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「断罪の令嬢 ― 弁護士の記憶が織りなす逆転劇」  作者: 月白ふゆ
第二章

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第六話 署名の傷

クラリスは、朝になっても顔色が戻らなかった。


眠れたのは、ほんの少し。

目を閉じるたびに、紙の文字が浮かぶ。


整った文。

整った証言。

整った罪。


整っているほど、逃げ場がない。


宰相府の侍女が湯を運び、薄い粥を置いた。

クラリスは礼を言ったが、箸は進まない。


「今日は、再度お話を伺います」


侍女の声は柔らかい。

だが、それは優しさではなく手順だった。


面会の部屋には、調査官アーデルハイトが先にいた。

机の上には紙束。

整った筆跡の、整った整理。


宰相ヴィルヘルムもいる。

皇太子ユリウスもいる。


三人揃うと、空気が変わる。

裁きではない。

でも、軽い場でもない。


「クラリス夫人」


アーデルハイトが淡々と始める。


「あなたの供述を、証拠の中心にはしません。

 ただし、あなたの言葉が“経路”になることはあります」


クラリスは小さく頷いた。


「昨夜、あなたは言いました。

 伯爵家から“形式だ”と言われて印を押した、と」


クラリスの喉が鳴る。


「その書面について、覚えていることを、できる範囲で」


クラリスは指先を握った。


「……確認書です」


「内容は」


「帳簿に差異がある。

 調査中である。

 私が――」


そこで言葉が詰まった。


ユリウスが、静かに促す。


「続けていい」


クラリスは息を吸う。


「……私が、その差異を認識した、という形です」


宰相が、目を細めた。


「認識しただけか。

 是正すると書いていたか」


「そこまでは……」


クラリスは首を振る。


「覚えていません。

 私は、その場で読める空気では――」


そこで止まる。

言い訳に聞こえるのが怖かった。


アーデルハイトは、責めない。


「その場にいたのは誰です」


「伯爵家の家令。

 それと、私の夫の従者が一人」


「夫は」


「不在でした。

 領地の確認で」


言い終えた瞬間、クラリスは自分の弱点を自覚した。


夫がいなかった。

自分が押した。

それが全て、刃になる。


宰相が淡々と問う。


「なぜ押した」


クラリスは、答えが分かっている。

けれど口にしたくない。


恥ずかしい。

情けない。

そして、怖い。


ユリウスは、視線を外さずに言った。


「ここで隠す方が危険だ」


その言葉が、背中を押した。


クラリスは、吐くように言う。


「借財です」


言った瞬間、胸が冷たくなる。


「私の家には借財がある。

 伯爵家は、その件を――

 “返済の段取り”として握っていました」


宰相が低く言う。


「つまり、脅しだ」


「脅し、と言うほど露骨ではありません」


クラリスは首を振る。


「ただ……その場で、

 私が拒めば、次の資金繰りが止まると分かった」


言い終えた瞬間、涙が出そうになる。


自分は、無実だと言ってきた。

それは本当だ。


でも、完全に白いままではない。

圧力に屈した。

押した。


その事実は、消えない。


「クラリス夫人」


アーデルハイトが淡々と言った。


「あなたの署名は、“罪”ではありません」


クラリスは顔を上げる。


「ただし、“材料”になります」


その言い方が、現実だった。


「あなたが押した確認書が、

 何のために作られたかが重要です」


宰相が続ける。


「確認書を作った者は、

 後から訴えを出す前提で、材料を揃えた。

 そう見える」


ユリウスが短く言った。


「署名は、始まりの釘だ」


クラリスの指先が震える。


釘。

打ち込まれた。

抜けない。


そのとき、控えの侍従が入ってきた。


「宰相閣下。

 リリアナ・ド・ヴァルフォード様が、宰相府に到着されました」


空気が変わった。


宰相が眉を動かす。


「呼んだ覚えはない」


ユリウスが短く言った。


「状況共有はした。

 来るかどうかは彼女の判断だ」


宰相は少しだけ黙り、頷いた。


「通せ」


数分後、扉が開いた。


リリアナ・ド・ヴァルフォードが入ってくる。

派手な装いではない。

むしろ、控えめだ。


視線だけが、静かに強い。


彼女はクラリスに向けて礼をしない。

敵でも味方でもないからだ。

ただ、同じ側に“立たされた人”として見る。


「突然で失礼します」


声は落ち着いている。


「状況を聞きました。

 それで、ひとつだけ確認したいことがありました」


宰相が言う。


「協力を求めていない」


「分かっています」


リリアナは即答する。


「だから、助けに来たのではありません。

 ただ、あなたが折れないために、順序を整えに来ました」


クラリスは、息を呑んだ。


助けない。

でも、折れないために。


その言葉が、妙に現実的だった。


リリアナは、机の上の紙束を見て、クラリスへ視線を戻す。


「あなたは、署名しましたね」


クラリスは頷く。


「その署名は、刃になります」


胸が痛む。


「でも」


リリアナは淡々と言った。


「刃になるのは、相手が“物語”を作るときです」


クラリスは瞬きをする。


物語。


「あなたがやるべきことは、謝ることでも、反論でもありません」


リリアナは続ける。


「あなたが“何を理解していたか”を、順序で固定する。

 押した理由を、恥として隠さない。

 隠せば、相手が勝手に埋めます」


言い方が冷たいわけではない。

ただ、余計な慰めがない。


それが救いだった。


ユリウスが、小さく言った。


「前と同じだな」


リリアナは目を向けないまま答える。


「同じです。

 裁きは、感情で始まります。

 でも、止められるのは順序だけです」


宰相が低く問う。


「あなたは、どこまで関わる」


リリアナは短く答えた。


「私は表には出ません。

 ただ、夫人に一つだけ“問い”を残します」


クラリスが見つめると、リリアナは言った。


「あなたの署名が、あなたを殺すのではない」


一拍。


「あなたが“署名したことを恥じて黙ること”が、あなたを殺します」


クラリスの胸が、ぎゅっと縮んだ。


図星だった。


「だから、順序を守って言う。

 押した。怖かった。圧があった。

 そして、罪を犯したわけではない」


リリアナは立ち上がり、最後に言った。


「あなたが折れなければ、証拠は勝手に崩れます。

 整いすぎたものは、必ず綻びます」


そう言って、去る。


残った空気が、少しだけ変わっていた。


慰めはない。

でも、背骨が入る。


クラリスは、涙を堪えながら、頷いた。


「……私、言います。順番どおりに」


アーデルハイトが淡々と紙を揃える。


「それで十分です。

 こちらは外部記録を積みます。

 あなたは折れない」


ユリウスが短く言った。


「守る」


宰相が続ける。


「そして、守るだけで終わらせない」


その夜、クラリスは少しだけ眠れた。


怖さは消えない。

ただ、怖さのまま黙らない方法があると知った。


署名の傷は残る。

でも、その傷を理由に首を差し出す必要はない。


そう思えたから。

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