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二章 君が雪を降らせた



     ラストダンスは私に



   第二章 君が雪を降らせた


「カズ、さっきのリクエストした曲凄えな、あれなんて曲なの」

レコードがジョン・レノンの♪イマジン に変わった。研一がジンライムを一気に飲み干すと大きく息を吐き、グラスをカウンターの上に置いて聞いた。

「えっ、あああれ『キングクリムゾンの宮殿』って言うんだよ」

「凄えな、なんか前衛的なジャズのようだな。カズがジミヘンドリックスの『パープルヘイズ』をバンドに持ち込んだ以来の衝撃だな。うん、メロディに哀愁がある」

研一の得意な哀愁が出たなと、笑いながら思った。

「研ちゃん、去年のグッピーのクリスマスパーティー覚えてる」

「えっ、ああカズ、お前大変だったんだぞ」

と、口元で笑いながら研一が言った。

「俺、去年初めてだったからついテンションが上がって、飲み過ぎちゃったよ」

和夫が言って、マッチで煙草に火を付けた。すると、カウンターの中の男が吸い殻の溜まった灰皿を新しく変えた。

「ああ、お前ベロベロに酔って、小峰さんが付きっきりで介抱してたよな」

和夫がバーボンを飲んで、大きな溜め息をついて

「いや俺、あの時は‥あまり記憶がないけど」

と言って、和夫が苦笑いした。

「そう言えば前から聞こうとしてたんだが、カズあの時腕を怪我してただろう。あれ、どうしたんだ」

「えっ‥ああ、ちょっと転んだ」

と、苦笑いをながら、和夫が言った。そして去年、無理やり乗ったタクシーが思い浮かんだ。

「カズ、いくら何でもそこまで飲むなよ」

と、研一も笑いながら言って、煙草を煙そうに吸うと灰皿に揉み消した。

「そうだ、桜木町で研ちゃんあのヤバそうな女の子を引っ掛けただろう」

「ああケイコだろう、じゃあ何かあの時の事まだ根に持ってるのか」

と研一が言って空のグラスを持つと、ジンライムをカウンターの中の男に注文した。

「そうじゃないよ、そうじゃないけど研ちゃんはケイコと親しいの」

「えっああ、去年のグッピーのパーティ以来俺よりも恵子の方が親しくしているけど、何度か二人で旅行にも行ったみたいだし‥俺は恵子に誘われて、二度ほどケイコの家に行ったけど、逗子の海の近くの凄え豪邸だよ」

「ああ、そうなんだ」

和夫は、その後のケイコをまったく知らなかった。

「庭の池に、カラフルなでっかい鯉がたくさん泳いでいて驚いた」

「へええ、錦鯉か」

と和夫が言って、ケイコの逗子の豪邸を想像して見た。が、まったく見当がつかなかった。そして逗子の海岸通りだけが頭に浮かんだ。

「二階の大きなテラスで、バーベキューをご馳走になったんだよ」

「それは凄いな、バーベキューかよ」

笑いながら、和夫が言った。

「ああ、テラスから目の前に海が広がっていて、たくさんヨットが見えたよ」

「そうか、あの辺りの逗子マリーナや葉山マリーナは、有名なヨットクルージングがたくさんあるからな‥それにあのマリーナ、レストランやホテルやショッピング施設まであるから」

と、和夫が言って笑った。

「カズ、やけに詳しいな‥あっもしかして、あの初めてのデートの彼女と行ったな」

和夫は何も言わず、口元で笑った。

「ご両親が二人ともお医者さんで、父親が外科医で大学病院に勤めてるってさ。母親は歯科医で、逗子駅の近くで開業しているってよ」

「へええ、凄いお嬢様なんだ」

と和夫がまた笑いながら言った。

「カズは、ケイコと連絡はとってないのか」

「ああ、去年グッピーのパーティに連れて行った以来かな、お互いに連絡先も知らないから」

和夫は笑いながらケイコの顔を思い出して見たが、何故か泣いてる顔がぼやけていた。そして、あのジキルとハイドの顔の両方ともがぼやけていた。

「カズがケイコをグッピーのパーティに連れて来た時は、ほんとうにびっくりしたぜ」

と言って、目の淵で笑いながら煙草を吸う研一の顔を見て、和夫も微笑んだ。去年のクリスマスイブが遠くの事の様に感じた。そしてまたバーボンをひとくち飲み、溜め息をついた。

「ああ、タクシーで西口まで行ったが、終電に間に合わなかったから」

「ああ、ケイコから聞いたよ。でもカズの腕の怪我は、何度聞いても教えてくれなくて」

と言う研一の言葉を聞いて、和夫は口元で笑った。

「俺、あの時の西口のでっかいクリスマスツリーを思い出してよ」

と言って、和夫が目を細めた。そしてまた溜め息をした。

「カズ、さっきから溜め息ばかりだな‥クリスマスツリーって、去年のか」

「ああ、ケイコを横浜駅まで送って行った時、西口に大きなクリスマスツリーがあったんだよ」

和夫が、煙草にマッチで火を付けながら言うと、笑いながら煙を吐き出した。

「カズ、何かいい事でもあったんか、さっきから溜め息と薄笑いばかりして気色悪いな」

「いや今日イブだから、去年あの娘を送って行った時の事を思い出したんだよ‥あの時の、あの大きなクリスマスツリー綺麗だったな」

「そう言えば今年はないね」

と研一が言った。

「まだ再開発してるのかな」

と言いながら、和夫は去年のケイコと見たクリスマスツリーを思い浮かべた。

「ところで、今日小峰さんと何時に約束してるの」

「えっ、その‥十二時」

と和夫が言って、突然の小峰との事に眉を顰めた。

「そうか、そんなにゆっくりもしてられないな」

と研一が言って、腕時計を覗いた。

「来ないかもしれないけど」

うつむき加減で、和夫が言った。

「何だよ、その来ないかもしれないって」

と、研一が口元で笑いながら言った。和夫は言葉に詰まって

「その‥来ないかもしれない」

自分でも情けなく聞こえた。

「約束してるんだろ」

「ああ、でも来ないかもしれないだ」

和夫が、指先の煙草の煙を見詰めながら小さく溜め息をした。

「そうか」

と、間をおいて研一が言った。そして少し笑うと、それ以上は聞かなかった。和夫はバーボンのグラスを持つと、この入り混ざった感情を必死に抑えた。店内に流れるジョン・レノンの♪ウーマン を聴きながら、二人ともグラスからひと口飲み込んだ。身体がふわっとして来て、酔っている気がした。そして音を立てて、グラスをカウンターに置いた。あれは十一月の初め頃の事だった。和夫が勤めているデパートのウインドウディスプレイを、クリスマスに衣替えしているのを見て、ふとケイコの涙を溜めてキラキラと輝いた瞳を思い出した。あのイブの日以来、あれから春や夏が来ても和夫はケイコの事を思い出す事はなかった。やがてクリスマスデコレーションの時期が来ると、ふと突然ケイコを思い出すようになった。そしてあの同じイブの日に、小峰と付き合うようになった事が不思議な気がした。小峰の顔がふっと浮かんでは、そのたびにどうしようもなく胸が熱く締め付けられた。煙草の煙が目に染みて和夫は目を押さえ、バーボンを口に含み舌の痺れをいつまでも味わって飲み込んだ。小峰の(私なんかに、引っ掛かっちゃだめ)と、涙を浮かべて言った言葉が、繰り返し胸の中に浮かんだ。突然また小峰の顔が浮かぶと、和夫は手を握り締めた。このどうしようもない痛みを、もうひとりの自分が微笑んでいる気がした。そしてまた、バーボンをひとくち飲むと、熱い塊が喉を通って痛い胸の中へ収まった。



「ううん、だあい好き」

まどろみの中で、小峰が虚な目で和夫にしがみついて来た。その柔らかい声がいじらしく、思わず抱き寄せた。素肌に長い髪が触れて、気持ち良かった。和夫の腕の中で、ジャスミンの優しい髪の匂いにそっと目を閉じて微笑んだ。シングルベッドの上で、小峰の柔らかい素肌の温もりを感じた。そして胸の中の愛おしい気持ちが膨らんで、思わず力を入れて抱きしめた。小峰が和夫の腕の中から小さな溜め息をついて笑った。その笑いの意味が気になり、何か言おうとしたが言葉に詰まってきつく身体を抱き寄せた。そっとまた目を閉じると、ワインの酔いに身体中がふわっと揺れた。汗ばんだ身体に軽いだるさがとても心地良かった。夜の静けさの中から、遠くで犬の遠吠えの声が聞こえた。すぐ横の花瓶のバラの香りが微かにした。

「カズちゃんの、心臓の音が聞こえる」

と、小峰がくぐもった声で、和夫の胸の中から小さな声で言った。しばらくふたりは何も言わずに抱き合って、満たされた喜びをその身体全身で感じた。和夫は手をゆっくりと滑らせ、くびれた腰の辺りで軽く力を入れると、小峰が身をつぼめた。そのままゆっくりと手を下へ滑らせると

「だめ、やめて」

と、小峰が腕の中から曇った声で、ゆっくりと言った。和夫がそれでも力を抜かないと

「もう、やめて」

と、小峰が小さな声で、甘えて言った。和夫が手の力を抜くと、手首を掴んでいる小峰の手の力がゆっくりと抜けた。和夫が小さな声で笑った。そして、もう一度手に力を入れると

「お願いやめて、もう一度抱いてくれるの」

和夫が、また口元で笑うと

「ううん‥もう充分」

小峰が目を閉じたまま、小さな溜め息をついた。

「だったら、どうしてそんな事言うの」

と和夫が聞くと、しばらくして

「女って、そういうものなの‥もう充分よ」

と言って、目を閉じたまま微かに笑った。和夫が力を入れて小峰を抱きしめると

「だめ、じっとして動かないで。さめちゃうから」

と、小峰がささやいた。静まり返った部屋に、ラジオのFENから和夫の知らないスローなブルースが小さく流れていた。和夫は腕の中の小峰の髪の匂いに、気持ちが優しく満たされていく事に酔っていった。そして切なさと愛しさと少しの不安が、胸の中で湧き上がって来るのを感じた。

「気持ちいい‥このままこの中に溶けちゃいたい」

と、小峰が腕の中で小さな声で言うと、力を入れてしがみついてきた。和夫は小峰を包み込むように抱きしめると、その柔らかい素肌の温もりを全身で感じた。そして小峰の髪に頬を寄せて満たされた心の中で、このままほんとうに身体がくっついてしまえばいいなと思った。和夫はこの時、この満たされた時間がいつまで続くのかなと考えてみた。そしてまた、そっと目を閉じた。



和夫は休日はほぼ小峰と過ごした。そしてほぼ小峰の部屋に泊まっていたが、小峰の働く店に行く事は一度もなかった。酔った男達を相手に働く小峰を見たくなかった。小峰の部屋で、仕事を終えて帰って来るのを待つ事が、和夫の休日の日課だった。そのたび、毎回違う花を一本にかすみ草を添えて酒と、そして食事を作って待つ事が和夫の喜びであった。そんなある日の事だった。初めてあの男の事を知った。そうあの手紙を偶然見つけてしまったのだ。その日は赤ワインと、ワインにあわせて赤いバラの花を一本にかすみ草を添えて小峰の部屋へ行った。クリームシチューを作りながら、何かレコードを掛けようとレコードラックをあさっていると、ラックのいちばん隅に二通の手紙を見つけてしまった。何気に手に取って封筒の裏を返して見ると、一通目の手紙に長崎の住所と小峰順子の名前が書いてあった。もう一通の手紙にも長崎の住所と男の名前が書いてあった。和夫は散々迷った挙句、封筒の中身を取り出した。そしてシチューの火を止めて戻ってくると、座り込んで読み始めた。


  愛する裕ちゃんへ

裕ちゃん手紙ありがとう、ほんとにありがとう。

母さんもう驚いて、嬉しくて嬉しくて、そして涙が出てきて、泣きながら手紙を読みましたよ。

元気でしたか、何から書いていいのかわかりませんが、裕ちゃんが突然家を出て行ってもうすぐ三年になりますね。

最初の頃は随分探しましたよ。突然の事で、いったい裕ちゃんに何があったのかといろいろ考えてみましたが、やっぱり母さんにはわかりませんでした。

母さんにとってこの三年は、毎日がとても長かったです。裕ちゃんの事だから、何処へ行ってもきっと元気で頑張っている事と思っていました。それでも母さんは死んだお父さんのお仏壇に手を合わせて、毎日裕ちゃんの無事を祈ってました。

突然の裕ちゃんの手紙にとても驚きましたが、元気そうなのでほっとしました。

手紙、ほんとうにありがとうね。母さん嬉しくて、何度も読み返しては泣いてます。

もうすぐお父さんの命日です。裕ちゃんお願いです、帰って来て下さい。

上田の家は銀行に渡って、今は村上さんと言う大阪から来た人が住んでいます。とてもいいひと達で、裕ちゃんから連絡が来たら知らせてくれるようにお願いしておいたのです。ポストに小峰の名前まで入れてくれたのです。なので、こうして裕ちゃんの手紙を見る事ができましたよ。

母さんとかおりは桜ヶ丘のアパートに移り住んで、もうすぐ三年になります。長年暮らした家を出るのはとても寂しかったですが、いろいろとひと通り終わると上田にはいられず母さんの育ったこの大村にかおりと来ました。かおりと二人でのアパート暮らしも、なかなか楽しいですよ。

考えてみれば、あの広い家にかおりと二人ではなにかと大変ですよね。お父さんや裕ちゃんの想い出がいっぱいあるあの家で暮らすのは、母さんにはとても出来そうにありません。

大森のお爺様には、とても申し訳ない気持ちです。工場と上田の家は銀行に取られてしまい、残った借金は大森のお爺様が、竹山などを手放して返済に当てて下さいました。ほんとうに申し訳ありません。

それから、いけない事と思いましたが、昭義さんに裕ちゃんからの手紙を見せました。怒らないでね、

裕ちゃんがあんなに好きだった人なんですもの

申し訳ない事に、今回の件で昭義さんに大変お世話になりました。銀行や債権者の方々には、昭義さんが全て間に入って処理して下さいました。

大森のお爺様も、全て昭義さんに任せたようです。お爺様も大変感謝してましたよ。できれば裕ちゃんからも昭義さんにお礼を言って欲しいのです。

上田を逃げるようにして大村に来ましたが、こうなってみると他人の親切が身に染みます。心配しないでね、もう何もかも片付きましたよ。

狭いアパート暮らしですが、かおりと頑張って暮らしてますよ。母さん、なんだか生まれ初めて、一生懸命暮らす楽しさを知った気がします。

お父さんもなにも死ななくてもと、今はそれだけが残念です。でもプライドの高いひとでしたからね。

そうそう、母さんも職が見つかりました。すぐ近くに大きなスーパーが出来たのです。この歳まで働いた事がないので、母さんみたいな者でも働けるのかと、初めは心配でした。母さんは薬と雑貨のコーナーにいますよ。もう一年以上働いてますが、母さん今だに商品名が覚えられません。母さん、カタカナはどうも苦手です。

それにしても横浜とは随分遠い所に行ったのですね。裕ちゃんに何があったか母さんは分かりませんが、小さい頃から気の強いしっかり者の貴方が突然いなくなるのには、それ相応の訳があった事と思います。一緒にいて、裕ちゃんの事を何もわかってあげられなかった母さんがとても残念で、今でも悔やんでいます。

何も聞かないのでお願いです、早く帰って来て下さい。話したい事がたくさんあります。そしてたくさんの人達が裕ちゃんを待っている事を考えて下さいね。新しい住所と電話番号を書いて置きます、また手紙を書いて下さいね。母さんもまた手紙を書きます。早く逢いたいです。母さん達も元気で頑張るので、裕ちゃんも元気で早く顔を見せて下さいね。

大村の街もなかなかいいですよ、住めば都とは昔の人はいい事言いますね。

この街に、裕ちゃんが元気で早く帰って来る事を祈っています。   母より


三枚の白い便箋に、ボールペンのとても綺麗な字で書かれた手紙だった。所々にボールペンの滲んだ跡があり和夫は読み終えた手紙を持ったまま、しばらく呆然とすくんでしまって動けなかった。まったく知らない小峰を見てしまった衝撃があった。何故か情け無い感情が湧き上がって来て、呆然と便箋を持つ手が小さく震えているのを見た。小峰の母親の愛の強さを、身体の底から思い知った気がした。突然だった、熱いものが込み上げて大粒の涙が頬を伝って素足の上に落ちた。思わず微笑んで、涙を手で拭いた。そして和夫は自分の母親の顔を思い浮かべてみた。陽気で勝気な母は、物心ついた時から働いていた。今も働きながら、友人と旅行することが唯一の楽しみなのだ。和夫のまったく知らない小峰の世界に、俺はまだ一瞬触れているだけなんだと思い知った。小峰とのこの一年は、とても長いようで、でもほんのひとときなのではないかとも思った。一緒に浅いピンクの便箋が入っていた。


  お姉ちゃんへ

お姉ちゃん元気でしたか。手紙、大変驚きました。

あれからもうすぐ三年になりますね。しばらく家を出ます、心配しないで下さい。だけで出て行くなんて、大の大人のする事じゃあないですよ。どんな事情があったのかは知りませんが、お母さんの事を考えなかったのですか。お父さんの事、工場の人達や家の事、工場の倒産とお父さんが亡くなって親戚中が大騒ぎしていた事とか、それに昭義さんの事。

お母さんはとても気丈に頑張って、ひと通り終わると逃げるようにここ大村に来て、もう抜け殻のようになってしまった。始めの頃は夜になるとふたりしてよく泣いていたけど、やっと、そうやっと笑うようになった。かおりも学校どころじゃあなかったよ。お母さんに背中を押されてやっと卒業出来て、たくさんのひとに、たくさんお世話になって

いったいそんな遠くで何をしているの

特に昭義さんにはとてもお世話になりました。

お姉ちゃんは知っていますか、昭義さん一昨年の選挙は随分頑張っていましたよ。昭義さんの選挙、お姉ちゃんあれほど一緒に頑張ると言っていたよね。よほどの事情があるとは思うけど、お姉ちゃんは子供の頃から愚痴や弱音をまったく言わない人だったが、お父さんの御葬式が終わるとすぐに出て行くのは、あんなに家が大変な時に、もう少し落ち着いてからでもよかったのではないですか。

お母さんや昭義さんを置いて何も言わずに居なくなるお姉ちゃんを、かおりはとても恨みました。

お父さんがあんな事になってお母さんを置いていなくなるなんて、かおりはお姉ちゃんを許せません。昭義さんはお姉ちゃんがいなくなって、狂った様に探していましたよ。

この三年間嵐のように過ぎていったけど、お姉ちゃんはそんな遠くでいったい何をしているのですか。

しばらく家を出ると書いてあったけど、もう帰って来れるのですか

もうこれ以上お母さんや昭義さんに心配を掛けないで欲しい。

何も聞かないので帰って来て下さい 。

そしてお母さんの側にいて、帰って来て下さい。

かおりも、お姉ちゃんにとても会いたいです。

かおり


追伸 かおりはお姉ちゃんと同じ桜ヶ丘幼稚園の先生になにました。園の先生達もお姉ちゃんの事をとても心配しています。お姉ちゃんの園児達はみんな小学校へ行きましたが、時々会うとお姉ちゃんの事を聞かれます、みんながどれだけ心配しているかを少しだけ考えてみてくださいね。

会える日を楽しみに待ってます。

                 かおり


和夫は二通の手紙を重ねてゆっくりと封筒の中に戻して、小峰の母親と妹の事を考えてみた。なんだか自分の知ってる小峰は、ほんのひと握りではないかと思った。そして寂しさと嫉妬を感じた。和夫の知ってる小峰は、この一年間の小峰でしかない事に何故か腹が立った。もう一通の手紙を手に取って、手紙の裏の男の名前を見て背中がざわざわするのを感じた。几帳面な住所と宛名の字をもう一度見てから、中の便箋を引っ張り出すとなぜか胸がときめいた。淡い青味掛かった便箋が何枚か出てきた。一瞬ためらったが、和夫は便箋を開いた。


裕子、突然の手紙で驚いている事と思います。

今、手紙を書きながら、少し戸惑っています。

そう、もう三年になりますね。

かおりちゃんから裕子の手紙を手渡されて、読みました。

あれから私なりに随分捜しました。

上田のお母さん達は、お父さんの事もあって警察に相談しに行ったりして、もう親戚中で大騒ぎでしたが、まさか以前裕子と旅行で行ったあの横浜だとは思ってもみなかったです。

会って話したい事がたくさんあります。裕子にいったい何があったのか、私にはとてもわかってあげる事は出来ません。それが自分でもとても残念で仕方ありません。

今でも、私の胸の中は裕子でいっぱいです。

この三年間いろいろな想いが嵐のように駆け巡り、日常の生活が手に付きませんでした。

裕子の胸の中には私はいるのでしょうか。今もその胸の中に、私はいるのでしょうか。それだけがとても不安で仕方ありません。

とりあえず、近いうちに会いに行きます。話したい事はたくさんありますが、今は何も言いません。そして何も聞きません。ただ顔が見たいです。お願いです、裕子の元気な顔を見せてくれませんか。

仕事の整理がつき次第、すぐに行くので顔を見せて下さい。

覚えていますか、紫陽花の花が美しく咲き誇る季節になって小降りの雨の中、突然裕子が紫陽花の鉢を持って我が家を訪れた時の事を、私も母も慌ててしまって、母は急いで着物に着替えてました。

あの紫陽花、次の年庭で青い花を咲かせたのを覚えていますか、今年も青い綺麗な花を咲かせました。今度咲く花は、是非裕子とふたりで見たいです。


この手紙を読んでいくうちに、背中に熱いものが次々と上がってきて、耳たぶがどっと熱くなった。顔が火照って、腫れているように感じた。この手紙に、身体中を嫉妬と恐怖感が走り回るのを、手を握り締めて必死に抑えた。胸が詰まって、叫び出したい衝動をじっと耐えた。しばらくすると突然、さっと血の気が引いていくのがわかった。そして自分でも驚くほど冷静に戻った。微かに震える指先を見つめて、煙草を咥えてマッチで火を付けた。深く吸い込んでゆっくりと煙を吐き出すと、急に喉が渇いた。二枚目の便箋は、そのまま読まずに元の封筒に戻した。(おい、蒼白い顔をしてどうした。何を狼狽えているんだ。)と、冷めた自分が、笑いながら言った。突然、すべての気力が萎えてしまい、胸の中にぽっかりと穴が空いた気がした。そして驚くほど冷静な事に、腹立たしささえ感じた。(あのひとに、幼馴染の婚約者か)とつぶやくと、小さく小刻みに震えてる指先を見つけて、思わず苦笑いした。



その日は和夫の給料日だった。小峰は店に休みをもらい、久し振りに二人して映画を観た。小峰がどうしても観たいと言うので『卒業』を観に行った。和夫は一年以上前に、職場の女子社員達の絶大な勧めでこの映画を観ていて、今回がニ回目だった。興奮気味の小峰に、帰りに映画音楽のサイモンとガーファンクルのサウンドトラックのレコードとカセットテープを買った。小峰が予約した馬車道のステーキのお店で、目の前で焼いてくれる鉄板焼きを食べた。店内にバックグラウンドミュージックで、ジャズが小さく流れていた。小峰がワインの酔いもあり、はしゃぎながら映画の話題を夢中で話した。和夫はこれほど夢中で話す小峰を見た事がないので驚いた。そしてその無邪気な小峰が、時には歳下にさえ思えた。少しずつ、小峰という女性を知っていく喜びに、心が満たされていくのを感じた。小峰が和夫の腕にしがみつく様にしながらアパートに帰って来ると、電灯の下に背の高い男がひとり立っていた。小峰の笑い声で男が振り返り、トレンチコートのポケットに両手を突っ込んだまま小峰と和夫の顔を見た。突然小峰の笑い声が止まった。男の異常さに気付き、和夫は小峰の前に出て男の顔を見た。とっさに、小峰の店の客かと思った。男は和夫と一瞬目が合ったが、直ぐに小峰を見た。

「昭義さん」

和夫の肩越しに、小峰の震えたささやく声がした。突然身体に稲妻が走り、息が詰まる思いを感じた。手を握りしめて、ゆっくりと後ろを振り返って小峰の顔を見た。小峰の硬いその顔は、まっすぐ男の顔を見ていた。和夫はゆっくりと小峰の前をどいて、そしてふたりの顔を代わる代わる見た。男は和夫には目もくれず、小峰の前へ進んで立った。

「裕子」

男はそう言うと、小峰の顔を見つめた。小峰は硬い顔のまま、何も言わなかった。短い髪で、トレンチコートの下にきちんとネクタイを締めているのが見えた。男は三十過ぎぐらいに見え、硬く青白い顔が神経質そうに感じた。とっさに、この男があの昭義と言う手紙の男だと思った。

「裕子」

また、男が名前を呼んだ。小峰は黙ったままだった。和夫は背中に違和感を感じて、全身に鳥肌が立つ感覚を覚えた。そして言葉に詰まったまま、ただ男の硬く蒼白い横顔を見詰めていた。もうひとりの自分が薄笑いを浮かべると、何故か今日観た卒業のラストシーンで『エレン』と叫んだ主人公が脳裏に出てきた。男が二、三歩前に出ると

「随分、待ったよ」

そう言って青白い顔に、無理な微笑みを作った。男の足元に、無数の煙草の吸殻が落ちているのが見えた。そして和夫はまた、息苦しく男を見詰めた。

「あっ‥あ、あのう」

小峰の声が震えていた。そして少しの沈黙が続いた。和夫はこの沈黙がとても長いものに感じて、また身体中から汗が吹き出してくる気がした。そして足元が少し震えている気がした。それを不思議なほど冷めて見ている、もうひとりの自分を感じていた。

「裕子、裕子だよね‥随分、捜したよ」

と男が言った。和夫には、とてもゆっくりと聞こえた。そして、黙って小峰の後ろに下がった。

「手紙、読んでくれた」

男の声が、少し震えて聞こえた。小峰は何も言わずに男を見詰めていた。その硬った顔を見ていると、和夫はこの場にいるのが息苦しくなった。何故か自分が、この二人とは別の場所にいる気がした。

「あの俺、帰るよ」

と言って、小峰の顔を見た。小峰は二度ほど小さく頷いて、微笑んで見せた。何か言ってくれ、と心の中で思ったが小峰は硬い顔に戻ると、和夫から目を離し男の方に向き直って何も言わなかった。和夫も何も言わずに、ゆっくりとその場を離れた。表の角を曲がった所で立ち止まり、微かに震える手でマッチを擦って煙草に火を付けた。真っ暗な空を見上げると、頬に微かな霧雨を感じた。

「どうぞ」

と言う小峰の声が遠くで聞こえて、ドアが閉る音がした。和夫から小さな、とても情け無い声が出た。そして、あの男が今夜小峰の部屋に泊まるのかと思うと、胸が締め付けられた。和夫は胸の中でザワザワするものが次第に膨らんでくるのを感じ、息苦しくなってきてきた。歯を食い縛り、もう一度胸を叩くと両手をポケットに入れて速足で歩き出した。先程の男の青白い顔を思い出すと、和夫は無性に嫉妬を感じて、何も言えずに逃げ出して来た自分が情けなく悔しかった。『情けない、情けない』と、何度も呟いた。その胸の中の声がだんだん大きくなって

「ちくしょう」

と大声で怒鳴って、その場にうずくまってしまった。通り掛かった男達が急に黙ると、振り向いて和夫を見た。そのまま力一杯両手を握りしめ、込み上げてくるのをじっと抑えて歯を食い縛った。そしてうずくまったまま胸の中に向かってもう一度、『ちくしょう』と呟いた。



「カズちゃん、このテープ変えてもいいかな」

と言って、小峰はカーステレオのカセットテープを変えた。和夫は何も言わず、煙草を咥えたまま真っ直ぐ前を向いて車を走らせていた。しばらくすると車の中に♪サウンドオブサイレンス がゆっくり流れてきた。車は大磯ロングビーチを過ぎた辺りだ。小峰が海を見たいと言うので、小田原から海沿いの134号線へ出て来た。一ヶ月程前、あの夜のあの男に会って以来、昨日まで小峰とは逢っていなかった。何度も電話をしょうと受話器を取っては置いた。逢いたいという悲痛な気持ちと、反面声を聞いた途端あの男の影にたまらない嫉妬を感じると思うと、とても怖かった。

「ねえ、何か話してよ」

と言って、ギアシフトを握る和夫の手の上にそっと手を置いた。すぐ側に手の温もりを感じているのに、胸の中で何かの焦りと遠い小峰を感じていた。

「ねえどうしたの、さっきから黙っているけど」

和夫が掛けてるサングラスの間から、瞳を覗き込んで小峰が言った。初めて聞くその長崎訛りに、和夫は振り向いて

「いや、何でもないさ」

と言った声が、和夫は自分でも情けなく聞こえた。

「そう」

と言ったきり、小峰も黙ってしまった。和夫が車の窓を少し開けると、風が音を立てて車内に入ってきた。冷たい風は微かに潮の匂いがして、火照った頬に気持ちが良かった。右側に防風林が一面に続き、海を遮って途切れ途切れに海が見えた。昨日から小峰はあの男の話を一切しなかった。和夫は何度も話を切り出そうとしたが、小峰の顔を見るたびに日向に置いた飴の様に気持ちが萎えてしまった。それがとても息苦しくて、小峰の説明をじっと待った。それは、口に出してしまうと指の垣間からこぼれ落ちる砂の様に、手のひらからすべてがなくなってしまう気がしたからだ。だが和夫の何処かで、いつか小峰を問い詰めてその口からあの男の話が出る事に、とてつも無い恐怖を感じた。やがて左側にパシフィックホテルが見えた。雲が厚く、どんよりとした午後だった。少し開いていた窓を閉めると、車内の温もりが妙にほっとさせた。そして風の音が消えて、車内の小峰を感じた。防風林の途切れ途切れに海が顔を覗かせ、鉛色の海に白い波が立ち上がり、強い風がその白い波をちぎり飛ばしていた。沈黙の中で、車内に♪ボクサー が流れ出した。ふたりは何も言わずに車は海岸通りを走り続け、やがて江ノ島がぼんやりと見えてきた。和夫は昨日の朝、勇気を出して小峰に電話をした。行くあてはなかったが、以前小峰と行った箱根まで足を伸ばした。紅葉の中に湖畔のホテルを遠くで見つけた時、小峰が思いつきで泊まりたいと言い出した。和夫もふと、その気まぐれに乗ってみたくなり偶然にも泊まる事が出来た。小峰を改めて抱く事で胸の中の不安がまるで霧がみるみると消えて、やがて青い空が音を立てて現れる気がした。そして自分自身に小峰のすべてが自分のものだと、言い聞かせる必要があった。だが昨夜小峰を抱きながらも、小峰を連れ去るあの男の影に怯えた。それは狂った様に抱くその手に、いくら力を入れても消えなかった。

「ねえ、中華街で食事しない」

ふいに、また長崎訛りで小峰が言った。和夫は何も言わずに車の時計を見ると四時半を過ぎていた。ゆっくり走っても六時前には中華街に着くかなと考えながらも、胸の中のふっふっと突っかかるものを感じたままだった。

「ああ、いいね」

と、少し間を置いて短い返事をした。和夫は先程から何度も小峰の目線を感じていた。やはり小峰も息苦しいのだろうか、何かと会話のきっかけを探しているように思えた。それっきり、小峰がまた黙ってしまったので、和夫は小さく溜め息をした。そして

「オッケー、それじゃあ美味いもんでも食うか」

と、力強く微笑みながら言った。小峰も和夫の笑顔を見て、硬い顔に笑顔を作って見せた。

「えびワンタンの、凄く美味しいお店があるのよ」

小峰が明るく言った。中華街で和夫の知らない小峰の言う店に、妙に嫉妬した。

「そのお店、少し並ぶけどいいかな」

「並ぶのかい」

「この前行った時は、ニ十分くらい並んだけど、でもそのお店ほんとうに美味しいのよ」

小峰が得意そうに言った。そのお店誰とニ十分も並んだのかと、胸の中が熱くハンドルを握る手に一瞬力が入り、そして肩の力がふっと抜けた。急に、自分はなんと嫌な奴なんだろうと情けない気分になった。やがて江ノ島に架かる桟橋が見えて来た。海を右側に見ながら江ノ島の交差点を越えて海沿いをそのまま走ると、左側にサーフショップとレストランがカラフルに並んでいた。中華街での夕食にはまだ時間があるので、そのまま海を眺めながらゆっくりと海岸沿いを鎌倉に向かって走った。

「長崎にも、中華街があるんだ」

しばらくして、 突然小峰が言った。

「長崎の新地中華街の門に、赤いチャイナランタンの灯りと爆竹の音‥思い出すな」

と小峰が呟くと、小さく溜め息を吐いた。

「中華街の商店街を、爆竹の爆音と鐘や太鼓が鳴り響く中を龍が練り歩くのよ‥龍踊り」

小峰の声が、とても哀しく聞こえた。社内に♪コンドルは飛んでいる が流れた。そしてまた沈黙が続く中を、車は海岸通りを走り続けた。小峰が対向車線で、自転車の後ろの手製のリアカーにサーフボードを載せて、立ち漕ぎしてる少年とすれ違うのを見て微笑んだ。

「同じ海でも、長崎とは随分違う気がする」

海を眺めながら、小峰がぽつりと言った。

「長崎の海と、どこが違うの」

少し間を置いて、和夫が言った。

「どこと言っても‥ん、向こうはこんなにお洒落じゃあないから」

「お洒落」

「そうねそう、もっとシンプルなの」

「シンプル‥じゃあ、長崎の海とどっちが好き」

小峰は何も言わなかった。しばらく走ると、左側に江ノ電のニ両編成の電車とすれ違い、目の淵で少しだけ笑った小峰の横顔を見て和夫も微笑んだ。

「今の電車、あれなら長崎には負けないぜ」

と和夫が言うと

「うんそうね、少し違うけど長崎にも似たような路面電車があるかな」

と、懐かしそうな顔をした。

「やっぱり海辺を走っているの」

「うん、市街地と長崎港沿いを海と並走している」

「さっきの電車も路面を走るよ、路地裏や民家の庭先も走るし‥今度乗ってみるかい」

と聞くと、小峰は少し笑って何も言わずに小さく首を振ってうなずいた。西陽が差し込んできた海面が、薄日の中でいたる所がキラキラとオレンジ色に輝いていた。そこに、風が止んだ海面にぽつんとサーフボードにまたがったサーファー達が、穏やかな海にふわりと浮かんでいるのが見えた。彼らは遥か遠くの沖を見つめ、いつか来る大きな波をじっと待って浮かんでいる事を和夫は知っていた。キラキラした海の上で、奇妙な程静かに揺れているサーファー達が、和夫はなんだか物悲しく見えた。そしてゆっくりと海岸通りを走りながら胸の中が徐々に穏やかに、そして少しだけ優しくなっていく自分を楽しんだ。そしてまた、しばらく沈黙が続いた。

「ねえカズちゃん、ひとつ聞いてもいい」

その小さな声に、和夫は振り向くと小峰のうつむく横顔を見た。そして黙ったままでいると

「カズちゃん、昨日から何だかとても変」

それは、やっと吐き出すように聞こえた。

「変って、どんなふうに」

小峰が少し間を置いて

「話を聞いてないし、イライラしているようで」

「そんな事ないさ」

和夫が、すかさず言った。

「お願い、今日はいつものカズちゃんでいて」

「だから、そんな事ないって言ってるだろう」

和夫は強く言った後、すぐに後悔した。そして小峰はそのまま、黙ってしまった。違うんだと、和夫は胸の中で呟いた。車は鎌倉を過ぎても、そのまま海岸線を走り続けた。互いに言葉に詰まり、静かな車内に♪スカボロフェア が流れた。やるせない気持ちが、胸の中でとても憂鬱だった。しばらくして

「カズちゃん、この間のアパートの前で待っていた男の人、あの人の事でしょう」

と、ぽつりと小峰が言った。

「えっ」

和夫は、そのまま言葉を飲み込んでしまった。身体が熱くなっていくのを感じて、胸が高鳴った。小峰は黙ったまま、海を見ていた。和夫には、その沈黙がとても長く感じた。しばらくして

「ごめんね」

小峰が、海を見ながら言った。

「えっ」

「ごめんね、カズちゃん」

小峰の声が少し震えて、また沈黙が続いた。そのとても長い憂鬱に胸の辺りが息苦しく、だんだんと風船の様に膨らんで、もうそのまま破裂してしまえば楽になれる気がした。

「ごめんね、カズちゃん」

また、少し震える声で言った。和夫が振り向いて横を見ると、小峰の肩が震えて見えた。そして、その声はとても悲しそうに聞こえた。小峰の悲しみを、和夫はわからなかった。何故お互い胸の痛みをじっと我慢しながら、じっと耐えなくてはいけないのだろう。人間は何と人の気持ちが分からないものなんだろうかと、和夫は思った。そしてふと、このままずっと時間が止まって、ふたりでこの海岸通りをいつまでも走っていられたらいいと思った。

「あの人の事‥もう少しだけ、聞かないで」

沈黙の後、突然小峰のとても切ない、小さな声が聞こえた。それはまた、どことなく長崎なまりの匂いがしたせいもあった。

「いいよ、言わなくてもいいよ」

和夫が硬い顔で言って振り向くと、小峰は海を見ていた。車内に♪明日に架ける橋 が流れた。

「いつか‥いつかきっと私の事全部話すから、だからもう少し、もう少しだけ待って」

窓に頭を付けて、海を見ながら言った。そして、息苦しい沈黙がまた続いた。しばらくして

「怒らないでくれよ、俺実は手紙読んだんだ」

「うん‥知ってた」

小峰が海を見ながら言った。先程より少し落ち着いて聞こえた。材木座海岸を通り過ぎて車は海岸通りから市街地に入り、辺りを夕陽を浴びたセピア色の街並みが続いた。トンネルを通り抜けると、葛が浜海岸からまた海沿いの景色が広がり、逗子に来ていた。和夫が、息苦しい沈黙を嫌って

「あのう‥手紙ごめんね」

「ううん、いいの」

「俺その、いろいろあったんだね」

「うん‥もう、終わったから」

ゆっくりと言った声が、切なく聞こえた。そして、またしばらく沈黙が続いた。でも胸の中の息苦しさは何故か消えていた。小峰の長崎訛りが、少しの嫉妬が混ざった、やさしい気持ちにさせた。すれ違う対向車がヘッドライトを付けていたので、まだ明るいが和夫もヘッドライトを付けて海を見た。海面が夕陽でキラキラとオレンジ色に輝いて見えた。遠くに夕陽の中をカモメが二羽、戯れながら翔んでいるのが見えた。また窓を少し開けると、冷たい風が音を立てながら潮の香りを車内に心地よく運んでくれた。紅い夕陽が雲の切れ目のいたる所を濃いオレンジ色に染めて、少しずつ紅く変わって行くのが見えた。空と海の区別がゆっくりとなくなっていき、通り過ぎる海岸沿いの街並みがぼやけたセピア色に見えた。葉山マリーナを通り越して、長者ヶ崎から車はまた海岸沿いに出て走り続けた。そして流れて行くこの海岸沿いの街並みを眺めながら、小峰とまたこの海岸通りの夕陽に絶対に戻って来るんだと、胸の中で自分に言い聞かせた。少し空いた窓から、カモメの鳴き声が聞こえた。



「ところでカズ、今日この後どれくらい時間ある」

研一が時計を見て言った。和夫は何も言わずにバーボンを口に含んで灰皿の煙草の煙を見ていた。

「おいカズ‥カズ、聞いてるのか」

「あっああ、聞いてるよ」

「なんか、うわの空だなぁ」

「ああごめん、で何」

「だから、今日小峰さんと何時だったっけ」

「この後、十二時に待ち合わせした」

「十二時か、じゃあそれまでは大丈夫だよな」

「ああ、何かいい事でもあるのかい」

「じつは頼みがあるんだけど、時間まででいいので、今日ある女の子とデートしてもらえないかな」

「なにそれ冗談だろう、あっもしかしてどうせ研ちゃんの彼女なんだろ」

「違うよ、訳あって今日女の子二人だから時間まででいいので一緒にデートしてくれないか」

「俺は嫌だよ」

と言って、店の奥に目をやった。外人の若い男が赤毛の女の子にテーブルへ肘を付いたまま向かい合ってキスをしていた。ふたりともまだ幼く、中学生か高校生ぐらいだろうと思った。その微笑ましい光景に、思わず顔が緩んだ。そして向き直ると

「ふたりの女の子とイブにデートなんて研ちゃんね、女の子はイブの日は一番好きな男と居たいんだよ、俺が研ちゃんのピンチヒッターなんか出来るわけないじゃんか」

と言って、和夫は小さく溜め息をついた。

「だから彼女じゃあないって言ってるだろう、俺だって馬鹿じゃないから、恵子の後輩だよ」

「言っただろう、小峰さんと約束があるって」

「十二時だろう、それまで頼むよ」

和夫は何も言わずに、バーボンを口に含んでゆっくり飲み込んだ。喉から腹の中へ降りて行くのがわかった。胸の中の塊は一向に消えず、息苦しい程憂鬱な気分だった。そしてすべてがめんどくさく思った。今日、研一が何度も時計を気にしていたのは、この事だったのかと思った。ふと、このまま研一と別れてひとりになる事が、急に恐ろしく思えた。

「研ちゃん、待ち合わせ何時なの」

「えっ、七時にアロー」

煙草の煙を吐き出して、またアローかと思った。

「よかった、カズ少しは気分が晴れるよ、そんな湿った顔しないで凄い明るい娘だから」

「そんなに明るいんじゃサングラスがいるかな」

「ははは、たまには歳下もいいぞ」

「で、四人で何処行くの」

「中華街に予約してある」

「中華街、じゃあ最初からそのつもりだったのか」

「そのつまりだな、本当の事言うと俺頼まれたんだよ、恵子が今日カズに合わせたい娘がいるって」

「えっ、それどう言う事」

「だからカズに紹介したい娘がいるけど、カズには小峰さんがいるからそれでどうしようかと考えたんだけど、恵子がどうしてもクリスマスイブじゃあないとって言うもんで」

そう思えば、今日研一と会った時から何か少しおかしいと思った。特に小峰の事をそれとなく聞いてきたり、遠回しな言い方が研一の優しさを感じて嬉しかった。そして同時に、小峰にチンピラみたいな男がいると言った嘘が、心苦しく恥ずかしかった。紛れもなくそのチンピラが、小峰の婚約者だと言うことを素直に言えなかった自分を後悔した。

「カズ、今日聞いて気持ちはわかるがそんな時じゃあないのもわかるけどよ、会うだけ会ってみないか、せっかくのクリスマスイブじゃないかでもどうしても気が向かなければ来なくてもいいよ、恵子には俺から話すから」

「いや恵ちゃんには本当に悪いんだが、またこの次にもっとうんと可愛い娘を紹介してもらうよ」

「馬鹿言えよ、この次って言われてもあれ以上可愛い娘なんて俺達には無理だから」

「あれ研ちゃん、その娘に会った事あるんだ」

「えっああ、それはそれは可愛い娘だぞ、カズのそのシケた顔にはもったいないけど」

「ははは、でも最初は研ちゃんの彼女かと思って、よりによってイブにダブってデートなんて、惠ちゃんが呆れるのもわかる気がしたよ」

「おいカズ、俺そんなに器用じゃあないぜ」

「いやなかなか器用ですよ、知ってるだけでも」

と言って、和夫が指を折って数える真似をした。

「もういいよ、やっぱ無理かよ」

と言うと、大きく溜め息をした。

「研ちゃん、頼みがあるってその事だったのか」

「まあカズとは夏以来じゃん、それに恵子がその老けた顔を見たいって言うからよ、俺もその老けた顔を見たくなったんだよ」

「なんなら俺の写真、定期入れにでも入れとく」

「それ、魔除けにいいかも」

 と言って研一が笑った。レコードがエリツククラプトンの♪いとしのレイラ に変わった。カウンターの中の男と目が会うと、訳もわからず一緒に笑う研一達の顔を見てまた笑った。結局和夫は、小峰と待ち合わせの時間まで研一達と付き合う事になった。そして店を出てアローへ十分もしないで着き、研一が店の前で腕時計を見ると六時半だった。

「少し早いかな」

と言いながら、店のドアを開けた。

「おいカズ、幸先のいい曲が流れているじゃんか、♪男が女を愛する時 だぜ」

「バカじゃないの、何を期待してるんだよ」

と言って和夫も店の中へ入った。去年と変わらず、入ってすぐのカウンターの隅に小さなクリスマスツリーがぼんやり目に入った。ただ去年と違って、各テーブルの上にキャンドルランプの灯りが赤くぼんやりと灯っていた。マスターの姿は見当たらなかった。テーブル席の隅々にカップルが三組、顔をくっつけるようにして囁きながら座っていた。

「まだみたいだ、ちょっと早かったな」

ふたりは窓側の席に向かい合って座った。

「研ちゃんバーボンでいい、ボトルがあるから」

「ああ、でもお前もうだいぶ飲んでるんじゃない」

「いや、今日は全然酔わなくてよ」

「去年のグッピーみたいなのはごめんだぜ」

「ああわかっているよ、所で今年もグッピーのパーティーに行くの」

「そのつもりだけどカズは去年が初めてだっけ、あそこのクリスマスパーティーはこの辺りの水商売の同業者ばかりなので、毎年夜の十二時に始まって朝までやってるんだよ。小峰さんも毎年来てるからカズも一緒に来たら」

「ああ、行けたら」

和夫はそれ以上言わなかった。

「カズ、去年はみんなに飲まされてあまり覚えてないだろう、大変だったんだぞ特に小峰さんが」

「何度も聞いたよ、もう言わないでくれよ」

「だけど酔い潰れたお陰で好きだった小峰さんと付き合う事になったんだから、みんなに感謝しろよ」

「ああ次の日の朝、小峰さんの部屋だったから」

「カズ酔って小峰さんにべったりだったから、きっと仕方なしに介抱したんだよ」

「ああ、わかってるよ」

と言って、黙ってしまった。トイレに立つ研一の後姿を見て、これからみんなで中華街で食事をする事がとてもめんどくさく思えた。今日小峰は十二時前に店が終わるので、ふたりで何度か行った近くのバーで十二時に待ち合わせをした。今日の待ち合わせは強引にしたので、もしかしたら小峰は来ないのではないかと思った。いや、おそらく来ないだろうと確信しているもうひとりの自分を情け無く感じた。和夫のバーボンのボトルにグラスと、アイスペールに氷が山盛りに入ってテーブルに置かれた。和夫が二つのグラスに氷とバーボンを入れて、そのひとつを研一の前に置いた。そしてもうひとつのグラスで研一の前に置いたグラスに軽く当てると、バーボンを口に含んで目を閉じてゆっくり飲み込むと少しむせた。胸の息苦しさは一向に消えず、胸に手を当てると頭がぐらっとして慌てて目を開けて酔っている自分に思わずニヤッと笑った。研一がカウンターで店の女の子と話しているのを見ながら、バーボンを口に含んでまた目を閉じた。小峰の顔を思い浮かべたが、何故か出て来ない。



小峰のアパートの近くに、二人してよく行く居酒屋があった。その店は和風作りのカウンターだけの小さな店で、ふたりは入り口近くに並んで座った。奥に細長いその店はまだ早い時間の為、他に客の姿はなかった。カウンターの上に何種類もの煮物が乗った大鉢が、五つほど並んでいた。小峰は何処かに出かけた帰りなのか、オフホワイトのブラウスに濃いグレーのタイトスーツを着ていた。

「お店、辞めたんだってね」

箱根に泊まった一ヶ月程あとの休みの日だった。小峰は何も言わず、前を向いて酒をひとくち飲んだ。

「俺には言わないの、俺小島から聞いたんだぜ」

和夫は他人から知った事が、無性に腹立たしかった。小峰との距離が、いきなり離れた気がした。

「言ってもきっと反対するから、それに以前一ヶ月ぐらい会ってなかったでしょう」

「反対って、何が」

小峰は、黙って器に熱い日本酒を注いで飲むと、小さく溜め息をした。和夫はマッチで煙草に火を付けて、小峰の言葉を待った。箱根から帰ったあと、和夫は一度小峰に電話をしたが疲れた声と投げやりな言葉に、電話する前のときめきが萎えてしまった。逢いたい気持ちとあの男が胸の中でスクランブルして、沸騰するかのような痛みにじっと耐えた。

「仕事、今何してるの」

和夫が聞いたが、小峰は何も言わない。

「仕事、してるんだろう」

和夫が前を向いたまま、もう一度聞いた。小峰は何も言わずに細身のライターで煙草に火を付けた。店の中に、小さな音でビッグバンドのスイングジャズが流れていた。

「何で、黙っているの」

和夫が酒を飲み干すと、器に酒を注ぎながらゆっくりと言った。

「キャバレー」

小峰が吐き出すように言った。

「キャバレー」

と、和夫が驚いた声で聞き返した。

「桜木町の小さなキャバレー」

「キャバレー」

和夫がもう一度言った。

「うん、ちょっとお金がいるのよ」

小峰がおでんの大根を、箸でちぎりながら言った。そしてその声が、和夫にはどうにも冷たく聞こえ、自分でも不思議な程小峰が遠い人に感じた。

「そうキャバレー、お金がいるのか」

和夫が小さくつぶやいた。すると突然、身体中に熱い血がどっと湧き立つのを感じた。目をつぶって酒を飲み込むと、胸の中のモヤモヤした物が騒めき息苦しかった。

「それで、なぜお金がいるの」

と、和夫が言って言って小峰を見たが、小峰は何も言わずに酒を飲んだ。

「この間の男と、関係があるのか」

小さな声で和夫が言った後、自分でも身体がざわめいた。そのまま長い沈黙が続いた。小峰が天井を見上げて大きく溜め息をした。そしてみるみる小峰の瞳が潤むと、大きな涙が頬を伝わってカウンターの上に音を立てて落ちた。和夫が煙草を大きく吸うと、溜め息とともに吐き出した。何も言えずに何杯か続けて酒を飲み、沈黙が続いた。店内に流れている曲が、スローなジャズに変わった。しばらくして

「ごめんね」

小峰が手で涙を拭くと、少し笑いながら鼻声で言った。そして溜め息をして和夫に笑って見せた。

「父が、自殺したの」

と、大きく息をして、また慌てて手で涙を拭いた。小峰の声が震えて聞こえ、和夫は何も言えなかった。自殺という言葉があまりにも重たく、胸の中に息苦しく残った。小峰がもう一度大きく息をついて、自分を落ち着かせた。

「ごめんね、カズちゃん‥手紙を読んだから少しは知ってると思うけど、長崎の田舎で私のうち自動車関係の部品を作る工場をやってたの、と言っても従業員が十四五人ほどの小さな工場だけど」

と言って、口元で少し笑った。

「あんな事が起こる五年ほど前に、父の同級生の地元の県会議員の方が、自動車部品を製造している会社を紹介して下さったの」

と言って、小峰が酒をひとくち飲んだ。

「そして、銀行の方にもその議員さんが話を通して下さって、父が銀行からお金を借りて新しい工場に生産ラインの機械を入れて」

と、小峰が言って言葉を止めると、手で涙を拭いて煮物の大根を口に入れた。

「三年程はとても忙しかったけど、四年目あたりからその親会社が傾きかけると、その煽りをもろに被ってうちも倒産。父は追い詰められると、そのまま行方不明に」

と言うと、また手で涙を拭いて酒を飲んだ。そして沈黙がまた続いた。しばらくして

「二週間後に山の中の崖下で、車の中の父の遺体が見つかった」

小峰がそこまで話すと、小さく溜め息をしてまたひとくち酒を口に含んだ。

「私、幼馴染みの婚約者がいたの、その県会議員さんの長男の方、でもお父様は結婚に反対していて」

と言ってまた溜め息をして、酒を口に含んだ。和夫は、小峰の口から婚約者と言う言葉を聞いて、胸の中のやるせない気持ちがざわめいた。

「父のお葬式が終わると父の死や借金の残債の件で、私もう体も気持ちも限界で」

と言って、酒を注いで飲んだ。

「父が、その県会議員さんに連帯保証人になってもらっていたのを知って‥私、家を飛び出してしまったの」

と言って、小峰は唇を噛んだ。

「母と妹を残して家を飛び出して来た事が、どうにも自分が情けなくて」

小峰の声が震えて、また手で涙を拭いた。和夫は何か言葉を探したが、見つからなかった。小峰もそれ以上言わずに、酒を自分で注いで飲んだ。そして、また手で涙を何度か拭いた。

「カズちゃん、覚えている」

しばらくして、突然小峰がぽつりと言った。

「カズちゃんと初めて行った山下公園‥‥あのマリンタワーの上から見た夜景、私一生忘れない」

酒を一気に飲んで、小峰が天井を見た。その横顔に涙を見て、たまらなく抱きしめたい衝動に和夫も一気に酒を飲んで堪えた。

「カズちゃん、私ね‥私、二十五日に長崎に一度帰る事にしたの」

小峰が、ゆっくりと器に酒を注いだ。和夫は驚いたが、何も言えなかった。そしてあの男の顔が浮かんだ。急に言いたい事や聞きたい事が胸の中に溢れて来たが、じっと押し殺した。しばらく沈黙が続くと店内に切なく歌うジャズが流れて来た。まだ客の姿はなく、和夫と小峰の二人だけだった。

「かおりと、母さんに逢いたい」

突然、絞り出すように言った小峰の小さな声が、切なく聞こえた。長崎訛りのそのひと言が、このまま小峰は戻って来ない気がした。そして同時に、小峰を長崎に行かせたくないと強く思った。小峰を失う事に恐怖を感じて胸が震え、急に息苦しくなって手を握りしめた。小峰が長い髪をかきあげるたびに、小峰の匂いがして胸を締め付けられた。そして訳の分からない恐怖心で、胸が詰まった。二人が店を出ると、外はいつのまにか雨が降っていた。それは霧のような冷たい雨だった。その霧雨は時より吹く風に舞って、外灯の下でキラキラ輝いていた。小峰が少し速足で歩き、和夫は何も言わずに後ろを付いて歩いた。お互いに無言のまま、五分ほどで小峰のアパートの前に来た。小峰がドアの鍵を開けて、和夫は少し離れたところに立って小峰を見ていた。

「どうぞ」

と言う小峰の顔に、少し微笑みを感じた。和夫はためらった。でもなぜためらっているのか、自分でもわからなかった。ポケットに手を突っ込んで立っている和夫を見て

「さあ、濡れるでしょう。どうぞ」

と言って、ドアを開けたまま小峰は部屋の中へ入って行った。部屋に灯りが付き、小峰が石油ストーブに火を付けているのを和夫は玄関のドアの所まで来て見ていた。小峰が少し不思議そうな顔をして、玄関まで来ると

「そんな所に立ってないで、さあどうぞ」

とまた言って、ヤカンに水を入れて火を付けた。和夫はふと気がつくとコートを着たまま、部屋のストーブの前で熱いコーヒーを飲んでいた。小峰がコーヒーカップをテーブルの上に置いたのを見て、いきなり抱き寄せた。それは突然の衝動だった。小峰が腕の中で拒んだので和夫は力を抜いて、座り直した。長い沈黙が続き、泣き出したい気持ちを抑えた。和夫はコーヒーカップを両手で持って、好きになる事ってこんなにも大変だったのか、と不思議なほど冷めたもうひとりの自分が胸の中で言った。

「いつ、帰って来るの」

和夫が、コーヒーカップを見詰めながら言った。

「えっ、向こうへ帰ってみないとわからない」

潤んだ瞳でストーブの灯りを見ながら言った。

「何故、わからないの」

と言って、顔がどっと熱くなるのがわかった。

「だって帰ってみないと、私あんなふうに家を飛び出してしまったから」

「帰って来るんだろう」

和夫は言った後、胸の中が重たく騒めいた。

「えっ、うん」

なんとも頼りなく聞こえた。

「俺もその、一緒に行っちゃだめかい」

言った後、自分でも驚いた。小峰も少し驚いたようだが、すぐに微笑んで笑って見せた。和夫は顔の血の気が引いていくのが、自分でもわかった。息苦しくなって溜め息を付いて

「俺、一緒にいたいんだ、この先もずっと」

言った後、胸の中が少し楽になった気がした。小峰は何も言わずにストーブの灯りを見ていた。

「俺、時々ふっと思うんだ、今たった今ここにいて 欲しいと、それは仕事中だったり電車の中だったりそして、ひとりで部屋にいる時だったりみんなとわいわい飲んでいる時でさえふっと思うんだよ、今ここにいて欲しいと」

和夫が、ゆっくりとぎこちなく言った。しばらく、二人とも何も言わずにストーブの灯りを見詰めていた。トラックが通り過ぎる音の後に、遠くで犬の遠吠えの声がぼんやりと聞こえた。小峰は今何を考えているのだろうかと、和夫はふっと思った。そして

「帰って来たら、帰ったら俺と暮らさないかい」

それは、ふっと出て来た言葉だった。言った後、自分でも驚いた。声が震えているのがわかり、思わず手を握りしめた。小峰は何も言わなかった。和夫は何か言って欲しくて、小峰の顔を見た。小峰はストーブの灯りを見ていたが、その瞳が濡れていた。少しの沈黙の後に小さな声で

「ありがとうカズちゃん、とても嬉しい‥でも、無 理なのよ、わかってカズちゃん」

「‥‥何が、何が無理なの」

和夫はやるせない気持ちが、胸の中でどんどん膨らんでいくのが、息苦しくなった。

「ごめんね、カズちゃん‥わかって、無理なのよ」

「何故」

和夫が強く言った。

「カズちゃんはまだ若いわ、私なんかと‥この先、もっともっといっぱい恋をして、きっといい女の娘が見つかるから」

と言って、小峰は無理な笑い顔を作ってコーヒーを飲んだ。そして、口元で笑いながら

「カズちゃんの気持ちはとても嬉しい‥でも、私なんかに引っ掛かっちゃだめ。いつか若くて素敵な女の娘が現れるから、カズちゃんにとっても似合う、笑顔の可愛い娘がいつかきっと」

小峰の顔にストーブの灯りが照り返って、ゆらゆら と薄赤く燃えるように見えた。

「俺とは、だめなの」

少しの間をおいて、和夫がゆっくりと言った。

「ううん違うの、今の私じゃだめなの。わかってよカズちゃん」

「何を、何をわかれって言うの‥じゃあ俺待ってる、だめでなくなるまで待ってる」

「ごめんね‥ごめんね、カズちゃんもう言わないで、お願い私が惨めになるから」

と言って、小峰が顔をしかめた。

「いつもごめんばっかりだね‥俺じゃダメなのか、俺じゃダメなのかよ」

小峰は何も言わず肩を震わせて、瞳に涙が溢れているのが見えた。和夫は胸の中のこの気持ちを、もっともっと伝えたいのに、言葉が詰まって出て来なかった。その苛立ちと不安が、渦を巻いて膨らんでいく恐怖を感じた。気が付いたら、和夫はアパートの外に飛び出していた。外は霧雨が降っていた。街灯に霧雨がキラキラと輝いて、まるで小さな虫が舞っている様に見えた。震える手でポケットから煙草を取り出すとマッチで火を付け、そして街灯に舞う霧雨をしばらく見詰めていた。大きく煙草の煙を吐き出して、冷めていく自分を感じた。それは突然だった。和夫がポケットに手を入れて駅に向かって歩き出すと、急に込み上げてきた。慌ててポケットから手を出して口を覆うと、その場にうずくまった。女達の声が聞こえて顔を上げて見ると、前から3人の若い女達が大きな声で笑いながら歩いて来るのが見えた。和夫は震える肩のまま立ち上がって、脇の路地へ体を入れてうずくまった。後から後から込み上げてきて、両手で口を覆った。込み上げる声が両手から漏れて、背中が大きく震えた。女達の声が近づいて来て、両手で力いっぱい口を覆った。冷めた自分が慌てたが、口を覆ったまま声を出して泣いた。女達のざわめきと笑い声が急に止まって、静かになった。和夫はそのまま霧雨の舞う路地で、うずくまって泣き続けた。



「カズお前今寝てただろ、恵子達が来たぞ、おい飲みすぎるなよ今年は大丈夫だよなあ」

研一の声で目を開けて、顔を上げた。恵子がコートのポケットに手を入れて、歩いて来るのが見えた。

「お久し振り、カズちゃん」

と言って、微笑みながらコートを脱いだ。和夫は慌てて立ち上がり

「あっ恵ちゃん、久し」

「ちょっと待った、今少し見ないうちにまた綺麗な女になったなって言おうとしたでしょう」

と、和夫の言葉を遮って、恵子が笑いながら言った。ダークグレーのタイトスーツにオフホワイトのブラウスを着た恵子に、大人の女を感じた。

「何だよ、今俺も言おうとしたんだよな」

と、笑いながら和夫が言った。

「ほらやっぱりね、顔に出てたもん」

と、恵子が笑いながら言った。

「相変わらずだな、恵ちゃん元気そうでその元気分けてくれよ」

「はははカズちゃん、元気ないのか」

「ううん恵ちゃんの顔を見たら、元気が出たよ」

「あのう、お久し振りです」

と、恵子の後ろから声がした。

「えっあの、ケイコ」

「はい、あのケイコです」

と、和夫の前に出てきて微笑んだケイコは、パステルブルーのシャネルスーツに白のブラウスで、大人びて見えた。手に、見覚えのある黒い毛皮のハーフコートを抱えていた。四人が座ると和夫が恵子に白ワインとケイコにコーラを注文した。

「カズちゃん驚いたでしょう、去年のクリスマスパーティーでケイコとは意気投合して、逗子のお宅にも何度かお泊まりさせて頂いて、お母様ともすっかり親しくさせてもらっているのよ」

「俺もバーベキューに呼ばれて、恵子と一緒に逗子のケイコの家に行ったよ」

「えっ研ちゃん、なんで俺には何も言わないんだよ、そうか少し驚いたよ」

「カズ、だってお前それどころじゃなかっただろう、それにお互い仕事が忙しくてなかなか会う機会もなかったじゃんか」

「でも随分久しぶりだね、なんかほんとうにあのケイコなのか」

「はい、あのケイコです」

「ああ確か、去年のクリスマスイブだったよな」

「はい、ちょうど一年振りです」

「カズ一年振りなんて、何だか七夕みたいだな」

「あら研ちゃん随分と素敵な事を言うんだね、何だかフランス映画みたいじゃない」

と恵子が言って、ケイコに微笑んだ。

「ははは、そんなにカッコ良くないよ」

と、和夫もケイコを見て笑いながら言った。

「恵ちゃんと研一さんの方が、何て言うかフランス映画みたいです」

と、ケイコも笑いながら言った。

「恵ちゃんの何気ない気だるさ、あれ長野県が産んだカトリーヌ・ドヌーブと言われているんだよ」

と、和夫がケイコに言うと

「カズちゃん、今作ったでしょう」

と言いながら、恵子が和夫の肩を指で押した。白ワインとコーラが来た所で恵子がグラスを持って

「それじゃ乾杯しましょう、今夜のクリスマスイブと、そしてそうだな、カズちゃんとケイコの一年振りの七夕に乾杯」

それぞれに乾杯、と声を出してグラスを合わせた。


八時前に店を出て、四人はタクシーで中華街へ向かった。途中渋滞に遭ったが、大分時間に余裕があるので店の近くの東門(朝陽門)で車を降りた。和夫は朝陽門を見上げると、すぐに小峰の言っていたチャイナランタンと爆竹の音が浮かんだ。そして湘南の海岸通りと、長崎訛りで話す小峰の気怠い顔が思い浮かんだ。中華街は人が溢れて大変な賑わいだったが、予約していたのですぐに待合室へ通された。四階建ての店内は、外の賑わいと相まってとても静寂で落ち着いていた。微かにお香の匂いがして、店内に不思議な楽曲が流れていた。

「研ちゃん、凄いな‥なんか高級感が半端ないけど、大丈夫なのか」

和夫が、辺りを見渡しながら言った。四人はエキゾチックな気分で待合室で座ると、すぐに黒いジャケットを着た女性が来た。ジャケットの中に、錦糸の刺繍を施した赤いチャイナ服を着ていた。深いサイドスリットから黒い網タイツが生々しく見えた。研一と親しそうに話しながら軽く抱き合って、声を出して笑った。そして、四人はエレベーターで三階の個室に通された。真ん中に大きな円形のテーブルがあり、壁一面に金の刺繍の中で龍や孔雀が舞っていた。老酒で乾杯をするとコース料理が始まり、次々と中華料理が出てきて四人ともよく食べた。デザートに冷たい杏仁豆腐とメロンが出て来ると

「俺もうだめ、こんなに食べたら冬眠しちゃう」

と研一が言って、笑いながら大きな溜め息をした。

恵子とケイコがデザートは別腹だと言って研一達の分まで食べた。研一が会計を済ますと、先ほどの黒いジャケットを着た女と笑いながら軽く抱き合って頭を下げた。四人が店を出ると、先程の人の賑わいは嘘のように静まり返っていた。冷たい風が吹いていたが、酔っているせいか心地よかった。恵子とケイコが腕を組んで先を歩き、研一と和夫がその後ろを並んで歩いた。すると突然、恵子とケイコが腕を組みながら歌い出した。


♪あなたの好きな人と 踊ってらしていいわ

優しい微笑みも そのかたにおあげなさい

けれども 私がここにいることだけ

どうぞ 忘れないで


声質の違う二人の歌がとても心地よく、通り過ぎる人達が振り返って見ていた。冷たい風が吹いて、貨物船の汽笛の音が聞こえた。山下公園の入り口の交差点に差し掛かった所で、和夫が振り返ってマリンタワーを見上げると小峰の熱い顔が浮かんで思わず胸に手をあてた。身体中がざわざわしているのが自分でもわかり、赤と青のマリンタワーの灯りが遠くまで伸びているのを見て、もう一度小峰とあの灯りを見てみたいと胸にあてた手を握り締めた。恵子が和夫に寄って来て

「カズちゃん、研ちゃんがクリスマスプレゼントを買ってくれるって言うので申し訳ないけどケイコをお願いできるかな、時間が来たらタクシーに乗せてね、よかったらカズちゃんも一緒にグッピーにおいでよ、いろいろあると思うけどシンプルにね」

と言って、恵子が和夫の肩を叩いた。和夫は、言葉に詰まって恵子の顔を見詰めていると、恵子が和夫の顔を見ながらもう一度肩を叩いた。交差点でタクシーを拾って二人が乗り込むと、恵子が車の窓ガラスをいっぱいに開けて

「バイバイあとでね、楽しんで来てね」

と、ケイコに言って手を振ると、和夫を見て微笑んで小さくうなずいた。タクシーが走り出して二人と別れると、冷たい風に首をつぼめ目を細めるケイコの顔を見て、思わず笑ってしまった。

「寒いな、ほんとうに公園の中へ行くの」

と、和夫が聞くと

「はい山下公園、私大好きなんです」

「もうこんな時間じゃ誰もいないかもな、それに港は海風で寒いぞ、大丈夫」

「はい私、和夫さんとこの公園を腕を組みながら歩いている夢を見た事があるんですよ」

「へええっ、それってほんとうに俺なのか」

「はい、もちろん和夫さんです」

と、笑いながらケイコが言った。

「ここへは、よく来るのかい」

「いえ今日が三回目です、小学生の頃母とあと高校生の時に友人達と、港の見える丘公園や元町に中華街とマリンタワーそしてここ山下公園、それって定番のデートコースだとかで、私もいつか素敵な人と来たかったんです」

「それが、俺でよかったのか」

「はいもちろん和夫さんで、とても嬉しいです」

「そうか、俺みたいので申し訳ないけど喜んでもらえて、俺も嬉しいよ」

「こんなクリスマスイブに、申し訳ないです」

「いやいいんだよ、でも少し驚いたよ、研ちゃん何も言わないから、普段からサプライズが好きなんだけど本人はサプライズのつもりがなくて」

「実は私、恵ちゃんにクリスマスに和夫さんと逢えないかなって、前から言ってたので」

「そう、俺でよかったらいつでも気軽に声かけて、あっでも今仕事がやばいから、いつでもってわけじゃないか」

「はい、私は暇ですから私の方がいつでもです」

「ははは、ボーイフレンドはいないのか」

「はい、いません」

「ケイコ可愛いから、まわりがほっとかないと思うけどな、確か今年から大学生だったよね」

「はい、幼稚園からの女子大で、教育学部です」

「幼稚園からって凄いな、そう教育学部じゃあ学校の先生か」

「はい、小さい頃からの目標だったので」

「そうか、小さい頃からの夢なのか‥ケイコならきっと素敵な先生になるんだろうな」

「はい、素敵な先生になります」

「うわ、凄い自信だね」

「はい、小さい頃からの目標なので」

「その、はいはいって言うのはやめないか」

「あっすいません、気になる様でしたらやめます」

「ここで立ち話も何だから、公園の中へ行くか」

「はい、いやごめんなさい」

「ははは、もういいよ」

ふたりは交差点を渡って公園の中へ入った。身体がふわっとして、酔っているのがわかった。和夫は腕時計をのぞくと、十一時を過ぎていた。急に胸の中が騒めいて、小峰の顔が浮かんで来た。寒さと時間のせいなのか、公園は閑散としていた。冷たい港の風に和夫がケイコを引き寄せ、そしてケイコの冷たい手を取ってコートのポケットに入れるとケイコが和夫の肩に顔を寄せて、ふうっとため息を吐いた。そしてケイコが、その冷たい手に力を入れて握りしめて来た。洗った髪の匂いがして、去年のあのジキルとハイドの無邪気なケイコが懐かしく思い出された。和夫はふと、この瞬間が不思議な気がして、振り向いてケイコの顔を見た。何を返せばいいのか分からず、和夫はただ手を握り返した。その冷たさだけが、やけに現実だった。そして、思わずポケットの中の手に力が入った。

「今日は食べ過ぎたよ、まだ苦しいよ」

と、笑いながら和夫が言うと

「私もこんなに食べたの、たぶん生まれて初めてだと思う」

「ははは、生まれて初めてか」

と和夫が笑った。ゆっくり歩いて岸壁まで行くと、港に昔から停泊している氷川丸の大きな船体に、灯りが無数に輝いているのが見えた。海面は真っ暗で、街灯と停泊している貨物船達のキラキラした灯りとで、とてもエキゾチックに思えた。左の大桟橋に、大きな客船の無数の灯りが賑わって見えた。ふたりは冷たい風を避けて公園の中へ戻ると、噴水広場の近くのベンチに身体を寄せ合って座った。隣のベンチにも、一組の男女が大きなブランケットで身体を寄せ合って座っていた。

「寒いだろう、大丈夫かい」

「寒いけど大丈夫です」

和夫が、マフラーを取ってケイコの首に巻くと、ケイコが慌てて外して

「だめですよ、風邪ひきますよ」

「いいんだよ、俺だいぶ飲んでるから」

「だって、風が」

「いいんだって、いいから首に巻けよ」

「でも、私」

「いいから、使ってくれよ」

ケイコが少し笑って、マフラーに顔を埋めると

「あったかい、和夫さんの匂いがする」

と、少しかすれた声で言った。そしてケイコがマフラーに顔を埋めたまま、目で隣のベンチへ促した。和夫が振り返って見ると、男女が抱き合って熱いキスをしていた。

「いいんだよ今日は、クリスマスイブだから」

「そうか、クリスマスイブだからいいんだ」

と言って、ケイコが笑った。和夫が腕時計を見ると十一時二十分を過ぎていた。また、胸の中が騒めいて来た。すると、夜空にマリンタワーの赤と緑の灯台の灯りが見えて、小峰と見た夜景が蘇って騒めいた。目を閉じると身体がふわっとして、酔っている自分を感じると少し笑った。

「和夫さん、去年のクリスマスイブに言ったこと、覚えています」

「えっ、なに」

「ほら、あの西口の大きなクリスマスツリーの前で来年のクリスマスイブには、これよりももっと大きなクリスマスツリーを用意して、そして雪を降らせるって」

「そう言えばそんなこと言ったな、思い出したよ」

「私感動して、あんなことをきっと世界中探したって言われた人いないですよ」

「ああ、確かそんなこと言ったな」

「私、一生忘れない」



三日前だった。和夫は、働いているデパートの屋上に通じる階段のフロアーの公衆電話の上に、10円玉を重ねて置いて小峰に電話を掛けた。呼び出し音を十回数えたが、鳴り続けた。小峰の部屋の中で、鳴り続ける呼び出し音を想像しながら待った。十五回目で受話器を取った

「‥‥はい」

しばらくして、それはとても静かな声だった。

「和夫です、寝ていた」

「‥‥」

「その、帰るんだろう‥二十五日に帰るんだろう」

小峰は何も言わず、沈黙が続いた。

「長崎に、帰るんだろう」

少し震えて言って、受話器を持ち替えた。何も言わない小峰に、気持ちがだんだんと萎えて行く事に身体中で不安を感じた。小さく溜め息を吐くと

「やっぱり、長崎に帰るのかい」

と、また和夫言った。声が掠れていたのが、自分でもわかった。

「‥‥言ったでしょう」

突然、小峰の冷めた言葉にだんだんと訳の分からない不安がまして行くのを感じた。

「そうか‥帰って、来るよね」

と言ったあと、自分でも驚いた。小峰は何も言わず、沈黙が続いた。しばらくして

「何か言えよ‥俺、待っているから」

と、和夫が少し震える声で言った。小峰は何も言わないまま、まま沈黙が続いた。

「帰って来るよね」

と、和夫がまた言った。

「なあ、待っててもいいよな」

沈黙のあと、しばらくして

「カズちゃん‥私、帰れなくなっちゃうじゃん」

と、小峰が小さな声で言った。

「俺、待ってるから」

「カズちゃん‥お願い、そんなこと言わないで」

小峰の声が震えていた。

「待ってちゃ、だめなの」

「お願いだから、そんなこと言わないで」

小さく溜め息を吐くと、小峰がゆっくりと言った。

「俺‥待ってるから」

「そんなこと言ったら、帰れなくなるから」

また、小峰の声が震えていた。

「俺、絶対待ってるから」

何も言わない受話器の向こうで、小峰が泣いてる気がした。フロアーに、屋上からの子供達のはしゃぐ声が広がった。

「帰って、来るよね」

と和夫が言って沈黙が続くと、小峰がマッチで煙草に火を付ける音がした。ゆっくりと煙を吐き出して、そして大きく溜め息を吐くと

「カズちゃん私ね‥私」

と言って、また沈黙が続いた。ピーという音で、和夫は10円玉を入れて受話器を持ち替えた。店内に流れている♪ラストダンスは私に のBGMに気付いて、小峰の次の言葉を待った。

「カズちゃん、私‥」

と言って、また小峰が言葉に詰まった。

「帰って、来るんだよね」

と言って、何故か和夫は動揺した。そして

「逢おう、逢いたいんだよ」

和夫の少し震える声のあと、また沈黙が続いた。小峰が溜め息を吐くと

「カズちゃん‥‥私、長崎には居られないんだ」

小峰のゆっくりした、とても小さな声だった。それはとても哀しく聞こえた。

「えっ」

和夫は言葉に詰まって、小峰の言葉を待った。そしてまた、静かな沈黙が続いた。フロアーに差し込むオレンジ色の西陽が沁みて、受話器を握り締める手を持ち替えた。

「私‥長崎には居られないのよ」

と、小峰がまた言った。

「えっ」

和夫は小峰の言葉が理解できなくて、また沈黙が続いた。そして次の言葉を待った。小峰が大きく溜め息を吐くと

「私‥私、彼のお父様に犯されたの」

ゆっくりと、小峰が言った。

「えっ‥何」

少しの沈黙のあと、急に小峰を抱きしめたい気持ちが、いたたまれないほどに溢れた。そしてまた、長い沈黙が続いた。

「私が、ばかだから‥‥ごめんね」

小峰の小さな泣き声に身体が硬くなり、言葉に詰まって何も言えなかった。何故そんな事言うんだ。と、胸の中で叫んだ。

「ごめんね‥カズちゃん」

小さな声で、吐き出すように小峰が言った。

「帰る前に、もう一度逢おう」

和夫が強く言った。しばらくして

「ごめん」

と、小さな声で小峰が言った。

「逢いたいんだよ、もう一度あおうよ」

「カズちゃん」

「もう一度、逢ってよ」

和夫の声が、掠れていた。小峰は何も言わず、また沈黙が続いた。

「俺、逢いたいんだよ」

「‥‥お願い、そんなこと言わないで」

泣きながら小峰が言った。

「十二時前には、お店終わるだろう‥あの、向かいのローズで待ってるから」

「‥‥」

「十二時にローズで、俺帰る前にどうしても逢いたいんだよ」

「逢ったら私、帰れなくなっちゃうじゃない」

「お願いだから逢ってくれよ、俺待ってるから」

小峰は何も言わず、また沈黙が続いた。そして

「ごめんね‥私、行かない」

と、とても小さな声で小峰が言った。

「俺、待ってるから」

しばらくして、静かに受話器が置かれて信号音が続いた。和夫は受話器を握りしめたまましゃがみ込んで、屋上へ通じる階段のフロアーを眺めた。西陽でオレンジ色に染まったフロアーを見上げると、人の声が聞こえた。フロアーの陽だまりに、若い母親が幼い女の子にソフトクリームを食べさせているのが見えた。女の子が口の周りを白くして、母親に催促していた。母親が髪を掻き上げてゴムで束ねると、ピアスが西陽に輝いて光った。和夫は受話器を握りしめたまましゃがみ込んで、その輝くピアスをしばらく見詰めていた。



遠くで、低い汽笛の音が長く響き渡った。空は曇って星の姿もなく、海と空の区別もつかないほど暗かった。先程からの冷たい海風が止んで、少し暖かくさえ感じた。

「あの、さっき恵ちゃんと歌っていた曲とても素敵だったな」

「あっあれですか、恵ちゃんが弾き語りでよく歌ってくれるんです」

「たしか、越路吹雪」

と言って、和夫笑った。

「この歌、研一さんと付き合うコツなんですって」「へえ、そうなんだ」

「この曲、好きなんですか」

「ああ、俺も恵ちゃんの弾き語りで、前に聴いたことあるよ、もう一度歌ってくれないか」

「えっ、ここでですか」

笑いながら、ケイコが言った。

「ああ、歌ってくれる」

「でも」

と言って、ケイコが辺りを見渡した。

「あの、ここじゃあみなさんに迷惑をかけてしまうから今度、機会があれば」

「今、歌ってよ」

「でも」

「ケイコの歌、もう一度聴いて見たいな、なんか声がとても素敵だったから」

もう一度、ケイコが辺りを見渡して

「でも、ここじゃあ」

「ケイコの歌う声が聴きたいな」

また、ケイコが辺りを見渡して

「それじゃあ、歌いますね」

と言って、ケイコが息を吸うと先程よりもゆっくりと歌い出した。


♪ あなたの好きな人と 踊ってらしていいわ

  優しい微笑みも そのかたにおあげなさい

  けれども 私がここにいることだけ

  どうぞ 忘れないで

  ダンスはお酒みたい 心を酔わせるわ

  けれどお願いね ハートだけは盗らないで

  そして私のため のこしておいてね

  最後の踊りだけは

  あなたに夢中なの

  いつか二人で誰もいないところへ旅に出るのよ

  けれど送って欲しいと頼まれたら断ってね

  いつでも 私がここにいることだけ

  どうぞ 忘れないで

  きっと私のためのこしておいてね

  最後の踊りだけは

  胸に抱かれ踊る ラストダンス

  忘れないでね


ケイコの暖かい声が響いて、和夫の胸に沁みた。突然隣の男女に、ケイコが頭を下げた。振り向くと笑いながら男女も頭を下げた。

「ありがとう、凄く素敵だった」

「うあ、ありがとうございます」

とケイコ言って、輝く瞳で笑顔を見せた。

「惠ちゃんも素敵だけど、ケイコの温かい声に凄く感動したよ」

「嬉しい‥和夫さんにそう言ってもらえて、私もとても嬉しいです」

ケイコがはしゃいで言った。

「あの、これ」

と言って、ケイコがクラッチバッグから赤と緑の掛かった箱を取り出した。

「メリークリスマス」

と、小さな声で言って、和夫の前に差し出した。

「えっ、何これ」

「腕時計です」

「えっ、どうしたの」

「和夫さんに似合う時計を二ヶ月ほど前からいろいろ探して、やっと見つけたので使ってください」

ケイコが微笑むと、小さく頷いた。

「えっでも俺、俺は何も用意してないのに」

「使ってください、お願いします」

「えっその、俺」

「もう行くのでしょう、待ち合わせ」

「えっ、知ってたの」

「いえ、何度も時計を気にされてたから、あの綺麗な方ですね」

「えっ‥‥知ってるの」

「去年のグッピーの、あのひとでしょう」

「何で」

「だって、酔った和夫さんをずっと付き添っていたので‥とても綺麗な方ですね」

「ごめん、一年振りなのに‥ごめんね」

「いえ、とても素敵なクリスマスイブでした」

と言って、ケイコが少し笑った。

「久し振りだったのに、ごめんね」

「私こそ、ごめんなさいこんな日に」

「いやその、来ないかも知れないんだ」

「えっ」

「その、彼女来ないかも知れないんだ」

「えっいや、きっと待っていらっしゃるから」

「それが‥」

「さっ、待たせたらかわいそうですよ」

と言って、ケイコが立ち上がると、和夫に手を差し出した。ケイコにそう言われて、ほんとに小峰が待っている気がして来た。

「さあ早く、お見送りさせてください」

「いや恵ちゃんと約束したし、ケイコをタクシーに乗せるまでが俺の責任だから」

「それじゃあ和夫さんをタクシーで送って、そのままその車で私がグッピーに行きます」

と言って、ケイコがクリスマスプレゼントの箱を和夫のポケットに入れて、そして手を引っ張って歩き出した。歩きながら、もしかしたらこれは去年と逆なんじゃないかと和夫は思って微笑んだ。突然の冷たい風に、ケイコが和夫の腕を両手で抱きしめるようにしがみついて来た。しばらく歩くと、右奥の木立の向こうの方がひときわ輝いているのが見えた。ケイコが振り向いて和夫を見て、そして手を引っ張って早足で歩き出した。木立を抜けて広場に出たところでふたりは立ち止まると、そこには去年よりもはるかに大きなクリスマスツリーがふたりの前に現れた。いきなりの灯りに、しばらくふたりともその場に呆然と立ちすくんだ。和夫は鳥肌が立つのを感じて驚いたが、不思議と冷めた自分にも驚いた。ケイコの肩が震えているのが見えたので、そっとケイコの顔を覗くとクリスマスツリーの灯りで瞳が燃えるようにキラキラと輝いていた。そして次から次へと涙が頬を伝わっているのが見えて、思わず震えるケイコの肩に手を置いた。そのまましばらくふたりとも大きなクリスマスツリーの輝く灯りを見上げていた。和夫自身も、身体の震えを感じて思わず微笑んだ。突然、遠くで汽笛の音が低く聞こえた。小さく溜息を吐いて腕時計を覗くと、十二時を少し過ぎていた。急に、暖かくなった気がすると和夫の顔の前に、ふわっと舞い落ちるものが見えた。えっ、と思い目で追った。そしてまた、ふわっと真っ白な雪が舞い落ちてケイコの頭に止まった。ケイコも気づいて振り向いて和夫の顔を見ると、ふたりの顔の間をふわっと大きな雪がゆっくりと舞い落ちた。とっさに差し出したケイコの手のひらに、ふわりと舞い落ちてみるみる消えてしまった。ケイコが振り向いて辺りを見ると、大きな雪が白い花びらのようにゆっくり舞い降りて、肩の震えが大きくなった。和夫も辺りを見渡すと、大きな雪が辺り一面に舞い降りていて、身体が熱くなった。ケイコが肩を大きく震わせながら和夫を見て、何か言おうとしているが言葉にならなかった。見詰めるケイコの長いまつ毛が、ツリーの灯りでキラキラと輝いていた。濡れた瞳で和夫を見て、その震えるくちびるが

「ありがとう」

と、言ったのがわかった。和夫が微笑むとケイコを見て、ゆっくりと、小さく首を振った。

「いや‥‥君が、雪を降らせた」

ツリーの灯りで燃えるようなケイコの顔が、一瞬不思議そうな顔に変わった。そしてその顔の前を、大きな雪が幾つも舞い降りた。その不思議そうに見詰めるケイコの顔を見ながら、胸の中でもう一度自分に向かって言った。

「君が、雪を降らせた」

 

            第 二章  終わり

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