第二話 被告は貴族ではない
兵舎は、朝が早い。
早いというより、勝手に始まる。
まだ暗さが残っている時間に起床の号令がかかり、足音が廊下を走り、金具の鳴る音が一斉に増える。誰かが咳をすれば、すぐに別の咳が追いかけてくる。人の気配が濃いのに、妙に孤独だ。
レオン・ハルツがいなくなった寝台は、すぐに空きではなくなる。空きというのは目立つからだ。目立つものは嫌われる。嫌われると、余計な噂の居場所になる。
だから、誰かが無言で荷物を寄せた。
毛布を畳み直し、枕の位置を揃え、空気を「いつも通り」に戻す。
いつも通りに戻すのが、兵舎の生存術だ。
ただ、戻りきらないものがある。
視線だった。
朝の点呼で、班長が名簿を読み上げる。
いつもなら、同じ調子で、同じ声で、同じテンポだ。
だが今日は、ほんの少しだけ間があいた。
「……レオン・ハルツ」
返事はない。
それは当たり前なのに、空気が一瞬だけ止まった。
班長は、目を上げずに淡々と言った。
「欠。理由は上から降りる。余計なことは言うな」
余計なこと。
この言葉が出た時点で、理由はだいたい決まっている。
誰かが何かをやらかした。
それを、部隊全体に染み込ませたくない。
だから余計なことは言うな。
言うなと言われると、人は言いたくなる。
言いたくなるから、口を閉じる。
閉じた口から、噂だけが出る。
点呼が終わると、兵たちは散る。
散り方にも癖がある。
今日は、レオンの近くにいた連中が、微妙に距離を置かれていた。
誰も露骨には避けない。
露骨に避けると、避けた側が目立つ。
目立つのは損だ。
損をしない避け方がある。
返事を短くする。
目を合わせない。
同じ列に並ばない。
冗談を言わない。
それだけで、十分に伝わる。
「……聞いたか」
食堂の隅で、誰かが小声で言った。
相手も小声で返した。
「横流しだってよ」
「レオンが?」
「知らねぇよ。だって上が動いてる」
上が動いている。
この一言が、兵舎の中では答えになる。
上が動く時点で、下は勝てない。
勝てないなら、巻き込まれない方がいい。
巻き込まれないためには、疑わない。従う。
それが空気になる。
「でも、あいつ、そんな器用じゃなくね」
別の兵が、笑うでもなく言った。
「器用じゃないからやらされたんだろ」
「誰に」
「知らねぇ。知ろうとすんな。疑うな」
疑うな。
その言葉が出ると、会話は終わる。
疑う、という行為は勇気じゃない。
この場所では、危険だ。
危険だから、誰も本気で疑わない。
疑わないふりをして、生き延びる。
レオンが消えたのは、そういう場所だった。
───
レオンの身寄りは薄い。
兵舎に来た時から、皆うっすら知っていた。
休暇を取っても帰る場所がない。
手紙はほとんど来ない。
荷物も少ない。
本人が語ったことはないが、語らないことが答えだった。
徴兵ではなく志願兵として入ったのも、理由は分かりやすい。
飯が出る。寝床がある。
規律があるぶん、明日の心配が少ない。
兵舎では、それは珍しくない。
珍しくないから、気にされない。
気にされないから、守られない。
貴族なら、家が動く。
金が動く。
縁が動く。
上官も慎重になる。
だがレオンには、動く家がない。
だから動くのは、書類だけだ。
そして書類は、人を守らない。
───
昼前、補給中隊の庁舎に呼び出しがかかった。
呼び出されたのは、レオンの班の班長と、隣の班の副班長、それから補給庫の鍵の管理に関わっていた古参兵が二人。
顔ぶれがいやに「手順」だった。
偶然ではなく、必要な部品。
庁舎の会議室は狭い。
狭いのに、椅子だけは揃っている。
揃っている椅子は「逃げるな」という形を作る。
上官が席に着く。
肩章が重い。
目は軽い。軽いというのは感情がないという意味だ。
「諸君」
上官は、あいさつをしない。
あいさつをするのは人間だ。
彼は、秩序の口になっている。
「昨夜、補給庫から軍需品が消えた。横流しの疑いが濃厚だ」
班長が息を呑む。
古参兵が目を伏せる。
副班長は、反射で背筋を伸ばした。
「犯人は既に拘束した。レオン・ハルツ」
そこで空気が凍る。
上官は続けた。
「今の段階で、部隊の内側に余計な波を立てるな」
余計な波。
つまり、噂を止めろということだ。
だが噂は止まらない。止めるほど増える。
だから実際に止めたいのは噂ではない。
疑いの矛先だ。
「彼は単独でやったことにしてある」
上官は、平然と言った。
班長が思わず口を開く。
「……に、してある、とは」
その瞬間、上官の目が少しだけ動いた。
「言葉尻を取るな。秩序のためだ」
秩序。
この言葉が出ると、議論は終わる。
「単独か複数かは、軍法会議が決める。だが、我々は部隊を守る」
部隊を守る。
誰を守るとは言っていない。
守る対象は、兵士の人生ではなく、部隊の体面だ。
上官は紙束を一つ机の上に置いた。
見るだけで分かる。調書の下書きだ。
「証言を整える。お前たちは必要な部分だけ答えろ」
班長が、喉を鳴らす。
「答えろ、と言われても、我々は昨夜――」
「昨夜、レオンが鍵を持っていた。お前はそれを確認した。そうだな」
上官は、確認ではなく指定の口調で言った。
班長は、硬直した。
「……当番票上は」
「当番票上ではない。確認したか、していないかだ」
班長は唇を噛む。
彼の頭の中では、二つの計算が走っている。
一つは真実。
もう一つは生存。
真実を言って、部隊の空気に逆らうとどうなるか。
自分が次の“余計な波”になる。
「……確認しました」
喉が勝手に動いた。
その声は、彼自身の声なのに、誰かに言わされているみたいだった。
上官は頷く。
「よろしい。副班長は門衛の記録と合致する時間帯に、レオンが庫の前にいたことを見た。そうだな」
副班長は、反射で答えそうになり、途中で止まった。
「……見た、というか、通りかかっただけで」
上官の目が動く。
「通りかかっただけで十分だ。見たのなら見た。余計な説明は不要だ」
余計な説明は不要。
説明があると、矛盾が生まれる。
矛盾が生まれると、調書が汚れる。
汚れると、結論が遅くなる。
遅くなるのが嫌だから、説明を削る。
削られた後に残るのは、整った「見た」だ。
副班長は、短く言った。
「……見ました」
上官は満足した顔をしない。
満足は人間の感情だ。
彼は、次の項目へ進む。
「古参兵A。庫の鍵の受け渡し手順。レオンが独断で鍵を持ち出すことは可能だった、そうだな」
古参兵Aは汗をかいていた。
可能だった、という言い方が嫌だ。
可能と言った瞬間に、可能が罪に近づく。
「手順上は、上官の許可が――」
上官が遮る。
「可能だったか」
古参兵Aは、肩を落とした。
「……可能でした」
上官が頷く。
「よろしい。古参兵B。レオンは最近、金回りがよくなったように見えたか」
金回り。
この質問は、もう結論を呼ぶ。
古参兵Bは、瞬きをした。
「分かりません。彼は元々、無駄遣いを――」
「見えたか」
また遮られる。
古参兵Bは、喉を鳴らした。
これを否定すると、自分が疑われる。
肯定すると、レオンは終わる。
どっちが安全か。
安全なのは、上官に合わせる方だ。
「……少し、そう見えました」
上官は頷き、紙束を閉じた。
「これで十分だ。明日、軍法会議が開かれる」
明日。
全員が息を呑む。
班長が震える声で言った。
「明日ですか。こんなに早く」
上官は、当然のように言った。
「軍は速い。遅い裁きは秩序を腐らせる」
腐らせるのは秩序ではなく、人の未来だ。
だが、その言葉は誰の口にもならない。
上官は最後に釘を刺す。
「いいか。部隊の体面が最優先だ。
余計なことを言えば、お前たちも疑われる。
疑われれば、部隊全体が疑われる。
それは許されない」
許されない。
この場所で許されないと言われると、本当に許されない。
会議室を出る足取りは重かった。
だが、重い足取りのまま廊下を歩くこともできない。
廊下では「いつも通り」に歩かなければいけない。
いつも通りが、兵舎の鎧だ。
───
兵舎に戻ると、空気が変わっていた。
変わっていないように見せる空気。
つまり、変わっている。
班長は部下たちの視線を避けながら言った。
「余計なことは言うな。命令だ」
命令。
命令が出た瞬間、兵舎は安心する。
考えなくていいからだ。
だが、考えなくていい空気ほど怖い。
誰かが、小声で言った。
「……レオン、明日らしい」
「明日って」
「軍法会議」
その言葉が伝播すると、笑いが消えた。
笑いが消えると、生活の音が目立つ。
箸の音。靴紐の音。布の擦れる音。
そして、目線の音。
昼食の列で、レオンと同じ班だった若い兵が、前の兵の背中を見つめながら呟いた。
「俺、昨日、話したんです。普通だった。変な感じ、なかった」
隣の兵が即座に返す。
「普通に見える奴がやるんだよ。疑うな」
疑うな。
従え。
この二つがセットで出ると、心は閉じる。
若い兵は唇を噛んだ。
「でも、あいつ、身寄りないし。弁明とか――」
その言葉を、古参兵が切り捨てる。
「弁明の場はある。軍法会議がそれだ」
「でも明日じゃ」
「だからだ。明日で終わる」
終わる。
終わる、という言い方が怖い。
終わるというのは、決まるという意味だ。
決まるというのは、戻れないという意味だ。
若い兵は、それ以上言わなかった。
言えば、自分が目立つ。
目立てば、巻き込まれる。
巻き込まれたくない。
その感情が、兵舎を一つにする。
一つになるというのは、同じ方向へ流されるということだ。
───
その頃、レオンは窓のない部屋にいた。
時間の感覚が薄い。
食事は出るが、味がしない。
水は出るが、喉が潤わない。
向かいの椅子には、記録係が座っている。
神殿文書局の灰の外套。
ペン先は、いつでも動ける位置にある。
「明日です」
記録係が、穏やかに言った。
レオンは笑いそうになった。
笑える状況じゃないのに、笑いそうになる。
壊れかけると、人は変になる。
「明日、って」
声が掠れている。
「俺、誰に頼めばいいんだ」
記録係は首を傾げた。
「頼む?」
「弁明させてくれる人とか、相談とか。家とか」
家。
その言葉が出た瞬間、記録係の目が一瞬だけ止まる。
止まるのは、記録係にとって重要な情報だからだ。
「あなたには、後見となる家がない」
記録係は確認ではなく、結論として言った。
「つまり、あなたの言葉だけが材料です」
材料。
人の言葉が材料。
材料は切られる。削られる。整えられる。
レオンは喉を鳴らした。
「俺の言葉だけなら、俺が言えば――」
記録係は穏やかに遮る。
「長い言葉は嫌われます。
軍法会議は、秩序を回復する場です。説明の場ではない」
説明の場ではない。
弁明の場ではない。
だったら、何の場だ。
レオンが黙ると、記録係はペンを置き、優しい声で言った。
「あなたは不利です」
優しい声ほど残酷なことがある。
「不利、って」
「身寄りがない。後見がない。推薦もない。
あなたを守るのは、あなたの供述だけ」
レオンは笑いそうになった。
供述だけが守る。
だが供述は整えられる。
整えられた供述は、守るのではなく、終わらせる。
「……どうすればいい」
レオンが絞り出すと、記録係は、待ってましたみたいに紙を一枚ずらした。
そこには、三つの選択肢が書かれている。
昨日と同じだ。
無実の欄には、落ち度が付いている。
「あなたが無実だと言うなら」
記録係は淡々と続けた。
「鍵の管理の落ち度を認めてください。
それなら、軍としても扱いやすい。
扱いやすいなら、処分は軽くできます」
扱いやすい。
またその言葉。
「処分は軽く、って」
レオンは言い返したいのに、喉が動かない。
軽い処分でも、人生は終わることがある。
終わった後に、誰が拾う。身寄りがないのに。
記録係は、微笑まない。
微笑むと感情が入る。
感情が入ると、支援が支援でなくなる。
「あなたは、部隊の体面を壊せません」
淡々とした一言が、胸に刺さった。
体面。
彼の人生より、部隊の体面が重い。
それが現実だ。
「俺、売ってない」
レオンは繰り返した。
繰り返すことしかできない。
記録係は、頷く。
「では、あなたは誰かに利用された」
利用された。
それなら、レオンは被害者になる。
でも、同時に“何かが起きた”ことは認める形になる。
「……誰が」
レオンは問う。
記録係は、穏やかに言った。
「あなたが言うべきです。
言わないなら、あなたが主犯です」
主犯。
その言葉が、喉を凍らせた。
「主犯じゃない」
「なら、脅された」
レオンは、拳を握った。
握るしかできない。
「脅されてない」
「なら、あなたは自発的にやった」
三つの道があるように見せて、行き先は同じだ。
罪の欄に落ちる。
レオンは、椅子の背に体を預けた。
硬い。逃げ場がない。
「……俺、家族いないんだ」
ぽつりと言うと、部屋が一瞬だけ静かになる。
記録係は、その静けさを利用しない。
利用しないふりをして、淡々と言った。
「だから、早く終わらせた方がいい」
早く終わらせた方がいい。
それは優しさの形をした、締め付けだ。
「終わらせるって、何を」
「手続きを」
記録係は言う。
「軍は手続きで動きます。
あなたが抵抗すればするほど、手続きはあなたを潰す」
潰す。
ようやく、正直な言葉が出た。
レオンは、唇を噛んだ。
血の味がした。
───
夕方、部隊の上官が一度だけ、尋問室に顔を出した。
それは見舞いではない。
確認だ。
上官は椅子に座らず、立ったまま言った。
「明日だ」
レオンは答えない。
答えれば、何かが壊れる。
上官は続ける。
「部隊の体面を考えろ。
お前が変な抵抗をすれば、周りが迷惑する」
迷惑。
迷惑という言葉が、人を一番動かす。
迷惑をかけたくない、という感情は、身寄りがない者ほど強い。
誰も守ってくれない。
だからせめて、誰にも嫌われないようにする。
その癖が、ここで首を絞める。
上官は、静かに言った。
「正直に言えば軽くなる。
正直に言わなければ重くなる」
正直。
正直とは何だ。
真実ではない。上官が望む形だ。
記録係が、ペンを持ち上げる。
ペン先が光る。
「では、供述を整えましょう」
レオンの喉が鳴る。
「……整えるな」
小さく言ったつもりだった。
しかし記録係は、聞こえない顔をした。
上官が言う。
「今夜中だ。
明日の軍法会議で、お前が何を言うかは重要じゃない。
重要なのは、調書が整っていることだ」
重要なのは、調書。
人ではなく紙。
レオンの視界が揺れる。
身体が熱いのに、指先が冷たい。
「……俺が、やったって言えば」
声が震えた。
上官は即答する。
「終わる」
終わる。
その言葉が、甘く聞こえた瞬間があった。
終わらせたい。苦しい。怖い。寒い。眠れない。
終わるなら、楽だ。
その甘さが、一番危ない。
記録係は、穏やかに言った。
「自白、という形で整えれば、説明は短くできます。
短い説明は、疑われません」
疑われない。
兵舎の空気が求めているのは、それだ。
疑われないこと。
疑われなければ、迷惑をかけない。
迷惑をかけなければ、嫌われない。
嫌われなければ、生きていける。
生きていける。
……本当に?
レオンは、自分の手を見た。
震えている。
震えている手で、未来を掴める気がしなかった。
上官が、最後に言った。
「選べ。
主犯にされたいか。
利用された被害者で終わりたいか」
選べ。
選べと言われると、人は自由だと錯覚する。
だが、選べるのは落ち方だけだ。
記録係が紙を差し出した。
そこには既に文がある。
空欄は、名前と日時と、最後の署名だけ。
レオンは、喉の奥で息が詰まる音を聞いた。
自分の中で何かが折れる音に似ていた。
「……俺は」
言葉が出ない。
出ない間に、時間だけが削られていく。
記録係が、穏やかに促す。
「あなたが言葉を選ばないなら、こちらが整えます」
整える。
その言葉が、もう刃にしか聞こえなかった。
上官が扉に手をかけ、振り返らずに言った。
「今夜中だ。
明日まで、残すな」
扉が閉まる。
窓のない部屋に、紙の白さだけが残る。
白い欄は、まだ埋められていない。
だが、埋めるのはレオンの言葉ではなく、速さと空気だ。
レオンは、ペンを見た。
ペンを持てば終わる。
持たなければ、もっとひどい終わりが来る。
そうやって追い込まれる形が、最初から整っていた。
そして今、いよいよ始まる。
“自白”という、最も速い結論が。




