第十三話 立証不能という壁
特別法廷の扉が閉まったあと、廊下の冷気が妙に現実的だった。
中で交わされた言葉より、靴音の方がよほど大きく響く。そういう場所は、結論を急ぐのに向いている。
エルナが小走りで追いついてきた。肩に書類鞄、もう片方の腕に封筒の束。顔は落ち着いているのに、目だけが忙しい。
「保全命令の写し、治安局と軍法務と、それから門の税務窓口にも回しました。受領印も取れてます」
「良い」
リリアナは返事を短くした。良いと言ったのは、褒めたいからじゃない。受領印が取れている、という事実が必要だからだ。
紙は届いたかどうかより、届いたと証明できるかどうかで生死が決まる。
廊下の角で、伝令が待っていた。さっきと同じ顔だ。さっきより息が荒い。
「王太子殿下が至急。評議の間へ。……別件です」
別件。
さっきから、その匂いが床に染みている。
リリアナは足を止めない。止めると、相手の“速さ”に巻き込まれる。速さに勝つには、こちらは順序で走るしかない。
「殿下には、私も向かう。エルナは――」
「残ります。法廷側の議事録と、差し戻しの文言を固めます。軍法務の反発が来る前に、形式を先に取ります」
エルナの声が少し低くなった。
形式を先に取る。これが一番効く。相手が怒鳴る前に、紙で外堀を埋める。怒鳴った方が、後で困る形にする。
「アーデルハイトは?」
リリアナが聞くと、エルナは顎で奥を示した。
廊下の陰に、調査官アーデルハイトが立っていた。いつものように表情は薄い。薄いのに、怒りの温度だけが微かに漂う。怒りを顔に出さない人間の怒りは、長持ちする。
「管轄の壁は、まだ生きてる」
アーデルハイトが短く言った。
「生きてるから、殺す」
リリアナは軽く返した。軽い言い方で、重いことを言うのがいちばん安定する。
“殺す”と言っても人を殺す話ではない。運用の癖を殺す。癖が死ぬと、同じ手が使えなくなる。
「殿下の方は私が追う。あなたは、保全の“穴”を探して」
「了解」
アーデルハイトはそれだけ言って、廊下の反対側へ消えた。
消え方が静かで、逆に頼もしい。
評議の間に近づくほど、人が増える。増える人は、権限の匂いを運んでくる。
扉の前には軍法務の制服、治安局の外套、神殿文書係の白い袖が混じっていた。混じっている時点で、誰も線を引いていない。線がないところには、例外が住み着く。
中に入ると、空気が少し熱い。
声が多い。言い訳が多い。言い訳が多い場は、責任が薄い。
中央の席にユリウスがいた。王太子の席は、座っているだけで孤独が見える。
彼の前の机には、特別法廷の通知書の控えと、リリアナが出した方式要件の通達、それから今朝届いたばかりの抗議文が積まれていた。紙の層が厚い。厚い紙は、人を守るときもあれば、潰すときもある。
宰相ヴィルヘルムもいた。表情は冷たいまま、手元の紙を淡々とめくっている。
この男が怖いのは、怒らないところだ。怒らない人間は、感情で引かない。
軍法務の上席が声を張っていた。
「王太子付の通達が、軍の迅速な裁きを阻害しています。例外措置は秩序維持のために――」
「秩序維持は理由になる。しかし根拠にはならない」
ユリウスが遮った。声は大きくない。大きくないのに、止まる。止まるのは、ここが王太子の場だからだ。
軍法務が食い下がる。
「しかし被告は――」
「署名の話は終わった」
ユリウスがぴしゃりと言う。
終わった、と言える人間がいるだけで、場が一段落ち着く。落ち着いた場では、順序が通る。
宰相がそこで静かに口を挟んだ。
「本日の争点は、被告の有罪無罪ではありません。特別法廷が結審できる状態にあるかどうか、だ」
軍法務の上席が眉をひそめる。
「結審できる状態です。供述も整い、証言も――」
「整いすぎている、という疑義が出た」
宰相の言葉は、表情より冷たい。冷たい言葉は、感情で反論しづらい。
ユリウスがリリアナへ視線を向けた。
呼ばれている。けれど前に出る必要はない。出ない形で線を引けばいい。
リリアナは一歩だけ進み、机の端に一枚の紙を置いた。
紙の置き方が軽い。軽いのに、置いた瞬間に空気が変わる。王太子付顧問室の印は、それだけで場の速度を変える。
「結論を出すための“流れ”が成立していない、という整理です」
軍法務が鼻で笑いかけた。
「また流れですか」
リリアナは笑わない。否定もしない。
その代わり、順序を置く。
「流れが成立していない以上、結論は成立しません。これは思想ではなく形式です。門札、通行税、受領印、保管ログ。どれも一つずつなら欠けることはあります。でも四つ同時に“欠け方が揃う”のは偶然ではありません」
治安局の人間が咳払いをした。咳払いは、言いたいことがあるが言えない時に出る音だ。
ユリウスがその音に被せるように言った。
「特別法廷は本日結審しない。差し戻しの方向で詰める」
軍法務が反発しかけた。
その前に宰相が紙を一枚取り、淡々と読み上げた。
「差し戻しの理由は“立証不能”。罪不成立ではない。虚偽告発でもない。立証の材料が整っていない以上、結論を出すと後に禍根が残る。軍の秩序維持という目的とも両立する」
言い方が残酷なくらい現実的だった。
有罪無罪を決めない。誰も断罪しない。
だからこそ、誰も“殴り返す相手”を定められない。
リリアナはそこにもう一つだけ置いた。
「立証不能を理由に差し戻す場合、次の手続きが必要です。記録保全の再確認と、保全義務違反の疑義についての監査」
「監査?」
治安局が反応した。
宰相が頷いた。
「監査だ。軍の内部に閉じない。今回の“欠番”は、管轄の外側に跨っている」
軍法務が顔をしかめる。
「軍が、税務や門の台帳に口出しするのは――」
「口出ししない。監査がする」
宰相は言葉を切った。
切り方がうまい。政治にしないまま、外の権限を入れる。
ユリウスが続ける。
「兵站側の調達権・徴発権については、一時停止だ。監査の結論が出るまで、例外運用を禁止する」
一時停止。
ここが本丸だ。
罪を決めるより、権限を止める方が相手は痛い。権限が止まると、金の流れが止まる。金が止まると、椅子が揺れる。
治安局が慌てた声を出す。
「徴発権を止めると、現場が――」
「現場を壊すためじゃない。現場を守るために止める」
ユリウスの声は相変わらず大きくない。
でも、ここでは大きさが必要ない。王太子の言葉は、内容が印になる。
リリアナはその流れに乗せて、最後の一線だけを置いた。
「差し戻しの文言は、“立証不能”で統一を。『証拠の欠缺により結審できない』。これで、誰かの顔を潰さずに、運用だけ止められます」
軍法務は悔しそうに黙った。
黙ったという痕跡が残る。黙ると、後で“同意した”と扱える。だから、黙らせるのが強い。
宰相が紙を数枚まとめ、ユリウスの前に置いた。
「これが差し戻し案だ。王太子名で出す。軍は従うしかない」
「従う」
ユリウスが頷いた。
頷きは、決裁だ。決裁は、紙になる。
その瞬間、リリアナは“勝った”とは思わなかった。
勝利の気分は、運用を油断させる。油断すると、次の刃に切られる。
だから彼女はただ、机の上の紙の端を揃えた。端を揃えるのは、感情の代わりに整える癖だ。
しかし、整えたところへ、別の紙が滑り込んできた。
伝令がまた来た。さっきより焦っている。
「王太子殿下、至急。国境の件――ではありません。内務から。徴発と追加課税の件で……」
徴発と追加課税。
軍の話をしている最中に、税の話が刺さる。刺さり方が露骨すぎる。
ユリウスの眉が僅かに動いた。
動いたのは驚きではない。嫌な予感の確認だ。
宰相が静かに言う。
「……タイミングが良すぎる」
リリアナは口に出さず、心の中で頷いた。
良すぎるタイミングは、誰かが合わせている。合わせられるのは、椅子に座っている側だ。
ユリウスが立ち上がった。
立ち上がる動作が少し硬い。硬いのは疲れじゃない。王太子の足を止める札が投げ込まれたからだ。
「こちらは私が行く」
ユリウスが言った。
エルナがいない今、リリアナが残るべきか、一瞬だけ迷いが生まれる。
迷いは一秒だけで十分だ。迷い続けると、相手の速さに呑まれる。
リリアナは一歩下がり、ユリウスへ短く言った。
「殿下。差し戻しの紙は、今ここで印を。行ってからだと、別件に飲まれます」
ユリウスは即座に頷いた。
机に戻り、差し戻し案の上に署名を入れ、印を押す。押す音が乾いて響いた。
その音が響いた瞬間だけ、この場の空気が“確定”に変わる。
宰相がその紙を受け取り、淡々と言った。
「これで止まった。少なくとも、今日は」
“今日は”という一言が、妙に重い。
今日止まっても、明日また動く。
だから、止めた痕跡を積み重ねるしかない。
ユリウスが扉へ向かう。
その背中に、治安局の人間が言いかけた。
「殿下、徴発の件は――」
言葉は途中で飲まれた。
飲まれたのは、ユリウスが振り返らなかったからだ。振り返ると、相手の場になる。振り返らなければ、こちらの場のまま終われる。
ユリウスが去ったあと、評議の間に残ったのは、紙と、人と、沈黙だった。
沈黙は、誰も責任を取らないときの沈黙ではない。
今回は違う。沈黙は、“結論を出せなかった”という事実の沈黙だ。
リリアナは宰相へ視線を向けた。
宰相は薄い笑みも浮かべずに言った。
「王太子を別件で動かした。……やり口が分かりやすい」
「分かりやすいのは、焦っているからですか」
リリアナが軽く言うと、宰相は一拍置いた。
「焦っているというより、座っている。座っている者は、焦らずに盤面を動かす。だが、盤面を動かすと痕跡が残る」
痕跡。
その言葉が、今日の鍵だった。
リリアナは机の上の差し戻し文書を見た。
立証不能。差し戻し。権限一時停止。監査。
勝利ではない。救済でもない。
ただ、運用が一度止まった。それだけ。
そして、それだけで十分に痛い。
廊下へ出ると、外気が肺に刺さった。
冷たいのに、少しだけ息がしやすい。結論が確定していないのに息がしやすいのは、結論が“出なかった”ことが確定したからだ。
遠くで鐘が鳴った。
時刻を告げる鐘は、だいたい人に優しくない。
時間はいつも、権力の味方をする。急げる側が強い。
リリアナは歩きながら、頭の中で一枚の紙を作った。
今朝の徴発と追加課税。倉庫から消えた預かり品。欠番。特別法廷。差し戻し。監査。
全部が一本の糸に見える。糸が見えたら、次は切り口を探すだけだ。
彼女は口元だけで小さく息を吐いた。
落ち着いているふりではない。落ち着いている必要があるだけ。
「殿下を足止めしたのは、誰の椅子だろう」
独り言は軽かった。
でも、答えは軽くない。
椅子に座ったまま、刃を投げる者がいる。
そして、今日はその刃が“別件”という形で飛んだ。
リリアナは止まらずに歩く。
止まれば、相手の速度に呑まれる。
歩けば、順序で追える。
王都の石畳は冷たい。
冷たいけれど、冷たい石は嘘をつかない。
嘘をつくのは人だ。
だから、人の嘘を、石と紙で挟み込む。
差し戻しの紙が確定した。
権限が一時停止になった。
監査が動く。
勝ったわけじゃない。
ただ、運用が止まった。
そしてその瞬間、次の手が来る。
もっと静かに、もっと生活に近い場所へ。




