第十二話 誰も断罪しないが逃げ道は塞ぐ
憲兵詰所の廊下は、寒いのに汗の匂いがした。急いで動く人間がいる場所の匂いだ。急ぎは、だいたい誰かの都合で生まれる。
拘束された娘――レオンの妹だと名乗った子は、板張りの椅子に座らされていた。肩が小さく震えている。泣き声は出していない。出せない顔だ。泣いたら、負けると思っている顔。
憲兵の班長が、硬い礼をした。
「王太子殿下、宰相閣下。こちらは――」
「形式はいい」
ユリウスの声は短い。短い時は、怒りが混じっている。怒りは武器にもなるが、暴れると相手の思うつぼになる。だから短く切る。
リリアナは娘の手元を見た。縄はない。だが両手は膝の上で重なり、指が白い。拘束は縄じゃない。空気でできる。
「拘束の根拠文書は」
班長が一瞬だけ詰まる。詰まるのは、紙が薄い時だ。
「事情聴取です。拘束ではなく――」
「“事情聴取”の開始時刻、命令者、立会者。記録」
リリアナは淡々と言った。声を荒げない。荒げると“揉めている”になる。揉めると、その間に人は折れる。
班長は渋々、机の引き出しから紙束を出した。薄い。薄すぎる。薄い紙は、誰かを守るために作られていない。
宰相ヴィルヘルムが目を通す。
「命令者の欄が空白だ」
班長が言い訳を探す前に、ユリウスが言った。
「空白なら、無効だ。帰す」
「殿下、それは……軍の捜査で――」
「軍の捜査でも、王都で民間人を押さえるなら手続が要る」
ユリウスは机を叩かない。叩かないから怖い。
「命令者が書けないなら、命令は存在しない。存在しない命令で人は動かせない」
班長の喉が動いた。動いたが、言葉が出ない。言葉が出ない時、人は紙を頼る。だがこの班長の紙は、頼れない。
アーデルハイトが静かに前に出た。
「班長。あなたが悪いとは言わない。だが続けるなら、あなたの名前が残る。残った名前は、後で守ってくれない」
班長の顔色が変わる。現場の人間は、そこに敏感だ。守られないのは怖い。
リリアナは娘へ視線を向けた。
「名前」
娘は小さな声で名乗った。声は揺れているのに、言葉ははっきりしていた。揺れても折れてはいない。そこだけが救いだ。
「帰れるようにします。いまのうちに、ここで言わないでいいことは言わないでください」
娘は目を見開いた。優しい言葉ではない。だが、守り方の言葉だ。
リリアナは班長へ戻す。
「この“事情聴取”は中止。記録は封印して保管。封印番号を書いて。立会者二名。今ここで」
班長が戸惑う。
「封印……?」
「後で誰かが“無かったこと”にするから」
リリアナは淡々と言った。
「無かったことにされると、あなたが困る。だから、今ここで“在った”にする」
班長の目が一瞬だけ泳いで、そして諦めたように頷いた。封印具が出てくる。封印印が押される。番号が書かれる。立会者の署名が入る。
紙の上に、ようやく痕跡が立つ。
ユリウスが娘の方を向いた。
「帰れ。今夜は外へ出るな。門番にはこちらから話す」
娘は立ち上がり、深く頭を下げた。泣かないまま出ていく背中は、危うい。泣かないのは強さではなく、余裕の無さでもある。
扉が閉まった瞬間、宰相が低く言う。
「脅しだ。被告が折れないから周辺を折る。典型だな」
「典型なら、典型の弱点があります」
リリアナは封印番号を控えながら言った。
「典型は紙を急ぐ。急いだ紙は穴が空く」
ユリウスが頷く。
「会議へ戻る。今夜、決める」
決める、と言ったが“勝つ”とは言わない。勝てる形ではない。勝つと誰かが負ける。負けた側は、次の刃を研ぐ。だからここでは、刃を持たせない。
――
軍法会議の準備室は、整っていた。整いすぎている部屋は、危ない。整っているのは、結論が先にあるからだ。
卓上に資料が並ぶ。兵站台帳、出庫立会記録、輸送隊の行軍記録、門の発行台帳、保管ログ。紙が厚い。厚い紙は嘘に向かない。だが“厚い嘘”は作れる。作れるから、こちらも厚く固める。
准将が硬い顔で言う。
「殿下の通達により、神殿付記は封印保管としました。会議では扱いません」
言い方が丁寧すぎる。丁寧な時は、腹に物がある。だが今は踏まない。踏むと、余計な火種になる。
ユリウスが席に座る。椅子のきしみが小さく鳴った。軍の椅子は頑丈だ。頑丈な椅子は、人を押し潰すのに向いている。
リリアナは前に出ない。前に出ると、相手の矛先が自分になる。今日は矛先を消す日だ。
アーデルハイトが開会の確認をし、宰相が淡々と告げた。
「本件は、結審の前提を欠く。まずそこから始める」
准将が眉を動かす。
「前提?」
宰相は淡々と答えた。
「立証だ。軍の秩序は速さで守れる。だが速さは、成立の代わりにはならない」
准将が反射で言い返しそうになり、飲み込んだ。飲み込んだ時点で、こちらの勝ち筋が見える。反論しないのは納得ではない。反論できない形にしただけだ。
アーデルハイトが資料を開く。
「まず確認する。軍需品横流しの“物の流れ”が、記録上成立していない」
淡々と、順番に置く。感情は挟まない。感情は争点を作る。
「兵站の出庫記録は存在する。しかし輸送隊の通行札番号が門の発行台帳に存在しない。存在しない札で通過はできない。通過できないなら、出庫品は目的地へ届かない」
准将が唇を結ぶ。軍は“できない”を嫌う。嫌うのに、嫌でも認めざるを得ない形ができている。
次に、リリアナが控えた封印印の照合が提示される。印影の癖が複数箱で一致している。まとめ押し。現場ではなく机の時間。
宰相が一言だけ添える。
「つまり、現場の手ではない」
准将が言った。
「それは推測だ」
すぐに食いつく。推測と言えば逃げられると思ったのだろう。ここからが腕の見せどころだ。
リリアナは静かに、机の端に置いてあった一枚を滑らせた。前に出ない。紙だけ出す。
アーデルハイトがそれを拾い、読み上げる。
「保管ログ。封印具の貸出記録。貸出時刻、返却時刻、担当者名。封印具が当該時間帯に兵站庫に存在しない」
准将の顔が、少しだけ硬くなる。推測を潰すのは、別の記録だ。記録は記録で殴る。
宰相が淡々と言う。
「推測ではない。成立条件が欠けている」
ここで、ユリウスが口を開いた。短い。短いから重い。
「本件は、立証不能だ」
“罪不成立”ではない。そこが肝だ。軍にとって、罪不成立は“誰かが守られた”になる。守られたと感じた瞬間、反発が起きる。立証不能は違う。“処理ができない”だ。軍は処理できないものを嫌う。嫌うから、無理に処理して事故を起こす。事故を起こさせないために、先に止める。
准将が苦い顔で言う。
「立証不能なら、会議はどうなる。軍は――」
「差し戻し」
宰相が淡々と切った。
「軍の面子を潰さない。結論も出さない。出せない。だから差し戻す。必要なのは“結論”ではなく“手続の整備”だ」
准将が言葉を探す。
「では、被告はどうなる」
ユリウスが答える。
「現時点で、結審に値しない。拘束の継続は、会議の正当性を損なう。医務官記録もある。供述採取は停止。拘束は緩和し、隔離保全へ切り替えろ」
隔離保全。言い方が大事だ。解放と言えば軍が反発する。隔離保全なら“秩序の中”に置ける。言葉は枠だ。枠を作れば、暴れにくくなる。
准将が渋い顔で頷く。
「……承知した。しかし、誰がこのような記録を整えた。責任は」
ここで、罠が開く。責任を求める顔は、誰かを悪党にしたい顔だ。悪党にすれば、話は終わる。終わるが、刃が残る。残った刃は次に向く。
だから、悪党を作らない。
リリアナは前を見たまま、軽く言った。
「責任の所在を確定するには、もう一段の調査が要ります」
“要ります”。断言しない。断罪しない。だが逃がさない。
「ただし、運用は止められます」
宰相が続ける。
「兵站側は監査対象に指定する。兵站庫の原本保管、封印具管理、出納記録、書式支援の受領履歴。監査局ルートで押さえる」
准将が反射で言う。
「兵站は軍の中だ。外部が――」
ユリウスが淡々と、線を引いた。
「外部ではない。王太子付の再審整備の権限だ。秩序のためだ。軍の秩序を守るための監査だ。拒むなら、軍は自分の秩序を守れないと宣言することになる」
准将は口を閉じた。閉じるしかない。閉じると、紙が通る。
宰相が最後の釘を打つ。
「そして、調達権を一時停止する」
空気が変わる。そこは軍の胃袋だ。胃袋を止めるのは痛い。痛いが、殺さない止め方でもある。止めるのは“運用”だけ。兵が飢える手前で止める。だから政治になる前に、手続で止める。
准将が声を低くする。
「調達権停止は、現場が回らなくなる」
「回らないなら、回る形に作り直せ」
ユリウスの声は冷たい。
「同じ手で回る現場は、同じ手で壊れる。壊れる仕組みは、一度止めて直すしかない」
リリアナはそのやり取りを聞きながら、静かに思う。これが“勝利”ではない。勝利なら拍手が起きる。だが拍手は起きない。起きない方がいい。拍手が起きると、誰かの恨みが生まれる。
いま欲しいのは、恨みの矛先が立たないことだ。
だからリリアナは、最後に一言だけ足した。
「誰か一人の悪意で起きたとは、断定しません」
准将が目を向ける。
「断定しない?」
「断定すると、そこで終わるからです」
リリアナは淡々と言った。
「終わらせたい人がいます。終わらせれば、同じ運用が別の場所で繰り返せる。だから終わらせない。運用だけを殺す」
宰相が頷いた。ユリウスも頷く。アーデルハイトも、静かに視線を落とした。全員が同じ方向を見ている。珍しい。だから今しかない。
会議の文言は整えられていく。
“立証不能のため差し戻し”
“供述採取停止”
“資料採否留保”
“兵站監査対象指定”
“調達権一時停止(暫定)”
断罪の文言は無い。誰の名も吊らない。吊らなければ、反撃の矛先は散る。散ると、狙いが定まらない。狙いが定まらない反撃は、鈍い。
准将は最後にだけ、苦い顔で言った。
「……この結論は、軍としては“負け”ではないと言えるのか」
ユリウスが答えた。短い。
「負けではない。事故を防いだだけだ」
事故を防ぐ。軍は事故が嫌いだ。事故は責任の押し付け合いになるからだ。だから“事故防止”に寄せると、全員が黙る。
会議は閉じられた。
拍手も、歓声もない。
その静けさが、良い。
――
宰相府へ戻る道すがら、ユリウスは一度も「勝った」と言わなかった。言えば軽くなる。軽くなれば、次の手が入る。
リリアナも「よかった」とは言わない。よかったと言った瞬間、誰かの“よくない”が浮かぶ。浮かんだよくないは、こちらの足を掴む。
代わりに、宰相がぽつりと言った。
「反撃の矛先は消した。だが相手は矛先を変える」
「変えるなら、別件ですね」
リリアナが淡々と言うと、ユリウスが頷いた。
「来る。必ず来る。足を止めに来る」
その時、馬車の窓が叩かれた。夜の叩き方は、いい知らせではない。伝令の息が白い。白い息は急ぎの証拠だ。
「王太子殿下。至急、ご出席を」
ユリウスが目を細める。
「どこへ」
伝令は言いにくそうに、しかしはっきり言った。
「王宮です。議会ではなく、評議会の臨時招集。名目は“国境警備の増員”ですが……会計監督官室が同席します」
宰相の目がわずかに動いた。
会計。監督官室。軍の調達権停止と、繋がる。繋がるなら、ここが“別件”の顔をした本命だ。
ユリウスが一瞬だけ黙り、それから短く言った。
「来たな」
リリアナは心の中で紙を一枚足した。
今夜潰したのは、軍の運用。
次に止めに来るのは、王太子の足。足が止まれば、手続は止まる。手続が止まれば、また速さが戻る。
だから次は、足を止めさせない戦いになる。
馬車が曲がり、王宮の灯りが近づく。灯りは暖かいのに、胃が冷える。
冷えるのは、相手が“別件”の顔で来るからだ。別件は正面から殴れない。正面から殴れないものほど、厄介だ。
ユリウスが窓の外を見たまま言った。
「リリアナ」
「はい」
「信仰を否定しない。根拠にしない。次も同じ線で行く」
釘を刺される側ではなく、刺す側が確認する。
それが王太子の成長だ。だから、この線は折れない。
リリアナは軽く頷いた。
「同じ線で。紙で止めます」
馬車が止まる。
扉が開く。
今夜の戦いは終わっていない。形を変えただけだ。
そして相手は、もう“軍法会議”では止まらない場所へ引きずろうとしている。
勝った、とは言いません。
軍の裁きは、勝敗で語るとすぐに次の刃が生まれるからです。
今回止めたのは、誰か一人の悪意ではなく、便利な運用でした。
早く終わらせるために、紙を整え、声を揃え、原本を消して、都合のいい物語を成立させる。
それが一度でも通ると、次はもっと簡単に人が潰れます。
だから結論は「罪がない」ではなく、「立証できない」。
白黒をつけるのではなく、つけられない形にして、同じ手が二度と使えないようにする。
拍手は起きません。けれど、拍手が起きない方がいい時もあります。
ただ、止められたからといって、敵が消えるわけではありません。
次は、もっと静かに、別件の顔をして足を止めに来ます。
王宮で待っているのは、軍ではなく、金と権限の話です。
――そして、紙はまた一枚増えます。




