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「断罪の令嬢 ― 弁護士の記憶が織りなす逆転劇」  作者: 月白ふゆ
第三章

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第二話 被告は貴族ではない

兵舎は、朝が早い。

早いというより、勝手に始まる。


まだ暗さが残っている時間に起床の号令がかかり、足音が廊下を走り、金具の鳴る音が一斉に増える。誰かが咳をすれば、すぐに別の咳が追いかけてくる。人の気配が濃いのに、妙に孤独だ。


レオン・ハルツがいなくなった寝台は、すぐに空きではなくなる。空きというのは目立つからだ。目立つものは嫌われる。嫌われると、余計な噂の居場所になる。


だから、誰かが無言で荷物を寄せた。

毛布を畳み直し、枕の位置を揃え、空気を「いつも通り」に戻す。

いつも通りに戻すのが、兵舎の生存術だ。


ただ、戻りきらないものがある。


視線だった。


朝の点呼で、班長が名簿を読み上げる。

いつもなら、同じ調子で、同じ声で、同じテンポだ。

だが今日は、ほんの少しだけ間があいた。


「……レオン・ハルツ」


返事はない。

それは当たり前なのに、空気が一瞬だけ止まった。


班長は、目を上げずに淡々と言った。


「欠。理由は上から降りる。余計なことは言うな」


余計なこと。

この言葉が出た時点で、理由はだいたい決まっている。


誰かが何かをやらかした。

それを、部隊全体に染み込ませたくない。

だから余計なことは言うな。


言うなと言われると、人は言いたくなる。

言いたくなるから、口を閉じる。

閉じた口から、噂だけが出る。


点呼が終わると、兵たちは散る。

散り方にも癖がある。

今日は、レオンの近くにいた連中が、微妙に距離を置かれていた。


誰も露骨には避けない。

露骨に避けると、避けた側が目立つ。

目立つのは損だ。


損をしない避け方がある。

返事を短くする。

目を合わせない。

同じ列に並ばない。

冗談を言わない。


それだけで、十分に伝わる。


「……聞いたか」


食堂の隅で、誰かが小声で言った。

相手も小声で返した。


「横流しだってよ」


「レオンが?」


「知らねぇよ。だって上が動いてる」


上が動いている。

この一言が、兵舎の中では答えになる。


上が動く時点で、下は勝てない。

勝てないなら、巻き込まれない方がいい。

巻き込まれないためには、疑わない。従う。


それが空気になる。


「でも、あいつ、そんな器用じゃなくね」


別の兵が、笑うでもなく言った。


「器用じゃないからやらされたんだろ」


「誰に」


「知らねぇ。知ろうとすんな。疑うな」


疑うな。

その言葉が出ると、会話は終わる。


疑う、という行為は勇気じゃない。

この場所では、危険だ。


危険だから、誰も本気で疑わない。

疑わないふりをして、生き延びる。


レオンが消えたのは、そういう場所だった。



───


レオンの身寄りは薄い。


兵舎に来た時から、皆うっすら知っていた。

休暇を取っても帰る場所がない。

手紙はほとんど来ない。

荷物も少ない。


本人が語ったことはないが、語らないことが答えだった。


徴兵ではなく志願兵として入ったのも、理由は分かりやすい。

飯が出る。寝床がある。

規律があるぶん、明日の心配が少ない。


兵舎では、それは珍しくない。

珍しくないから、気にされない。

気にされないから、守られない。


貴族なら、家が動く。

金が動く。

縁が動く。

上官も慎重になる。


だがレオンには、動く家がない。

だから動くのは、書類だけだ。


そして書類は、人を守らない。



───


昼前、補給中隊の庁舎に呼び出しがかかった。


呼び出されたのは、レオンの班の班長と、隣の班の副班長、それから補給庫の鍵の管理に関わっていた古参兵が二人。

顔ぶれがいやに「手順」だった。

偶然ではなく、必要な部品。


庁舎の会議室は狭い。

狭いのに、椅子だけは揃っている。

揃っている椅子は「逃げるな」という形を作る。


上官が席に着く。

肩章が重い。

目は軽い。軽いというのは感情がないという意味だ。


「諸君」


上官は、あいさつをしない。

あいさつをするのは人間だ。

彼は、秩序の口になっている。


「昨夜、補給庫から軍需品が消えた。横流しの疑いが濃厚だ」


班長が息を呑む。

古参兵が目を伏せる。

副班長は、反射で背筋を伸ばした。


「犯人は既に拘束した。レオン・ハルツ」


そこで空気が凍る。


上官は続けた。


「今の段階で、部隊の内側に余計な波を立てるな」


余計な波。

つまり、噂を止めろということだ。


だが噂は止まらない。止めるほど増える。

だから実際に止めたいのは噂ではない。

疑いの矛先だ。


「彼は単独でやったことにしてある」


上官は、平然と言った。


班長が思わず口を開く。


「……に、してある、とは」


その瞬間、上官の目が少しだけ動いた。


「言葉尻を取るな。秩序のためだ」


秩序。

この言葉が出ると、議論は終わる。


「単独か複数かは、軍法会議が決める。だが、我々は部隊を守る」


部隊を守る。

誰を守るとは言っていない。

守る対象は、兵士の人生ではなく、部隊の体面だ。


上官は紙束を一つ机の上に置いた。

見るだけで分かる。調書の下書きだ。


「証言を整える。お前たちは必要な部分だけ答えろ」


班長が、喉を鳴らす。


「答えろ、と言われても、我々は昨夜――」


「昨夜、レオンが鍵を持っていた。お前はそれを確認した。そうだな」


上官は、確認ではなく指定の口調で言った。


班長は、硬直した。


「……当番票上は」


「当番票上ではない。確認したか、していないかだ」


班長は唇を噛む。

彼の頭の中では、二つの計算が走っている。


一つは真実。

もう一つは生存。


真実を言って、部隊の空気に逆らうとどうなるか。

自分が次の“余計な波”になる。


「……確認しました」


喉が勝手に動いた。

その声は、彼自身の声なのに、誰かに言わされているみたいだった。


上官は頷く。


「よろしい。副班長は門衛の記録と合致する時間帯に、レオンが庫の前にいたことを見た。そうだな」


副班長は、反射で答えそうになり、途中で止まった。


「……見た、というか、通りかかっただけで」


上官の目が動く。


「通りかかっただけで十分だ。見たのなら見た。余計な説明は不要だ」


余計な説明は不要。

説明があると、矛盾が生まれる。

矛盾が生まれると、調書が汚れる。

汚れると、結論が遅くなる。


遅くなるのが嫌だから、説明を削る。


削られた後に残るのは、整った「見た」だ。


副班長は、短く言った。


「……見ました」


上官は満足した顔をしない。

満足は人間の感情だ。

彼は、次の項目へ進む。


「古参兵A。庫の鍵の受け渡し手順。レオンが独断で鍵を持ち出すことは可能だった、そうだな」


古参兵Aは汗をかいていた。

可能だった、という言い方が嫌だ。

可能と言った瞬間に、可能が罪に近づく。


「手順上は、上官の許可が――」


上官が遮る。


「可能だったか」


古参兵Aは、肩を落とした。


「……可能でした」


上官が頷く。


「よろしい。古参兵B。レオンは最近、金回りがよくなったように見えたか」


金回り。

この質問は、もう結論を呼ぶ。


古参兵Bは、瞬きをした。


「分かりません。彼は元々、無駄遣いを――」


「見えたか」


また遮られる。


古参兵Bは、喉を鳴らした。

これを否定すると、自分が疑われる。

肯定すると、レオンは終わる。


どっちが安全か。

安全なのは、上官に合わせる方だ。


「……少し、そう見えました」


上官は頷き、紙束を閉じた。


「これで十分だ。明日、軍法会議が開かれる」


明日。

全員が息を呑む。


班長が震える声で言った。


「明日ですか。こんなに早く」


上官は、当然のように言った。


「軍は速い。遅い裁きは秩序を腐らせる」


腐らせるのは秩序ではなく、人の未来だ。

だが、その言葉は誰の口にもならない。


上官は最後に釘を刺す。


「いいか。部隊の体面が最優先だ。

 余計なことを言えば、お前たちも疑われる。

 疑われれば、部隊全体が疑われる。

 それは許されない」


許されない。

この場所で許されないと言われると、本当に許されない。


会議室を出る足取りは重かった。

だが、重い足取りのまま廊下を歩くこともできない。

廊下では「いつも通り」に歩かなければいけない。

いつも通りが、兵舎の鎧だ。



───


兵舎に戻ると、空気が変わっていた。


変わっていないように見せる空気。

つまり、変わっている。


班長は部下たちの視線を避けながら言った。


「余計なことは言うな。命令だ」


命令。

命令が出た瞬間、兵舎は安心する。

考えなくていいからだ。


だが、考えなくていい空気ほど怖い。


誰かが、小声で言った。


「……レオン、明日らしい」


「明日って」


「軍法会議」


その言葉が伝播すると、笑いが消えた。

笑いが消えると、生活の音が目立つ。

箸の音。靴紐の音。布の擦れる音。


そして、目線の音。


昼食の列で、レオンと同じ班だった若い兵が、前の兵の背中を見つめながら呟いた。


「俺、昨日、話したんです。普通だった。変な感じ、なかった」


隣の兵が即座に返す。


「普通に見える奴がやるんだよ。疑うな」


疑うな。

従え。

この二つがセットで出ると、心は閉じる。


若い兵は唇を噛んだ。


「でも、あいつ、身寄りないし。弁明とか――」


その言葉を、古参兵が切り捨てる。


「弁明の場はある。軍法会議がそれだ」


「でも明日じゃ」


「だからだ。明日で終わる」


終わる。

終わる、という言い方が怖い。


終わるというのは、決まるという意味だ。

決まるというのは、戻れないという意味だ。


若い兵は、それ以上言わなかった。

言えば、自分が目立つ。

目立てば、巻き込まれる。


巻き込まれたくない。


その感情が、兵舎を一つにする。

一つになるというのは、同じ方向へ流されるということだ。



───


その頃、レオンは窓のない部屋にいた。


時間の感覚が薄い。

食事は出るが、味がしない。

水は出るが、喉が潤わない。


向かいの椅子には、記録係が座っている。

神殿文書局の灰の外套。

ペン先は、いつでも動ける位置にある。


「明日です」


記録係が、穏やかに言った。


レオンは笑いそうになった。

笑える状況じゃないのに、笑いそうになる。

壊れかけると、人は変になる。


「明日、って」


声が掠れている。


「俺、誰に頼めばいいんだ」


記録係は首を傾げた。


「頼む?」


「弁明させてくれる人とか、相談とか。家とか」


家。

その言葉が出た瞬間、記録係の目が一瞬だけ止まる。

止まるのは、記録係にとって重要な情報だからだ。


「あなたには、後見となる家がない」


記録係は確認ではなく、結論として言った。


「つまり、あなたの言葉だけが材料です」


材料。

人の言葉が材料。

材料は切られる。削られる。整えられる。


レオンは喉を鳴らした。


「俺の言葉だけなら、俺が言えば――」


記録係は穏やかに遮る。


「長い言葉は嫌われます。

 軍法会議は、秩序を回復する場です。説明の場ではない」


説明の場ではない。

弁明の場ではない。

だったら、何の場だ。


レオンが黙ると、記録係はペンを置き、優しい声で言った。


「あなたは不利です」


優しい声ほど残酷なことがある。


「不利、って」


「身寄りがない。後見がない。推薦もない。

 あなたを守るのは、あなたの供述だけ」


レオンは笑いそうになった。

供述だけが守る。

だが供述は整えられる。

整えられた供述は、守るのではなく、終わらせる。


「……どうすればいい」


レオンが絞り出すと、記録係は、待ってましたみたいに紙を一枚ずらした。


そこには、三つの選択肢が書かれている。

昨日と同じだ。

無実の欄には、落ち度が付いている。


「あなたが無実だと言うなら」


記録係は淡々と続けた。


「鍵の管理の落ち度を認めてください。

 それなら、軍としても扱いやすい。

 扱いやすいなら、処分は軽くできます」


扱いやすい。

またその言葉。


「処分は軽く、って」


レオンは言い返したいのに、喉が動かない。

軽い処分でも、人生は終わることがある。

終わった後に、誰が拾う。身寄りがないのに。


記録係は、微笑まない。

微笑むと感情が入る。

感情が入ると、支援が支援でなくなる。


「あなたは、部隊の体面を壊せません」


淡々とした一言が、胸に刺さった。


体面。

彼の人生より、部隊の体面が重い。

それが現実だ。


「俺、売ってない」


レオンは繰り返した。

繰り返すことしかできない。


記録係は、頷く。


「では、あなたは誰かに利用された」


利用された。

それなら、レオンは被害者になる。

でも、同時に“何かが起きた”ことは認める形になる。


「……誰が」


レオンは問う。


記録係は、穏やかに言った。


「あなたが言うべきです。

 言わないなら、あなたが主犯です」


主犯。

その言葉が、喉を凍らせた。


「主犯じゃない」


「なら、脅された」


レオンは、拳を握った。

握るしかできない。


「脅されてない」


「なら、あなたは自発的にやった」


三つの道があるように見せて、行き先は同じだ。

罪の欄に落ちる。


レオンは、椅子の背に体を預けた。

硬い。逃げ場がない。


「……俺、家族いないんだ」


ぽつりと言うと、部屋が一瞬だけ静かになる。


記録係は、その静けさを利用しない。

利用しないふりをして、淡々と言った。


「だから、早く終わらせた方がいい」


早く終わらせた方がいい。

それは優しさの形をした、締め付けだ。


「終わらせるって、何を」


「手続きを」


記録係は言う。


「軍は手続きで動きます。

 あなたが抵抗すればするほど、手続きはあなたを潰す」


潰す。

ようやく、正直な言葉が出た。


レオンは、唇を噛んだ。

血の味がした。



───


夕方、部隊の上官が一度だけ、尋問室に顔を出した。


それは見舞いではない。

確認だ。


上官は椅子に座らず、立ったまま言った。


「明日だ」


レオンは答えない。

答えれば、何かが壊れる。


上官は続ける。


「部隊の体面を考えろ。

 お前が変な抵抗をすれば、周りが迷惑する」


迷惑。

迷惑という言葉が、人を一番動かす。

迷惑をかけたくない、という感情は、身寄りがない者ほど強い。


誰も守ってくれない。

だからせめて、誰にも嫌われないようにする。

その癖が、ここで首を絞める。


上官は、静かに言った。


「正直に言えば軽くなる。

 正直に言わなければ重くなる」


正直。

正直とは何だ。

真実ではない。上官が望む形だ。


記録係が、ペンを持ち上げる。

ペン先が光る。


「では、供述を整えましょう」


レオンの喉が鳴る。


「……整えるな」


小さく言ったつもりだった。

しかし記録係は、聞こえない顔をした。


上官が言う。


「今夜中だ。

 明日の軍法会議で、お前が何を言うかは重要じゃない。

 重要なのは、調書が整っていることだ」


重要なのは、調書。

人ではなく紙。


レオンの視界が揺れる。

身体が熱いのに、指先が冷たい。


「……俺が、やったって言えば」


声が震えた。


上官は即答する。


「終わる」


終わる。

その言葉が、甘く聞こえた瞬間があった。

終わらせたい。苦しい。怖い。寒い。眠れない。


終わるなら、楽だ。


その甘さが、一番危ない。


記録係は、穏やかに言った。


「自白、という形で整えれば、説明は短くできます。

 短い説明は、疑われません」


疑われない。

兵舎の空気が求めているのは、それだ。


疑われないこと。

疑われなければ、迷惑をかけない。

迷惑をかけなければ、嫌われない。

嫌われなければ、生きていける。


生きていける。

……本当に?


レオンは、自分の手を見た。

震えている。

震えている手で、未来を掴める気がしなかった。


上官が、最後に言った。


「選べ。

 主犯にされたいか。

 利用された被害者で終わりたいか」


選べ。

選べと言われると、人は自由だと錯覚する。

だが、選べるのは落ち方だけだ。


記録係が紙を差し出した。

そこには既に文がある。

空欄は、名前と日時と、最後の署名だけ。


レオンは、喉の奥で息が詰まる音を聞いた。

自分の中で何かが折れる音に似ていた。


「……俺は」


言葉が出ない。

出ない間に、時間だけが削られていく。


記録係が、穏やかに促す。


「あなたが言葉を選ばないなら、こちらが整えます」


整える。

その言葉が、もう刃にしか聞こえなかった。


上官が扉に手をかけ、振り返らずに言った。


「今夜中だ。

 明日まで、残すな」


扉が閉まる。


窓のない部屋に、紙の白さだけが残る。

白い欄は、まだ埋められていない。

だが、埋めるのはレオンの言葉ではなく、速さと空気だ。


レオンは、ペンを見た。


ペンを持てば終わる。

持たなければ、もっとひどい終わりが来る。


そうやって追い込まれる形が、最初から整っていた。


そして今、いよいよ始まる。

“自白”という、最も速い結論が。

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― 新着の感想 ―
だめだ、だめだよ。 折れちゃだめだ。整えさせちゃだめだ。 選択肢が在るように見えて、そこに選択は無い。 見え方を変えた「自白」が3通り、並んでいるだけだ。 傍で見るにはこれほどあからさまなのに、拒否し…
レオン! 犯人は今君の目の前にいる記録係だ! 明らかに誘導してる、心を強く持って・・・。
あけましておめでとうございます。 うちの部署に、うちの抱える案件に、より多くの予算を、より強い権限を。 そう考えている役人や神官や軍人が複数あちこちに居て、利害が一致して、この様な状況を作っている。…
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