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   第三章 エンドレス ゲーム

第一章 最終電車 第二章 君が雪を降らせた に続き 第三章 エンドレス ゲーム を投稿しました。前作の 第一章 第二章 は40年ほど前に書いた作品を、最近編集し直して投稿したのですが、第三章は友人から 是非続きを‥ と散々催促されて、この高齢での感性で詰まりながら書いた作品なので、情感がうまく繋がっているか心配です。今回は書き進むにつれて、自分でも なんて切ないんだろ‥ と、歳のせいか思いながらの作品です。半分以上はフィクションですが、当時の記憶を織り交ぜて二ヶ月ほど掛けて詰まりながらも投稿できたので、ひとまずほっとしました。 連載なので、気力があれば 第四章もそのうちに投稿出来ればと思います。 読んで頂く事に感謝します。そして、是非感想をお聞かせ下さると嬉しいです。

   第三章 エンドレス ゲーム

「あら、なんだよ‥研ちゃん、いないのかよ」

久し振りに研一と横浜駅西口で待ち合わせをした。和夫は相変わらず時間にルーズな所があり、5時の待ち合わせに20分ほど遅れて横浜駅西口に着いた。待ち合わせ場所の地下街へ降りる階段の所へ来たが、研一の姿が見当たらない。時折強く吹く風が冷たく、思わず手袋をした手で両耳を塞いだ。辺りを見回して5分程待って見たが改札口まで戻り、伝言板を探した。案の定 (カズ 20分待った 居酒屋潮騒で待つ 研一 )の伝言板を見つけた。

「へえっ、20分ぐらい待ったのか‥‥もう少しだったのにな‥居酒屋潮騒って、確かアーケード街の奥の方の2階だったような気がするけど」

と、独り言を言って煙草にマッチで火を付けると、歩き出した。西口のこの辺り一帯は再開発のため相変わらず大掛かりな工事が続き、今年もあの大きなクリスマスツリーはなかった。街のネオンの灯りがだんだんと濃くなっていき、人通りがいつもより多く感じた。時折り冷たい風が吹いて、何処からかクリスマスソングが聞こえていた。アーケード街は鉄板の塀に覆われて、まるでアトラクションの巨大な迷路の様だった。平日にも関わらず行き交う人も多くて、師走の街並みは活気があふれていた。相鉄の駅を通り過ぎて、橋を渡った所で立ち止まり辺りを見まわして探すと、通りには左右に出し看板の灯りが並んでいた。たしかこの辺りだと思い、通りの看板を捜しながら歩くと、パチンコ屋の先にその居酒屋の出し看板の灯りを見つけた。雑居ビルの階段を上がった二階のフロアーにも出し看板とサンプルの並んだショーケースがあり、大きな水槽にたくさんの魚が泳いでいた。のれんをくぐって店に入るなり、雑踏の中で ♪喝采 が大きな音で流れていた。

「いらっしゃいませ」

と、大きな声が店内に響くと、藍色のはっぴを着た若い女子店員がすぐにやって来た。待ち合わせをしていると伝えると、和夫は騒がしく混雑した店内を見まわして研一を探した。煙草と焼き鳥を焼く匂いがした店内は二十卓以上もある席のほとんどに人が溢れていて、右手の長いカウンター席を探してみたが研一の姿が見当たらなかった。店を間違えたかな、と思いながら探していると、左手の奥で研一が立ち上がって手を振るのが見えた。

「やあ、久し振り研ちゃん‥‥遅くなってごめんね‥このお店、もうかなり久し振りなので思い出しながら来たよ‥‥たしかこの居酒屋って、もう二年以上も前に小島と三人で来たお店だよね」

と言いながらコートとジャケットも脱いで、椅子の上に置くと研一の前に座った。入り口に背丈ほどもあるクリスマスツリーが派手な電飾で輝いていた。研一はビールを飲んでいて、テーブルの上の大皿に入った大根の味噌田楽が美味そうに見えた。仕事帰りなのかバックと黒いコートが隣の椅子の上に置いてあり、ダークグレーのスーツに濃紺に白いピンストラップの細身のネクタイをしていた。久し振りに会う研一は少しふっくらとして見えた。

「よう‥やっと来たか、相変わらずだなまったく‥もしかして女との待ち合わせも、こんな風に待たせるのか‥‥カズ、何か言い訳はないのかよ」

「いや、その‥昔は2、30分ぐらいは平気で待っててくれたじゃん‥‥研ちゃん、何だか歳とともに少し短気になったんじゃあない」

「おい、待たせて置いてその言い方はないだろう‥それに、それって高校生の時だろう‥立派な大人が今だに時間にだらしないのは、社会人として恥ずかしくないのか‥少しはこの寒い中、待ってる身にもなって考えてみろよ‥‥それに、嘘でもいいから少しは洒落た言い訳ぐらいは、考えて置けよな」

「えっ、洒落た言い訳‥‥何それ」

「たとえば‥玄関を出る時ドアを開けたら、母猫が子猫をくわえて『クリスマスプレゼント』って置いていったとか‥‥駅前で、保育園の時の初恋の女の子に、突然声をかけられたとか‥電車の中で天気雨の虹を見ていたら、だいぶ先まで乗り越したとか」

「早‥凄い出てくるな‥‥そんなファンタジーな言い訳が、よく次々と出てくるよな」

「だから‥相手への思いやりで、遅れる様なら少しは洒落た言い訳ぐらいは考えておけよ」

「あっごめん、ごめん‥そう怒るなよ」

和夫が笑いながら言った。

「それに、昔も平気で待ってた訳じゃあないから‥知ってるだろう、俺飲むとなったら待て、ができないから‥‥ほら、ウルトラマンのカラータイマー」

と研一が言って、胸に手をあてながらビールを飲むと、店内に ♪なごり雪 が流れた。師走の店内は混み合って騒がしく、焼き鳥とタバコの煙が漂って店員の元気な声がホールに響き、活気を感じさせた。直ぐに先ほどの若い女子店員が笑顔でやって来て

「いらっしゃいませ‥‥はい、どうぞ」

と言って、満点の笑顔でおしぼりを袋から開けて広げると、和夫に手渡した。その温かいおしぼりで顔を拭くと、何故かほっこりとした気持ちになった。研一の手元の残り少なくなった大きなビールジョッキを見て、和夫もビールを女子店員に頼んだ。

「今の、その洒落た言い訳‥もしかしたら恵ちゃんの受け売りだろ」

と、和夫が上目遣いに声のトーンを下げて言うと、研一が詰まった顔で

「えっ、知ってた‥‥いやあいつ、いつもひと言あるから‥あんな言い訳を言われると、何故か怒れなくなって‥つい、いらいらしながら待ってたのを忘れて笑ってしまうんだよ」

「あれって、恵ちゃんが言いそうだもん‥‥たぶん研ちゃんじゃあ‥あんな小洒落た言い訳、絶対に思い付かないもんな」

「いや俺‥今までさんざん恵子の言い訳を聞いて来たから‥今じゃもう、アドリブで言えるようになったんだよ‥‥ま、あいつらしいけどな」

と研一が言うと、和夫は声を出して笑った。

「それって‥もしかして、仕事帰りなのか」

和夫が指を指しながら、研一の横の椅子の上に置いてある黒いバックを見て言った。

「ああ、現場から早めに抜けて来た」

「そうか、大変だな‥それにしても、研ちゃん久し振りだよな‥‥ま、お互いにいろいろと忙しいって事だね」

「ああ、あの夏以来だからな‥‥五ヶ月振りかな」

「そうだね、たしかにあの三浦海岸の夏以来だよね‥‥でもここって、まだこんな時間だと言うのに、何でこんなに混んでるのかね‥今日、平日だよ‥‥みんな仕事をしていないのかね」

と言って、和夫が辺りを見渡した。

「たしかに、そう言えばそうだな‥今日はクリスマスイブだけど、平日だよな」

「そう、まだ六時前だよ‥‥こんな時間から、何でみんなもう飲んでるんだ」

と和夫が言って、もう一度店内を見渡した。学生風のグループから老人グループまで年代もまちまちで、大声が飛び交う広い店内はほとんどの席が埋まっていた。

「あっ、そうそう‥10日ぐらい前だったかな、惠ちゃんがうちの店に来て、高級ブランドの黒いピンヒールの靴を買っていったんだよ‥‥でも相変わらずだよね、いきなり後ろからヤッホーって肩を叩かれて、振り向くと頬っぺたに指だもん」

「ああそう言えば恵子、ボーナスが出たからって‥先週の土曜日に、焼肉をご馳走になったっけな」

「えっ凄え、焼肉か‥いいな」

と言って、マッチでタバコに火を付けた。

「俺、売り場じゃあ一応副主任をやっているのよ‥それで、あの頬っぺたに指‥‥それを見てたうちのバカ女子社員達が大笑いしやがって‥もう、ただでさえ舐められてると言うのに」

「それは、きっと普段からの女子社員達との付き合い方じゃあないのかな‥新米副主任さんよ」

研一が、オイルライターで煙草に火を付けながら言った。混雑した店内は、あちこちで笑い声や店員の威勢のいい声で満ちていた。

「おい、ちょっと待てよ、いくらなんでも新米はないだろう、それに副主任は去年からだから‥‥いやそれにしても、女子社員は面倒くさい」

と言うと、和夫がおしぼりで手を拭きながら大きな溜め息をついた。そして、煙草を咥えて大きく吸い込むと細長く吐き出して

「でも、惠ちゃんのあの元気は分けて欲しいよな‥それにあのブランドのピンヒールの靴、いくらボーナスが出たとしても‥恵ちゃんの所の銀行は、景気が良いんだな‥‥お店に来た時はキタムラのバッグにペッタンコのミハマの靴で、ニュートラが何故かピンヒールの靴を散々迷った末に、高級ブランド靴を買っていったよ‥‥普通の銀行員の女の子じゃあ、なかなかあの靴は買えないもんな」

「えっ、それでそのニュートラってなんだよ」

「ニュートラかい‥ニュートラディショナルを略して、ニュートラって言うんだよ」

「その、ニュートラディショナルがわからなくて‥トラディショナルって何なの」

「トラディショナルは伝統的とか、保守的とかって意味かな‥コンサバティブなファッションでコンサバ系の一種がトラディショナルなんだよ‥だから、そんなファッションの事だよ」

「なに‥また横文字‥コンサバってなんだよ」

「まったく面倒くさいな‥コンサバティブとは‥その、無難な保守的なファッションと言うかな」

「へえ、さすが副主任‥‥じゃ新しい、保守的で伝統的なファッションって事なのか」

「もともとはアメリカのアイビールックが起源で‥ほら、アメリカのテレビドラマで『サンセット77』って知ってるだろ‥その登場人物のひとりのアイビールックを真似て、神戸の女子大生やOLなどで流行ったのがニュートラディショナルなんだよ」

「ああ、あのアメリカのテレビドラマの映画だろう『サンセット77』‥見た事あるよ」

「それをananが取り上げて、神戸から流行り出した‥そして、最近では横浜でも元町でバックのキタムラや靴のミハマや洋服のフクゾウなどがフェリスの女子大生達の間で流行ってきて、だんだんとトラディショナルな元町のスタイルになったんだよ」

「カズ凄いな、さすが副主任だね」

「だから、ニュートラディショナルの略称で、ニュートラ‥たぶんだけど横浜じゃ、横浜トラディショナルでハマトラって言うんじゃないかな‥何処かでハマトラって聞いた気がするんだけど‥職業柄、女性誌のananやnonnoなんかをチェックして、売場の企画を進めていくんだけど‥去年の春にJJって新しく女性ファッション誌が出て、その創刊号でニユートラディショナルの大特集をやって、ニユートラが全国的に流行っているんだよ」

「へえ、フェリス女学院か‥恵子がそのお嬢様スタイルでね‥カズ、さすが靴屋の副主任‥‥あのペッタンコの靴、あれミハマって言うんだ」

「違うよ、だからミハマは元町の靴屋の店の名前で、そこのオリジナルメーカーの靴なんだよ‥キタムラも、Kマークのオリジナルバッグの元町のお店で、ここのバックも前から流行っているのよ‥‥うちの店も新しい企画で、今度ニユートラのコーナーを設けて、ローファーの靴やトラッドなバッグなどを全面的に展開して行くんだよ」

「さすが、副主任になるといろいろと勉強してるんだね‥なんかカズ、随分と偉くなったんだな」

「何だよ、さっきから‥まったく副主任副主任って、もう何回言うんだよ‥‥あっ、所で研ちゃん‥最近惠ちゃんとはうまくやっているんだろうな」

和夫が、煙草を吸いながら笑って言った。

「相変わらず喧嘩ばかりだよ‥‥それに何故だか、最後にはいつも俺が謝る‥この世に気の弱い女は、世界中探したって絶対にいないから」

「あっそうなんだ、まっ研ちゃんがそう言うんだったら間違いないか‥‥うちの妹も気が強いからな」

と言うと、二人してうなずいた。すると突然店内に♪また逢う日まで が流れて、すぐ隣のサラリーマン風の六七人組の中のひとりが、大きな声で一緒に歌い出した。先ほどの女子店員が、大きなビールジョッキを両手で七八個抱えて運んで来て、隣の席に置いた。そしてその中から二つ、和夫達のテーブルにビールジョッキを持って来た。

「あ、おかわりが来たね‥それじゃあ乾杯しょう」

と研一が、残り少なくなった自分のビールジョッキを持って前に差し出すと

「お久し振り」

「お疲れ様です」

と言って、ビールジョッキで乾杯をした。和夫が勢いよく半分近く飲むと

「ああっ‥‥この最初のひと口、たまりません」

と、和夫が溜め息混じりで言った。

「カズ、それはどう見たってひと口じゃあないな‥あっそうそう、よかったじゃんか、今日明日と休み取れたんだってね‥‥でもな、もう少し早く教えてくれよ、いろいろと後の予定があるんだからさ」

研一が、大根の味噌田楽をお皿に取り分けながら言って、和夫のテーブルの前に差し出した。

「ああ、でもこの忙しい時期の有休は死刑者だよ‥それに、去年も無理してこのシーズンに二日間も有休を取ったし‥そして、その前の年も三年続けてこの時期だろう、うちのバカ女連中達はよく覚えているから‥いろいろと遠回しのイヤミがね」

「そうか、デパートは何処もクリスマスや年末のセール期間中だもんな‥‥まっ、副主任は辛いね」

「二ヶ月くらい前からいろいろ根回しして、やっと何とか取れたけど‥今、うちの売場の主任が肺の手術をして夏から長期の病休で休んでいるので、俺の他は女子社員だけなんだから‥もう、十二月に入ったら冷たい視線だらけだよ」

「けど副主任だろう、バシッと言ってやれよ‥もしかして、なんか舐められているんじゃないかな」

「ばか言えよ‥みんな俺より年上の先輩ばかりで、もうひとり女の副主任がいて、その副主任に入社の時からいろいろと仕事を教えてもらっていたから‥‥俺の所の売り場、入社してかれこれ五年経つけど俺の後からは三十過ぎの十年選手の女子社員が今年の春に寝具売り場から移動で入って来ただけで、後はみんな売り場では俺より先輩なのよ」

と、和夫がビールを飲みながら言った。

「ははは‥ハーレムかと思ったら、何だお局様ばかりかよ‥‥お前も随分と気苦労してんだね、俺なんか下請けのジジイの職人達が相手だから、まだお前の方がいいよな」

「いやいや、年増の女達は怖いよ」

「年増と言っても、みんな三十前後だろう」

「研ちゃん、それが一番怖い年代なのよ‥それに、みんな十年選手以上の強者ばかりだから‥それに、もうひとりの女主任なんて20年選手だから‥俺がまだ、ゆだれ掛布をしていた時からいるんだぞ‥‥うちの店では通称お婆捨て山と言って、各売場から古狸ばかりが集まっていて、それはそれは怖がられているのよ‥あの店では凄く有名な売場なんだよ‥それにあのバカ女達、女主任派と副店長と噂のバカ女副主任派に分かれていて、古狸達なんかちょいとやばいんだよな」

「そうなのか、さすがに歳上好みのカズだが‥なんだかお前も苦労してるんだな‥俺達、入社して今が一番やばい時期なのかもな」

「そうなんだよ、売り上げやシーズン毎の企画やらと女連中で頭が痛いよ‥‥何てったって男俺ひとりで、一番年下だろ‥可愛がってるつもりなのか、どんどんと仕事がまわってくるのよ」

「さっき、辺見マリが経験って歌を歌っていたけど、仕事は何事も経験なんだよ‥いろいろ頭の痛い事やヤバイ事をたくさん経験して、そして一人前になって行くんだよ‥だからお互いに頑張ろうや」

と言って、研一が和夫のジョッキに自分の新しく来たジョッキを軽く当ててビールを飲んだ。

「何か笑えないな‥つまんない事言うなよ、俺の所の売り場は研ちゃんの現場とは訳が違うんだよ」

「あっごめん、俺ババアの説教じみた事を言ってしまって‥‥それで、やっぱり副主任になると売り上げとかも気になるのか」

「ああ、普通は最低でも五年以上しないと副主任にはなれないんだが、たまたま入社の年から個人売り上げが良く、三年目に全店で3位に入って表彰されて、それで四年目に当店初の副主任になったんだが‥そしたら今度は売場の仕入れやら売り上げやら企画やらの一部を担当責任者にされてしまって‥それでシーズン毎に目標ノルマを作って、企画だけじゃあなく‥もう、いろいろと頭が痛いよ」

「でも十年選手で、ベテランばかりのオールスターなんだろ‥それにセール期間中のボーナス時期だし、ここの店もそうだが、街に人がいっぱい溢れてるじゃんか、特にデパートなんかはこの時期は稼ぎ時で景気良いんじゃあないの」

「それが例年との例年比プラスアルファで、この時期はそれなりに目標ノルマを多めに作るし、入店客数は結構多いけど‥でもそれが売り上げにはなかなか結び付かないんだよな」

「そうなのか‥それじゃみんなウインドショッピングの、でんでん虫なのか」

「でんでん虫‥何だよそれ」

「ウインドショッピングだよ‥でんでん虫、カタツムリ‥買ったつもり」

「あははは、おもしろい事言うな‥‥それで、研ちゃんの所はノルマみたいなのはないのか」

と笑いながら言うと、和夫がマッチで煙草に火を付けた。すぐ隣の席に、大皿に大量の焼き鳥の盛り合わせが運ばれて来て、いい匂いがした。

「一応営業課なんだけど、俺の所は現場だから納期との戦いで、下請けのジジイの職人達と上手くやっていくだけだよ‥でも遅れると、職人達にハッパを掛けながら時には現場に泊まり込んで、それはもう大変だよ‥それにうちのジジイの職人達、俺が言ってる事を若僧の説教だと思っているのか、もうまったくのカタツムリなの」

「何‥またカタツムリかよ」

「そうなんだよ、でんでん虫‥全然無視」

「あははは‥‥まったく、またダジャレかよ‥でもうまい事言うんだな‥だがそれって、研ちゃんの方こそ職人達に舐められてるんじゃないかよ」

と、笑いながら言った。

「だから俺達‥今が一番やばい時なのよ」

すると、先程の笑顔の女子店員が研一が頼んだ大鉢に入ったモツの煮込みを運んで来ると、いい匂いがした。和夫が大鉢を覗き込むと、山盛りの野菜とモツが大鉢に入っていた。一緒に取り皿と、お椀やレンゲや七味唐辛子などがテーブルに置かれた。辺りにモツ煮のいい匂いが漂うと、左右の席の何人かが振り返って見て来た。

「ごゆっくり‥どうぞ」

と、にっこりと笑顔で女子店員が言った。

「あの娘の笑顔いいな‥‥あっこれこそ、カズここのモツ煮込みは絶品だぞ」

と言って、研一がお椀にモツの煮込みを取り分けると、和夫の前に七味唐辛子と一緒に置いた。

「ここの煮込みはモツも美味いが、いろんな野菜がゴロゴロと入っているから一番人気なんだ」

と、研一が煮込みを頬張りながら言った。メニューには赤字で一番人気と書いて囲ってあり、長ねぎ椎茸ごぼうにこんにゃくや人参大根まで入っていて、これはまるで汁の少ない豚汁の様だと思った。そして、そこにプリっとしたホルモンがゴロゴロと入っていた。さっそく和夫も頬張ると

「うわ‥やられた‥‥さすが一番人気、美味いね‥研ちゃん、これってもう豚汁と言ってもいいんじゃないか」

「だって、このトロトロプリプリのホルモンが主役なんだから、そう言うなよ‥‥でもまあ、汁の少ない具沢山の豚汁みたいなもんだな‥豚肉の代わりにホルモンだけど」

「うん、美味い‥こんなモツ煮、初めて食べたよ‥ほんとにこのモツ、トロトロプリプリだね」

「だろう‥これ持ち帰りも出来るから、来るたびにジジイの職人達にもお土産で持ち帰ってもらって‥俺は次の日の朝飯で、この中にご飯を入れて鍋で温めて最後に卵で閉じて、あと長ネギを刻んだのと七味唐辛子が別に入っているので、後からそれを一緒に入れて食って、それから会社へ行ってたよ」

「そう‥それって凄く美味そうだね、俺も持ち帰りたいけど今日は無理‥‥所で研ちゃん、この店へはよく来るんだ」

「よくでもないけど、職人達とちょくちょく来るよ‥この店も、会社で領収書を落とせるんだよ」

「えっ、いいな‥会社のお金で職人達にいい顔出来るのか‥まさか、今日も領収書をもらうのか」

「そんな訳ないだろう、会社だってそんな馬鹿じゃあないから、現場の打ち上げでこの店も使う事があるから‥現場は短いと三日ぐらいだけど、長いと大型店なんか一か月以上になる事もあるから、大きい現場だとちょくちょく職人達を連れて、お疲れ様でしたの打ち上げで来るのさ‥‥それよりカズ、次は何を飲むかな」

と言って、研一が辺りを見まわした。そして

「もしかして、まさかここでもバーボンなのかな」

「えっ、そんな顔をするなよ‥そうだな、じゃあ今日は日本酒にするかな」

「えっ‥あそうなの、日本酒ね‥ふふふ」

と、研一が意味深な笑いをした。

「何それ‥何か言いたい事があるみたいじゃん」

「えっいや、そのう‥確か、誰かさんが日本酒好きだった様な気がするけど」

と言って、研一が日本酒のメニューを見はじめた。店内に ♪雨の御堂筋 が流れていた。

「研ちゃん‥何が言いたいんだよ」

「いや別に‥カズが日本酒なんて珍しくて、長い付き合いで何度も酒を飲んできたが‥もしかしてだけど、日本酒は今日が初めてなんじゃない」

「えっ、そうだったかな」

「それで、日本酒は何がいいのかな」

と、微笑みながら研一が言った。

「研ちゃん‥なに一人でニヤケずらしてんだよ」

「ま、いいじゃないの‥カズが好きなの注文して」

と言って研一が日本酒のメニューを和夫に渡した。和夫がメニューを見る と、全国の日本酒と焼酎が20種類以上並んで書いてあった。

「凄え数だな、冷と燗どっちがいい」

「両方」

と、即答した研一の顔が、まだ薄笑いをしていた。

「気色悪いな、そのニヤケずら」

と言って、冷でも燗でも美味いと書いてある日本酒をメニューの中から選んで注文した。研一のニヤけた顔は、和夫が付き合っていた歳上の女が日本酒好きだったからだった。また、先ほどの女の店員が隣の席に穴子の天ぷらと鯵のなめろうを持って来た。和夫が隣の席を覗き込みながら

「研ちゃん、あの穴子の天ぷらと鯵のなめろう‥あれ、凄え美味そうだなぁ」

「カズ、ここではあまり飲み食いするなよ‥この後中華街のお店を予約してあるからな」

「えっ、今年も中華街に行くの‥でも予約してるんだったら、何で前もって言ってくれないのかな」

「あれ、言ってなかったっけ」

「今、初めて聞いたんだけど‥‥あれれ、もしかして‥まさか去年と同じで、また今年も惠ちゃんとケイコじゃあないよね‥‥だって、いつも研ちゃんはサプライズが大好きだからな」

研一は何も言わず、ビールを飲みながら目の淵で少し笑っていた。しばらくすると、先ほどのはっぴを着た若い女店員がやって来て、テーブルにコップの入った枡が置かれた。そして女店員が一升瓶の栓を抜くと、低い何ともいい音が聞こえた。和夫の目の前で、両手で抱えた一升瓶を注ぎ出すと、酒がコップからどんどん溢れて枡になみなみと溜まった。女子店員が研一のコップにも、日本酒をなみなみと注ぎ終わると、一升瓶に栓をして

「ごゆっくり‥どうぞ」

と言って微笑んだ。その笑顔を見て、研一が女子店員にハイタッチをすると ♪よろしく哀愁 が店内に流れ出した。そしてまた

「ごゆっくり、どうぞ」

と言って、女子店員が笑いながら行ってしまうと

「研ちゃん、何処かで飲んで来ただろう」

と、すかさず和夫が言った。

「えっ‥だってカズ、あの娘のあのとびっきりの笑顔を見たら、俺もうバキュンと秒殺だよ」

「早やいな‥秒殺なのかよ」

と言って、モツ煮を食べ続けた。

「所でカズ‥‥あれから、その‥‥あの後だけど、小峰さんから連絡はあったのかい」

研一の急な小峰との質問に、ドキリとした。

「えっ‥‥ いやその、連絡はないよ」

「この一年、まったく連絡はないのか」

「えっ、ああ‥‥まったくないよ」

「二週間くらい前だったかな‥俺、小島から聞いたんだけど‥カズ、長崎に行ったんだってな」

「えっ、ああ‥‥その、3ヶ月ほど前に長崎の大村って所へ行って来た」

「へえっ‥それで、小峰さんに逢って来たのかい」

「いや‥その、長崎の大村って街へは行ったけど、住所が解らないから‥‥その、逢えなかった」

と言って、テーブルの上の日本酒をすすった。

「もう、何だよそれ‥カズよ、住所がわからなくてよく長崎まで行ったよな」

「ああ‥‥ただ、大村の街を見てみたかったから」

「ただ街を見たいって‥何だ、それ」

「えっ、いやその‥ただ、街を見たかったんだよ」

「小峰さん、長崎に帰ってもう一年になるだろう‥あんな遠くまで未練たらしいな‥カッコ悪い と思わないのかよ」

和夫は、何も言わずにモツ煮を頬張った。

「それで‥あんな遠くまで行ったんだから、その街で何か心当たりなどをいろいろと探して見たのか」

「いや、彼女長崎の事は何も話してくれなかったから‥以前彼女の部屋で、母親から来た手紙を読んだ事があったけど、住所はまったく覚えてなくて‥‥大村の街、思っていたより大きかった」

「こっちで、小峰さんが住んでたアパートの大家さんとかに、何か聞いてみたのかよ」

「ああ、一応聞いては見たけど、教えてくれなかった‥彼女が一月の終わり頃に来て、家具や家財道具を全部処分してくれとの事で、引き払ったそうだ」

「それでカズ、長崎でいったい何をしてたの」

「えっ、ああ‥初日は、ただ街を一日中ブラブラと歩いていたよ‥‥レトロな喫茶店や小さな洋食屋や、駅前の花屋にたくさんの秋桜が並んでいた事や‥夕方になって入った居酒屋で食べた魚料理が、特に凄く美味かったよ‥お刺身に煮魚や焼き魚‥それに地元の酒も美味かったな‥‥あっそうそう、あの対馬地鶏‥あれは凄く美味かった」

「えっ、あんな遠くまでわざわざ行って、あてもなくただ街をブラブラしてて、それで居酒屋かよ‥‥その大村の街には何泊したの」

「ホテルには、三泊した」

「えっ、三泊もしたのか‥‥そうか、そうなんだ‥それで、長崎は初めてなのか」

「うん、初めて行った‥ほんとうに遠かった」

「俺、高校の修学旅行で長崎も行ったけど、遠いよな‥長崎には一泊しかしなかったけど、あちこちと観光が多いよな‥大村は知らないけど、なんか異国の雰囲気があったな‥‥それで、カズの時の修学旅行は何処だったの」

「俺の時は、北海道へ行った‥北海道って広いだろう、朝から晩までやたらとバスで走って‥今思うとバスガイドのお姉さんと、バスの中のゲームや歌合戦しか覚えてないよ」

「そうか、でも長崎はほんとうに遠いよな‥よくもまあ、あんな遠くまで行ったもんだな」

「ああ、思ってたより遠かった‥寝台車で行った」

「そんな遠くまで‥住所も分からずに、寝台車に乗ったのかよ‥それって、急に思いたったのか」

「いや、前々から行って見たかったから」

「住所もわからないで、いったい何がしたくてあんなに遠くまで行ったのよ‥俺には考えられないよ」

研一がビールを飲むと、溜め息をしながら言った。

「どうしても、長崎の大村の街を見たくて‥夏の休暇、俺が最後だったんで九月の十日頃だったな」

「それで、あてもなく街をブラブラかよ」

「えっ‥ああ、三日間ブラブラしてた‥今、この街の何処かで彼女が暮らしているのかと思うと‥何かわからないが、とても切なかった」

と、和夫が言って言葉に詰まった。

「なんだかまるで、演歌だなあ‥まあ、何となくわかる気もするが‥一年近く経ったし、もうだいぶ落ち着いたのかと思ってたけど」

「うん、もう春頃からするとだいぶ落ち着いたよ‥でも去年の暮れから年明けの春ぐらいまでは、仕事も上の空で胸が張り裂けそうになり、泣きながら毎晩酒を飲んでいたからな‥いや、ほんとに演歌だよな‥俺って、何でこんなに弱いのかって‥なんか、つくづく思い知らされたよ」

和夫がまた言葉に詰まって、そのまま黙った。

「あの‥ごめんな、俺にはそんな経験がないから、何と言っていいか言葉がないよ」

研一が言って、枡の中のコップを取り出して枡の酒を飲んだ。和夫も枡の酒を飲みながら、俺はあんなに遠くまでいったい何をしに行ったのかと考えると、つい三ヶ月ほど前に行ったのに、もう随分と前の事の様に思えた。和夫の売り場の主任が、春先から検査入院だので休みがちで、その分和夫に売り場の仕事が増えて、仕事が和夫を立ち直らせていた。

「研ちゃん、その‥狂おしいってわかるかな‥‥俺、あの時はほんとに狂おしくって、自分でもコントロールが出来なくなって‥俺ってなんて弱いのかって、つくづく思い知ったんだよ」

研一は、なにも言わなかった。

「三日目はホテルの近くの公園で、一日中ぼんやりと海を見ていて‥何か、時間が止まった様な気がして‥‥地元の年寄りや若いママさん達が、幼い子どもを連れて公園に来ていて‥そんなのをぼんやりと夕方まで眺めていたら、夕焼けが見えたんだよ」

と言うと、煙草に火を付けて大きく吸い込み、吐き出すと溜め息をした。そして

「中学や高校生の時、つまずいたり気持ちにささくれが出来たりした時、家の上の高台の公園に行って、そこで見た夕焼けをよく覚えているよ‥‥長崎の公園でぼうっとしてたら、急に彼女と出会った頃からのいろいろな想い出が、彼女の匂いと一緒にぐるぐると回って‥‥なんか、泣きそう」

と言って、また言葉に詰まり手を握りしめた。

「そうか‥‥小峰さんに逢えるとよかったのにな」

と、研一も言葉に詰まってしまった。

「うん‥何かわからないが、不思議と彼女がすぐ側に居る気がしたんだよ‥‥あの微笑えんだ顔が」

そしてまた、言葉に詰まってしまった。

「そう‥ごめん、俺にはやっぱりわからないよ」

と言うと、二人とも黙ってしまった。騒がしい店内に ♪グッバイマイラブ が流れていた。二人とも言葉に詰まってしばらくすると、和夫が溜め息をして

「俺‥一年間しか彼女の事を知らないが、何年も前から一緒にいた気がしたんだ」

と言って、握ったグラスの酒を飲んだ。

「でも俺、一日中公園で海を見ていて思ったんだ‥もしかしたら彼女、ほんとうは俺の胸の中に、ほんの一瞬通り過ぎて行っただけなんじゃあないかと‥そんなふうに考えると、なんか凄く胸が締め付けられて‥‥いろいろ思い知ったよ」

と言って、また和夫が言葉に詰まってしまい、研一も言葉に詰まって、二人して酒を飲んだ。そして研一がオイルライターで煙草に火を付けて深く吸い込み、ゆっくりと細く煙を吐き出すと

「その‥‥カズの心の中って、きっと今だにセブンティーンなんだろうな」

「何だよ‥ガキ扱いかよ」

と言う和夫の言葉が、少し震えていた。

「いや、なんか切ないね」

と研一が言うと、突然左隣の席の三人組の若い女達の大きな笑い声がして、ショートカットの娘が男の名前を叫ぶと、また三人して大きな声で笑った。店内に♪ 二人でお酒を が流れていた。研一と和夫はお互いに黙ったまま酒を飲み、しばらくすると和夫が大きく溜め息を付いた。研一がそれを見て

「その、何と言っていいのか‥‥俺、うまく言えなくてごめんな‥‥いや、その月並みなんだけど‥‥陽はまた昇るって言うじゃんか、明けない夜はないって‥きっと後で、甘酸っぱい笑い話になってる」

「えっ‥明けない夜か」

「もう一年近くも経ったと言うのに‥‥なのに、まだかなり重症なんだな」

「一年か‥ほんとに、何かわかんないけど辛いよ」

和夫が恥ずかしそうに、胸の中の心情を言った。

「普通は、だんだんと薄れて行くと思うんだけど‥今だにそんなんじゃあな‥‥俺にはよくわからないけど、カズの中じゃもうエンドレスなのかよ」

と、煙草の煙を吐き出しながら、研一が言った。そして、そのエンドレスと言う言葉が和夫の胸に重たく響いて、思わず手を握りしめた。

「その‥日常のほんの些細な事で急にフィードバックして、いろいろな事が蘇って来るんだ‥‥そのたびに、自分の弱さが情け無くなって来るけど」

と言うと、また酒を飲んだ。一年経ってもまだこんなんじゃあ、研一の言うこの痛みがエンドレスに続いて行くのかと思うと、和夫は顔を歪めた。

「そうか‥‥でも、そうやって全部吐き出してしまうと、少しは楽になるって」

と言う、研一の言葉が嬉しかった。

「大丈夫‥‥その、陽は絶対にまた昇るんだよ‥‥前に、恵子と伊豆の白浜で夕陽を見てた時、突然恵子が沈んで行く夕陽に向かって、バイバイまた明日ねって‥‥うまく言えないが、きっと笑って話せる時が来るから‥俺、今までそんな経験がないから‥‥その、うまく言えなくてごめん」

と言う研一の言葉に涙が込み上げてきそうになり、酒をすすりながらテーブルの下で手を握りしめた。そして、研一の言う明けない夜がとても長すぎて、まるでエンドレスゲームの様で、ほんとうにこれって明けるのかなと、また酒をひとくち飲むと 雑踏の店内に♪別れのサンバ が流れた。和夫はまた小峰の顔を思い浮かべて見たが、何故かぼやけてはっきりとは浮かんで来なかった。そしてぼんやりとした小峰の面影と一緒に、いろいろな想い出を振り返って見ると胸の中がまた少し騒めいた。たった一年遭わないだけなのに、もう遠い昔の様な気がしたからだ。だか、胸の中の熱い塊りは、自分でもどうしょうもなく和夫を苦しめた。店内に威勢の良い店員の声を聴きながら、二人とも言葉に詰まったまま酒を飲んだ。溜め息をするたびに、体が揺れている気がして、酔っているのかなと思った。そして、この胸が押し潰されるくらいの痛みを、もうひとりの自分が何処か楽しんでいる気がした。二人とも沈黙が続いた。突然、研一が溜息をついて静かな声で

「あのな‥正直言って、今のお前の気持ちが俺にはわからない‥もう一年だろう普通じゃないよな、前に進めよ‥いつまでそんな女々しい事してるんか‥もういい加減エンドレスなその感情を冷ませよ」

また、沈黙が続いた。研一の言葉が沁みて、胸が熱くなって手を握りしめた。長い沈黙で、しだいに気持ちが軽くなってきた。和夫が大きく息を吸って吐き出しながら、研一の顔を見て少し笑った。

「研ちゃん、その‥予約してある中華街のお店だけど‥もしかしたら、今年もケイコを呼んでるのか」

と、突然和夫がぽつりと言った。研一は何も言わずにモツ煮を食べ続け、そして目の淵で少し笑った。

「その中華街のお店って、去年と同じあのお店」

「えっああ、去年と同じ店だよ」

「そう‥それでその、料理だけど‥去年と同じに、また今年もコースで頼んだのかい」

「ああ‥今年もコースでお願いしてある」

「そうか‥研ちゃん、去年食べきれなかっただろ」

「実はあの店‥専門校の時に、クラスの友人のコネでその友人と二人で二年続けて夏休みに泊まり込みでバイトしてたんだよ‥それで、あそこの女将さんにはいろいろとお世話になったので、お料理はすべて女将さんにおまかせだから」

「へえ、そうなんだ‥だから去年、食べきれないほど料理が出て来たんだ‥でも去年、そんな事何も言わなかったから知らなかったよ‥それで、そのお店は何時の予約なの」

「今年はお店の都合で、9時から2時間の予約」

「じゃあ、まだ随分時間があるけど」

と、和夫が腕時計を見ながら言って

「もしかしてだけど、また今年もアローで待ち合わせでもしているのかなあ」

「えっ、ああ‥8時にアローで待ち合わせしてる」

「やっぱり‥何で前もって言ってくれないのかな‥それで、もしかしてだけど‥今年もケイコを呼んでいるんじゃないの」

「えっ、まあその‥恵子が今年もグッピーのクリスマスパーティーの前にカズを呼んで、中華街の女将さんのお店に行きたいって頼まれたもんで」

「やっぱりそうか‥それで、ケイコを呼んでるの」

と、和夫がまた聞いたが、研一は何も言わずに目の淵で笑うとモツ煮を頬張った。和夫はケイコの顔を思い出してみたが、もう随分と昔の様な気がして口もとで笑った。

「そうか‥今年も中華街のあのお店ね‥‥そうだ、去年は食べきれないほど料理が多かったから、今年は女将さんに言って、コースの料理の量を少し減らしてもらえよ」

「そんな事言えないよ、女将さんも喜んでいるんだから‥この時期に個室を開けて待っててくれてるんだ‥だから頑張って食えよ」

「ああそうか、わかったよ‥‥でも、よっぽど女将さんに気に入られているんだな‥そう言えば去年、なんか親しげに話してた人があのお店の女将さんだったんだな‥それでそのバイトって、どのくらい泊まり込んでやってたの」

「ああ、七月の終わり頃から八月いっぱいまで‥クラスの友人と二人で、女将さんの家にお世話になっていた‥あそこ、その友人の親戚なんだよ‥俺は家から通えるが、その友人の家は東京の北千住だから‥女将さんの家に泊まり込みなので、女将さんから俺も誘われたんだよ」

「へえ‥でも、何で去年それを言ってくれなかったんだよ‥今日の予約にしても、まったく知らなかったんだよな‥‥それ、サプライズのつもりなのか‥それで、お店ではどんな仕事をしていたの」

「えっ、ああ‥横浜駅西口の駅ビルにわりと大きな販売店があって、あと桜木町や関内や石川町等の各駅にも販売店があるから、そこへいろいろ搬送するのを手伝ったり、その他雑用だな‥友人はもう何年も前から夏冬の繁盛期にバイトしているから、時には厨房に入ったりもしていたよ‥暮れの繁盛期は息子さん達や孫達がやって来るので、俺は夏の繁盛期だけお手伝いをさせてもらっていたんだ」

「ああそれで‥冬休みは俺とバイトしてたもんな」

「ああ、あそこの喫茶店も二年続けて行ったな」

と研一が言って、オイルライターで煙草に火を付けた。和夫も煙草を大きく吸い込むと、日本酒の心地良い酔いを感じた。

「あっそうだ、あそこの女将さんも長崎の人だよ」

「ヘえっ、長崎の人か‥そうか、また随分と遠くに嫁いで来たんだね」

「それが、当時は社長が広島にいて、そこに嫁いだそうだ‥でもピカドンが落ちて」

「ピカドン‥何それ」

と、和夫が言葉を遮って聞いた。

「ピカドン、原爆だよ‥原子爆弾」

「原爆をピカドンって言うんだ」

「そう‥たぶんピカっと光って、ドカンだからじゃないかな‥それで慌てて子どもを連れて実家の長崎に帰ったら、またピカドンが落ちて来て‥人生二度目のピカドン‥もうびっくりして、この世の終わりかと思ったそうだ‥今じゃもう笑い話だよな」

和夫も、思わず笑ってしまった。

「あらら‥ほら笑った、だろう‥何でも時が過ぎれば、笑い話になるんだよ」

「その女将さんの話‥それって、ほんとうなのか」

と、笑いながら下から見上げる目線で研一を見た。

「ほんとうだよ、ほんとう‥これ、あの店の有名な話なんだから‥俺も、初めて聞いた時は冗談だと思ったけど、あのお店の人はみんな知っているから」

「凄いな‥あまり自慢できる話じゃあないけど‥きっと、悲惨な地獄をたくさん見たんだろうな」

「そうだろうけど‥でも時が経てば、今じゃあもう昔の笑い話なのよ」

と言いながら、短くなった煙草を灰皿で揉み消すと、また続けて研一がオイルライターで煙草に火を付けた。その女将さんは、きっと人には言えない深い傷を、ずっと持って生きていると和夫は思った。 人は何といろんな体験をして行くのかと、和夫は自分の弱さを恥ずかしく思った。そしてまた酒を飲みながら、何故か小峰に無性に逢いたくなった。思わず胸に手を押し当てると、締め付けられる痛みをじっと噛み締めて耐えた。久し振りに会う研一と、久し振りに飲むこの日本酒のせいか、もの凄い感情の昂ぶりに負けそうになった。店内に ♪夜霧の忍び逢い が流れていた。しばらくして

「カズ‥窓から凄いお月様が見えた」

トイレから戻って来た研一が、興奮気味に言った。

「そう、お月様‥よくわからないけど、相変わらず研ちゃんロマンチストなんだな‥‥それに、そんな嬉しそうな顔をして、お月様かよ」

「俺‥あんなお月様は、久し振りに見た気がする」

「お月様って、様付けかよ‥それって、子どもの頃の言い方だよね」

「でもあの月は、お月様だったから」

「その‥研ちゃんの言うお月様って、普通の月とはどう違うのよ」

「そうだな、何て言うか‥‥そう、あったかい月と出会った時かな」

「研ちゃん、やっぱり何処かで飲んで来ただろう」

「そうか‥‥カズには、わかんねえだろうな」

と言って、研一が薄笑いを浮かべて酒を飲んだ。

「研ちゃん、そのお月様なんて言葉、何年振りかに聞いたよ‥それどころか、月さえも普段はあまり気にして見ないからな」

「カズ、月っていつも地球に向かって同じ顔を向けているって、知ってた」

「何、同じ顔って」

「月は地球に対して自転と公転が一緒だから、いつも表の顔しか地球には見せないんだよ」

「へえ、じゃあいつも地球を見詰めているんだ」

「ははは‥カズの方こそロマンチストじゃないか」

ふと、去年ケイコが あの月、オブラートで包んだみたい と言った月を思い出した。

「宇宙の話は、人間がなんてちっぽけなんだって事に気付くんだよ‥月まで38万km、光の早さで1.3秒‥つまり1.3秒前の月を俺達は見ているんだよ」

「へえ‥普段そんな事考えて月を見てないからな」

「光の速さは1秒間に地球を7周半もするんだ、その光の速さでも太陽までは8分20秒も離れている‥だから、8分20秒前の太陽を俺達は見ているんだ‥‥そして夜空に溢れるほどの無数の星は何年も掛けてやって来るので、俺達は何年も前の星達を見ているんだよ‥‥人類の祖先が新しい陸地を求めてアフリカ大陸を出発してから数万年、今じゃあのお月様まで行っちゃう‥凄いと思わない」

「何か、ロマンチックだね‥‥でも、研ちゃんは何でそんな事を知ってるの」

「ああ、小学生の頃に隣の家の高校生のお兄ちゃんに、大きな天体望遠鏡で月のクレーターを見せてもらったのがきっかけで、土星の輪っかとか見て宇宙の事をそのお兄ちゃんにいろいろと教えてもらったから‥それがきっかけで、宇宙にハマったんだ」

「宇宙って凄いんだね、あっそう言えば研ちゃんも天体望遠鏡を持っていると前に聞いた事あったな」

「ついでだけど、地球の自転と公転って知ってる」「小学生か中学生の頃、習った気がする」

「地球は24時間で一周回ってるから時速1700Kmのスピードで自転してるんだ‥音速が約1200Kmだから地球はマッハ1.3ぐらいのスピードで自転しているんだよ‥でも日本は赤道から少しずれてるから、マッハ1.1ぐらいのスピードかな‥知ってた」

「研ちゃんは、いろんな事を知ってるんだね‥でも俺達、よくそんなスピードで回っているのに目が回らないのかね‥あっそう言えば、朝起きて頭が痛い時があるけど、きっとそのせいだな」

「それは、ただの二日酔いじゃない‥‥京浜急行、あれ私鉄の中でもめっちゃ早いほうで、100キロ以上スピードが出るけど‥あの中で座っていてみかんを投げても、また手のひらに落ちて来るだろう‥ニュートンの運動方程式、慣性の法則だよ」

「偉い‥‥研ちゃんは頭が良いのか悪いのか、なんだかわかんなくなったな」

「何とおっしゃるウサギさん‥‥そんな、良いに決まってるじゃん」

「何か研ちゃんの口からからニュートンだの、慣性の法則だのと出て来るとは思わなかったな‥長い付き合いだけど、少し驚いたよな」

「ははは、そうか‥‥あと公転、よく聞いとけよ‥地球は一年掛けて太陽の周りを回っていて、時速約10万7000Kmのマッハ90ぐらいのスピードで太陽の周りを回ってるんだ‥‥その太陽も、彗星から冥王星まで九つの惑星を引き連れて、銀河系の中の軌道を時速約80万Kmのスピードで回っているんだよ‥なんか宇宙って、凄いだろう」

「へええ、凄い‥ほんとうに凄いな」

「そして、その俺達の天の川銀河さえも2000億から4000億もの太陽系と同じ恒星を引き連れて、時速約216万Kmのスピードで膨張する宇宙の中を移動しているんだ、マッハ1800だぞ‥早い戦闘機でさえマッハ2ぐらいだから凄いだろう‥そうやってこの宇宙はどんどん広がって行ってるんだよ‥そしてそして、その太陽系と同じ恒星を2000億以上待つ大小の銀河系が、宇宙にはなんと4兆個以上もあるんだ‥どうだ、びっくりしただろう」

「えっ、俺達のこの天の川銀河が4兆個以上」

「ああ、2000億かける4兆もの星‥その星にはそれぞれ地球の様な惑星を引き連れているんだ‥その数は地球上の砂の粒よりも遥かに多いんだよ」

「凄え‥ほんとなの」

「ああ、宇宙って広くてデカいだろう‥冥王星までは地球から光の速さでさえ5時間半も離れているんだ‥そもそも光の速さが1秒間に地球を7周半もするんじゃ人類は太陽系さえも出られない‥2000億個以上の太陽と同じ恒星を待つ天の川銀河、その恒星にはそれぞれに地球と同じたくさんの惑星があって、そしてその天の川銀河の直径は10万光年もあるので、光の速さで10万年だよ‥宇宙では一秒間に地球を7周半もする光の速さなんてのは、そもそも遅すぎるのよ‥天の川銀河だけでも地球に似た惑星がおよそ100億個以上もあるけど、なんて切ないんだろか‥みんな遠過ぎてお互いに逢う事ができないんだよ‥そして、その銀河系が4兆個以上ある宇宙には、いったい幾つ地球と似た惑星があるか‥まさしく天文学的数字なくらい地球と似た惑星が存在しているんだよな」

と言って、研一がモツ煮を食べ切った。

「研ちゃん、遠過ぎて逢えないなんて、ほんとに切ないね‥光の速さでさえも何年も掛かるんじゃ‥天の川銀河だけでも、直径が10万光年もあるんだろう‥そもそも光の速さで移動なんて、とうてい無理だろう‥それじゃあ、宇宙人とはお互い時間を超えないと逢えないのか」

和夫は遠過ぎて逢えない事が、自分の事に置き換えると切なく思った。そしてふと、遠かった長崎の大村の街を思って、いつでも行ける長崎がとても切なくて恋しかった。

「悲しいかな、そうなんだよ‥夜空に輝く無数の星達は何年も掛けてやって来る、そんなこの天の川銀河がこの宇宙には4兆個以上もあるなんて‥もう遠過ぎて、我々人類が観測出来る銀河系なんて海の砂の一粒ほどなんだから、夜空に無数に溢れる星達が何年も掛けてやって来るあの星の光は、この宇宙のもうほんのひとかけらなんだよ‥‥そう考えて見ると、俺達が日頃から浮世のあまり細かい事に振り回されないで、人間のほんのひと時の人生なんてのは、そうだな‥ちょっとアバウトでいいんじゃあないかな」

「何か、お月様から随分と大きな話になっちゃったね‥でも、人生アバウトとは関係ないと思うけど」

「だから‥細かい事に一喜一憂するのも、短い人生の中の、ほんのひと時なのよ」

「研ちゃん、何か変な宗教にかぶれてないよな」

「おい、何だよ‥うまく言えないけど、これでも俺なりに一生懸命に慰めてるつもりなんだけどな」

「よくわからないけど、ありがとう」

と言うと、二人とも酒を飲み干した。

「カズ、宇宙を少しでも知ると、いろいろな概念が変わるだろう‥そして、時間やスピードや大きな距離感などはとてつも無く違うから、今までの自分の価値観が変わるんだよ‥どうだ、いろいろ知ると宇宙っておもしろいだろう‥そして、人生のほんのひと時の一喜一憂なんて、もっとアバウトでいいんだ‥次、行ってみよう‥って、笑い話になるから」

と言って、研一が煙草を深く吸うとゆっくりと細く吐き出した。あの無数に輝く星と星との互いのとてつもない距離や、そのひとつひとつの星に地球の様な惑星を幾つも引き連れてもの凄いスピードで走っている星達の事に、驚かされた。そして、何処かで暮らしているだろう生物とお互い遠過ぎて光のスピードでさえも逢えない事が研一の言う通り、なんか切なくて‥自分の事の様に思えて思わず溜め息をした。研一の言う宇宙からしたら、自分の一生なんてほんの瞬きするくらいなのかなと思った。そして研一の言う細かい事に一喜一憂するのも、短い人生の中のほんのひと時の様に思えて来た。それでもやっぱり、人生アバウトとは関係ない気がした。店内に ♪グットナイトベイビー が流れて来て、先程より客数も増えて一層騒がしくなった。そしてまた、一生懸命慰めてくれる研一の言葉がとても嬉しかった。そして、和夫はこんなに熱く話す研一を見た事が、とても意外だった。

「まだ時間が早いから、もう一杯だけ飲むか」

和夫が、腕時計を覗いて言った。

「そうだな、じゃあもう一杯だけあのとびっきりの笑顔をお願いするか」

と言って、研一がさっきの女子店員を見回して探した。和夫も振り返って辺りを見渡すと、店内ではこまめに店員達が料理を運び、空いた器を下げ灰皿を交換していた。すると、右手の奥の方で先程の女子店員が一升瓶を抱えて、日本酒を注いでいるのが見えた。そして、その周りで男達の騒めく声が聞こえ、その中の数人が手を叩いて笑っていた。

「カズ、ほらほらあの娘だよね‥ほら、あのショートカットのあの娘‥‥あらら、もう始まっているじゃんか、あのとびっきりの笑顔が」

と、右奥の方を指差した。

「あそうそう、あの娘だ‥あららら、なんか盛り上がっているみたいだね‥とびっきりの笑顔」

と言って、二人して笑った。すると突然、騒めく店内に ♪どうにも止まらない が、突如流れて来た。その後、二人は7時に店を出て電車で関内に来た。駅の北口の改札口を出てすぐに、サンタクロースの衣装を着たお姉さんが二人で、通り過ぎて行く人に声を掛けながらクリスマスケーキを販売していた。すぐ脇のテーブルの上には、派手な電飾で輝く小さなクリスマスツリーと、クリスマスケーキの箱が山積みされていて、もうひとりのサンタクロースの女の子がレジの前でケーキの箱を袋に入れながら、慌ただしく動いていた。テーブルの上のラジカセからジングルベルの曲が大きな音で流れていて、背の高い方のサンタクロースの女の子と目が合うと、すぐに笑顔で寄って来た。

「メリークリスマス‥お兄さん達、クリスマスケーキは大丈夫ですか‥どうですか、不二家のケーキです‥クリスマスケーキのご予定はありますか」

と、満面の笑顔で言った。

「クリスマスケーキ‥‥美味しそうだな」

「はい、どうですか‥いちごのクリームケーキと、チョコレートケーキがありますが‥どちらも美味しいですよ‥ひとつどうですか」

「ごめん‥俺達、これから飲み会なの」

「あら、飲み会いいですね‥残念だけど楽しんでくださいね‥‥良いお年を」

「ありがとう‥君も良いお年を」

と研一が言って、手袋をしたまま手をかざすと女の子が笑いながらタッチして来た。

「寒いね‥大丈夫、すぐに全部売れちゃうよ」

と研一が、山積みのケーキの箱を見ながら言った。「もちろん、そのつもりです」

と、背の高いサンタクロースの女の子も笑いながら研一に言った。伊勢佐木町の通りへ来ると相変わらず人通りが多く、あちこちのショーウィンドウのディスプレイが、クリスマスの飾り付けで賑わっていた。和夫はショーウィンドウに映る二人の歩く姿を見て、研一との久し振りの時間が嬉しかった。時折、冷たい風が吹きつけるとそのつど手袋をした手で耳を覆った。各店舗のクリスマスの飾り付けを覗きながら歩いていると、ふと時計屋のショーウィンドウの腕時計が目に付いて立ち止まった。先を歩いていた研一が振り返って戻って来ると、二人してショーウィンドウを覗き込んだ。全面の雪景色の中に、サンタクロースがトナカイのソリに乗って走っていた。よく見ると、あちこちの家に煙突が付いていた。腕時計とのバランスが、絶妙に素敵なディスプレイだと感心した。ショーウィンドウのクリスマスディスプレイを覗きながら歩いていると、和夫の勤めている伊勢佐木町のデパートに差し掛かった。まだ営業をしているので避けて、通りを挟んだ反対側を通ると、冷たい風に背を向けて二人は裏通りの福富町に出た。伊勢佐木町とはまた別の独特の街の匂いを感じて、二人は懐かしい気分になった。見慣れた街の通りには、出し看板が幾つも灯りを灯していて、行き交う人の数もいつもより多い気がした。

「ここも久し振りだな‥‥ちょっと早かったかな」

と研一が腕時計を覗きながら言って、アローの店のドアを開けた。入って直ぐに店内で ♪クレイジーラブ が流れていた。十席ほどあるテーブル席は去年と同じ赤色のキャンドルランプが灯って、各テーブルの辺りがぼんやりとして見えた。テーブル席の半分以上が客で埋まっていて、左側のカウンター席の隅に今年も小さいクリスマスツリーが灯りを灯していた。驚いたことに、店内の正面に最近までなかった大きなジュークボックスの灯りが目に入った。和夫が顔見知りの女店員に挨拶をして、カウンターの奥を覗いて見たが、マスターの姿は見当たらなかった。女子店員に聞いてみると、今月に入ってからは店に顔を出してないとの事だった。二人してコートを脱いで窓ぎわの席に座ると

「カズ、ここにはボトルが入っているのか」

と、研一が聞いた。

「最近はあまり来ないけど、たぶんボトルがあると思うよ‥でもバーボンだけどいいかな」

「ああ、それじゃあソーダ割にするか」

と研一が言った。しばらくしてバーボンのボトル瓶とアイスピックで割った氷が入ったアイスペールと、研一が頼んだソーダの瓶にカットされたライムとレモンが載ったガラスの皿がテーブルの上に並べて置かれた。そして、昔ながらのこの店のお通しの塩ポップコーンが、バスケットに山盛りに入ってテーブルに並んだ。

「思ったより、バーボン残ってたな」

と、和夫がボトル瓶を手に取って見ながら言った。そして、グラスに氷を入れバーボンを注ぐとソーダで割って、その中にカットしたライムを入れてマドラーでゆっくり掻き混ぜると、研一の前へ置いた。アイスペールから大きな氷の塊を自分のグラスに入れて、バーボンを注いで手に持っと

「じゃあ改めてもう一度‥久し振り、乾杯」

「ああ、乾杯」

と和夫が言って、研一のグラスに軽く添えて互いにひとくち飲んだ。研一がガラスの皿に載ったカットしたレモンを指で摘んで、皮ごと口に入れると

「やっぱり、俺はバーボンよりスコッチの方が好きかな‥バーボンってちょっとクセがあるだろ、スコッチは俺の中ではザ・ウイスキーって、感じかな‥カズはいつもバーボンのロックばかりだけど、何でそんなにバーボンにハマったの」

「だってバーボンは、アメリカンって感じだろ」

「そうか、スコッチはザ・ヨーロッパって感じだもんな‥でも何でアメリカなの」

「やっぱりジェームスディーンかな‥俺、アメリカ映画が好きだから‥最近だとアメリカングラフィティを1か月ほど前に観たけど、凄く良かったよ」

「何だよ、映画かよ‥それって、どんな映画なの」「ジョージルーカスっていう若手の監督が、60代初頭を舞台に、四人の若者が過ごす一夜をロックンロールの数々の名曲に乗せて描いた青春映画だよ」

「そう、それでどんなストーリーなの」

「あらすじかい‥カルフォルニア北部の小さな街を舞台に、高校を卒業したばかりの二人の男の子が、翌朝大学に進学するため故郷を出る予定で、あとその友人二人とそれぞれの車で街のいつもの溜まり場へ繰り出して、四人がともに過ごす最後の夜を楽しむ‥そんなそれぞれの思いを描いたストーリー」

「へえ‥いいなあ、60年代のアメリカか‥‥それじゃあ、スコッチはフランス映画だな‥俺はどっちかと言ったら、フランス映画の方が好きだけどな‥カトリーヌドヌーヴの幸せはパリで‥‥あのドヌーヴにはハマったね」

「そうかい‥ローマの休日の、オードリーヘプバーンの方が俺は好きだけどな」

「そうか、カズは映画好きだからな‥カズが絶対に観ろと言った卒業‥‥恵子と観に行ったけど、あれは二人とも感動したな‥キャサリンロスとダスティホフマン、両方とも新人らしいけど凄いと思った」

「良かっただろう‥あの全編に流れるサイモン&ガーファンクルのスクリーンミュージック、サントラ盤をすぐ買ったもん、あとカセットテープも」

「あのラストシーンのバスの一番後ろで、ウエディングドレスのヒロインと二人で並んで座っているシーン‥二人の表情がとても切なくて、その後の事が何となく悲しく思えた」

「まあ、人それぞれの解釈だから‥でも、アメリカ映画は絶対にハッピーエンドだから」

「そうだな‥ハッピーエンドで観ないとな」

「あっそう言えば、もうそろそろ恵ちゃん達来るんじゃないのか」

と言って、和夫が腕時計を見た。研一も腕時計を見ると8時を10分程過ぎていた。

「ちえ、今日はカズといい恵子といい、まったく大人のくせに時間にルーズな奴ばかりで‥ほんと、恥ずかしくないのかな」

と言って、和夫の顔を見た。

「そう怒るなよ‥まだ8時を少し過ぎた所じゃあないか、どうしたんだよ」

「お前達の10分や20分は、遅れたと言う感覚がないんだよな‥まるでアフリカ大陸だな」

「また、随分と大きな話になっちゃって‥そう怒るなって、もう来るから」

「俺は仕事柄、時間にはシビアなのよ‥昔から10分前の精神だったから‥まっ、鈍感なお前達には言ってもわからないかな‥‥見てろ、またひとこと言い訳が出てくるから」

そこに大きな皿に乗ったピザを、和夫の顔見知りの女の店員が運んで来て、タバスコとピザカッターと綺麗に折られた紙ナフキンが入ったステンレス製のホルダーが、一緒にテーブルに置かれた。

「おっ、やっと来たか‥マスターがピザにハマっちゃって、高価なピザ窯を買って今年の春頃から本格的にピザを初めたら、それが随分と評判が良くて今じゃここの一番人気なんだよ」

「えっ、ちょっと大きくないか‥‥カズ、この後中華街でのディナー‥忘れてないよな」

「ああ、頑張って食べるからよ‥でもここへ来ると、どうしても食べたくなるのよ‥この店のピザは、そんなピザなんだよな」

と言いながら、和夫がピザカッターでピザを切り分けると、一切れ分にタバコをかけた。

「そんな顔をしないで、まあ一切れ食べてみろよ‥研ちゃん、タバコは使うの」

と言って、タバスコにキャップをして研一の前に置いた。研一は呆れた顔で

「カズ、ついさっき西口の居酒屋で、大根の味噌田楽と、ホルモンの煮込みを結構食ったよな」

「ああ、そうだったね‥‥なんか休みの日は嬉しくて、ごめんね‥少しだけ、つままない」

「コースでお願いしてあるから‥おそらく今年も、料理が結構出てくるぞ‥‥女将さんに申し訳ない」

「ごめん‥お料理、残ったら持ち帰りのタッパに詰めてもらって、グッピーに持って行こうよ」

「だから‥この時期に個室を用意して、もてなしてくれる女将さんに申し訳ないだろう」

「ごめん、そう怒るなよ‥俺、頑張って食うから」

と言って、手に持ったピザを皿に戻した。

「あっ、やっとお嬢様達のお出ましだぞ」

と突然、研一が入り口の方を見ながら言った。和夫が入り口のドアの辺りを見ると、濃紺のロングコートを脱いでいる恵子の姿が見えた。すかさず研一が手を上げて、そして立ち上がったので和夫も慌ててその場に立ち上がった。その恵子の後ろで、若い女が黒いハーフコートを脱いでいるのが見えた。そして恵子がコートを抱えて、微笑みながらゆっくりと歩いて来た。恵子の淡いパステルピンクのシャネルスーツに、オフホワイトのシルクのブラウスが大人の女の優雅な雰囲気を醸し出していた。

「ごめんなさいね、遅くなりました‥いや、関内の駅前でケイコと二人で凄いカッコいい男の子達にナンパされちゃって‥可愛いと、いろいろあるのよ」

と恵子が微笑みながら言って、和夫の顔を見ると

「あ‥カズちゃん、お久し振り」

と言ってハイタッチをした。和夫も微笑みながらハイタッチをすると

「あっ、あの夏から‥」

「ストップ‥‥今、少し見ない内にまた綺麗になったな‥って、言おうとしたでしよう」

と、和夫の言葉を遮って恵子が言った。

「えっ‥何だよ、それってまた今年もかよ‥今、俺が先に言おうとしてたのにな‥‥それにそれ、去年も同じ事言ってなかった」

と和夫が言って、笑いながら恵子と今度はグータッチをした。

「お久し振りです」

と恵子の後ろから、ケイコが微笑みながら軽く頭を下げて言った。淡いライトグレーのタイトスーツに白いシルクのブラウスで、やはり大人の女の匂いがして和夫は驚いた。手には、今年も同じ黒い毛皮のハーフコートを持っていた。

「えっ‥あっ、久し振り‥なんか、すっかり大人の女の人になったね」

と言って、ケイコの上から下まで見渡した。職業柄足元を見ると、今年も高価な黒いピンヒールの靴が目に付いた。

「あらら、美味しそうなピザ‥‥研ちゃん、座ってもいいかしら」

と恵子が言うと、慌てて研一が椅子を引いた。二人が椅子に座って、空いてる椅子にコートを置くと

「久し振り‥何だか、大人の女の人になっちゃって‥あのケイコだよね」

と、ケイコを見ながら微笑んで和夫が言った。

「はい、あのケイコです」

微笑むケイコの顔が眩しく見えて、和夫は少し慌ててしまった。去年のあどけなさは消えて、すっかり綺麗な大人の女の人になっていた。飲み物を聞くと、二人ともビールを頼んだ。

「えっ、ビールなんだ」

と、和夫が少し驚いて言うと

「はい‥私、今年の春に二十歳になったんです‥で、ビールを恵ちゃんに教えてもらって、大好きになりました」

「そうなんだ、二十歳になったんだ‥そうか、大人の仲間入りしたんだ‥でも、ほんとうに久し振りだね‥一年振りかな」

「はい、ちょうど一年振りです」

「そうだよね‥去年もクリスマスイブだったよね」

と言うと、和夫はバーボンをひとくち飲んで、去年のクリスマスイブを思い浮かべた。ここアローで待ち合わせして、中華街で四人お腹いっぱい食べた事や、貨物船の汽笛の音にマリンタワーの赤と青の灯り、そして大きなクリスマスツリーに雪が降ってきた山下公園。ケイコと恵ちゃんの二人で歌う♪ラストダンスは私に が聞こえてくる様な気がした。

「一年振りって‥何だか、七夕みたいじゃん」

と、研一が言った。

「あら、研ちゃん素敵な事言うのね‥何かちょっと染みるね‥でもそれって、去年も言ってた様な気がするけどな‥ねえカズちゃん」

と、恵子が言って笑うと、みんなして笑った。

「それに研ちゃん‥七夕が素敵なのは、一年に一度逢うから素敵なんだからね‥‥お互いが、一年分の想いを持って逢うんだよ」

「恵子、あまり重たい事言うなよ‥カズにプレッシャーを掛けてどうするつもり」

「カズちゃんが、少しくらいプレッシャーに感じてくれるなら、私は嬉しいけどな」

と、恵子が和夫の顔を見ながら言った。

「あっ、ありがとうございます‥その時計、付けてくれているんですね」

とケイコが言って、和夫の腕時計を見た。

「ああ‥仕事以外の時は、いつもこれを付けてるよ‥この腕時計を見るたびに、あの去年の山下公園の事を思い出して、ふっと‥なんか力が抜けて、微笑ましい気持ちになるんだよ‥ありがとうね」

と言って、腕を差し出して腕時計を見せた。

「嬉しい‥何だかわからないが、その腕時計とても懐かしいです」

と、ケイコが言って微笑むと店内に ♪スタンドバイミー が流れた。

「あっなんか、カズいいな‥俺も腕時計欲しいな」

と言って、研一が恵子の顔を見た。

「あら、研ちゃん‥それって、もしかしておねだりなのかな」

「いや、そう言う訳じゃないですよ‥ただ、カズいいなと思って」

「また今度ね‥私、貢ぐ女じゃあないからね」

「わかってます‥そんな、怒らないで」

「確か‥つい最近、あの馬車道の高級焼肉屋で奢った気がするけどな‥覚えているよね、ものすごい勢いで食べて飲んでいたっけな」

「はい、ご馳走様でした」

「それに、10月に二泊で伊豆へ行ったっけな‥もちろん覚えているよね、あれも私が全部企画からお支払いまでしたけどな」

「はい、いつもお世話になってます」

「夏に‥」

「すみませんでした‥俺、腕時計三個もあるから、ほんとは必要ないんです」

と言うと、四人とも笑った。店内に ♪あなたの肩に頬をうめて が流れていた。

「ピザ、冷めない内に食べないと硬くなるよ」

と和夫が言って、一切れ手に取って口に入れた。すると、みんなでピザを手に取った。

「頂きます」

と言って、恵子とケイコがタバスコをかけてピザを頬張ると、すかさずビールで流し込んだ。

「あの‥和夫さんは今夜のグッピーのクリスマスパーティーには、今年も行かれるのですか」

と、ケイコが顔を覗き込む様に聞いて来た。

「ああ、行くよ‥その為に店で、大変な苦労をして休みを取って来たから」

「そうですか、よかった‥私、今夜のクリスマスパーティー‥恵ちゃんと二曲歌わせてもらうので、和夫さんに聴いてもらえたら嬉しいです」

「それと‥飛び入りで、ケイコにソロを1曲お願いしてるのよ‥でもケイコがね‥‥カズちゃんも聴きたいでしょう、ケイコの歌‥お願いしてくれる」

「えっ、俺も聴きたいな」

「ケイコね、五歳の時からピアノを習っているから‥だからソロで弾き語りをお願いしてるのよ」

「へえ凄いな、ピアノを弾けるのか‥弾き語りね‥‥あっ、でも確か今年はジャズクリスマスだとかで、オールジャズだけだから俺達にはお声が掛からなかったよね」

と言って、和夫が研一に聞いた。

「ああ、俺達ジャズはね」

と、笑いながら研一が言って

「でも、恵子がワンステージやるので、飛び入りで俺も二曲ギターとコーラスをやる事になってる」

「そうか、それは楽しみだな‥恵ちゃんはいつもの弾きがたりなのかな」

「それが‥ここのマスターの紹介で、マーメイドのマスターのジャズバンドがバックをやってくれる事になって‥先週もニ度目のリハをやったのよ」

「へえ、それは凄いね‥マーメイドってユミちゃんの店のマスターか‥あのマスターがジャズバンドとはね‥前に何度かあの店に行ってたけど、あのマスターにそんな一面もあったなんて知らなかったな」

と、和夫がピザを一切れ手に取って言った。

「ほらカズ、去年のクリスマスパーティーでマーメイドのマスターが飛び入りでドラム叩いただろう‥小島のベースとユミコがキーボードで歌った曲、ほらあの有名なジャスの曲‥‥カズ覚えてないか、確か♪ユービーソー・ナイス‥とかって」

と言って、研一が口ずさんだ。

「ああ、ユービーソーナイストウカムホーム‥‥ユミちゃんが弾き語りで歌った、あの曲でしょう」

と、恵子がピザを頬張りながら言った。

「えっ、何となく‥俺、かなり酔ってたからな‥‥それで、恵ちゃんジャズ歌うの」

「そうなのよ‥ソロで六曲とケイコ達と二曲、研ちゃんがアレンジしてくれた♪ラストダンスは私にと♪サントワマミー の両方ともジャズバージョンで」

と恵子が言って、研一を見た。

「どっちも偽物ジャズバージョンだけど‥見解は人それぞれで、それっぽく楽しめたらそれでいいかなと‥まっそれに、マーメイドのマスター達がそれっぽくバックで助けてくれるから」

と、少し照れながら研一言った。

「ケイコ‥なかなかジャズっぽくて、素敵だよ」

と、恵子が笑いながら言うと

「いや‥恵ちゃんのソロのほうが凄くセクシーで、きっとみんなを酔わせてしまうんですもの」

と、ケイコも笑いながら言った。

「なんか楽しみだな‥小島がジャズベースできるなら、俺も飛び入りでそれっぽいのを出来ないかな」

「カズやめとけ、ジャズだぞ‥お前、また酔っ払うから‥みんなに迷惑掛けるだけだよ」

「冗談だよ‥でも今年はジャズか、楽しみだな‥‥それじゃあここのマスターのロックンロールバンドは、今年は出ないのか‥‥あのビートルズのロックンロールも楽しみだったけどな」

「カズ知らないの、アローのマスターがピーナッツで毎週土曜日に演奏しているぞ」

「えっ、ピーナッツ‥いつから」

「10月からよ‥‥でもカズちゃん、伊勢佐木町で働いていて知らなかったの」

と恵子が言って、ビールを飲み干した。

「ああ、そうなんだ‥店が忙しくて、最近はここもご無沙汰していたからな‥そう、知らなかったよ」

と言って、バーボンを飲んた。

「えっ、ピーナッツって‥あのディスコですか」

と、ケイコがすかさず聞いた。

「そうよ、ケイコ行った事あるの」

と恵子が言って、灰皿にあった研一の煙草を手に取って吸った。

「いえ、行った事はないんですけど‥あのディスコは有名なので、名前ぐらいは知ってました」

と言って、ケイコもビールを飲み干した。

「あっ、やばいよ‥もう9時10分前だよ、タクシーをはやく拾わないと遅刻しちゃうよ」

と、和夫が腕時計を見ながら研一に言った。

「えっ、カズの口から遅刻なんて言葉が出て来るなんて、ほんとうにやばいな」

「だって、女将さんが待っているんだろ‥早く行かなきゃまずいよ」

「あらら、まったくこれだもんな‥カズ、大丈夫だよ‥さっきトイレへ行った時に中華街のお店に電話したら、女将さんが申し訳ないけど30分ぐらい遅らせて欲しいとの事だったから」

「あっそうなんだ‥でも、もうそろそろ行こうよ」

「えっカズ、時間にルーズなくせに‥‥これからもその調子で頼むよな」

と言って、笑いながら腕時計を指で指した。四人がアローを出ると、タクシーを探した。風も止み、酔いのせいか寒さは感じなかった。伊勢佐木町の通りに出た所で直ぐにタクシーを拾って、四人で中華街へ向かった。途中、相変わらずの暮れの工事渋滞にハマったが、それでも止まる事なく車は流れていて、余裕で中華街の店に着いた。五階建ての大きな店構えで、入り口の所には幾つも龍が舞っていた。赤青緑に金色の派手な装飾で、まるで竜宮城の様だった。これって去年と同じお店なのかな、と思いながら店を見上げていると、直ぐに黒服を着た従業員が出迎えに来てフロントまで通された。四人は大きな入り口からフロアーへ入ると、去年とは違って広いフロアーの真ん中に、色鮮やかな花に包まれた小さなステージがあった。ステージには赤に黒い刺繍の入ったチャイナドレスを着た若い女の人が、椅子に座って楽器を演奏していた。和夫は初めて見る楽器で、後で聞いた話だとダルシマーと言う楽器で、台形の共鳴箱に張られた弦を、ハンマーで叩いて音を出す打弦楽器で、ピアノと同じ原理の様との事だった。何ともエキゾチックな美しい音色で、古い中国の雰囲気を、大きなフロアーに醸し出していた。まったりした曲は、聴き覚えのある映画音楽の様だなと思った。フロントで予約のチェックを済ませると、その先の左右にいくつかある待合室のその中でも比較的小さな室に通された。師走のクリスマスイブだから団体客が多いかなと思ったが、静寂な大きなフロアーを見渡すとチャイナドレスとダルシマーの美しい音色がエキゾチックな雰囲気を辺りに醸し出していた。五分ほどで研一が言う女将さんが挨拶にやって来たその瞬間、和夫は驚いて女将さんの上から下までをゆっくりと眺めた。黒いジャケットに黒っぽいタイトなチャイナドレス姿で、背が高く痩せていてとても綺麗な女の人だった。チャイナドレスのサイドスリットから、黒いレースの綺麗な足が露わに見えた。研一が言ってたこの人が、ピカドンに二度も会った様にはとても見えなかった。それより、どう見ても三十五六歳ぐらいにしか見えないからだ。女将さんのひと通りの挨拶と、遅くなってしまった事へのお詫びが済むと、研一が以前から大変お世話になっていた話を交えて、みんなに女将さんを紹介した。直ぐにエレベーターで三階の個室に通されると、そこは中国四千年を思わせる様な部屋だった。真ん中に大きな楕円形のテーブルがあり、その後ろの壁一面に、彫刻で施された色鮮やかな龍や孔雀の様な鳥が何羽も飛び交い、左右の壁には赤いと金色の刺繍が一面に輝いた布が架かっていた。部屋の隅に腰の辺りまであるくらいの大きな壺が二つ置いてあり、その壺の中で見た事のないカラフルで鮮やかな色の大きな花が幾つも咲いていた。お店自慢のフルコースが始まると、最初に皆んなで温かい老酒にざらめ砂糖を入れて乾杯した。前菜に棒棒鶏やクラゲにピータン等が並び、スープはツバメの巣のスープが出てきて、フカヒレの姿煮が出ると和夫は初めての料理に驚いた。主菜には酢豚や海老チリに魚と野菜の餡掛けが出て来て、点心に焼飯が続きその後も黒アワビや北京ダック等と高級な料理が次々と出てきて、去年のコースよりも今年の料理のランクが違い過ぎて驚いた。やはり今年も品数や量も多く、それでも四人ともよく食べて、特に恵子とケイコの食欲には驚かされた。ひと通りコース料理が終わると、今年もデザートのメロンとバニラアイスは研一と和夫の分まで女性達が、デザートは別腹だと言い訳をしながら食べた。研一が会計を済ませると和夫が

「研ちゃん、ほんとうに大丈夫なのか」

と、研一に寄って行って心配そうに言った。

「ああ、ランチタイムの料金だから安心しろよ」

「えっ、それって‥‥もしかしてだけど、去年もそうなのかな」

「ああ、女将さんが何度もいいって言うんだけど、せめてランチタイムの料金でと、無理矢理お願いしたんだよ‥だから心配しないで」

「いや、今回のコースには驚かされたから‥俺、初めて見た物ばかりだったんで驚いたよ」

そこへ慌ただしく女将さんがやって来て、笑顔で挨拶をすると研一と軽いハグをした。続いて女性達もお礼を言いながらハグをすると、和夫も軽くハグをしてもらった。すると、香ばしい不思議な香水の匂いがした。四人は大満足のお礼を言って店を出ると、風もなく酔っているせいか少し暖かくさえ感じた。11時を過ぎてるにも関わらず人通りが多く、通り過ぎる車の数も多い気がした。突然、爆竹の音が辺りに鳴り響いて驚いたら、少し離れた所で人だかりから何人もの大きな笑い声が聞こえて来た。

「カズちゃん、私達買い物があるから」

と言いながら、恵子が近寄って来て研一を見て

「研ちゃんが、クリスマスプレゼントを買ってくれると言うから、申し訳ないが今年もケイコをグッピーまでエスコートをお願いしてもいいかしら」

と、和夫の耳元で言った。

「あっああ‥俺は、別に構わないけど」

「別に構わないけど‥じゃあなくて、もっと嬉しそうな返事をしなくちゃダメじゃない」

と言って、和夫の肩を指で突っついた。

「あっああ、わかったよ‥‥その、是非グッピーまで‥その、喜んでエスコートをさせてもらいます」

と、笑いながら和夫が言った。

「そうそれ、その笑顔を絶対に忘れないでね‥ほんとうはもの凄く嬉しいくせに、ちょっとカッコつけちゃった‥って顔してたぞ」

と言って、また和夫の肩を指で突っついた。

「恵子、あまりいじめるなよ‥カズは病み上がりなんだから‥いやいや、まだ少し病んでいるみたいだから‥あまりいじめないでくれよな」

「あら、そうなのカズちゃん‥まだ熱があるんだ」

「えっいや‥大丈夫だよ」

と、和夫が苦笑いをしながら言った。

「そう、それじゃあとっておきのおまじないをして、私が薬を処方してあげるから‥ケイコを、宜しくお願いしますね‥ちゃんとグッピーまでエスコートしてよ‥あっ、それからその変な病い、ケイコには移さないでよね‥‥ケイコ、また後でね‥‥それじゃあカズちゃん、宜しくお願いします」

と言って、小さく頭を下げた。するとそれを見ていた二人が笑い出すと、和夫と恵子もお互いを見て笑い出した。二人とはそこで別れて、研一と恵子は通り掛かったタクシーを拾った。恵子がタクシーに乗ると窓を開けて

「じゃあケイコ、また後でね‥楽しんで来てね」

と言って微笑むと、和夫を見て

「カズちゃん、ケイコを宜しくお願いしますね」

と、また言って小さく頭を下げた。タクシーが動き出すと、窓から恵子が手を振って

「バイバイ‥また後でね」

と言って、走り去った。和夫とケイコは、互いの顔を見合わせて微笑むと、ケイコが

「今年もまた、クリスマスイブに和夫さんを貸し切りにしてしまって、ほんとうに申し訳ありません」

とケイコが言って、小さく頭を下げた。

「いや‥俺は久し振りに逢えて嬉しいよ」

「私も逢えて嬉しいです」

「グッピーは今年も12時からだから、まだ1時間近くあるけど‥そうだな、また今年も山下公園にちょっと行ってみる」

と、腕時計を見ながら言った。

「はい‥私、あの大きなクリスマスツリーを今年も見てみたいです」

と、満面の笑顔でケイコが言っだ。

「ああ、あのツリー‥今年も、あるといいけどな」

「今年もありますよ‥テレビのニュースで見ましたから‥でも今日はクリスマスイブだから、混んでないといいですがね」

「もうこんな時間だし、去年のイブもぜんぜん空いていたじゃん‥‥まあ貸し切りとまではいかないけど、きっと大丈夫だよ」

「でも、今年は映画のロケにも使われたし‥ニュースで何回も放送したから、混んでいそうです」

「じゃあとりあえず、行ってみようか」

と言って歩き出すと、ケイコが寄って来て和夫の腕を取ると、髪のシャンプーの匂いがした。中華街から山下公園へ向かう数人の流れと、それよりすこし少ない帰って来る人の流れがあった。山下公園の入り口付近まで来て公園の左手側奥の木立の先を見ると、去年と同じ場所に輝いている所があった。おそらく、あのクリスマスツリーだと思った。振り返って久し振りのマリンタワーの灯りを見て、胸の中が熱くなるのを感じた。そして小峰と二人で、あの展望台で観た港の灯りが痛みと共に蘇って来ると、まるでエンドレスゲームだなあと思い、少し笑った。信号が青に変わって交差点を渡り、公園の入り口に入るとケイコの言う通りカップルの姿が目立った。風もなく、酔っているせいか暖かかった。ケイコと体を寄せて歩いている事が不思議と嬉しく、心地よく酔っているのを感じた。そして、またケイコの背が少し伸びた気がして、目の淵で笑った。ゆっくりと灯りが見える方向へ歩いて行くと、木立の先でクリスマスツリーの頭の辺りの灯りが見えて来た。

「うわあ‥去年と同じだ」

と、それを見つけたケイコが無邪気に笑って言うと、和夫も不思議とわくわくして来た。途端にケイコが和夫の腕を引っ張る様にして、早足で歩き出した。直ぐに、港に停泊している何艘かの貨物船の灯りが見えて来た。今年も左奥の大桟橋に、大きな外国の客船が無数の灯りとともに停泊していた。引っ張られる様にして木立を抜けると、去年と同じ大きなクリスマスツリーが無数の灯りで燃える様に立っていた。ただ去年と違って、広場がクリスマスツリーを囲む様に、大きくすり鉢状に幾つかのコンクリートの段差ができていた。そしてそのクリスマスツリーを囲む様に各段差にベンチシートが置かれていて、その数が去年より三倍ほどに増えていた。ケイコが和夫の腕にしがみ付く様に力を入れると、クリスマスツリーを見上げて大きな溜め息をした。身体を寄せて来たケイコの柔らかい体の感覚が伝わって、胸の中がざわめいた。辺りを見回すと、ベンチシートはどれも二組のカップルが程よい間隔で座っていて、空いていなかった。そのほとんどのカップルが大きなブランケットの中で寄り添って座っていた。よく見ると空くのを待っているカップルが、あちこちで寄り添って立っているのが見えた。コンクリートの段差にも、大きなブランケットに包まれて寄り添って座っているカップルが数組いて、ケイコの言う通りこんな時間まで大変な人気だった。海風もなく酔っているのか、去年の様な寒さはあまり感じなかった。

「今年も食べ過ぎて、お腹が苦しいよ」

と、和夫が言うと

「私もです‥こんなに食べたのは、去年のあの時以来です‥いや、今年は記録更新ですね」

と、ケイコが言って笑った。

「今年もご両親は居ないの」

「はい‥両親は、今年も暮れからお正月にかけてハワイに行くので」

「ケイコは行かないの」

「えっ‥ええ、私は行きません」

「お正月のハワイなんて凄いじゃんか、芸能人みたいで‥何で行かないの」

「えっ‥‥それは、ちょっと」

と言って、ケイコが目を逸らした。

「ハワイ、好きじゃないからなの」

と和夫が聞いたが、ケイコは黙ったままクリスマスツリーを見上げていた。

「そうか、行きたくないんだ‥俺なんか、ハワイなんて一生行けないかも‥羨ましいんだけど、きっと何か訳ありなんだね」

「えっ‥‥はい」

クリスマスツリーを見上げるケイコの顔が、ツリーの灯りで輝いていた。

「そう‥‥聞いて悪かったね」

「いえ、いいんです‥‥その、実は母の妹夫婦が五年前にハワイに定住して、それで両親がお正月をハワイで過ごす様になって‥でも私、叔母が苦手で‥‥小さい頃に何度か暴力を受けた事があって、それ以来私、叔母がトラウマになってしまって」

と言って、顔を歪めると少し微笑んだ。

「へえ、そうなんだ‥‥それでその、ご両親はその事を知ってるの」

と、少し驚いた顔をして和夫が言った。

「いえ‥小さい頃から両親には言えなくて、叔母は若い頃アルコール依存症で、何度か病院に入退院していた時期があって、その頃私の家で一緒に暮らしていたんです‥幼稚園児から小学校低学年の頃で‥母は歯科医で、私は祖母が母親がわりなのです」

「俺もそう‥ばあちゃん育ち」

と和夫が言うと、ケイコが笑った。

「そのうち叔母が結婚して、家から出て行って緊張は解けたんですけど‥‥いまだに、やっぱりまともに顔を見る事が出来なくて」

「そうなんだ‥じゃあここ何年かは、お正月は一人暮らしなのか」

「はい、今度のお正月が三年目です‥和夫さんと初めてお会いした時からですので‥‥あの年の初めに急に祖母が亡くなったので‥私、気持ちがパニックになって、しばらく立ち直れなくなって‥母が気晴らしに行こうと言ったんですが、どうしても気分が向かなくて‥あれからは一人暮らしのお正月です」

「そう‥‥でも毎年ひとりじゃあ、ご両親もかなり心配なんじゃあないの」

「母は、なんとなく知っている様です‥おそらく祖母から、何か聞いていたのかもしれませんが」

突然、辺りが明るくなって大きな歓声が上がった。二人は驚いて、見まわした。どうやらクリスマスツリーの無数の灯りが、少しずつ消えて行き、ある暗さになったら一気にまた全部点灯する仕掛けの様だった。ケイコの驚く瞳が、クリスマスツリーの灯りでキラキラして見えた。そしてケイコの顔を見て、その顔がとても新鮮に感じた。考えてみると去年のクリスマスイブは、まともにケイコの顔を見ていなかった様な気がした。去年の上の空な自分を、ケイコはどんな風に俺を見ていたのだろうかと考えてみた。だが、去年の俺はそんな余裕なんてまったくなかったし、そして今もそれを引きずっている。そう、今も胸がはち切れそうになる自分を、冷めた別の自分が何処かで見てる事がある。やはり小峰は俺の中から出て行きそうもない事に、嫌と言うほど思い知らされる。エンドレスゲームと胸の中でつぶやいて、苦しくて苦しくて情け無い自分にもうひとりの自分が冷ややかに笑っていた。

「でも‥和夫さんや恵ちゃん達との出会いが、私の毎日の暮らしを変えてくれたのだから、私はクリスマスイブに感謝しています」

ケイコが、明るい声で力強く言って微笑んだ。

「そうか、あれからもう三年経つんだね‥でも不思議とケイコとは、毎年クリスマスイブに逢うよね‥研ちゃんの言う通り、これはまるで七夕だよな」

と言って笑うと、ケイコも笑った。

「所で、大学は三年生になったんだっけ」

「はい、年が明けて来年三年生になります」

「じゃあ大学生活は‥もう随分慣れたんだ」

「はい、軽音部に入ってサックスを吹いてます」

「サックス‥凄いじゃん」

「はい、中学の時から高校も吹奏楽でサックスをやって来たので‥アルトとテナー、二つ持ってます」

「凄いね,ピアノも弾けるし‥サックスか、今度グッピーで聴かせてくれよ」

「えっ‥ええ、機会があれば」

和夫は、ケイコのサックスを吹く姿が想像出来なかった。そして、大学生活のケイコをとても想像出来なかった。そう考えて見ると、ケイコの日常生活に触れる事はまったくなかった。俺はケイコの事をまったく 知らない事に気づいて、改めてケイコの顔を見た。初めて会ったジキルとハイドの、背伸びしていたあの無邪気な高校生のケイコが、もうだいぶ遠い昔の様に思えた。

「ちょっと、あの辺りに座ろうか」

と、コンクリートの段差を指して言うと、ケイコを誘導した。すかさず首に巻いていたマフラーを取って、コンクリートの段差に履いた。

「あっこれ‥去年のマフラー」

と言って、慌てて自分の首のスカーフを外した。

「それシルクだろ‥これカシミアだから、こっちの方が暖かいよ」

と言って、マフラーを畳んでコンクリートの上に履いた。慌ててケイコがマフラーを取って

「ダメですよ‥これ去年のあのマフラーですよね」

と、言って微笑んだ。

「あのう‥宜しかったら座ってください」

直ぐ横のベンチシートに座っている女が、立ち上がって声を掛けて来た。ケイコがマフラーを持って振り向くと、ショートカットの幼い顔をしていた。

「私達、もう帰るので、宜しかったらどうぞ」

と、女が言った。

「もうそろそろ終電が無くなるので‥急いでタクシーを探さないと‥よろしければどうぞ」

と言って、横に座っていた男も立ち上がるとベンチシートを空けた。ケイコがマフラーを持ったまま

「ありがとうございます」

と、すかさず言って、頭を下げた。

「あの‥もしよかったらこれ、使って下さい」

と、男が厚手のモスグリーンのブランケットを差し出した。ケイコが

「えっ‥‥あの‥‥」

と言って和夫の顔を振り向いて見た。和夫もその場で言葉に詰まって、ブランケットと男の顔を見てそしてケイコの顔を見ると驚いた顔をしていた。

「えっ、あの‥これ‥お借りしても良いんですか」

と、和夫が聞いた。男を見ると、少しやんちゃな顔で同じ歳ぐらいに見えた。

「寒いでしょ‥これ、差し上げますのでよろしかったら使ってください」

「でも‥これ‥ほんとうに」

和夫が言葉に詰まると

「今日、クリスマスイブだから‥僕らからのプレゼントで差し上げますので、使ってください」

と、男が笑いながら言った。

「トシ君、洒落た事言うのね」

女が笑いながら言って振り向くと

「あの、よろしかったらどうぞ‥私達、もう帰らないと終電に間に合わないのでどうぞ」

と、女がブランケットを男から受け取ってケイコに差し出した。ケイコがブランケットを受け取ると

「あの‥‥ご住所を教えてください‥これ、後ほど送りますので」

ケイコが女に聞いた。

「いえ、よろしかったらプレゼントでもらってください‥今日はイブだから」

と言って笑った。

「ほんとにいいんですか」

と、和夫が女に聞いた。女が微笑みながら

「彼女さん、温めてあげてください」

女が微笑むと、少し頭を下げて言った。

「ありがとうございます」

と、和夫とケイコが交互に言って頭を下げた。二人が慌ただしく帰るのを見送くりながら、お礼を言って二人はベンチシートに腰掛けた。同じベンチシートに座っている隣の別のカップルと目が合って、軽く会釈した。さっそくもらった厚手のブランケットを二人寄り添って肩まで掛けると、先程の二人の温もりを感じる気がした。

「ふう‥あったかい」

と、溜め息を吐きながらケイコが言った。ベンチシートの背もたれには傾斜があり、クリスマスツリーを見上げる様になっていた。すぐにケイコが冷たい手で、和夫の手を握ってきた。和夫が握り返すと、とても冷たく柔らかい手だった。

「もうそろそろ、みんな帰る時間なんだね」

と、和夫が言いながら辺りを見渡すと、あちこちで帰って行くカップルの姿が見えた。ケイコがいきなりブランケットから手を出すと、持ってるマフラーに顔を埋めて

「和夫さんの匂い‥‥去年と同じだ」

と言って微笑んだ。和夫も去年を思い出して、あの時のケイコの顔が浮び、思わず微笑んでしまった。

「三年生になると、次はもう就職を考えるんじゃあないの‥卒業したらどうするの」

和夫がケイコの顔を覗き込んで聞いた。

「はい‥私、教員になろうと思っています」

教員と聞いて、和夫は胸の中が騒めいた。小峰も教員だった事を思い出して、やるせない気持ちになった。そしてケイコの教員の姿が想像出来なかった。「そう、教員ね‥ケイコならきっと、いい先生になる様な気がするな‥所で大学で、彼氏できた」

と、和夫が聞いた。ケイコがえっ‥とした顔で

「いえ、彼氏はいません‥私、女子大です」

と、強くケイコが言った。

「あっそうそう、そうだったね‥でも誰か友達が紹介してくれないの」

「いえ、今のところ‥彼氏はいいんです」

「そう、いいのか‥今まで彼氏はいなかったの」

「いえ‥高校二年生の時に、ヨットスクールのコーチとお付き合いしてました」

「へえ‥ヨットスクール」

「はい、夏休みにスクールへ通っていたので」

「そうか、家が逗子だったよね」

「はい、小学生の5年生の夏から、夏休みになるとスクールへ行ってました‥‥そのスクールの大学生のコーチと、高校二年生の夏から少しだけお付き合いをしていました」

「そう、素敵な想い出だね」

「もう随分と前の事なので‥素敵な想い出なんて」

と言って、ケイコがうつむいた。

「へえ、ヨット‥小学生の頃からじゃあ、だいぶ上手なんだね」

「大会に出場する、とかのレベルじゃないんです‥スクールは夏だけだから」

「そうか‥俺はヨツトなんて、身近な競技じゃあないから‥友人や知人にも聞いた事ないしな」

「母が、高校から大学までと競技に出ていたそうで、その影響で始めました」

「そう‥スクールへは今年も行ったの」

「いえ‥高校生までで、大学へ行く様になって辞めました」

「そう‥それでその大学生のコーチとは、何で少しだけのお付き合いだったの」

「はい‥彼、翌年の春に大学を卒業して金融機関に就職したんです‥そしたら、もうそれどころじゃなくて大変だった様です‥‥そして、すぐにアメリカに転勤されて」

と言って笑った。

「そうか‥高校生のヨツトスクークでの想い出か‥凄くいいじゃんか」

「そんな、凄いなんてロマンチックなんかじゃあないんですが‥‥それに、少しと言っても夏から一年ぐらいのお付き合いでしたので、スクールの時だけでもなかったんです」

と言って、また笑った。和夫が腕時計を見ると11時40分だった。そろそろタクシーを探すかと思い

「グッピーの恵ちゃんのステージは、何番目なの」

「確か、終わりの方だと言ってました‥みんなもう酔ってるから、嫌だなって‥‥まともに聴いてないから、緊張しないでいいよって言ってました」

「そうか‥それじゃあ慌てる事もないか」

と言って、腕時計を見ながら和夫が少し微笑んだ。そして、ケイコの顔を見て

「ラストダンスは私に‥リハのつもりで、去年みたいに歌ってくれないか」

「えっ、ここでですか」

と、ケイコが驚いた顔をした。

「去年、ここで歌ってくれたじゃんか」

「えっ、でも‥‥なんか、ここじゃあ」

と言って、辺りを見まわした。

「去年の、あの時の歌を思い出して聴きたくなったんだよ‥少しでもいいから聞かせてくれよ」

「えっ‥でもここじゃあちょっと‥‥その、周りの方達に申し訳ないので‥ダメですよ」

と言って、また辺りを見まわした。

「ケイコなら大丈夫だよ‥去年みたいに、歌ってくれよ‥ケイコの歌、今年も聴きたいな」

「えっ‥でもやっぱりここじゃ‥‥その‥‥はい、それじゃあ歌いますね」

と、辺りを見まわしながら言うと、大きく息を吸ってゆっくり吐き出した。

♪ あなたの好きな人と 踊ってらしていいわ

  優しい微笑みも そのかたにおあげなさい

  けれども 私がここにいることだけ

  どうぞ 忘れないで

  ダンスはお酒みたい 心を酔わせるわ

  けれどお願いね ハートだけは盗らないで

  そして私のため のこしておいてね

  最後の踊りだけは

  あなたに夢中なの

  いつか二人で誰もいないところへ旅に出るのよ

  けれど送って欲しいと頼まれたら断ってね

  いつでも 私がここにいることだけ

  どうぞ 忘れないで

  きっと私のため残しておいてね

  最後の踊りだけは

  胸に抱かれて踊る ラストダンス

  忘れないでね

ケイコの澄んだ暖かい歌声が、辺りに響いた。和夫が手を叩いて微笑むと、何処からともなく手を叩く音が聞こえて来て、ケイコが辺りを見回すとその音が次第に増えて来て、ケイコが思わず立ち上がって頭を下げた。座ると、隣に座っているカップルも手を叩いていて、ケイコが和夫越しに、隣のカップルに頭を下げた。ラストダンス‥また、俺はいったい誰とラストダンスを踊るのだろうか、考えてみた。そしてまた、小峰は誰とラストダンスを踊るのだろうかと、直ぐに思った‥‥そして、俺のラストダンスは、まだずっと先かも知れない‥と、そう思って直ぐに考えるのをやめた。

「ラストダンスは私に‥久し振りに聴かせてもらったよ、今日のラストダンスは、何か切なかったな」

「えっ‥暗くしちゃいました」

「いや‥何か、沁みたな」

と言って、和夫が微笑んだ。

「あの‥グッピーでは恵ちゃんと、ジャスバージョンで歌うんです‥恵ちゃんのセクシーな雰囲気には到底かなわないが、ジャズバージョン楽しみです」

「俺も楽しみだよ‥今年は最高に盛り上がるな」

と言うと、和夫は初めて行ったグッピーのクリスマスパーティーで、スポットライトの灯りの中で歌った小峰の切ない顔を、ぼんやりと思い出した。

「あの、これ‥メリークリスマス」

と言って、ケイコがクラッチバッグから、モスグリーンの小さな紙袋を取り出して差し出した。和夫が驚いた顔で受け取って中を覗いて見ると、赤と緑のリボンの掛かった箱が入っていた。

「えっ、クリスマスプレゼントなのかい」

「はい、今年は母に和夫さんの事を話したら、母が私にクリスマスプレゼントを用意させてくれと‥断ったのですが、どうしてもと言うので」

「えっ、お母さんが‥‥開けてもいいかな」

「はい、開けてください」

リボンを解いて包装紙を開けると、箱の上に小さなカードがあった。ケイコを見ると、えっ とした顔をして和夫を見た。

「このカード‥もしかして、お母さん」

と、ケイコに聞いた。

「えっ、カード‥お母さんが」

と言って、ケイコが不思議そうな顔をした。和夫が小さなカードを開くと

メリークリスマス

娘を宜しく お願いします

素敵なクリスマスを

と書かれていた。そのカードをケイコに渡すと、ケイコが目の淵で少し笑って、そして涙を流した。

「えっ、ええこれ‥ルイ・ヴィトンじゃないか」

と、箱を見て和夫が言った。

「お財布だと、言ってました」

「お財布ったって、あの‥‥こんな高価な物、俺もらえないよ」

「去年、腕時計だったので‥今年も身につける物がいいって母に言ったら、じゃあお財布がいいよって‥そして、どうしても私に用意させて、って母が言うので‥その顔を見たら、じゃあお願いします‥って、もう頼んじゃいました」

それで、こんな高価な物を娘からではなくと、わざわざカードを添えたのかと思った。和夫が箱を開けて見ると、長財布が洒落た柔らかくて薄い透けた布に包まれていた。

「えっこれ‥これってルイ・ヴィトンのロングウォレットじゃないか‥‥えっ、こんな高価な物、やっぱり受け取れないよ」

「あの、もらってください‥母も喜びますので」

「でも、こんな高価な物‥俺、使えないよ」

「使ってください、お願いします」

「こんな高価な物、うちの店でも扱ってないよ‥これ、フランスの高級ブランドで、まだ日本には進出してないし‥‥これ、輸入品なのかな」

「母が考えて選んでくれたので‥使ってもらうと、母もきっと喜びます」

「でも、こんな高価な‥まだ会った事もない娘の友人に‥‥これ受け取るには、少し重たいな」

「そんなふうに受け止めないで下さい‥母からの、心からのプレゼントですので」

「俺、ケイコのもっと微笑ましいプレゼントなら是非もらうけど‥これは、ちょっと」

「あの‥母の価値観で選んだ物で、ほんとうにごめんなさい‥‥でも、母の気持ちを思うと、和夫さんに是非使って欲しいです」

手に持った財布を見て、和夫はだいぶ困ったがこのまま返す訳にもいかないし

「うん‥それじゃあ、ありがとう‥‥お母さんに宜しく伝えてね、大事に使わせてもらいます‥‥こんなの、俺じゃあ一生買えないよ」

と言って、受け取った。そして和夫も内ポケットからリボンの掛かった箱を取り出して

「メリークリスマス‥‥これは、俺から」

と言って、ケイコに差し出した。

「実はこれ、今日アローに行く途中で買ったんだよ‥研ちゃんが恵ちゃん達と中華街で食事するお店の事や、ケイコも来るって事を今日になって言うもんだから、俺なにも用意してなくて‥これ、伊勢佐木町のショーウィンドウで、たまたま見たウインドディスプレイで一目惚れして‥急に、去年のクリスマスイブにケイコにもらったこの腕時計の事を思い出して、つい衝動買いしてしまって」

と言って、腕に付けてる時計を見せた。

「わっ、嬉しいです‥‥ありがとうございます」

「その、去年のケイコを思い出して俺も腕時計だけど 、気に入ってもらえるといいが、俺好みで申し訳ない‥‥バンドのサイズは、後で時計屋さんで調整してもらってね」

と和夫が言うと、ケイコが直ぐに赤と緑のリボンを解いて箱を開けた。シルバーのとてもシンプルな腕時計が、クリスマスツリーの灯りで輝いていた。

「うあっ、素敵です‥‥わたし」

と震える声で言うと、潤んだ瞳で和夫を見た。和夫が小さくうなずいてケイコを見ると、潤んだ瞳の笑顔が輝いて見えた。

「私‥‥わたし、ずっと付けてます」

と言って、箱から取り出して手に取ってながめると

「わっ、ありがとうございます‥‥嬉しい」

震える声でケイコが言うと、その濡れた長いまつ毛が、キラキラと輝いていた。すると突然、遠くで汽笛の音が低く長く聞こえた。ケイコが和夫の手を握ってきたのでケイコの顔を覗き見ると、瞳の中にクリスマスツリーの灯りが見えた。ケイコが身体を寄せてきてツリーを見上げると、その身体の柔らかい感触を感じて、突然抱きしめたい衝動が走った。

「私、和夫さんに会うたびに泣いてる」

震える声でケイコが言うと、ツリーを見上げるケイコの顔を港からの突然の風が吹き付けた。すぐに抱き寄せると、その風がずっと前からある胸の中のエンドレスゲームを、吹き流してくれる気がした。


             第 三章  おわり

第三章 エンドレスゲーム を読んで頂き、大変感謝します。第一章 第二章 第三章 ともにそれぞれ編集で膨らませ続けているので、出来れば時を置いて二度 三度と飲み返して頂けると嬉しいです。そして次の第四章で、またお逢いできる事を楽しみに是非投稿したいと思います。ありがとうございました。

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