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「断罪の令嬢 ― 弁護士の記憶が織りなす逆転劇」  作者: 月白ふゆ
第四章

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第八話 署名の前にあるもの

牢の石は、冷たいというより無関心だった。冷えているのは当たり前で、誰が触れても同じ温度を返す。人の顔を見ない。名前を覚えない。ここに入れられた瞬間から、彼は「個人」じゃなくなる。


アレンは壁にもたれて目を閉じた。眠ってはいない。眠ると時間の境目が消える。境目が消えると、相手の言い分が本物になる。だから、起きている。起きて、数える。


足音が来る。二人。金具の擦れる音。鍵が回る音。扉が開いて、灯りが差し込んだ。


「立てるか」


声は荒くない。だから余計に怖い。荒い声は怒りだが、これは運用だ。運用は怒らない。運用はただ、進める。


アレンは立ち上がり、膝の感覚が遅れて来るのを待った。食事は減っていた。水はある。水はあるが、腹は満たされない。満たされないと、思考が短くなる。短くなると、署名が近づく。


廊下を歩かされ、曲がり角を二つ過ぎる。扉が多い。どれも同じ形で、どれも同じ色で、どれも同じ鍵だ。鍵が同じだと、逃げ道も同じになる。つまりない。


薄い机と椅子がある部屋に通された。窓は高い位置に小さく、外の明るさだけが分かる。朝か昼か夕かは分からない。分からないように作ってある。時間が分からないと、判断が鈍る。判断が鈍ると、署名が近づく。


机の向こうに三人いた。治安局の男が二人。もう一人は、紙束を抱えた記録係だった。記録係は目を上げない。目を上げないから、こちらの顔も心も映らない。映らないなら、躊躇いも書かれない。


「今日で終わらせる」


治安局の男が言った。「今日」がいつかは分からない。でも、終わらせると言われると、終わらせたくなる。ここを終わらせたい、と思ってしまう。その思いが署名に繋がる。


「俺は……何を終わらせるんです」


アレンが言うと、男はため息もつかずに紙を一枚出した。


「供述だ。お前がやったことを、お前の言葉で書いた」


紙の上には、整った文章が並んでいた。句読点の位置が綺麗だ。綺麗すぎて、自分の言葉じゃないと分かる。分かるのに、分かるだけでは助からない。


「俺の言葉じゃない」


「お前の口から聞いたことを整えた。整えるのは仕事だ」


整える。あの言葉だ。整ったものは正しい顔ができる。正しい顔をされると、反論は「言い訳」になる。


「俺は横流しなんかしてない」


「してないなら、署名すればいい。してないなら、これを読んで、違うなら直せ」


直せ。直せと言って、直せる空気ではない。直すには時間がいる。時間をくれないのが、この部屋だ。


記録係が紙を新しい紙に重ね、素早くペンを構えた。直す箇所が出たら書く、という姿勢だ。姿勢だけで、場が「公平」に見える。見えるだけで、公平ではない。


「立会も呼んだ」


治安局の男が顎で示すと、扉の脇に立っていた男が一歩前へ出た。初めて見る顔だった。制服ではない。商人でも兵でもない。どちらにも見える曖昧な服だ。


「……誰ですか」


「地域の代表だ。騒擾防止のための確認役。形式は満たしている」


形式。形式だけがここで重要だ。形式があれば、後で「手続きは踏んだ」と言える。


立会の男は、目を泳がせながら小さく頷いた。彼もここに居たくないのだろう。居たくない人間は、早く終わらせたい。早く終わらせたい人間は、署名を促す。


治安局の男が、紙の該当箇所を指で叩いた。


「ここだ。門札の番号。荷の数量。受領印。お前の手で動かせる範囲だった」


門札。受領印。昨日まで、ミレイアの店から物が散った。散ると、番号だけが残る。番号だけが残ると、物語が作れる。


アレンの喉の奥が乾いた。唾を飲むと、飲んだ音が部屋で目立つ。目立つと弱く見える。弱く見えると、押される。


「俺は運んだだけだ。言われた通りに」


「言われた通りに運ぶのが、横流しの一部だ」


「誰に言われた」


アレンが言うと、男は首を傾げた。


「覚えてないのか」


覚えている。覚えているが、言えない。言えば、その相手が“上”だと分かる。上だと分かれば、こちらの命が短くなる。分かっているから言えない。その沈黙を、相手は罪に変える。


「覚えてないなら、これでいい」


男は供述書の最後の段落を読んだ。そこには、動機まで書かれていた。金に困った。誘惑された。軽い気持ちだった。最後は後悔している。全部が整っている。整っているから、読む側が安心する。安心は、判断を止める。


「……そんなこと言ってない」


「言ってないなら直せ。立会もいる。記録係もいる」


直せと言う。直させる気はない。これは押し問答ではない。段取りだ。


アレンは紙を手に取り、目を走らせた。途中から文字が滲む。自分の視界が滲んでいるのか、灯りが強いのか分からない。分からない時、人は確かなものに縋る。確かなものは紙だ。紙は嘘をつかない顔をしている。嘘をつくのは紙ではなく、紙を作る手だ。


「ここ……日付がない」


ふと気づいた。荷を動かした日付が曖昧だった。あえて曖昧にしている。曖昧なら、どの日にも当てはまる。どの日にも当てはまると、他の記録に合わせて動機が作れる。


治安局の男が、少しだけ笑った。


「例外措置中だ。細かい日付は後で整える」


後で整える。整える、まただ。整えるために、今は曖昧でいい。曖昧のまま署名させる。署名したら、曖昧は向こうの都合で固まる。


「立会の説明は?」


アレンが言った。立会がいるなら、説明があるはずだ。説明があるなら、まだ“通常”が残っているかもしれない。


立会の男は目を逸らし、咳払いを一つした。


「……私は、ここにいるだけだ」


「いるだけ?」


「確認するだけだ。問題ないと……聞いた」


聞いた。見るのではなく、聞く。聞くだけなら責任は薄い。薄い責任が積み重なると、誰も責任を取らない形になる。誰も責任を取らない形が、いちばん強い。


治安局の男が声を落とした。


「アレン。お前は賢い。賢いから、分かるだろう」


「何が」


「ここで粘っても、粘った分だけ、周りが擦り切れる」


周り。ミレイアの店が浮かんだ。札。差押え。預かり品。受領印。倉庫の空いた棚。彼女の顔が一瞬よぎって、すぐに消えた。消えるのは心が守ろうとするからだ。守ろうとすると、思考が短くなる。


「店は関係ない」


アレンが言うと、男は首を横に振った。


「関係ある。お前が関係を作った」


「俺が?」


「お前が荷を動かした。荷は店を通った。店主が協力したかどうか、調べるのが治安だ」


協力。協力しないという選択肢はない、の協力だ。


「……ミレイアに手を出すな」


「それは、お前次第だ」


短い言葉で、世界が狭くなる。狭くなると、署名が大きく見える。署名ひとつで終わるように見える。終わらないのに、見える。


記録係が紙を一枚差し出した。新しい紙だ。署名欄が一番下にあり、そこだけ空白になっている。空白は吸い込む。空白は埋めたくなる。埋めると終わる気がする。


「署名すれば、面会は考える」


治安局の男が言った。「考える」という言葉は何も約束しない。でも、人は「考える」を「可能性」だと勘違いする。可能性があると、今を差し出してしまう。


「……考える、だけだろ」


アレンが言うと、男は肩をすくめた。


「制度はそういうものだ。例外中は、全部が暫定だ」


例外。暫定。臨時。全部が揃った。揃った瞬間、これは個人の裁きではなく、運用の裁きになる。


アレンはペンを握らされた。ペンの軸が思ったより太い。太いと握りやすい。握りやすいと、書きやすい。書きやすいと、署名が近づく。道具の太さまで、段取りに見えてくる。


「最後に確認する」


治安局の男が淡々と言った。


「お前は荷の横流しに関与した。金を受け取った。受領印を偽造した。協力者がいた。これに相違ないな」


一つひとつが釘だ。釘を打った後、板に署名をさせる。板が出来たら、後から剥がせない。


「違う」


アレンは言った。声がかすれた。かすれると、弱く聞こえる。弱く聞こえると、押される。


「違うなら、直せるだろ」


「直す時間をくれ」


「時間は十分だ。ここに来てから何日だ」


何日。分からない。分からないのがここだ。分からないから、十分だと言われる。十分だと言われると、反論が細る。


立会の男が小さく呟いた。


「……早く、終わらせた方が……」


彼も擦り切れている。擦り切れた人間は、弱い者へ優しくない。優しくする余裕がないからだ。


アレンは紙の上を見つめた。文字が整っている。整っている文字は冷たい。冷たい文字の最後に、自分の名前だけが温度を持つ。温度を置いた瞬間、冷たい文章が“自分のもの”になる。


手が震えた。震えは疲労のせいだ。怖さのせいでもある。怖いのは、罪を認めることではなく、罪が確定することだ。確定したら、もう動かない。動かないものは戻らない。


「署名すれば、家族も店も助かる」


治安局の男が、低く言った。助かる、と言われると、助けたくなる。助けたい気持ちは人を折る。折ると、署名が出る。


「嘘だ」


アレンは言った。言ったが、声が小さい。小さい声は紙に残らない。残らない声は無かったことにされる。


「嘘かどうかは、結果が決める」


男の言葉は、綺麗にひねってある。ひねってある言葉は反論しにくい。反論しにくいと黙る。黙ると、署名が近づく。


記録係が、紙の端に印を押した。封印印ではない。小さな確認印だ。確認印が押されると、場が一段進む。進むと戻れない気がする。気がするだけなのに、気がするのが怖い。


アレンはペン先を署名欄へ近づけた。紙の白が、急に眩しく見える。白い場所は、まだ汚れていない場所だ。汚すのは自分だ、という感覚が刺さる。


「……俺が書いたら、ミレイアに会わせるのか」


「考える」


まただ。考える。考えるは何も言っていない。


アレンは目を閉じた。目を閉じると、倉庫の空いた棚が見える気がした。空いた棚は何も言わない。言わないものを守るために、言葉を差し出すのか。


目を開けた。署名欄の前で、ペン先が止まっていた。


「……説明が足りない」


アレンは言った。自分でも驚くほど、声が出た。怖いのに、出た。出たのは、最後の抵抗だ。最後の抵抗は、相手の最後の押しになる。


治安局の男が机に身を乗り出した。


「説明は要らない。例外だ」


例外。たった二文字で、世界がまた狭くなる。


ペンが震え、紙に触れた。インクが滲みかける。滲みは、一度付いたら戻らない。


アレンは、名前の最初の一画を引きかけた。


その瞬間、扉の外で慌ただしい足音がした。誰かが走っている。走る音は、焦りの音だ。焦りがここまで届くのは珍しい。


治安局の男の眉が一瞬動いた。動いたのを、アレンは見逃さなかった。相手が焦るのは、予定が崩れる時だ。予定が崩れるなら、ここで署名を取っておきたい。つまり、今が一番押される。


押されると分かっていても、手が勝手に動きそうになる。


紙の白が、まだそこにある。


白いままなら、まだ戻れる。


けれど、白いままでいられる時間は、もうほとんど残っていなかった。

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