転章 余白
冬が明けても、宮廷の空気は完全には戻らなかった。
人は忘れる。
けれど、忘れ方を変えることもある。
以前なら、
「聖女が言った」
「宰相が決めた」
それで終わっていた。
今は、終わらない。
「記録は?」
「誰がまとめた?」
「その言葉は、どこから来た?」
誰も声を荒らしてはいない。
ただ、確認する癖が残った。
リリアナ・ド・ヴァルフォードは、表舞台に出ない。
屋敷に戻り、
社交も最小限にし、
静かに過ごしている。
それでいい。
彼女は、何かを変えようとはしていない。
変えたのは、彼女ではなく、
彼女が置いた問いだ。
宮廷の隅で、誰かがそれを拾う。
神殿の奥で、誰かがそれを思い出す。
宰相府の書類の端で、誰かがそれを写す。
そうやって、
「裁き」は少しだけ遅くなった。
慎重になった。
疑いを許すようになった。
――その分、別のものが動き出す。
裁けなくなった人間は、
別の方法で相手を潰そうとする。
裁きが遅くなった世界では、
“裁き以外”が速くなる。
噂。
取引。
密約。
見えない圧力。
それらは、表に出ないぶん、厄介だった。
そして、春の気配が差し始めた頃。
宮廷の外から、
一つの訴えが持ち込まれる。
誰もが、最初は軽い揉め事だと思った。
いつものように、どこかの家が、どこかの家を叩く話だと。
だが、提出された書類は整いすぎていた。
証言は揃いすぎていた。
話は、美しすぎた。
――まただ。
そう思った者が、少数、確かにいた。
その中に、皇太子も含まれていた。
宰相も含まれていた。
神官長も含まれていた。
そして、屋敷の机で、
リリアナの引き出しの奥に眠る紙もまた、
静かに役目を取り戻していく。
次の裁きは、
次の断罪は、
別の顔をしてやって来る。
だからこそ。
問いは、必要になる。




