アイに振り向かないで
石造りの階段を一歩ずつ上っていく。
カラコロと下駄を鳴らし、目指すのは星々がよく見える夏の夜空ではなく。
階段を上り切った先にある境内の……一歩前。
鳥居すらくぐらず、石畳にすら足を踏み入れず、私が止まったのは本当にその手前。
上から一つ下。神社仏閣の末端に入る資格がないとばかりに、階段の頂点には腰を下ろさない三十路の男性。
髪をおろし、黒縁の眼鏡をかけた彼の目の前にまで来た私は、目を細めた。
いつまで経っても変わらないな。
そう思って声をかけようとしたところで、風が私の言葉を盗んで彼に渡してしまった。
「真愛」
彼の眼鏡に映る、勿忘草模様の浴衣姿。
白地に淡く青い花が映え、夜だからこそ目立つ装いに捉えた瞳は動かない。
対して彼の姿はどうか。
特徴のない甚平姿で、そり残されたあごひげは外見の歳を上げている。
「どうしたの、奈津彦さん」
一見して、少女然とした女性と老いが顔を覗かせ始めた男性の対面。
でも私は気にすることなく、風で乱れた髪を片手で押さえて苦笑した。
「もしかして、また見惚れちゃた? それとも着つけかな。でも、もう間違えたりしないよ」
何かを言いたいけれど、奈津彦さんは言葉が出てこないのか黙ったまま。
いくつか思い当たる節があるけれど、私がこれだとするのは二つぐらい。
毎年見せていた、この浴衣姿。
なのに彼は慣れることなく、いつも新鮮めいた熱を視線に込めていた。
でなければ、初めて着つけた時の思い出か。
知らずに左の襟を前にしてしまい、奈津彦さんに怒られながら直されたのを、私も覚えている。
「……なにか悩んでるみたいね。いいよ、お姉さんが聞いてあげる」
その二つとも違うと、揺らがない瞳を認めた私は、彼のさらに一個下の段差へ腰かけた。
もう奈津彦さんの姿は見えないけれど、左肩越しにちゃんと存在を感じられる。
「オレはこれから、やっていけるかな」
「なんだ、そのことか。奈津彦さんなら大丈夫だよ」
カランと、彼が持っていたラムネ瓶が音を立てる。
炭酸が喉を通りすぎるまで待った奈津彦さんが、ようやく吐き出したのは今後のこと。
将来、未来、これから歩く道のり。
いくらでも言い換えられる人生の岐路を、彼は星に向かって投げかけた。
他人が聞けばなんて事のない、ありふれた悩み。
模範解答すら用意されている文章に、私が示すのはそんな色のない答えじゃない。
「頑張れとか、やってみればいいとか。そういうのはもう、やったもんね。そしてアナタは一歩を踏み出せた。それで良いの」
決意を抱けた。
その熱を帯びた心中は値千金。
今の奈津彦さんに必要なのは、たった一つ。
アナタを照らす光だけ。
「それとも他に、何か欲しいの?」
意地悪な質問だ。
この答えは知っているのに、どうしても聞いてしまう。
だからか奈津彦さんの足元にポタリ、雫がこぼれ落ちた。
冷えたラムネ瓶のものか、それとも空の感情か。
「君が居てくれれば、それで良かったんだ。真愛」
「……もう。そればっかりね、アナタ。いつまで経っても変わらない」
そんなアナタだから──
言いかけた言葉は、茄子色の空に咲いた赤い花によって遮られた。
私たちのところにまで届いた、鳥を真似た花の鳴き声。
有無を言わせぬ縄張りの主張は何度も放たれ、すっかり夜空は花々の庭園へと変わってしまった。
咲いては枯れて、また実をつけては咲き誇る。
最後の一輪。大きな緑の花が咲き終えて、夜凪のときが訪れた。
「愛している」
「愛しているよ」
重なった言の葉。
同じ場所で、同じものを見て、同じことを思って。
同じことを言い合えた。
それが可笑しくって私の頬は緩んだのに、生真面目なアナタは仏頂面のまま。
本当に変わらない人だけれども、それがこの人の良いところ。
それなら……
「──パパ?」
想いを言葉に。音を文字に。
肩越しに振り返ろうとした私の耳を打ったのは、幼い女の子の声。
私と奈津彦さんが振り返った先にいたのは、私に瓜二つな女の子。
まだ十歳にもならないのにしっかりしていて、でも両手で持った大きな綿あめをフラフラとさせて。
背伸びをしたかわいい子が、キョトンと首を傾げて鳥居の前で立っていた。
「愛花。どうした」
「パパこそなにしてるの。盆踊り、はじまっちゃうよ?」
「……そうか。もう時間か」
立ち上がる奈津彦さんの手を私は取ろうとして、でも伸びかけた左手は勢いが落ちて。
届かなかった手は空を切り、伝えようとした熱を彷徨わせる。
声は出なかった。
あっさりと遠ざかる背中を見送る気持ちと、追いかけようとする気持ちがぶつかり合う。
行かないで、置いていかないで。
いってらっしゃい、振り返らないで。
相反する気持ち。それをギュッと右手を使って左手ごと包み込む。
「また来るよ、真愛」
「うん、アナタ。いってらっしゃい」
届くことのない声を、愛しい彼の背中にぶつける。
奈津彦さんは愛花の手を取り、石畳を歩いて鳥居をくぐる。
愛花が持っていた綿あめを預かり、去ろうとする彼の背中。
それを見送る私は目を伏せて、芽吹いた気持ちを摘もうとした。
なのに、どうしてか。
閉じ切る前の私の瞳は、こちらへ振り返る愛花の姿を捉えてしまった。
「愛花……?」
目が合った。
不思議そうに頭をコテンとさせて、こっちに来ないのとばかりに私を見つめる。
空に咲いた花と同じ、やさしい光の娘。
だからこそ、あなたが振り向いたら彼もこちらを見てしまう。
「ばいばい」
それは望んでいないから。
夜空に咲いた花に負けないくらい、小さな愛花に私は笑いかけた。
右手で手を振って、いってらっしゃいって。
そうしたら愛花も、こっそり私に手を振ってくれた。
いってきます、って。
「何がやっていけるかなよ。立派にできてるじゃない、奈津彦さん」
祭囃子が静けさを飲み、提灯の明るさが私の愛しい家族を迎い入れてくれた。
もう二人は振り返らない。
それが分かると胸中で競い育っていた二色の花が、一つの実を成らす。
「さて、帰ろうかな。用事も終わったことだし」
私は立ち上がって、んーっと背筋を伸ばす。
石造りの階段を蹴り、向かうのは下の道。
もう私は振り返らない。
だからアナタも、昔じゃなくて未来を見て。
去った真愛に振り向かないで。