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「断罪の令嬢 ― 弁護士の記憶が織りなす逆転劇」  作者: 月白ふゆ
第三章

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第十二話 誰も断罪しないが逃げ道は塞ぐ

憲兵詰所の廊下は、寒いのに汗の匂いがした。急いで動く人間がいる場所の匂いだ。急ぎは、だいたい誰かの都合で生まれる。


拘束された娘――レオンの妹だと名乗った子は、板張りの椅子に座らされていた。肩が小さく震えている。泣き声は出していない。出せない顔だ。泣いたら、負けると思っている顔。


憲兵の班長が、硬い礼をした。


「王太子殿下、宰相閣下。こちらは――」


「形式はいい」


ユリウスの声は短い。短い時は、怒りが混じっている。怒りは武器にもなるが、暴れると相手の思うつぼになる。だから短く切る。


リリアナは娘の手元を見た。縄はない。だが両手は膝の上で重なり、指が白い。拘束は縄じゃない。空気でできる。


「拘束の根拠文書は」


班長が一瞬だけ詰まる。詰まるのは、紙が薄い時だ。


「事情聴取です。拘束ではなく――」


「“事情聴取”の開始時刻、命令者、立会者。記録」


リリアナは淡々と言った。声を荒げない。荒げると“揉めている”になる。揉めると、その間に人は折れる。


班長は渋々、机の引き出しから紙束を出した。薄い。薄すぎる。薄い紙は、誰かを守るために作られていない。


宰相ヴィルヘルムが目を通す。


「命令者の欄が空白だ」


班長が言い訳を探す前に、ユリウスが言った。


「空白なら、無効だ。帰す」


「殿下、それは……軍の捜査で――」


「軍の捜査でも、王都で民間人を押さえるなら手続が要る」


ユリウスは机を叩かない。叩かないから怖い。


「命令者が書けないなら、命令は存在しない。存在しない命令で人は動かせない」


班長の喉が動いた。動いたが、言葉が出ない。言葉が出ない時、人は紙を頼る。だがこの班長の紙は、頼れない。


アーデルハイトが静かに前に出た。


「班長。あなたが悪いとは言わない。だが続けるなら、あなたの名前が残る。残った名前は、後で守ってくれない」


班長の顔色が変わる。現場の人間は、そこに敏感だ。守られないのは怖い。


リリアナは娘へ視線を向けた。


「名前」


娘は小さな声で名乗った。声は揺れているのに、言葉ははっきりしていた。揺れても折れてはいない。そこだけが救いだ。


「帰れるようにします。いまのうちに、ここで言わないでいいことは言わないでください」


娘は目を見開いた。優しい言葉ではない。だが、守り方の言葉だ。


リリアナは班長へ戻す。


「この“事情聴取”は中止。記録は封印して保管。封印番号を書いて。立会者二名。今ここで」


班長が戸惑う。


「封印……?」


「後で誰かが“無かったこと”にするから」


リリアナは淡々と言った。


「無かったことにされると、あなたが困る。だから、今ここで“在った”にする」


班長の目が一瞬だけ泳いで、そして諦めたように頷いた。封印具が出てくる。封印印が押される。番号が書かれる。立会者の署名が入る。


紙の上に、ようやく痕跡が立つ。


ユリウスが娘の方を向いた。


「帰れ。今夜は外へ出るな。門番にはこちらから話す」


娘は立ち上がり、深く頭を下げた。泣かないまま出ていく背中は、危うい。泣かないのは強さではなく、余裕の無さでもある。


扉が閉まった瞬間、宰相が低く言う。


「脅しだ。被告が折れないから周辺を折る。典型だな」


「典型なら、典型の弱点があります」


リリアナは封印番号を控えながら言った。


「典型は紙を急ぐ。急いだ紙は穴が空く」


ユリウスが頷く。


「会議へ戻る。今夜、決める」


決める、と言ったが“勝つ”とは言わない。勝てる形ではない。勝つと誰かが負ける。負けた側は、次の刃を研ぐ。だからここでは、刃を持たせない。


――


軍法会議の準備室は、整っていた。整いすぎている部屋は、危ない。整っているのは、結論が先にあるからだ。


卓上に資料が並ぶ。兵站台帳、出庫立会記録、輸送隊の行軍記録、門の発行台帳、保管ログ。紙が厚い。厚い紙は嘘に向かない。だが“厚い嘘”は作れる。作れるから、こちらも厚く固める。


准将が硬い顔で言う。


「殿下の通達により、神殿付記は封印保管としました。会議では扱いません」


言い方が丁寧すぎる。丁寧な時は、腹に物がある。だが今は踏まない。踏むと、余計な火種になる。


ユリウスが席に座る。椅子のきしみが小さく鳴った。軍の椅子は頑丈だ。頑丈な椅子は、人を押し潰すのに向いている。


リリアナは前に出ない。前に出ると、相手の矛先が自分になる。今日は矛先を消す日だ。


アーデルハイトが開会の確認をし、宰相が淡々と告げた。


「本件は、結審の前提を欠く。まずそこから始める」


准将が眉を動かす。


「前提?」


宰相は淡々と答えた。


「立証だ。軍の秩序は速さで守れる。だが速さは、成立の代わりにはならない」


准将が反射で言い返しそうになり、飲み込んだ。飲み込んだ時点で、こちらの勝ち筋が見える。反論しないのは納得ではない。反論できない形にしただけだ。


アーデルハイトが資料を開く。


「まず確認する。軍需品横流しの“物の流れ”が、記録上成立していない」


淡々と、順番に置く。感情は挟まない。感情は争点を作る。


「兵站の出庫記録は存在する。しかし輸送隊の通行札番号が門の発行台帳に存在しない。存在しない札で通過はできない。通過できないなら、出庫品は目的地へ届かない」


准将が唇を結ぶ。軍は“できない”を嫌う。嫌うのに、嫌でも認めざるを得ない形ができている。


次に、リリアナが控えた封印印の照合が提示される。印影の癖が複数箱で一致している。まとめ押し。現場ではなく机の時間。


宰相が一言だけ添える。


「つまり、現場の手ではない」


准将が言った。


「それは推測だ」


すぐに食いつく。推測と言えば逃げられると思ったのだろう。ここからが腕の見せどころだ。


リリアナは静かに、机の端に置いてあった一枚を滑らせた。前に出ない。紙だけ出す。


アーデルハイトがそれを拾い、読み上げる。


「保管ログ。封印具の貸出記録。貸出時刻、返却時刻、担当者名。封印具が当該時間帯に兵站庫に存在しない」


准将の顔が、少しだけ硬くなる。推測を潰すのは、別の記録だ。記録は記録で殴る。


宰相が淡々と言う。


「推測ではない。成立条件が欠けている」


ここで、ユリウスが口を開いた。短い。短いから重い。


「本件は、立証不能だ」


“罪不成立”ではない。そこが肝だ。軍にとって、罪不成立は“誰かが守られた”になる。守られたと感じた瞬間、反発が起きる。立証不能は違う。“処理ができない”だ。軍は処理できないものを嫌う。嫌うから、無理に処理して事故を起こす。事故を起こさせないために、先に止める。


准将が苦い顔で言う。


「立証不能なら、会議はどうなる。軍は――」


「差し戻し」


宰相が淡々と切った。


「軍の面子を潰さない。結論も出さない。出せない。だから差し戻す。必要なのは“結論”ではなく“手続の整備”だ」


准将が言葉を探す。


「では、被告はどうなる」


ユリウスが答える。


「現時点で、結審に値しない。拘束の継続は、会議の正当性を損なう。医務官記録もある。供述採取は停止。拘束は緩和し、隔離保全へ切り替えろ」


隔離保全。言い方が大事だ。解放と言えば軍が反発する。隔離保全なら“秩序の中”に置ける。言葉は枠だ。枠を作れば、暴れにくくなる。


准将が渋い顔で頷く。


「……承知した。しかし、誰がこのような記録を整えた。責任は」


ここで、罠が開く。責任を求める顔は、誰かを悪党にしたい顔だ。悪党にすれば、話は終わる。終わるが、刃が残る。残った刃は次に向く。


だから、悪党を作らない。


リリアナは前を見たまま、軽く言った。


「責任の所在を確定するには、もう一段の調査が要ります」


“要ります”。断言しない。断罪しない。だが逃がさない。


「ただし、運用は止められます」


宰相が続ける。


「兵站側は監査対象に指定する。兵站庫の原本保管、封印具管理、出納記録、書式支援の受領履歴。監査局ルートで押さえる」


准将が反射で言う。


「兵站は軍の中だ。外部が――」


ユリウスが淡々と、線を引いた。


「外部ではない。王太子付の再審整備の権限だ。秩序のためだ。軍の秩序を守るための監査だ。拒むなら、軍は自分の秩序を守れないと宣言することになる」


准将は口を閉じた。閉じるしかない。閉じると、紙が通る。


宰相が最後の釘を打つ。


「そして、調達権を一時停止する」


空気が変わる。そこは軍の胃袋だ。胃袋を止めるのは痛い。痛いが、殺さない止め方でもある。止めるのは“運用”だけ。兵が飢える手前で止める。だから政治になる前に、手続で止める。


准将が声を低くする。


「調達権停止は、現場が回らなくなる」


「回らないなら、回る形に作り直せ」


ユリウスの声は冷たい。


「同じ手で回る現場は、同じ手で壊れる。壊れる仕組みは、一度止めて直すしかない」


リリアナはそのやり取りを聞きながら、静かに思う。これが“勝利”ではない。勝利なら拍手が起きる。だが拍手は起きない。起きない方がいい。拍手が起きると、誰かの恨みが生まれる。


いま欲しいのは、恨みの矛先が立たないことだ。


だからリリアナは、最後に一言だけ足した。


「誰か一人の悪意で起きたとは、断定しません」


准将が目を向ける。


「断定しない?」


「断定すると、そこで終わるからです」


リリアナは淡々と言った。


「終わらせたい人がいます。終わらせれば、同じ運用が別の場所で繰り返せる。だから終わらせない。運用だけを殺す」


宰相が頷いた。ユリウスも頷く。アーデルハイトも、静かに視線を落とした。全員が同じ方向を見ている。珍しい。だから今しかない。


会議の文言は整えられていく。


“立証不能のため差し戻し”

“供述採取停止”

“資料採否留保”

“兵站監査対象指定”

“調達権一時停止(暫定)”


断罪の文言は無い。誰の名も吊らない。吊らなければ、反撃の矛先は散る。散ると、狙いが定まらない。狙いが定まらない反撃は、鈍い。


准将は最後にだけ、苦い顔で言った。


「……この結論は、軍としては“負け”ではないと言えるのか」


ユリウスが答えた。短い。


「負けではない。事故を防いだだけだ」


事故を防ぐ。軍は事故が嫌いだ。事故は責任の押し付け合いになるからだ。だから“事故防止”に寄せると、全員が黙る。


会議は閉じられた。


拍手も、歓声もない。

その静けさが、良い。


――


宰相府へ戻る道すがら、ユリウスは一度も「勝った」と言わなかった。言えば軽くなる。軽くなれば、次の手が入る。


リリアナも「よかった」とは言わない。よかったと言った瞬間、誰かの“よくない”が浮かぶ。浮かんだよくないは、こちらの足を掴む。


代わりに、宰相がぽつりと言った。


「反撃の矛先は消した。だが相手は矛先を変える」


「変えるなら、別件ですね」


リリアナが淡々と言うと、ユリウスが頷いた。


「来る。必ず来る。足を止めに来る」


その時、馬車の窓が叩かれた。夜の叩き方は、いい知らせではない。伝令の息が白い。白い息は急ぎの証拠だ。


「王太子殿下。至急、ご出席を」


ユリウスが目を細める。


「どこへ」


伝令は言いにくそうに、しかしはっきり言った。


「王宮です。議会ではなく、評議会の臨時招集。名目は“国境警備の増員”ですが……会計監督官室が同席します」


宰相の目がわずかに動いた。

会計。監督官室。軍の調達権停止と、繋がる。繋がるなら、ここが“別件”の顔をした本命だ。


ユリウスが一瞬だけ黙り、それから短く言った。


「来たな」


リリアナは心の中で紙を一枚足した。

今夜潰したのは、軍の運用。

次に止めに来るのは、王太子の足。足が止まれば、手続は止まる。手続が止まれば、また速さが戻る。


だから次は、足を止めさせない戦いになる。


馬車が曲がり、王宮の灯りが近づく。灯りは暖かいのに、胃が冷える。

冷えるのは、相手が“別件”の顔で来るからだ。別件は正面から殴れない。正面から殴れないものほど、厄介だ。


ユリウスが窓の外を見たまま言った。


「リリアナ」


「はい」


「信仰を否定しない。根拠にしない。次も同じ線で行く」


釘を刺される側ではなく、刺す側が確認する。

それが王太子の成長だ。だから、この線は折れない。


リリアナは軽く頷いた。


「同じ線で。紙で止めます」


馬車が止まる。

扉が開く。

今夜の戦いは終わっていない。形を変えただけだ。


そして相手は、もう“軍法会議”では止まらない場所へ引きずろうとしている。

勝った、とは言いません。

軍の裁きは、勝敗で語るとすぐに次の刃が生まれるからです。


今回止めたのは、誰か一人の悪意ではなく、便利な運用でした。

早く終わらせるために、紙を整え、声を揃え、原本を消して、都合のいい物語を成立させる。

それが一度でも通ると、次はもっと簡単に人が潰れます。


だから結論は「罪がない」ではなく、「立証できない」。

白黒をつけるのではなく、つけられない形にして、同じ手が二度と使えないようにする。

拍手は起きません。けれど、拍手が起きない方がいい時もあります。


ただ、止められたからといって、敵が消えるわけではありません。

次は、もっと静かに、別件の顔をして足を止めに来ます。


王宮で待っているのは、軍ではなく、金と権限の話です。

――そして、紙はまた一枚増えます。

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