第十二話 成立しない流れ
特別法廷の通知書は、紙のくせに重かった。
机の端で少し反ったまま、灯火の熱を吸って、じっとこちらを見ている気がする。
リリアナは反りを指先で押さえ、紙を平らに戻した。平らに戻しても内容は変わらない。明後日、即日結審。例外措置。迅速。
言葉はきれいで、やることは乱暴だ。
「結審が早いほど、材料が必要になる」
独り言みたいに言って、彼女はエルナへ視線を投げた。
エルナは既に机の上を“区画”にしていた。門札、通行税、受領印、保管ログ、そして欠番の控え。紙束をただ積むのではなく、並べて道にする。こうすると、流れが見える。流れが見えれば、成立しない場所も見える。
扉が静かに開き、ミレイアが入ってきた。
歩き方が少し硬い。硬いのは怯えじゃない。店の前に貼られた札の重みが、体に乗っている。
「……治安局が、また来ました」
声が掠れていた。けれど目は潰れていない。潰れていないのは、昨日渡された紙を握りしめていたからだろう。
「この紙だけ見せたら、引きました。でも、代わりに」
ミレイアは小さな布包みを机に置いた。中から出てきたのは、荷札の切れ端と、薄い受領控え。それと、押された印の跡が半分だけ残った紙片。
“半分だけ”というのが嫌に生々しい。相手が狙って破いた感じがする。
「控えを全部持っていかれて、残ったのがこれだけです。……私、守れなかった」
リリアナは首を横に振らなかった。否定しても現実は戻らない。
代わりに、紙片を受け取って光に透かした。
「守れてる。半分残ってるだけで十分」
「え……?」
「印の癖が見える。荷札の繊維も見える。向こうが“整えた写し”には、この粗さが出ない」
粗さ。
生活の粗さ。
それが、嘘を割る。
エルナがすぐに言った。
「アレンの方は?」
ミレイアは一瞬、喉が鳴った。
飲み込んでから、小さく首を振る。
「面会、拒否されました。『特別法廷に回した』って。もう、話をする必要はないって」
必要はない。
その言葉の軽さが、逆に胸を刺す。話す必要がないなら、聞く必要もない。聞く必要がないなら、折る必要もない……と言いながら、実際は折る。折って、紙にする。
リリアナは立ち上がった。
机の端に置いてあった通知書を手に取り、裏に何かを書きつける。短い線。短い言葉。
「一本に束ねる」
エルナが頷いた。
「アレンの“罪”と、ミレイアさんの店への“協力”は、別件に見せて同じ線です。物の流れと、記録の扱いが同じ」
リリアナは通知書を机に戻し、ミレイアを見る。
「あなたに頼みがある。怖い役だ。でも、あなたじゃないと成立しない」
ミレイアは微かに震えた。
それでも頷いた。頷いたのは勇気じゃない。店が止まって、逃げ道が消えた顔だ。逃げ道がない人は、腹を括る。
「何をすれば」
「明日の朝、倉庫番頭に会える?」
「会えます。……でも、監察が張ってます」
「張らせたままでいい。むしろ、張ってる方がいい」
リリアナの声が淡いのに冷たい。
張っている、つまり見ている。見ているなら、痕跡が増える。痕跡が増えれば、後で切れる。
「倉庫番頭に、この質問だけして。『預かり品』が出庫された日、何が必要だったか。封印印は押されたか。立会は誰か。門札は切られたか。通行税は払ったか。受領印は誰が押したか。答えを言わせなくていい。頷かせるだけでいい」
ミレイアが唇を噛んだ。
「頷くだけで?」
「頷くだけで、紙にできる。あなたが聞いた、という事実が残るから」
ミレイアは小さく息を吐いた。
それから布包みを抱え直し、頷いた。
「分かりました」
彼女が出ていくと、室内の空気が少しだけ軽くなる。軽くなるのは、決めたからだ。決めると、人は余計な想像を減らせる。
エルナが言った。
「一本に束ねる、というのは」
リリアナは机の紙束の上に、特別法廷の通知書を置いた。まるで蓋のように。
「向こうは、アレンの調書を“結論”にして、店の動線を“状況証拠”にする。だから逆に、店の現物記録を“骨”にして、調書を“乗らない肉”にする」
「肉が乗らない」
「骨がなければ肉は形になる。骨が硬ければ肉は崩れる。調書は、骨の上にしか立てない」
言い方は軽いのに、中身は重い。
骨が硬い、というのは、つまり生活の台帳が硬いということだ。
翌日。特別法廷の建物は、軍の施設に近い場所にあった。
石壁が厚い。窓が少ない。音が逃げない。逃げない音は、人を黙らせる。
入口には治安局と軍憲兵が並び、そこへ神殿の文書係が当然のように混じっていた。
混じっているのが、いちばん不気味だ。混じっている時点で、線引きが溶けている。
リリアナは王太子付の印章がついた書面を出し、淡々と通った。
派手な護衛はいない。代わりに、紙が護衛になる。
法廷内は、整いすぎていた。
机、椅子、旗、秩序の象徴。整いすぎた部屋は、人間の揺れを許さない。
前列に、審理官が三名。軍法務の者が二名。治安局の者が一名。神殿文書係が一名。
そして、その後ろに、記録係。記録係の手がもう動いている。始まる前から、結論へ向かう文が走っている。
アレンは端の椅子に座っていた。
鎖はない。だがそれが逆に怖い。鎖がないと、ここが“自発”だと言い張れる。自発という言葉は、便利だ。
彼はリリアナを見て、ほんの少しだけ目を見開いた。
その瞬間だけ、生きている目になる。目が生きるのは、誰かが“順序”を持って来た証拠だ。
審理官が杖を軽く鳴らした。
「本件は例外措置により迅速に審理する。争点は単純である。軍需品の横流し、及びそれに伴う虚偽報告。被告の供述は整っている」
整っている。
その言葉が、露骨だった。整っている供述ほど怖いものはない。人は整わない。整うなら、誰かが整えた。
軍法務の一人が、調書を持ち上げた。
紙が白く、字が美しい。美しい字は、時に刃になる。
「被告は、当該品を指定の経路で搬出し、民間の倉庫へ一時保管し、後に第三者へ引き渡したと認めている。署名は――」
そこで、その者の言葉が止まった。
昨日の通達が効いている。止まった瞬間、周囲がざわりと動く。動く気配は、制度が軋む音だ。
軍法務は咳払いし、言い換えた。
「……供述は、本人の意思により記載された」
リリアナはすぐに口を挟まない。
否定すると、向こうは“感情”に逃げる。
彼女は、順序で刺す。
審理官が言った。
「王太子付顧問室、発言を許可する。ただし簡潔に」
簡潔に、というのも乱暴だ。簡潔に言えることしか認めない場は、最初から結論が決まっている。
だからこそ、簡潔に“結論が出せない”を作る。
リリアナは一歩前へ出た。
背中は細いのに、歩幅が揺れない。揺れない歩幅は、彼女が前に出るためではなく、線を引くために出ている。
「本件は、供述の真偽を争う以前に、物の流れが成立していません」
審理官の眉が僅かに動いた。
「成立していない、とは」
リリアナは紙束を一つ、机に置いた。
机に置く音は小さい。けれど音の小ささが、逆に耳につく。
「被告の供述は、搬出、保管、引き渡しの順序で書かれています。ですが、その順序を成立させるために必要な外部記録が、複数の地点で噛み合いません」
軍法務が苛立ったように言う。
「外部記録が欠けているだけだ。例外措置下では――」
リリアナはその言葉を遮らず、最後まで聞いた。
聞き終えてから、淡く返す。
「欠けている、なら欠けていることが争点になります。ですが本件は“欠けている”ではなく、“成立しない”です。欠ける範囲が、偶然では説明できない」
審理官が手を上げた。
「具体的に」
リリアナは頷き、紙束の上から一枚ずつ、短く示していく。
長く話す必要はない。短く示せば、向こうが長く言い訳をする。その言い訳が痕跡になる。
「第一に、門札です。王都の門を荷が通るなら、門札の形式は固定で、桁が一致します。被告供述にある番号は、桁が足りません。足りない門札では通れない。門札の形式説明と確認印があります」
審理官が紙を受け取り、目を落とす。
紙を読む時間が生まれるだけで、即決の空気が少し遅くなる。遅くなると、折られかけた人間が息を吸える。
「第二に、通行税です。門札が動けば、通行税が動きます。該当日の該当数量の税記録は存在しません。さらに、本日この場の直前に確認したところ、該当日自体が“欠番”扱いになっています。欠番は、台帳の都合では起きません。起きるのは運用です」
軍法務の顔が歪む。
欠番は、痛い。
痛いから、顔が歪む。
「第三に、受領印です。被告供述にある“民間倉庫の受領”は、ミレイア商会の印が押されているとされています。しかし登録簿には、該当日だけ空白がある。空白は“押していない”ではなく、“押した記録を置けない”です」
「第四に、保管ログです。保全指定が出ているにもかかわらず、監査局窓口は当初“存在しない”と言い、次に“当局では保管していない”と言い換えました。どこへ移管したか、文書で出せない。つまり、記録の連鎖が切れている」
リリアナはそこまで言って、一息ついた。
息は浅い。深く吸わない。深く吸うと感情が乗る。感情が乗ると、相手が“騒ぎ”にする。
彼女は騒ぎにしない。順序にする。
「以上を束ねると、被告供述の“流れ”は、門で止まり、税で止まり、印で止まり、保管で止まります。止まっているのに、供述だけが流れている。供述だけが流れる流れは、成立しません」
審理官が目を細めた。
「ならば、被告の供述が虚偽だと言いたいのか」
リリアナは首を振った。
ここで誰かを悪党にすると、矛先が立つ。矛先が立てば、反撃が来る。
彼女は矛先を消す。
「虚偽かどうかは、今は言いません。言える状態ではない。流れが成立していない以上、この場で結論を出すことができない、と申し上げています」
軍法務が強い声で言った。
「特別法廷は迅速に結審する権限がある!」
リリアナは声を荒げず、淡く返す。
「迅速に結審する権限は、迅速に誤る権限ではありません。誤った結論を迅速に固定した場合、その後の秩序の修復に、もっと大きな負担が出ます」
審理官の一人が、慎重な声で言った。
「被告の供述は、本人が認めている。たとえ外部記録が欠けていても――」
その言葉が終わる前に、リリアナは一枚の紙を差し出した。
紙は薄い。薄いが、印が重い。王太子名の通達だ。
「採用の条件を満たさない署名は採用しない。本人の認めた供述であっても、その作成過程が方式要件を欠く場合、証拠として扱えません。供述が残るなら、残ったまま“材料”として置けばいい。結論に使わない。それだけです」
部屋が静かになった。
静かになったのは、反論の仕方が難しいからだ。
反論すれば、方式要件を無視したことを自分で言うことになる。
アレンが、ゆっくりと息を吐いた。
吐けたというだけで、まだ折れていない。
折れていない人間がいる限り、紙はまだ生きる。
審理官が問う。
「顧問室は、何を求める」
リリアナは短く答えた。
「結論を出させない。ではなく、出せない状態を確認していただきたい。具体的には、差し戻し、及び記録保全命令。門札、通行税、受領印登録簿、保管ログの所在確認。欠番が発生した手続の監査。これが整うまで、審理を結審できない、と」
軍法務が噛みつく。
「監査など、軍の管轄外だ!」
「軍の管轄外だからこそ、今この場で結論を出すと危険です。管轄外の記録を使って“状況”を固め、管轄内の供述で“結論”を作る。これが、成立しない流れです」
成立しない流れ。
その言葉が、部屋の空気に沈んだ。
審理官が、机に置かれた紙束へ視線を落とした。
紙束は、多すぎない。多すぎると嫌がられる。少なすぎると潰される。
ちょうどいい量で、ちょうどいい痛点を押している。
沈黙の中で、神殿文書係が一歩前へ出た。
涼しい顔で、いつもの言葉を置く。
「神託の付記があります。本件は秩序を乱す者の――」
言い終える前に、審理官が手を上げた。
止めたのは、神託が怖いからじゃない。神託がここで効くと、今まで積み上げた“採用しない線”が崩れるからだ。
「神託の付記は、採用の対象外とする。王太子付通達に従う」
神殿文書係の目が僅かに揺れた。
揺れたのは敗北ではない。面子の傷だ。傷ついた面子は、別の圧になる。別の圧は、次に来る。
審理官が続けた。
「本件は、本日結審しない。差し戻しの是非を協議する。ひとまず、追加の記録保全を命じる。軍法務、治安局、各々は該当記録の所在を明示せよ」
軍法務が唇を噛む。
治安局の者が目を逸らす。
逸らすという行為が、痕跡だ。
その瞬間、リリアナは勝ったわけではない。
ただ、結論を出す手を止めさせただけだ。
けれど止めさせるのが、今は一番重い。
審理は中断され、アレンは連れ出された。
連れ出される途中、彼は小さくリリアナを見た。見て、何か言いかけた。
言葉は出なかった。出なかったのは悔しさではない。まだ怖いのだろう。怖いのは当然だ。怖さは消えない。消す必要もない。怖さを抱えたまま、折れないように順序を置く。
廊下に出ると、冷気が肌を刺した。
石壁の冷たさは同じなのに、さっきより呼吸がしやすい。
結論を出させなかった、という事実が、空気を少し変える。
エルナが低い声で言った。
「次、向こうは“欠番”の説明を整えに来ますね」
リリアナは頷いた。
「整える時間を与える代わりに、整えた痕跡を取る。整えれば整えるほど、手が増える。増えた手は隠せない」
そこへ、伝令が走ってきた。
息が上がっている。上がった息は、良い知らせではない。
「王太子殿下より。別件で、至急……」
別件。
足止めの匂いがする。
向こうは、結論を止められたから、今度は裁く側を止めに来る。
リリアナは一瞬だけ目を細めた。
その目の細さは怒りではなく、計算だ。
「分かった。殿下へは私が行く。エルナ、あなたは残って、記録保全命令の写しを全ての窓口へ回して。逃げ道を作らせない」
「はい」
エルナの返事は短い。短い返事は、今この瞬間に順序が動いている証拠だ。
ミレイアが恐る恐る言った。
「アレンは……助かるんですか」
リリアナは慰めの言葉を置かなかった。
代わりに、事実を置いた。
「今日は助けてない。今日は、潰されなかった。それだけ。でも、それだけが次に繋がる」
ミレイアは唇を噛み、頷いた。
潰されなかった者は、まだ立てる。立てるなら、守り方を覚えられる。
リリアナは廊下の窓から、低い空を一度だけ見上げた。
雲は薄く、雪の匂いがした。
静かな天気ほど、静かな刃が来る。
机に戻る時間はない。
けれど、彼女の頭の中では、もう一本の線が引かれていた。
物の流れが成立しないなら、結論は成立しない。
結論が成立しないなら、運用は止まる。
止まった運用は、別の刃で動こうとする。
その別の刃が、今、王太子の足元へ来ている。




