰すときもある。


宰相ヴィルヘルムもいた。表情は冷たいまま、手元の紙を淡々とめくっている。

この男が怖いのは、怒らないところだ。怒らない人間は、感情で引かない。


軍法務の上席が声を張っていた。


「王太子付の通達が、軍の迅速な裁きを阻害しています。例外措置は秩序維持のために――」


「秩序維持は理由になる。しかし根拠にはならない」


ユリウスが遮った。声は大きくない。大きくないのに、止まる。止まるのは、ここが王太子の場だからだ。


軍法務が食い下がる。


「しかし被告は――」


「署名の話は終わった」


ユリウスがぴしゃりと言う。

終わった、と言える人間がいるだけで、場が一段落ち着く。落ち着いた場では、順序が通る。


宰相がそこで静かに口を挟んだ。


「本日の争点は、被告の有罪無罪ではありません。特別法廷が結審できる状態にあるかどうか、だ」


軍法務の上席が眉をひそめる。


「結審できる状態です。供述も整い、証言も――」


「整いすぎている、という疑義が出た」


宰相の言葉は、表情より冷たい。冷たい言葉は、感情で反論しづらい。


ユリウスがリリアナへ視線を向けた。

呼ばれている。けれど前に出る必要はない。出ない形で線を引けばいい。


リリアナは一歩だけ進み、机の端に一枚の紙を置いた。

紙の置き方が軽い。軽いのに、置いた瞬間に空気が変わる。王太子付顧問室の印は、それだけで場の速度を変える。


「結論を出すための“流れ”が成立していない、という整理です」


軍法務が鼻で笑いかけた。


「また流れですか」


リリアナは笑わない。否定もしない。

その代わり、順序を置く。


「流れが成立していない以上、結論は成立しません。これは思想ではなく形式です。門札、通行税、受領印、保管ログ。どれも一つずつなら欠けることはあります。でも四つ同時に“欠け方が揃う”のは偶然ではありません」


治安局の人間が咳払いをした。咳払いは、言いたいことがあるが言えない時に出る音だ。


ユリウスがその音に被せるように言った。


「特別法廷は本日結審しない。差し戻しの方向で詰める」


軍法務が反発しかけた。

その前に宰相が紙を一枚取り、淡々と読み上げた。


「差し戻しの理由は“立証不能”。罪不成立ではない。虚偽告発でもない。立証の材料が整っていない以上、結論を出すと後に禍根が残る。軍の秩序維持という目的とも両立する」


言い方が残酷なくらい現実的だった。

有罪無罪を決めない。誰も断罪しない。

だからこそ、誰も“殴り返す相手”を定められない。


リリアナはそこにもう一つだけ置いた。


「立証不能を理由に差し戻す場合、次の手続きが必要です。記録保全の再確認と、保全義務違反の疑義についての監査」


「監査?」


治安局が反応した。


宰相が頷いた。


「監査だ。軍の内部に閉じない。今回の“欠番”は、管轄の外側に跨っている」


軍法務が顔をしかめる。


「軍が、税務や門の台帳に口出しするのは――」


「口出ししない。監査がする」


宰相は言葉を切った。

切り方がうまい。政治にしないまま、外の権限を入れる。


ユリウスが続ける。


「兵站側の調達権・徴発権については、一時停止だ。監査の結論が出るまで、例外運用を禁止する」


一時停止。

ここが本丸だ。

罪を決めるより、権限を止める方が相手は痛い。権限が止まると、金の流れが止まる。金が止まると、椅子が揺れる。


治安局が慌てた声を出す。


「徴発権を止めると、現場が――」


「現場を壊すためじゃない。現場を守るために止める」


ユリウスの声は相変わらず大きくない。

でも、ここでは大きさが必要ない。王太子の言葉は、内容が印になる。


リリアナはその流れに乗せて、最後の一線だけを置いた。


「差し戻しの文言は、“立証不能”で統一を。『証拠の欠缺により結審できない』。これで、誰かの顔を潰さずに、運用だけ止められます」


軍法務は悔しそうに黙った。

黙ったという痕跡が残る。黙ると、後で“同意した”と扱える。だから、黙らせるのが強い。


宰相が紙を数枚まとめ、ユリウスの前に置いた。


「これが差し戻し案だ。王太子名で出す。軍は従うしかない」


「従う」


ユリウスが頷いた。

頷きは、決裁だ。決裁は、紙になる。


その瞬間、リリアナは“勝った”とは思わなかった。

勝利の気分は、運用を油断させる。油断すると、次の刃に切られる。

だから彼女はただ、机の上の紙の端を揃えた。端を揃えるのは、感情の代わりに整える癖だ。


しかし、整えたところへ、別の紙が滑り込んできた。

伝令がまた来た。さっきより焦っている。


「王太子殿下、至急。国境の件――ではありません。内務から。徴発と追加課税の件で……」


徴発と追加課税。

軍の話をしている最中に、税の話が刺さる。刺さり方が露骨すぎる。


ユリウスの眉が僅かに動いた。

動いたのは驚きではない。嫌な予感の確認だ。


宰相が静かに言う。


「……タイミングが良すぎる」


リリアナは口に出さず、心の中で頷いた。

良すぎるタイミングは、誰かが合わせている。合わせられるのは、椅子に座っている側だ。


ユリウスが立ち上がった。

立ち上がる動作が少し硬い。硬いのは疲れじゃない。王太子の足を止める札が投げ込まれたからだ。


「こちらは私が行く」


ユリウスが言った。


エルナがいない今、リリアナが残るべきか、一瞬だけ迷いが生まれる。

迷いは一秒だけで十分だ。迷い続けると、相手の速さに呑まれる。


リリアナは一歩下がり、ユリウスへ短く言った。


「殿下。差し戻しの紙は、今ここで印を。行ってからだと、別件に飲まれます」


ユリウスは即座に頷いた。

机に戻り、差し戻し案の上に署名を入れ、印を押す。押す音が乾いて響いた。

その音が響いた瞬間だけ、この場の空気が“確定”に変わる。


宰相がその紙を受け取り、淡々と言った。


「これで止まった。少なくとも、今日は」


“今日は”という一言が、妙に重い。

今日止まっても、明日また動く。

だから、止めた痕跡を積み重ねるしかない。


ユリウスが扉へ向かう。

その背中に、治安局の人間が言いかけた。


「殿下、徴発の件は――」


言葉は途中で飲まれた。

飲まれたのは、ユリウスが振り返らなかったからだ。振り返ると、相手の場になる。振り返らなければ、こちらの場のまま終われる。


ユリウスが去ったあと、評議の間に残ったのは、紙と、人と、沈黙だった。

沈黙は、誰も責任を取らないときの沈黙ではない。

今回は違う。沈黙は、“結論を出せなかった”という事実の沈黙だ。


リリアナは宰相へ視線を向けた。

宰相は薄い笑みも浮かべずに言った。


「王太子を別件で動かした。……やり口が分かりやすい」


「分かりやすいのは、焦っているからですか」


リリアナが軽く言うと、宰相は一拍置いた。


「焦っているというより、座っている。座っている者は、焦らずに盤面を動かす。だが、盤面を動かすと痕跡が残る」


痕跡。

その言葉が、今日の鍵だった。


リリアナは机の上の差し戻し文書を見た。

立証不能。差し戻し。権限一時停止。監査。

勝利ではない。救済でもない。

ただ、運用が一度止まった。それだけ。


そして、それだけで十分に痛い。


廊下へ出ると、外気が肺に刺さった。

冷たいのに、少しだけ息がしやすい。結論が確定していないのに息がしやすいのは、結論が“出なかった”ことが確定したからだ。


遠くで鐘が鳴った。

時刻を告げる鐘は、だいたい人に優しくない。

時間はいつも、権力の味方をする。急げる側が強い。


リリアナは歩きながら、頭の中で一枚の紙を作った。

今朝の徴発と追加課税。倉庫から消えた預かり品。欠番。特別法廷。差し戻し。監査。

全部が一本の糸に見える。糸が見えたら、次は切り口を探すだけだ。


彼女は口元だけで小さく息を吐いた。

落ち着いているふりではない。落ち着いている必要があるだけ。


「殿下を足止めしたのは、誰の椅子だろう」


独り言は軽かった。

でも、答えは軽くない。


椅子に座ったまま、刃を投げる者がいる。

そして、今日はその刃が“別件”という形で飛んだ。


リリアナは止まらずに歩く。

止まれば、相手の速度に呑まれる。

歩けば、順序で追える。


王都の石畳は冷たい。

冷たいけれど、冷たい石は嘘をつかない。

嘘をつくのは人だ。

だから、人の嘘を、石と紙で挟み込む。


差し戻しの紙が確定した。

権限が一時停止になった。

監査が動く。


勝ったわけじゃない。

ただ、運用が止まった。


そしてその瞬間、次の手が来る。

もっと静かに、もっと生活に近い場所へ。

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