表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「断罪の令嬢 ― 弁護士の記憶が織りなす逆転劇」  作者: 月白ふゆ
第四章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

58/75

第七話 例外は便利だ

店の札を裏返したまま、三日目だった。


開けてもいいのに、開ける意味がない。扉を開けた瞬間に来るのは客じゃなく、紙の束だ。紙は買い物をしない。紙は払わない。紙は、奪う。


ミレイアは朝いちばんに火鉢へ炭を足し、次に机へ紙を足した。どちらも同じ作業に見える。違うのは、炭は温めるが、紙は冷やすことだ。


帳簿の端に、昨日の控えが挟まっていた。治安局。徴税監督官室。監察局。許可更新の窓口。全部ちがう印。印が増えると、店の自由が減る。


「協力しないという選択肢はない」


あの男の声が、まだ耳に残っている。声というより、言葉の形だ。形が残るのは、もうそれが運用になっているからだ。


戸が叩かれた。二回。昨日と同じ速さ。違うのは、今日はノックの後に名乗りがあったことだ。


「許可更新担当。臨時の確認です」


臨時。便利な言葉が来た。


ミレイアは深呼吸して、扉を開けた。若い役人が一人、紙の束を抱えている。制服はまじめで、顔もまじめだ。まじめな顔は頼りになるようで、実は一番怖い。まじめな人間は、手続きを疑わない。


「ミレイア商店の営業許可について確認に伺いました。更新期限はまだ先ですが、現在、地域安全の観点から――」


「地域安全、ですか」


「はい。臨時措置です」


二度目の臨時。臨時が重なると、臨時ではなくなる。


役人は紙を広げ、淡々と続けた。


「営業形態の一時変更。営業時間の短縮。来客制限。倉庫の出入りの申告。衛生担当と連携して確認します」


「衛生まで?」


「人が集まると衛生が乱れますから」


理屈はいつも正しい。正しい理屈は人を殴れる。


「今、店は閉めています。来客もありません」


「閉めているなら、なおさら確認が必要です。閉める理由が騒擾に関わる可能性があるので」


閉めると疑われる。開けると疑われる。どちらでも同じなら、生活の方が先に折れる。


ミレイアは紙の端を見た。条文番号と通達番号。小さな文字で「例外適用」とある。例外は印刷されている。印刷された例外は、もはや例外ではない。


「これは……いつまでですか」


「暫定です」


暫定。三つ目の便利な言葉。


「暫定はいつ終わるんですか」


役人は少しだけ困った顔をした。困るのは、終わりが決まっていない時だ。終わりが決まっていない暫定ほど、長い。


「状況次第です。安全が確認できれば」


「安全は、誰が確認するんですか」


「……治安局が」


結局そこへ戻る。治安が決める。決める側は、期限を持たない。


役人は紙の束から一枚を抜き、机に置いた。


「ここに署名を。営業形態の変更に同意した、という形です」


署名。署名は便利だ。署名があれば、相手は「協力があった」と言える。協力があれば、次の制限は「本人の同意」に変わる。本人の同意にされると、責任は店主に落ちる。


「同意しないとどうなるんですか」


ミレイアが訊くと、役人はまじめな顔のまま答えた。


「同意がない場合、行政判断で制限をかけます。その場合は、更新審査の評価にも影響します」


評価。店の未来を盾にする言葉。


「……分かりました」


ミレイアは署名した。線が一本引かれた感覚がある。引かれた線は戻らない。線が戻らないから、次の線が引ける。


役人は満足そうに頷き、次の紙を出した。


「次に、倉庫の申告です。保管物の一覧。預かり品の有無。移動履歴。立会記録」


預かり品。昨日から、どの部署も同じ言葉を使う。言葉が揃うのは偶然じゃない。揃う言葉は、誰かが上で整えている。


ミレイアが倉庫へ案内すると、役人は棚の前で立ち止まり、空いている場所を見た。


「ここ、何がありました」


「……布の束です。昨日、別の部署が」


「別部署が移動させたなら、移動記録がありますね」


「私には渡されていません」


役人は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに紙をめくった。


「例外適用中なので、写しの交付は省略できます」


省略。例外。暫定。臨時。言葉が連なり始めたら、止まらない。


ミレイアは喉の奥に苦いものが湧くのを感じた。怒りではない。怒りは燃える。これは、息が詰まる感覚だ。息が詰まると、相手のペースになる。


昼前、衛生担当が来た。昼過ぎ、火防の確認が来た。夕方、徴税の催促が来た。


どれも「違反はない」と言う。違反はない。違反がないなら帰ってくれればいいのに、帰らない。


「違反はないので、今回は注意で」


注意。注意が積もると、記録になる。記録が積もると、次は制限になる。


衛生担当が帰り際に、軽い口調で言った。


「臨時だからね。気にしないで」


臨時だから気にしろ、の間違いだ。臨時は気にしないと増える。


夜、ミレイアは受領箱を開けた。紙がまた増えていた。取引先からの保留が増え、役所からの期限が増えていた。期限はどれも「明日まで」だ。明日までが重なると、夜が消える。


火鉢の炭は小さくなっていた。炭が小さくなるのは自然だ。紙が増えるのは、誰かの意思だ。


翌朝、店の前に小さな札が貼られていた。治安局のものだ。丁寧な字でこう書かれている。


「本区域は騒擾防止のため、臨時監視対象とする」


監視対象。客が読むと、近づかない。近づかなければ、売れない。売れなければ、税が払えない。払えなければ、徴税が来る。徴税が来れば、監視が強まる。循環ができあがっている。


ミレイアは札を剥がそうとして手を止めた。剥がしたら「協力しない」になる。協力しないという選択肢はない。選択肢がないのに、選ぶふりをさせられる。


午前中、治安局の男たちがまた来た。今度は二人ではなく、四人だった。人数が増えると、これは「行動」になる。


「協力状況の確認だ」


「昨日も確認しました」


「昨日から状況が変わった」


状況は、変えられる。


男は店内を見回し、机の上の帳簿に目を落とした。


「取引が止まっているな」


「止めているのは、そちらでしょう」


ミレイアが言いかけて、飲み込んだ。言いかけた言葉は、紙にできない。紙にできない言葉は損だ。


男は淡々と続けた。


「止まると、焦る。焦ると、余計なことをする。余計なことが騒擾になる」


余計なこと。余計かどうかは向こうが決める。つまり、何もできない。


「面会の件は?」


ミレイアが訊くと、男は一拍も置かずに答えた。


「無理だ。例外規定が出ている」


例外規定は、もう合言葉だ。合言葉が出れば、話は終わる。


「例外は、いつまでですか」


「状況次第だ」


「状況は、誰が決めるんですか」


「秩序が決める」


秩序。誰の顔でもない言葉。顔のない言葉は責任を取らない。


男は書類を一枚差し出した。


「差押え対象の見直しだ」


ミレイアは紙を受け取り、目を走らせた。対象が増えている。布の束だけではない。金具、針、染料、帳簿の写し、受領印。受領印まで。


「受領印は……商取引の控えです。これを取られたら、取引が証明できない」


「証明できないと困るだろう」


男は、薄く笑った。笑いは温度がない。温度のない笑いは、脅しにしかならない。


「困るなら、協力しろ」


協力。協力は、差し出すことだ。差し出せば、次はもっと差し出せと言われる。


ミレイアは紙を握り、指先が白くなるのを感じた。


「何の根拠で、受領印まで」


「騒擾防止だ」


また戻る。全部がそこへ吸い込まれる。


その時、裏口の方で物音がした。別の男が倉庫へ回っている。勝手に回れるのは、もうここが「対象」だからだ。


「ちょっと、待ってください」


ミレイアが倉庫へ向かうと、男が棚の奥から木箱を引きずり出していた。箱には荷札がついている。荷札には小さく、取引先の印。印が見えると安心する。安心は、すぐに奪われる。


「それは預かり品です。取引先の――」


「預かり品は、特に危ない」


男が言った。危ないのは、預かり品ではない。預かり品という言葉で、何でも持っていけることだ。


「どこへ持っていくんですか」


「保管所だ」


「どこの保管所ですか」


「必要な保管所だ」


必要。必要な保管所は、地図にない。


男は箱に封印印を貼った。封印印は、貼られた瞬間に“物語”を変える。封印されれば、こちらは触れない。触れないなら、説明もできない。説明できないなら、疑われる。


「控えは?」


ミレイアが言うと、男は紙片を一枚投げるように渡した。薄い紙に、番号だけ。番号の紙は便利だ。番号があれば「手続きはある」と言える。でも番号だけでは、何も取り戻せない。


倉庫の外で、馬車の音がした。待機していたのだろう。準備がある介入は、偶然ではない。


箱が二つ、三つ、四つと運び出される。棚が空く。空いた棚は寒い。寒いのは、物がないからではない。守りが剥がれていくからだ。


「差押え対象の拡大は、暫定です」


誰かが言った。さっきの治安の男だ。暫定。暫定が棚を空にする。


「暫定なら、戻るんですね」


ミレイアが訊くと、男は肩をすくめた。


「状況次第だ」


状況次第。状況は作れる。


昼、取引先が店へ来た。来たと言っても、店に入らない。通りの端で立ち止まり、ミレイアを呼んだ。距離がある。距離は恐れだ。


「……大丈夫か」


「大丈夫に見えます?」


取引先の男は、目を逸らした。


「うちも、巻き込まれたくない。今は荷を止める」


「止めたら、あなたも困るでしょう」


「困る。でも、困るだけなら耐えられる。治安札が付くよりは」


治安札は伝染する。店だけでは終わらない。繋がりを切れば助かる、と思わせる。それが運用の強さだ。


夕方、倉庫の床に車輪の跡が増えていた。増えた跡は、ここに“あった”ことを示す。でも、あったことを示しても、戻ってくるわけではない。


ミレイアは机へ戻り、受領印の控えを確認した。控えはある。控えはあるが、原本がないと「ただの紙」と言われる。原本がないと、控えは弱い。弱い紙は、強い紙に踏まれる。


彼女は王太子付顧問室に出した控えの写しを手に取った。自分の字がまだ震えていない。震えない字は、最後の防具だ。


けれど、その防具も削られる。削り方は簡単だ。例外、と言うだけでいい。


夜遅く、また紙が来た。今度は監察局からだ。文面は丁寧で、内容は冷たい。


「本件、騒擾防止の臨時措置に鑑み、通常の写し交付は省略する」


省略は便利だ。省略は、相手の時間を奪う。相手の時間を奪えば、相手は追いつけない。追いつけなければ、折れる。


翌日、差押えがさらに広がった。


最初は「預かり品」だった。次は「関連物品」だった。次は「帳簿」だった。次は「店内備品」だった。分類が広がると、全部になる。


「これは関係ないでしょう」


ミレイアが言ったのは、ただの木箱だった。中身は空。空箱だ。空箱まで持っていく理由はない。


治安の男は、事務的に答えた。


「空箱は、隠匿に使える」


「空箱は、ただの箱です」


「ただの箱が騒擾になる」


意味がない。意味がないのに、止まらない。止まらないのは、意味ではなく運用が動いているからだ。


男は空箱に封印印を貼り、番号札を付けた。番号札は整っている。整っているから、正しい顔ができる。


「保管所は一つじゃない。分散する」


「分散……?」


「一か所に置くと、騒擾の標的になる」


騒擾の標的。都合のいい言葉は、どこまでも伸びる。


馬車が二台、三台と増えた。荷がそれぞれ別の馬車へ乗せられていく。番号札が違う。行き先も違う。散る。現物が散ると、追えなくなる。追えなくなると、語りが変わる。語りが変わると、罪が作れる。


ミレイアは倉庫の入口で立ち尽くし、棚が空になっていくのを見ていた。空になった棚は、何も言わない。棚は抗議しない。物は叫ばない。叫ばないから、奪う側が楽だ。


最後に運び出されたのは、受領印の木箱だった。ミレイアが一番守りたかったものだ。守りたいものほど、狙われる。


「それだけは――」


言いかけて、止めた。言いかけた瞬間に、相手の目がそこへ行く。目が行くと、優先される。奪う側の優先が決まる。


木箱は封印印を貼られ、馬車へ乗せられた。馬車の板が軋む音がした。その音は、店の骨が鳴る音に似ていた。


馬車が角を曲がり、見えなくなる。見えなくなった瞬間、世界から一部が切り取られた気がした。


ミレイアは机へ戻り、番号紙を並べた。番号紙は整っている。整っているのに、何も戻らない。整っているだけで、整っていない現実を隠す。


番号紙の中に、一枚だけ汚れたものが混じっていた。泥が付いている。泥は、誰かが急いだ証拠だ。急いだのは、こちらではない。向こうだ。向こうが急ぐ時は、焦っている時だ。


焦っているなら、どこかに穴がある。穴があるなら、そこへ順序を差し込める。


ミレイアは汚れた番号紙を取り、裏を見た。裏に小さな走り書きがあった。


「第二保管。夜明け前移送」


第二保管。夜明け前。移送。全部、速度の言葉だ。


速度で潰す。速度で散らす。散らして追えなくする。追えなくして物語を作る。


ミレイアは紙を握り、今度は震えが指に出るのを止められなかった。震えは恥ではない。震えは、人がまだ折れていない証拠だ。


彼女は新しい紙を引き、短く書いた。


「現物散る。番号は整う。整うほど危ない。夜明け前移送あり」


書いた後、紙を折って封筒に入れた。宛先は、王太子付顧問室。今の自分にできることは、声ではなく記録を渡すことだけだ。記録なら、後で武器になる。


封筒を封じた時、店の外でまた札が貼られる音がした。紙が紙を呼ぶ音だ。


ミレイアは窓から通りを見た。札が増えている。札が増えるほど、人は避ける。避けられるほど、店は止まる。


止まった店の中で、火鉢の炭だけが小さく赤く残っていた。赤は弱い。でも、消えていない。


消えない限り、次の順序は作れる。順序を作れれば、例外を例外のままに戻せるかもしれない。


ただし――それには時間がいる。


そして今、時間は、向こうの味方だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ