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昭和の横浜 レトロ ラブ 「ラストダンスは私に」 俺はいったい誰とラストダンスを踊るのだろうか考えてみた‥ 俺のラストダンスはまだずっと先かも知れない‥ そしてすぐに考えるのをやめた。

60年の後半から70年前半頃の夜の横浜は、ベトナム戦争のせいか横須賀に米軍の船が入ると、外国人がやたらと多い気がした。R&Bと言うソウルミュージックと共に、ディスコティックがあちこちにあり、アメリカからのロックミュージックが街に溢れていた。深夜放送のラジオが流行り、FENの米軍基地向けのラジオをよく聴いていた。港からは結構離れていたが、夜布団の中で貨物船の汽笛の音を聞きながら寝た事を覚えている。横須賀に米軍の船が入ると伊勢佐木町や元町や中華街の裏の小さなバーなどに米兵が流れて来て、その小さなバーでの友人三人のブルースバンドのステージを何度か見に行った。その当時はビヤガーデンやディスコ、そして大きなキャバレーから場所によっては小さなバーまで生バンドが入っていて、バンドマンで生計を立てている人がたくさんいた。特に大きなキャバレーなどは十五六人程のビックバンドが歌謡曲からラテンやシャンソンやジャスまで演奏し、専属の歌手までいて、客達がホールでホステス嬢と踊っていた。外国の友人が米軍ハウスに数人いて、アメリカンスクールのパーティーのバンドを観に何度か行った事がある。洋モク(外国タバコ)やコンパのカクテルが流行り、レッドツェッペリンやクリームやBBキング等のハードロックやブルースを夢中になって聴いていた。その少し前にグループサウンズが生まれると、覚え切れない程のグループがデビューして、そしてその少し前にはボブディランやブラザーズフォアやPPM等のフォークソングブームも来た。 ヒッピーと言うアメリカで生まれた若者達の反体制運動のムーブメントが日本にもやって来て学生運動が始まり、パンタロンのジーンズに髪を肩の辺りまで伸ばす若者が増えて、彼等はラブ&ピースを提唱して反戦歌を四畳半のアパートでギターを抱いて歌っていた。そしてフオークソングやベンチャーズの影響で、ギターがブームとなってギターを背負って歩く若者が増えたのもこの頃だった。 まだバブルのだいぶ前の 昭和の横浜だった。


     一 章  最終電車 


「ちぇっ‥こう重いと回らないじゃん、桜木町の新しい玉突き場、あそこの玉はプラスチックだからぐるぐる走って上手くなった気がしたけどな」

和夫がキューにチョークを擦りながら言った。

「そんなお前と同じ中身の軽い玉ばかり突いているから、ちっとも上手くならないんだよ」

「その台詞はゲームに勝ってから言えよな」

「悪いがこのゲームも俺の勝ちだな」

と言うと、研一は缶ビールを一気に飲んだ。玉突き場の薄汚れた窓から西陽が差し込み、床に塗ったワックスのほこり臭い匂いがしていた。白髪頭の爺さんがレジに座り、ぼんやりとこちらを見ているとラジオからFENのディスクジョッキーが早口の英語を怒鳴り、続いて♪ドックオブザベイ の曲が流れた。四つ玉の台が三台とスリークッションの台が一台あり、一番奥のスリークッションの台で赤毛の外人の女がひとりで玉を突いていた。研一が屈んでキューを突くと、白玉は正面の赤玉に当り左に向きを変えてクッションに当ると、すぐ横の赤玉に当ってもうひとつの白玉に寄り添う様に止まった。

「やった、また勝っちゃったな」

と、研一が言うと和夫が何枚かの紙幣を渡して

「今日は奢ってくれよ」

研一は笑いながらうなずいた。

「マスター精算して‥今度また教えてくださいね」

研一が新しいビールの缶を渡しながら言うと、爺さんがビールを受け取って微笑えみ、煙草を煙そうに吸った。その直ぐ横で、ラジオが♪ビーマイベイビー を歌っていた。外へ出ると風が冷たく、雑居ビルの裏を西陽がオレンジ色に染め、何処からかクリスマスソングが流れていた。

「カズ、今日は奢るから何処で飲む」

研一が冷たい風に肩をつぼめて言った。

「まだ早いから‥ジョン・ジョンでもいいかな」

「えっ、ああ‥確か小島達と前に一度行った、あのロックバーだよな」

と言いながら、研一が煙草を取り出してオイルライターで火をつけた。長者町の交差点を渡り、伊勢佐木町を横切って福富町の路地へ入ると、新聞紙がバタバタと音を立て、風に煽られながら通りを這っていた。 最近、伊勢佐木町の裏通りにロック音楽のバーがオープンした。二人はバンドで知り合い、当時和夫は中学三年生で研一は高校一年生だった。 和夫は高校を卒業すると地元のデパートで四年目に副主任に昇進して、今年の四月から婦人用の靴やバッグなどの売り場で八人の女子社員と働いていた。研一はデザイン専門校を卒業すると、照明器具の会社で見習い監督として昨日まで現場のラブホテルで職人達と二日間泊まり込み、開店パーティーに出席して仕事が終わった。この日はバンドリーダーだった遠藤が結婚式を挙げる為、久し振りに懐かしい仲間達が集まった。が、新郎新婦は二次会もせずにハワイへ旅立ってしまった。バンド仲間の中村はオカマバーのナンバーワンで、店のショーで白雪姫をやると慌しく美容院へ行ってしまつた。もうひとりのバンド仲間の小島は土建屋の一人息子で、大学も五年生でウェイトレスの彼女とのヒモ生活も二年目になった。その小島も、彼女との待ち合わせ場所へ行ってしまった。結婚式がひと通り終わると、二人は昔よく遊んでいたこの街に来ていた。伊勢崎町の裏通りのこの辺りは、小さなバーから大きなキャバレーなどが一帯に群がり、昼間はカラスの大群とゴミの入った大きなポリバケツが山のようにあちこち置かれて異臭を放っていた。

「カズ、あの兄ちゃんじゃない‥‥懐かしいな」

角のパチンコ屋から、黒いスエードのブルゾンを着た大柄な男が出て来た。

「ほんとだ、あの兄ちゃんだ‥五年振りかな」

以前学校の夏休みに、この近くの喫茶店で二人がアルバイトをしていた時の常連客の男だった。

「パチンコ、出たみたいですね」

研一が掛け寄って男に声を掛けた。 男は研一と和夫を交互に見ると口元に笑みを浮かべた。両手に大きな紙袋を二つ抱えていて、煙草のカートンが幾つも顔を出していた。

「ああ‥‥相変わらず女のケツ追っ駆けてるんか」

と言った男の笑い顔が、老けて見えた。研一と和夫も互いの顔を見合わせ、肩をつぼめた。

「煙草、好きなのを取れよ」

男が言って、紙袋に目線を落とした。

「えっ、いいんですか‥すいません」

「すいませんって‥煙草、吸うんだろ」

「えっ、ええ吸います」

二人とも笑いながら言った。久し振りに見る男は以前と同じワックスで固めたリーゼントをしていて、目の淵にシワを作って笑う顔が柔らかく見えた。

「すいません‥じゃなかった、頂きます」

と、笑いながら言うと研一と和夫が紙袋から煙草のカートンをひとつずつ取った。

「赤いムスタング、まだ転がしているんですか」

「あの後はトランザム‥‥また中古だけどやっぱ アメ車はダメだな‥車も女も国産が一番だぜ」

「あの時の彼女、たしかリンダでしたっけ‥またアメ車、やっぱり何か縁があるんじゃないんですか」

「馬鹿言え、あの時ひどい目に遭ったんだからよ」

男と研一が声を出して笑った。和夫は知らない話だったが笑いながら二人を見ていた。

「じゃあな‥女遊びばかりしてると、そのうちバチが当たるぞ」

と言って、紙袋を抱え直して歩いて行った。小さくなっていくオレンジ色の夕日が、街のネオンや出し看板の灯りを強めていった。しばらく歩くと通り沿いに『音楽喫茶バー ジョン・ジョン』と書いた出し看板の灯りが見えた。二人が出し看板の横の階段を地下へ降りると、泣くようなギターが聞こえてきた。正面の店のドアを開けると、ジャニスジョプリンが絞り出す声で ♪サマータイムブルース を寂しげに唄っていた。狭い間口を中に入るとすぐ左側のカウンターに椅子が六つ並んでいて、右隅に金髪の若い外人の女がひとりで座っていた。凄まじい音で、ベースと太鼓の音が腹の底に響いた。カウンターの反対側の壁にベンチシートと4人掛けのテーブルに2人掛けのテーブルがあり、壁にエルトンジョンとジョンレノンの大きな顔写真の額が、それぞれ向かい合って左右に掛かっていた。この店の名前のジョン・ジョン を表した顔写真だった。カウンターの中に背の高い痩せた男がいて、窪んだ大きな目と突き出した頬が日本人離れして見えた。男は入って来た二人に微笑むと、浅黒い顔に真っ白い歯が見えたが前歯が一本無く、縮れた長い髪を輪ゴムで止めてあった。研一が奥を見渡すと、細長い店内のフロアーは一旦仕切られていて、木のベンチシートが壁側に奥まで続き、テーブルが三卓と向かいに椅子が二つずつ置いてあった。一番奥のテーブルで、外人の若い男女が焼き飯を食べていた。研一は、この店に来るのは今回が二度目だった。

「モウちゃんバドを二つとオリーブを少し」

和夫が男に言って持っていた煙草のカートンを渡すと、男が笑みを浮かべながら受け取った。研一は目の前のカウンターの椅子に座り、右隅に座っている女を見ると女はカウンターに両肘をついてグラスを持ち、曲に合わせて小さく肩を揺らしていた。突然女が金髪の長い髪を掻き上げて振り向くと、研一と目が合った。その無表情な顔はまだ幼く、青い瞳の下にソバカスが少し見えた。カウンターの中の右の棚の上から下まで凄い数のレコードが詰まっていて、正面の棚にボトルの瓶が所狭しと並んでいた。和夫がカウンターの男に小声で何か言うと、笑いながら研一の横に座った。

「なんだカズ、もうお友達かい」

研一が和夫の耳元で言った。

「時々顔を出すんだよ‥うちの店のそばだから」

「蕎麦でもうどんでもいいが、何話したんだよ」

「ああ、リクエストしたんだよ」

「日本人なの」

研一が和夫の耳元で言った。

「関西人‥俺も初めは東南アジアかと思ったけど」

和夫も研一の耳元で言った。店に背の高い黒人がひとり入って来て、カウンターの男と早口の英語で話すと奥へ行って座った。男がカウンターの上にバドワイザーの缶とグラスを置くとしばらくしてガラスの皿に氷を履き詰めたその上に、オリーブが十ニ三個乗って出てきた。

「これ、前にマーメイドのユミちゃんがつまみに出してくれて‥わりといけるよ」

「ユミコか‥懐かしいね、まだあの店に居るの」

和夫はそれには答えず、バドワイザーのプルトップを指で引っ張り、グラスに注ぐと泡がゆっくりと溢れた。半分程一気に飲み、カウンターに肘を付いて大きく息を吐くと研一に向き直って

「披露宴でお婆さんがスピーチしたの、覚えてる」

「ああ、そう言えば何か言ってたな」

それは何人かのスピーチの中で、遠藤の婆さんがテーブルに座ったままの短いスピーチだった。

「俺、結婚式でいろんなスピーチを聞いているが、あの婆さんの短いスピーチが一番良かったな」

老婆の照れた顔が和夫の胸に浮かんだ。その老婆が座ったまま、マイクを両手で握ると

「今の人は羨ましい‥この人と幸せになろうと結婚する、私らの頃はこの人となら苦労してもいいと思って結婚した‥今の若い人は幸せだ‥おめでとう」

と言って、照れながら音を立ててマイクをテーブルに置いた。何か重い言葉で、老婆の可愛い顔と共に胸の中に残った。だが、研一に言ってもきっとうまく伝わらない気がして和夫は黙った。

「小峰さん、元気にしてる」

研一が聞くと、和夫は胸の中がいきなり騒めいた。小峰は以前研一とよく通ったバーに、ニ年程前からいる女だった。和夫より五歳年上で、一年程前からずるずると付き合っていた。

「えっ、元気だよ‥‥たまにしか会わないけど」

「そう、うまくいってるのか」

「近頃は会ってないけど」

と、ビールを一気に飲んで大きく溜め息を吐いた。

「カズ、何か心配事でもあるんか」

「えっ、どうして」

と言った和夫の瞳に、動揺が見えた。

「いや、何となくそんな顔してるんでね」

「そうかい‥そんな顔してるか」

和夫が苦笑いをして、マッチで煙草に火を付けた。

「ああ、顔に書いてあるんだよ」

「何て、書いてあるんだよ」

「えっ、それは」

と、言いながら研一が和夫の顔を見て笑った。

「何て書いてあるんだよ」

和夫がムキになって言った。

「えっ、書いてあるけど汚ない字でよく読めねえ」

研一が笑いながら言うと、和夫はそのままカウンターの空のグラスへと目を落とした。

「カズ、次は何飲む」

研一が、棚のボトル瓶を見渡しながら言った。

「俺のボトルがあるから、それでいいかな」

「どうせバーボンだろ」

研一が、笑いながらジントニックを頼んだ。

「カズ、もしかして小峰さんと何かあったんか」

和夫は何も言わず空のグラスを見つめていた。

「おいカズ、小峰さんと何かあったんだろ」

和夫は何も言わず、氷が入ったアイスぺールからグラスに氷の塊りを入れ、バーボンを注いだ。

「おい、何があったんだよ」

研一が大きな声で言った。和夫は黙っていたが、しばらくして両手を握りしめると

「男ができたみたい」

と、吐き出す様に言った。研一は何も言わず、そのまま二人ともグラスの酒を口に含んだ。

「彼女、あれからキャバレーに移ったんだ‥桜木町のヤングレディー知ってるだろ‥あの上の赤坂って小さなキャバレー、そこに移ったんだよ‥‥もう三ヶ月になるかな」

「それで、どんな奴なんだその男」

「よく知らないが、ヤアさんらしい」

「ヤアさん‥ヤクザ者か」

「どうせチンピラだろうけど、優しいらしい」

「ヤアさんはな、始めはみんなマメで優しいんだよ‥それ、誰に聞いたんだよ」

「彼女が、自分で言った」

「自分で言った‥男ができたってか」

「じゃなく‥‥ただ最近その男の話が出て」

と言って、和夫は言葉に詰まった。

「そんなもん、はっきり聞いてみろよ」

「俺、もう少しはっきりさせたくないんだ」

「何だって、おい‥それ何なんだ」

「いいんだ、もう少しはっきりさせたくないんだ」

「おい、何言ってんの」

研一が慌しくオイルライターで煙草に火を付け、向き直ると和夫の横顔がとても疲れて見えた。

「男のくせに何言ってんだよ‥それで、そのヤアさんとは小峰さん完全にできてるのかい」

「違う煙草や、見覚えのない歯ブラシがあった」

和夫が苦笑いをして言った。

「カズ、そのヤアさんと揉めない内に諦めろ」

「どうせチンピラだよ」

「もういいじゃんか‥小峰さんいい歳じゃん、カズよりずっと大人だよ、それなりに考えてるさ」

「もういいよ、研ちゃんにはわからないよ」

「ああ、わかんねえよ‥そんなのわかる訳ねえよ」

「研ちゃん、本気で女好きになった事ないもんな」

「女を好きになるのはいいよ、だけどこんなになってまで未練たらしく、格好悪いと思わないの」

「だから、研ちゃんにはわからないんだよ」

「俺、本気で好きならなおさら許せねえな‥何考えてるんだよ‥‥お前はまだまだ若い、これから先もたくさんいい女が現れるから」

「去年のイブにプレゼント用意してたんだけど、渡せなかったんだ‥‥だから今年こそは渡したくて」

「そのプレゼント渡したら別れるのか‥‥イブに終わるのはちょっと寂しけど‥まあいいじゃないか」

「そう言うなよ」

その言い方が、自分でもとても情け無く聞こえた。

「そのうち酒でも飲んだ時に笑って話せるさ‥‥話は変わるが、今日訳あって掛け持ちなんだよ」

「そうなんだ」

と言いながら、二杯目のバーボンを口に含んだ。

「ちゃんと聞いてるのかよ」

「研ちゃんの場合、そんなに珍しくもないじゃん」

湿った声で言うと、煙たそうな顔で煙草を吸った。

「おい、そんな嫌味っぽく言うなよ」

和夫がオリーブを一個指で摘んで口の中に入れた。

「これ、バーボンによく合うんだ」

と言いながらバーボンを口に含んだ。それを見ていた研一もオリーブを指で摘んで口の中に入れると

「これ、マティーニに入ってるオリーブか‥うーん何か梅干しみたいだな‥‥ふー、あと一時間か」

研一が腕時計を覗きながらつぶやいた。突然けたたましい曲が流れ、和夫がリクエストした曲だった。レコードジャケットが正面の棚に飾られ、赤鬼の様な顔がジャケット一面の絵になっていた。研一と和夫の会話が途切れ、研一はジンがそして和夫はバーボンが曲とともにゆっくりと体を回った。グラスを口に運びながら二人は黙って聴いていた。そっと目を閉じると和夫の頭の中に小峰の微笑んだ顔が浮かんで、体中に酔いがゆっくりと回り体がゆらゆら揺れているのが自分でもわかった。


    一年前のクリスマスイブ

桜木町で、和夫は研一と久し振りに会った。

「俺‥‥あの気怠い仕草が大人の女って感じがして、妙に惹かれるんだよな」

和夫が大きく溜め息をする と、薄くなったバーボンを飲み干して言った。

「カズ、それもしかして小峰さんの事か」

「えっ‥ああ」

和夫が、煙草の煙を吐き出して言った。

「前からそんな気がしてたが、そこまでとはな」

「俺、五歳も年下じゃ話にならないよな」

「いや、そんな事ないと思うけど」

「思うけど何だよ‥何か意味ありげだな」

「別に、何も意味なんてないよ」

「そうかい‥小峰さんの事、何か知ってるのかい」

「知ってるって、何を」

「だから、俺の知らない何かを知ってるのかい」

「いや、そんなの何もないよ」

「そうかい‥ああっ」

と言って、和夫がまた溜め息をしてカウンターに頬杖をした。研一が和夫の横顔を見ながら微笑むと

「ほう、深刻な顔しちゃって‥もしかして、何度か小峰さんと会ったんか」

と言いながら、研一が和夫に向き直って言った。

「まさか、俺なんか相手にしてもらえないだろう」

と言って、和夫がまた大きく溜め息をした。そしてしばらく二人とも何も言わなかった。突然、研一が

「それにしても情け無いよな‥今日はクリスマスイブだと言うのに、いい男が溜め息ばかりで‥こんな所で飲んでるとなんだか哀しくなっちゃうよ」

と、とても情け無い声で言った。

「研ちゃん‥もう恵ちゃんとは完全にダメなのか」

「しょうがないだろ‥ま、長すぎた春だな‥しかし今年のイブって、街中が少し哀しくないかい」

研一が二杯目のスロージンを飲み干して言った。

「カズ、小峰さんに声掛ければよかったのによ」

「えっ、かなり歳上だし、なんとなく声掛けにくいんだよ‥‥何度も誘おうとしたんだがね」

入口の大きなクリスマスツリーに、電球が幾つも点滅していた。店内の奥に小さなステージがあり、ドラムセットやキーボードにアンプ等が所狭しと並び、マイクスタンドが数本立っていた。そのステージの前にダンスフロアーがあり、まだ早い時間の為かバンド演奏は無かった。左右の壁側に十四,五人ほどの長いカウンター席があり、その中に女の子がそれぞれ三人ずつ入って慌ただしく動いていた。左右のカウンター席の間のホールにはテーブル席が六卓あり客の姿はなかった。カウンターには研一達の他に奥に女がひとり座っているのが見えた。反対側のカウンターに、三人連れの若い男達が座っていた。和夫はポケットに手を入れて、小峰に渡そうと用意していたプレゼントの箱に触れると大きく溜め息をした。そして黙り込んでしまった研一の顔を覗き見ると、研一はどうやら同じカウンターの奥にひとりでいる髪の長い女を気にしている様だった。少し離れていたが、ダウンライトの灯りの中で、化粧の濃い女だった。歳はまったくわからない。

「やめとけよ、あれどう見てもキャバスケじゃん」

遠目で見ても、真っ赤な口紅がダウンライトの灯りの中で、とてもいやらしく感じた。

「だって、何か誘う目付きでさっきから見てるぜ」

と、研一が笑って言った。 カウンターの中の女が、タンブラーを白い布巾で磨きながら店内に流れる♪マイガール を口ずさんでいた。

「おいおい、嘘つくなよ‥これだけ離れていては、目付きまではわからないだろう‥それにこの間のガキの事、まさか忘れてないよな」

「えっ、あのガキか‥えらく元気なチビだったな」

「研ちゃん、あん時俺三発も殴られたんだぜ‥左眼の青タン、あれひと月以上消えなくて主任に怒鳴られるやら女連中に散々嫌味を言われたんだから」

「俺だって買ったばかりのジャケットがダメになって‥まあ、カズの方が安くついたじゃねえか」

「そういう言い方はないよな、俺が出て行かなかったらジャケットだけじゃ済まなかったもんな」

「だけどもう少し早く出て来れば、ジャケットも無事だったけどな」

「だか、初めから二人掛かりなんてな‥でもあんなに元気な奴とは思わなかったぜ」

「あの女、いかにも男好きな顔してると思わない」

「ああ、遊んでますって顔だな‥あの化粧、うちの店の化粧品売り場のお姉さん達よりも凄いじゃんか‥やっぱりあれ、どう見てもキャバスケだよ」

女が両手でグラスを持ってカウンターに両肘を付くと、指先の赤いマニキュアが遠目にも生々しく感じた。時折、こちらを見ているのがわかった。

「研ちゃん、行くなよ」

「ああ、わかってるよ」

「間違っても絶対に行っちゃダメだぞ」

「ああ‥わかってるよ、間違っても行かねえよ」

と言って煙草をくわえると、少し離れて酒瓶の整理をしていたカウンターの中の女がやって来て、細身のライターで研一の煙草に火を付けた。

「ごめんなさいね、まだ準備でバタバタしていて‥お兄さん達、今日はお休みなの」

「ああ、ふたりとも休みだよ」

「そうよね、まだ六時前だもんね」

「バンド演奏は何時からなの」

と、研一がくわえ煙草のまま言った。

「七時からよ‥今日はレミちゃんのブルースバンドだから、少し混むかもしれないわよ」

「そう、ブルースか‥それは嬉しいな」

と言って、煙そうな顔をして灰皿に煙草を置いた。「えっ、ブルースって‥もしかしたら、ジャニスジョプリンかい」

と、和夫が嬉しそうな顔をして言った。

「ええ、レミちゃんのジャニスとギターのマー坊はこのお店の看板なので」

「ブルースギターか‥研ちゃん、いい日に来たな」

「ああ、カズ‥そう言えば今年、俺達のバンドまともに活動してないな」

「みんな忙しいから‥特に研ちゃんがだけど」

「ああ、今年は現場がたくさん重なったからな」

と言って、研一がスロージンを半分程飲むと

「ちょっと、トイレに行ってくる」

と、立ち上がりながら言った。

「わかってるよな」

研一の顔を見ながら言ったが、研一は何も言わずカウンターから降りると女の方へ向かって行った。

「あの馬鹿」

和夫が研一の後ろ姿に向かって小さくつぶやいた。

研一は女の横をゆっくり通り過ぎて奥のトイレに消えると、しばらくしてカウンターに戻ってきた。

「てっきり声掛けるのかと思ったじゃんかよ」

「いや、ちょっと近くで顔を見て来ただけさ」

「いいから、ほっとけよ」

「ああ‥‥口元にほくろがあって、妙に色っぽい顔してた‥あれ、間違いなく男好きだな」

「素人じゃないかも知れないから、気を付けろよ」

「わかってるよ、なにびびってるんだよ」

「おい研ちゃん、イブの日にこんな所で女がひとりで飲むわけねえだろ、変だと思わないか」

「思わない」

「この間の時より、もっと怖いお兄さんが来るぜ」

「そうかな」

「そうさ、決まってるだろよ」

「そうか、決まってるのか」

と言って、研一の口もとが少し笑つた。

「ところで、小峰さんに気持ち伝えたのかい」

「えっ、いや‥何も言ってない」

「もう小峰さん、うすうす知ってると思うけどな」

「そうかな‥‥でも、どうしてだよ」

「だってよ、鈍い俺が気付いていたぐらいだもの‥だがあのひと、ずっとひとりなのかな」

「みんなでの飲み会に、時々小峯さんが顔を出すけど‥研ちゃんだって、あのひとの男の話はまったく聞いた事がないだろ」

「だがな、あんないい女を周りがほっとく訳ないだろう、なんかあのひと‥不思議感が多いよな」

研一のその言葉が、和夫の胸の中で騒めいた。カウンターの中の女が、研一と和夫の前に立った。

「あの‥失礼ですが」

と、 カウンターの上にスロージンとバーボンのオンザロックのグラスを置いた。研一と和夫が顔を見合わせて、カウンターの中の女を見た。

「これは、奥に座っている女の娘からです」

そう言うと、女はカウンターの奥に座る女を目で教えた。二人して奥を見ると、あの女がこちらを見ていた。研一がすかさずグラスを持つと、そのグラスを顔の辺りまで持ち上げて軽く頭を下げた。奥に座っている女も軽く頭を下げた。

「ちょっと、行ってくるかな」

と言って、研一が腰を浮かせた。

「研ちゃん、やめとけやめとけ‥あれ、どう見たってやばい女じゃんか」

と言いながら、研一のジャケットを引っ張った。

「カズ、こんな事されて知らん顔はできないじゃんかよ‥ちょっとだけ、礼を言ってくる」

「変なのが出て来ても今度は俺、行かないからな」

「わかったよ、すぐ戻ってくるってば」

研一はグラスを持つと、いそいそと女の方へ向かって行った。和夫は研一の背中に向けて

「ばーか」

と、今度は聞こえる声で言った。和夫は煙草に火を付けると、バーボンを一気に飲み込んだ。熱い塊りがゆっくりと喉を通って腹の中に納まった。あんないい女ほっとく訳ないだろうと、研一の言葉が和夫の胸の中で繰り返した。

「ひとりになっちゃったわね」

カウンターの中の女が寄ってきて、笑みを浮かべながら言った。

「ああ‥あいつ、ケツが軽くて」

「ははは、あのお兄さんそんな感じ‥‥何か、女がほっとかないタイプね」

研一が笑いながら女と話していたが、こちらの視線に気付きグラスを上げて白い歯を見せた。

「きっと、あの笑顔なんじゃないかな」

女が笑いながら首をかしげて、赤いマニキュアの指で髪を掻き上げながら言った。

「あんたのタイプかい」

和夫が顎で、研一の方を指した。

「まさか‥こう見えても私、結構純なのよ‥‥あのタイプに声掛けたら、うまく遊ばれちゃうわ」

カウンターの中の女は栗毛の長い髪に、赤いタイトなワンピースを着ていた。和夫は前に立っている女の歳を一瞬考えて見たが、まったく分からずにすぐにやめた。だか、どう見ても研一よりもこの女の方が、遊び慣れているように思えた。

「割り切って付き合うならいいけど‥どっちかと言うと私、お兄さんのようなタイプがいいかな」

「お兄さんって‥俺かい」

女が笑いながらうなずいた。

「やめてくれよ、なんだか奢らなきゃじゃんか」

「そんなつもりで言ったんじゃなくて、ほんとよ」

と言いながらまた女が笑った。和夫も笑っていた。

「いいよ、何か一杯奢るよ。女のひとにそんな事言われて、黙って聞いてる訳にはいかないさ」

「いいんだってば、違うのよ」

「いいんだよ、何か飲めよ‥奢りたいんだよ」

「だって私、ほんとにいいのよ」

と言って、両手を振りながら後ずさりした。

「そう言わずに、何か飲んでくれよ」

女は仕方なさそうな顔をすると、チェリーブランデーに氷を入れて持ってきた。微笑みながら、グラスを和夫のグラスに軽くくっつけると

「いただきます」

と言って、赤いブランデーを真っ赤な唇で飲むと手に持った小さな紙ナプキンで、グラスの飲み口をそっと拭いた。和夫はバーボンを飲み干すと研一の方を見た。笑いながら女と話す研一を見て (私ね、研ちゃんっていつでもキラキラして見えるの‥冷たく見えるけど、ほんとはとてもあったかいひとなのよ‥神経質で不器用な所もあってよく喧嘩するけど、なんかあの笑顔を見ると不思議と全部忘れちゃうの)と、研一が付き合っていた恵子の酔った時の言葉が浮かんだ。三年程前に長野から出て来た恵子には、研一がキラキラと輝いて見えるのかと思った。だがほんとうに研一は恵子と別れたのだろうかと、和夫は思った。カウンターの中の女が、店の中に流れてきた♪ホールドオン を口ずさんでいた。

「お兄さん、このお店初めて」

「えっ、いや前にニ三度来た事あるよ」

「私は初めましてよね‥千代子って言うの、みんなからはチーちゃんって呼ばれてるの、よろしくね」

「ああよろしく、チーちゃん」

「所でお兄さん、何屋さんなの」

「何屋って‥‥今は、靴屋かな」

「へえ‥今はって言うと、前は何屋さんだったの」

「前は‥‥前は‥そう靴屋の前は、不良高校生」

「ええっ‥何それ」

と、カウンターの中の女が笑いながら言った。

「何とか卒業して、デパートに就職したんだよ‥‥もう、三年になるかな」

「ええっなに、すると二十ニぐらい」

「ああ、年が明けると二十ニになるよ」

「えっ、じゃあ今二十一なの‥‥嘘、嘘でしょう」

「ほんとだよ」

「ええ‥私、三十前後かなって思った」

「生まれた時から老けてるんだよ‥おじさん顔で」

「ははは‥‥面白い事言うのね」

 女が声を出して笑った。

「所で、あっちのお兄さんも同じ歳」

「奴はひとつ上で、今年から照明屋の営業マン」

「へえ‥‥お兄さんの方が落ち着いて見えるから、あっちのお兄さんより三つぐらい歳上かと思った」

「そうかい、なんせおじさん顔だから」

女がまた声を出して笑った。

「いや、しっかりして見えるもん」

「奴は坊ちゃん育ちだからじゃない」

「へえ、あのお兄さん育ちがいいんだ‥そう言えば何だか坊ちゃん育ちって感じね」

「俺は、婆ちゃん育ち」

「ははは‥お兄さんって、ほんとうに面白い事言うのね‥なに、その婆ちゃん育ちって」

また女が笑った。よく笑う女だと和夫は思った。

「ああ‥俺んち、小さい頃から父親がいないんだよ‥それで母親が働いていて、婆ちゃんが母親がわり‥それで、婆ちゃん育ち」

「ふううん‥偶然ね、私も小さい頃から父親がいないのよ‥でも、うちには誰もいないから‥‥そう、ひとりぼっち育ち‥かな」

と、また笑って言った。

「えっ‥ひとりでいたの」

「そう‥母親が水商売だから、夜はひとり」

「へえ‥幾つぐらいの時なの」

「5歳の時に父親が出て行ったから‥その後高校中退した、16までかな」

「それで‥高校中退した後は」

「私も水商売‥‥母親の店のお手伝い」

「へえ‥じゃ水商売長いんだ」

「そうね‥母親は今でも長野の松本で店やっているけど、私は高校の時の友人が横浜で水商売やってたから、出て来ちゃった。」

「そうなんだ‥この店は長いの」

「もうすぐ二年かな‥‥ここの店長が、松本の高校の先輩なのよ‥松本じゃちょっと有名な先輩で」

「じゃあ、ここの店長がその水商売をやってる高校の友人なの」

「いや‥その娘は、今大阪にいるよ」

何かわからないが、それ以上聞くのをやめた。

「所でこの曲、オーティスレディングだよね」

店内に流れてきたリズムアンドブルースに、和夫が天井を指して言った。

「ええ、そうよ‥好きなの」

「ああ、レコードを何枚か持ってるよ」

「私も大好き‥飛行機事故で死んだんでしょう」

「そうみたい」

「私、レコードをだいぶ持ってる‥ライブ盤が素敵よ‥友人からもらったテープだけど」

「へえっ、ライブ盤があるんだ‥テレビで昔の白黒のライブを見た事あるけど、ザ、アメリカって感じが凄くかっこいいよね」

女が目の淵にシワを作って微笑んだ。

「いつも、それなの」

と言った女の顔を見た。顔に少しだけ幼さが見えて、もしかしたら同じぐらいの歳かなと思った。

「バーボン‥好きなの」

「あっ、ああ最近はバーボンばかりかな」

「そう‥あのね、バーボンが好きなひとは心が温かいって言うんだってさ」

と言って、女が赤いブランデーをひとくち飲んで紙ナプキンでグラスの飲み口を拭いた。

「ほんとにそんな事言うのかい‥‥それって、もしかしてブランデーが好きなひとにも言ってない」

「ほんとうにバーボンが好きなひとは心が温かいって、何処の国の詩人の本を読んだ事があるの」

「何処かの国の詩人ね‥それであんたもそう思う」

「うん、そうね‥そんな気がするわ」

遠くを見る目で女が言った。きっと昔の男を想い出しているのだろうと、和夫は女の顔を見ていた。

「あいつ、ジンが好きなんだけど‥ジンは」

和夫が研一の方を見ながら言った。

「ジン‥ジンは知らないけど、そうね‥ちょっと冷たいイメージがするわね」

研一の方を見ながら、和夫が声を出さずに笑った。

「彼ジンが好きなんだ‥今日はスロージンだね」

「そう、スロージン‥俺達の思い出の酒なんだよ」

「そう‥思い出のお酒なの」

「いや、俺達が初めて飲んだ酒なんだ」

女が赤いブランデーをひとくち飲んで、また紙ナプキンでグラスを拭いた。赤いワンピースに赤い口紅、赤いマニキュアに赤いブランデー、またこの女の歳を考えてみたがすぐにやめた。

「まだ十六七のガキの頃でね、たまに思い出したように飲むんだよ‥スロージンのロック、こっちの方がバーボンより温かい気がするけどな」

「ふふふ‥少し甘味の温かさなのね、スロージンのカクテル言葉、信じる夢‥って言うのよ」

女が首をつぼめて、微笑みながら言った。和夫も女の顔を見て微笑んだ。

「信じる夢‥‥俺、中学の頃席替えする度に、隣の女の娘を好きになって‥もしかしたらこの娘と付き合うのかな、なんて本気で夢見てたな‥今考えると、変だよね」

「ははは‥いやだ、席替え‥‥眩しいな」

と言って、女がまた笑った。和夫は女の笑う顔を見ながら、またこの女の歳を考えてみた。

「所であの娘、あんたの知り合いなの」

と和夫が言う と、女は何も言わにずゆっくりと煙草の煙を細く吐き出して笑った。和夫もあいまいに笑うとバーボンを飲み、それ以上聞かなかった。♪スタンドバイミー のイントロとともに、吸いかけの煙草が灰皿からカウンターに落ちた。

「あら向こうのお兄さん達、こっちに来る見たい」

振り向くと、研一と女がこっちに向かって歩いて来た。そして女の香水の匂いがしてきた。

「なんか、盛り上がっているみたいじゃん」

カウンターの中の女と和夫を交互に見ながら、研一が笑いながら言った。和夫は何も言わず研一の後ろにいる女を見ると、痩せた背の高い女が派手な化粧で笑っていた。手に黒い毛皮のハーフコートを持っていた。いくらクリスマスイブだからって、何もこんなキャバスケ女に引っ掛からなくってもと、和夫は女の下から上までそっと見上げて思った。

「カズそんな顔するなよ‥何もめんどうな事はないから心配しないで‥まっ、いいだろ‥‥座りなよ」

と 、研一が和夫の横の椅子を引いて女に言った。

「こっち、悪友の和夫」

笑いながら研一が女に言った。

「あの、初めまして‥私、ケイコと言います」

「えっ‥ケイコ」

と、和夫が驚いて立ち上がると、研一の顔を見た。

「失礼します」

女が和夫の隣りに座って髪を掻き上げると、香水の匂いが鼻をついた。研一が女の横に座ると、カウンターの女が忙しなく研一達のグラスを用意した。和夫が横に座る女の顔をそっと見ると、カウンターの女が横に座ったケイコにウインをして笑い、隣りに座ったケイコも軽く頭を下げて笑った。改めて横に座るケイコの顔を盗み見ると、目の辺りの濃いアイラインの上で、たくさんの小さな虫が金色にキラキラと輝いている様に見えた。濃いグレーのジャケットに同じ色のタイトスカートで、オフホワイトのブラウスが大人の色気を感じさせた。黒いピンヒールの靴は、おそらくとても高価だろうと和夫は商売柄思った。ケイコの膝の上の黒い毛皮のハーフコートを和夫が受け取り、空いている隣の椅子に置いた。しっとりと冷たい感触に、何故か恐怖を覚えた。香水の匂は不思議と慣れていった。

「カズ、この娘‥幾つだと思う」

研一がケイコを挟んで、顔をカウンターの方へ押し出して聞いてきた。和夫は何も言わずにケイコの横顔を見るとケイコが振り向き、和夫の顔を見て恥ずかしそうにうつむいた。和夫はケイコの歳を考えてみたが、何故か急にばかばかしくなってやめた。

「高校生だよ、高校生‥女子校の三年生だって」

「ええっ、高校生‥‥‥嘘だろ」

和夫は振り向いて横に座るケイコの横顔を見ると、急にその横顔に幼さを感じた。だか、どう見ても高校三年生には見えない。そしてカウンターの中の先程の女を見ると、女はシェイカーを振っていたが、和夫の視線に目が合うと手を止めて笑った。まさかあの女は高校生じゃないだろうと思い笑った。

「ほらな、やっぱり驚いただろう」

と研一がケイコに言うと、ケイコが和夫の顔を振り向いて見ると白い歯を見せて笑った。どう見ても高校生には見えない。

「えっ‥‥ほんとうに、高校生なの」

和夫が女の顔を覗いて聞くと、女は笑いながら恥ずかしそうにうなずいた。長いまつ毛の辺りが、小さくキラキラと光って見えた。

「この娘の家、逗子の海のすぐそばだってさ」

研一が言いながら、ケイコ越しに和夫の顔を見た。

「えっ、海のそばか‥いいな、それじゃあ一年中海が見えるんだ」

和夫が、驚いた顔をして言った。

「はい、一年中海は見えます」

「部屋の窓から海が見えるなんて、羨ましいな」

「よく言われるんですけど‥洗濯物も潮風でべたつくから外には干せないし、それに窓から部屋に砂が入ってくるんです」

「えっ、そんなに海のそばなの」

「いえ、少し離れてますが‥塩害で自転車もすぐ錆びて、壁や窓も汚れたり家具や家電が傷みやすいし、それに湿気が高くカビや結露で生活するにはいろいろリスクがありますよ」

「そうなんだ、海辺に住むのも大変なんだね‥なんとなく憧れていたけど」

「ほら、江ノ電‥‥俺、乗った事ないけどあの電車好きだな‥‥あれって、確か鎌倉までで逗子には行ってないよね」

と、研一が言った。

「はい、藤沢から鎌倉までです」

「俺は高校の時に初めてのデートで、江ノ島の水族館に行ってその後江ノ電で鎌倉へ行った事あるよ」

と、和夫が照れながら言った。

「初めてのデート‥くすぐったい事言うじゃんか」

研一が笑いながら言った。

「私も江ノ電好きです‥稲村ヶ崎から江ノ島まで左側に海が見えて、車と一緒に海沿いを走るんです」

「えっ、それって凄くいいね‥‥俺、江ノ島は車でしか行った事ないから、江ノ電乗ってみたいな‥‥でも、俺たちは逗子にはあまり行った事ないよな」

「ああ、あっちは波があまり立たないからな」

「俺達高校が藤沢で、辻堂に同じ学校の仲間がいて、そいつの兄貴達から波乗り教わったんだよ」

研一がケイコに言って,煙草に火をつけると

「そいつ軽免許持ってるから、学校へ来る前に朝の海で何本か波に乗って、そのまま車で学校に来るんだよ‥同じクラスの奴のうちが、学校のすぐそばでガソリンスタンドをやってるから、そこによくそいつの車が止まっていたよ」

「ああ‥あの人いまだに波乗りやってるってよ」

と、和夫が言った。

「俺達、高校出てからすっかり波乗りに行かなくなっちゃったな」

と言って、研一が煙草の煙を吐き出した。和夫が煙そうな顔をしたケイコを見て、手に持っていた煙草をカウンターの上の灰皿に押し潰した。

「今頃の海って、綺麗なんだろ」

研一が、ケイコの顔を覗き込んで言った。

「冬の方が何て言うか‥とてもクリアなんです」

「冬の海か‥そう言えば俺達、夏しか海に入らなかったな‥あれじゃあサーファーとは言えないよな」

「あれ、研ちゃんサーファーだったの‥道具だけは何でも持っているけど」

「カズだって、ほとんど海に入らなかったじゃん」

「俺は研ちゃんと違って、量より質なんだよ‥いい波に出会うまでは、じっと待つタイプだから」

と言うと、研一の顔を覗き込んだ。

「いつも、どちらの海岸に行くんですか」

ケイコが笑いながら言った。

「茅ヶ崎に平塚や大磯辺りがメインで、波がない時は江ノ島や稲村ヶ崎や材木座海岸辺りまで‥同級生の兄貴の車で連れて行ってもらってた」

研一が得意そうに言った。

「所で、この店よく来るの」

と、和夫がケイコに聞いた。

「えっ‥いえ、その‥今日が二度目です」

ケイコがどぎまぎしながら言った。

「また、随分遠くまで遊びに来るんだね」

和夫がケイコの顔を覗き込んで言った。

「この娘、お酒飲めないんだって‥これ、コーラ」

研一がケイコのグラスを指して言った。

「でも、最初の一杯目はコークハイでした」

「今日は、ひとりなの」

和夫がケイコに聞いた。

「待ち合わせを、すっぽかされたんだって」

研一が顔を突き出して言った。

「そう、それはついてないんだ」

「踊りに来たんだってさ」

「すみません‥あの、せっかくお二人で楽しそうに飲んでいる所をお邪魔してしまって」

「いや‥あっそうだ、どうもごちそうさまでした」

和夫が、バーボンの入ったグラスを持って言った。

「私‥ご迷惑かと思ったのですが驚いたでしょう」

ケイコが顔を歪めてゆっくり話した。

「いいえ、とんでもない‥奴といるとよくある事で、驚いてなんかいられないよ」

研一がケイコの背後から和夫の肩を突っついた。ケイコの言葉使いとのギャップに、違和感を感じた。

「横浜にはよく踊りに来るの」

「いいえ、大学が決まってるので暇なんです‥大学、今の高校からのスライドなんです」

「それは楽でいいじゃん」

研一が笑って言った。

「小学校からの、また女の子ばかりの女子大です」

「じゃあ、小学校からの友達が多いからいいね」

「いい所も悪い所もありますけど」

「女子校なんて‥なんか禁断の世界って言うか、まったく想像できないな」

「去年、先輩の高校の卒業パーティーの後で連れて行ってもらったのです‥横浜駅東口のゼンと言う大きなディスコ‥知ってますよね」

「ああ、あそこはデカいよね‥高校の体育館の三倍くらいある‥あそこのディスコ、元スカイ体育館だった所で大きなステージが三つもあって、交互にバンドが演奏するんだよね」

「初めてのディスコで凄く楽しかったんで‥‥私、浜ジルを覚えたくて」

「えっ、浜ジル‥‥研ちゃん浜ジルって、確かシジミの味噌汁だっけ」

「ばーか、そんな事も知らないのかよ‥浜ジルだものハマグリの汁だよ」

間を置いて、三人とも声を出して笑った。

「研ちゃんはチークダンスが大得意で、一曲で三人の女の子と代わる代わる踊っちゃう‥器用だろう」

と言って、ケイコに笑い掛けた。

「いやいやカズの方がもっと器用だよ、なんせどんな曲でもチークを踊っちゃうもん‥みんながステップ踏んでる時も、カズだけはチークだもんな」

「ほんとですか」

ケイコが驚いた顔で和夫を見た。店内にジェームスブラウンの♪マンズマンズワールド が流れた。

「あっ‥これ、研ちゃん専用チークのテーマ曲だ」

「えっ、何ですか」

「この曲、研ちゃんの大好きなチークの曲なの」

「カズ、別に専用とかじゃあないから」

「えっ‥‥わああ‥何か、とても切ない曲ですね」

ケイコのゆったりと話す言葉に、また和夫は違和感を感じた。

「カズ、俺この娘に今日踊りに連れて行くって約束したから、小峰さんも呼んで踊りに行こうか」

「えっ、呼ぶったって今日イブだぞ‥‥店、抜け出せないだろう」

「俺、電話してみるよ」

「電話するって、何処にするんだよ」

「何処って、何て言ったっけ‥あっ、ゲットだ」

「ええっ、何処なのその店‥俺、知らないな」

「有隣堂の側のコンパだよ‥ヘルプで手伝っているって、最近小島から聞いたけど」

「そう‥そうなんだ」

「途中で出れないか聞いてみるよ‥確か貸切のクリスマスパーティがあるって言ってたな‥今頃は準備中だろうけど、小峰さん来てくれるといいけどな‥無理かもしれないけど、電話してみるか」

「電話、知ってるの」

「知ってるから、ちょっと電話してくるよ」

和夫は動揺して、そして小峰はほんとに来るのかと胸の中でつぶやいた。

「ごめんなさい、私が頼んだので申し訳ないです」

「いや、別にいいんだよ‥俺達予定ないから」

ケイコの微笑む顔を見て、バーボンをひとくち飲んだ。小峰は来るのだろうか不安で胸が騒めいた。

「所で、あの方とは同期なのですか」

「いや、俺奴より一個下で‥俺も三年前は高校生」

「へえっほんとですか、もう少し歳上の人かなと」

「ああ、俺小さい頃からおじさん顔だから」

と言って笑うと、ケイコも笑った。そしてこの女ほんとうに十七八歳なのかと、もう一度顔を見た。

「それで‥何処に踊りに行く事になったの」

「元町のアストロか中華街のレットシューズ、あと桜木町のキャットとかも言ってましたけど」

「そこ、全部知っての」

「アストロとレットシューズは名前ぐらいは知っていますけど、東口のゼンの他は行った事がなくて」

「キャットはガラの悪い店だからちょっと」

と言って和夫が顔を歪めた。

「そうですか、でも行ってみたいな」

「あそこね、前にひどいめにあってるんだよ」

「へえ、そうなんですか」

「去年の夏頃、研ちゃん達と十人ぐらいで行った時の事なんだが‥ベトナムのヤンキー達が酔っ払っていて、ちょっと怖かったんだよ」

「何ですか、ベトナムのヤンキーって」

「俺達の間で、アメリカの兵隊の事をヤンキーって言うんだよ‥それで、ベトナム戦争の帰りなのよ」

「へええ、ベトナム戦争に行ってたんですか」

「ああ、横須賀に船が入ると、この辺りは兵隊がたくさん来るから‥ベトナム帰りはちょっと怖いよ」

「なんか、凄そうですね」

ケイコの瞳が輝いて見えたが、それにしても凄い化粧をしている。香水の匂いは慣れたが、この化粧はどう見ても不気味だった。

「一緒に行った女の子のに大柄の黒人が声を掛けてきてね、酔っ払ってるから黒い顔に目が赤く、鬼の様な顔してるんだよ‥奴の腕なんか俺の太ももくらいあって、そんなのが他にも何人かいて、ウイスキーの瓶をラッパ飲みしてるじゃん‥俺、もうびびって怖かったよ‥その女の子、もう少しでやばい事になるところだったよ」

そう言うと、バーボンをひとくち飲み息を吐いた。

「やばい事って、どうなったのですか」

ケイコが顔を寄せてきた。

「いや、初めは研ちゃんがカタコトの英語で止めに入ったんだが、いきなり突き飛ばされちゃって‥‥あれは、ほんとに飛んじゃったもんな」

「へええ、怖いですね」

「その黒人がユキを連れて‥その女の子ユキって言うんだけど‥で、ユキをトイレに連れて行って」

と言って、またバーボンをひとくち飲んだ。

「それで、それからどうなったのですか」

「いや、コウジが真っ先にトイレに飛び込んで行ってね‥‥あっ、コウジってユキが同棲してる男なんだけど‥いや、俺達も慌てて後から飛び込んで行ったけど、もうその時は黒人がユキを羽交締めしてて、ユキの服が少し破れていて片方の胸なんかぽろっと出てて、黒人の片方の手がユキのパンツの中に入っているじゃん‥もうコウジなんか泣き叫んで怒鳴るし、そしたらその黒人がナイフを出したんだよ」

「あら、大変です」

と言って、ケイコの顔が歪んだ。

「黒人が、突然大声で怒鳴り出して、ユキなんかその場に座り込んじゃって‥こっちは男が七八人いたんだが、酔っ払った馬鹿でかい黒人がナイフを持って大声で怒鳴っているから、俺なんかあいつの顔を見ただけで足が震えちゃって」

「なんだか想像すると、私も震えてきたみたい」

と言うと、ケイコがコーラを飲み干した。

「しばらくするとエムピーが二人やって来て、早口な英語で怒鳴って」

「うっ、凄い事になってきましたね」

「小柄な日本人みたいな方のエムピーが、表に出てろって言うから俺達はトイレの外に出たら、すぐにエムピーが手錠をした黒人の両脇を抱えて出てきたので、慌てて中へ入ったらコウジがジャケットでユキを包んでうずくまって泣いていたよ」

「うわっ、何か映画のような私の知らない別世界がこの街にはあるんですね」

ケイコが小さく溜め息を吐いた。和夫がバーボンを口に含んで、きっと俺の知らない別世界をこのケイコと言う女の中にもあるんじゃないかと、ふと思った。するとなぜかケイコの別世界を覗いてみたくなったが、でもそれは小さな好奇心で、やはり和夫はこの不思議なケバイ少女を心の何処か隅で軽蔑している自分を感じた。

「カズ喜べよ、小峰さん来るってよ‥今日はヘルプだから、あと一時間もしないで出られるってさ」

研一が戻って来て和夫に親指を立てて言った。

「もうそろそろ、演奏が始まるよ‥ジャニス、聴きたいけどな‥‥そのゲットだっけ、その店何処にあるの」

「桜木町のキャロット知ってるだろう、ほらピアノとギターが置いてある店」

「ああ、川沿いの」

「そうあのすぐ近くで、小島がヘルプでベースのアルバイトをしてて、前に小島に呼び出されて行ったら偶然小峰さんがいたんだよ」

「それで‥迎えに行くのかい」

「ああ、ちょっと早いけどそろそろ出ようか」

「だったら、何処かで待ち合わせたら」

「中村が来ていて、電話代わって会いたいから顔を出せって言うから、ちょっと俺行ってくるよ」

三人は立ち上がり、外へ出ると寒さで耳が熱くなるのがわかった。研一とケイコが並んで歩き、和夫はすぐ後ろを歩いた。通り過ぎる何人かが、振り返ってケイコを見た。立ち止まって時計を見ると

「ちょっと、時間早いかな」

と研一が言った。通りを曲がり川沿いの道に出ると湿った悪臭が冷たい風の中で鼻を付いた。和夫が歩きながら川を覗くと、全く流れのない真っ黒な水面に、赤や青のネオンの灯りがぼんやりと輝いて浮かんでいた。橋を渡って川沿いを左に曲がると、バーの出し看板がいくつも並んでいた。店の入口のドアにもたれて、煙草を吸いながらまだ幼い顔の女がこちらを見ていた。しばらく歩くと研一が駐車場に入って、そして車のドアを開けると、大きな花束を取り出しながら

「これ、今日の仕事のお客さんからもらったんだ」

と言って、綺麗にラッピングされた真っ赤なバラとかすみ草の大きな花束を両手で抱えた。するとケイコが、突然大声を出して驚いた。

「研ちゃん、車で来たのかよ」

和夫があきれた顔をして言った。

「だってしょうがないだろ、仕事帰りなんだから」

「で、この車どうするの」

「いやここの駐車場安いから、今日は置いて行く」

「うわっ、可愛い車‥ミニクーパーみたい」

ケイコが、オフホワイトの小さな車を見て言った。

「ああこれ、ホンダのエヌサンって言うんだよ」

「そのバラ、そんなにたくさんどうするの」

和夫が花束を抱えてる研一に言った。

「ああ今夜グッピーのクリスマスパーティーだろ、小島に預け様かと‥ちょうどよかったじゃんか」

「キザな奴って、みんなに思われそうだけど」

和夫があきれた顔をして言った。

「いいじゃんか、どうせもらい物なんだから」

研一が抱えた花束を車の屋根の上に置いて、バラの花を一本抜き取るとケイコに差し出して

「メリークリスマス」

と言って、くるりと一回転した。

「えっ、うわっ‥ありがとうございます」

と言って、ケイコが小さくお辞儀をした。研ちゃん、だいぶ酔っているなと和夫は思った。そして小峰に会う事を考えたら、体の中でドキっと音がした。そっとジャケットのポケットに手を入れて、リボンの掛かった箱を触ってみた。

「カズ、どうする‥みんなで、一緒に行くか」

と言って、研一がケイコをちらっと見た。

「一時間も掛かるなら何処か近くで待っているよ」

と言って、ケイコの顔を見た。

「それじゃアローで待ってろよ」

「ああ、アローね‥でも早く来いよ」

「ごめんね、一時間ぐらいだから一緒に待ってて」

と研一がケイコに言った。和夫はこの少女と二人で待つ事に憂鬱を感じた。

「じゃあ、後でな‥タクシー拾えるかな」

と言って花束を抱えて出て行った。ケイコがクラッチバックのサイズにバラの花を指で折って、ハンカチで絡んでそっと入れた。和夫が腕時計を見ると九時前だった。このあと十時頃から踊りに行くって、ケイコの家は逗子と言ってたけど研一はこの娘をどうするつもりなのかと、ケイコの顔を見て思った。

「じゃあ、行こうか」

と言って歩き出すと、ケイコは何も言わずに後から付いて来た。冷たい風に体をつぼめると、何だか全部がめんどくさく思えた。何も言わずに歩き、ふとこのままケイコがいなくなればと思って振り向くとケイコが毛皮のコートのポケットに手を入れて、冷たい風にうつ向きながらすぐ後ろを歩いていた。 五分程でアローに着いた。店のドアを開けると店内に♪悲しき街角 のイントロが流れた。十席程あるテーブル席に二組のカップルがいで、それぞれ隅の席で向かい合って顔を寄せて座っていた。左側のカウンターの隅に小さなクリスマスツリーが置いてあり、灯りが幾つもぼんやりと輝いていた。カウンターの中から、白髪混じりのリーゼントの髪型をした男が

「カズちゃん、久しぶり」

と言うと、後ろのケイコを見て目の淵にシワを作り微笑んだのを和夫は見逃さなかった。

「マスター、なんか寂しいね」

和夫が店内を見渡してカウンターの中へ声を掛けると、男は何も言わずに微笑んだ。

「マスターが店にいるのは珍しいね」

「ああ、アルバイトが四人とも休みだから‥一人は今日になって、身体の具合が悪くなったとよ」

「ははは、クリスマスイブだから仕方ないね」

「俺にはもうクリスマスイブは関係ないよ」

と言って、男が和夫の後ろにいるケイコを覗くとカウンターの中から手招きをした。和夫が男に近づくと、男が和夫の腕を引っ張ってカウンターの上に引き下ろした。

「カズちゃんその女、誰」

と、小さな声で聞いた。和夫が振り返ってケイコを見ると、コートのポケットに手を入れたままこちらを見ていた。

「ああ、あそこの席にしよう」

と言って、和夫が隅のテーブルを指すとケイコがうなずいて、カウンターの中の男に軽く頭を下げて隅のテーブルへ向かった。

「あの娘‥さっき桜木町のコンパで、研ちゃんが引っ掛けたんだよ‥訳あってここで待ち合わせする事になって‥あとから研ちゃんも来るから」

と言った。久しぶりに見た男は少し老けて見えた。

「そう言えば、ブルーリボンの吉田知ってるだろ」

と言うので和夫がカウンターの椅子に座った。

「吉田がよ、フィリピンの娘が三人も入ったって言うんで行ったんだよ」

と言って男がカウンターの上に両肘を付いた。

「それがどの娘も凄いグラマーで可愛いんだよ‥それでよ、俺に付いた娘の胸をちょっと触ったんだよ、そしたらその娘何と言ったと思う」

男が薄笑いをしながら言った。

「えっ、マスター触っちゃったの」

と、笑いながら和夫が言った。

「だって、あそこお触りバーだろ‥そしたらその娘、そんな事したら私、悲しい‥だってよ、おいおいって思わないか‥高い金払ってるのによ」

「ははは、まだ入りたてだからじゃないの」

「だから俺も言ってやったのよ‥そんな事言ったら私も悲しい、ってね‥冗談じゃないぜ、あそこお触りバーのくせによ」

と言って顔を歪めた。和夫は声を出して笑った。

「それでマスター、ビールだけ飲んで帰って来ちゃったの‥そりゃマスターがちょっと純情だから」

「いい歳して、純情はないだろう‥だいたい純情な奴があんなところ行くかよ」

と言って、顔を歪めて笑った。その時のマスターの顔を思い浮かべたら、また笑い出してしまった。

「そんなに笑うなよ‥ほら待ってるんじゃない」

と言って奥の席へ顎で指した。振り返ると、何も知らないケイコが笑いながらこちらを見ていた。

「じゃあマスター、今度は俺も連れて行ってね」

笑いながら歩いてケイコの向かに腰掛けた。テーブルの上に天井の灯りが落ちて、浮いて見えた。

「ずいぶん、楽しそうですね」

ケイコが首を掲げて笑った。

「ああごめんね」

と、和夫も笑った。

「いや、ごめんね‥所で、そのコート脱いだら」

と言うとケイコが毛皮のコートをきちんと畳んで横の椅子に置いた。グレーのタイトスーツを見て、高校生の少女にはとても思えなかった。

「ねえ、その凄いコート、それあんたのかい」

「えっ、これ今年の誕生日に父から貰ったんです」

「へえ、凄いな‥あんたの家、お金持ちなんだ」

「そんな事ないです‥前から欲しかったんで」

と言って、ケイコが少し笑った。テーブルで向かい合って改めて顔を見ると、やはり凄い化粧に和夫は目が会うたびに目線をそらした。バーボンのボトルとアイスペールにグラスと、バスケットに山盛りのポップコーンをポニーテールの女がトレンチの上に乗せて持って来た。和夫が女の顔を見て驚くと

「ええっ‥もしかして、さゆり」

和夫の驚いた顔に、女が肩をつぼめて笑った。

「さゆりじゃないか‥久しぶり、いつ帰ったの」

「うん、三日程前かな‥お久しぶりです」

と言うと、さゆりが和夫とケイコの顔を見た。

「この時期忙しいんだろう‥今どこに出てるの」

「うん、ムーンライト‥三十日から」

「ムーンライトか‥俺達じゃ敷居が高くて行けないな‥じゃあ、またしばらくはこの街にいるんだ」

「うん、年が明けて一月いっぱいまではね」

「そうか、じゃあまたみんなと遊べるね」

「うん、みんな元気」

「ああ、みんな相変わらずだよ」

「そう、中村ちゃん、まだあのお店に居るのかな」

「ああ、今じゃあお店のナンバーワンだって」

中村はオカマバーで最近店のナンバーワンになったと自慢していた。背の高いきゃしゃな身体つきで足が長く、化粧をするとほんとうに綺麗だった。

「研ちゃんは春に卒業して、会社に就職したよ」

「これからは真面目に生きていかなくちゃね」

「そうだよね‥いつまでも遊び人じゃあね」

と言って、和夫とさゆりが笑った。

「これから研ちゃんと踊りに行くけど、行かない」

さゆりが何も言わずに首を傾けて微笑んだ。赤いモヘアのセーターに胸の膨らみが眩しく見えた。化粧気のない笑い顔にえくぼが見えて、幼く見せた。

「マスターに相談事を聞いてもらっているのよ」

「また、男のトラブルかい」

「うん‥私、男運がないから」

と言って笑った顔が寂しそうに見た。和夫は何か言おうとしたが、さゆりの硬い笑顔を見て言葉に詰まってしまった。

「今夜のグッピーのパーティーには行くんだろう」

「うんたぶん‥ここのマスターも行くそうだから」

「みんなもさゆりが来たらびっくりするよ」

「そう、楽しみだわ」

と言ってまた硬い笑顔を見せた。さゆりが先程から何度もケイコを見たが、和夫はケイコを紹介する気になれなかった。代わりにケイコのコーラを頼むと

「俺は仕事柄グッピーのパーティーには行けなかったんだけど、この辺りの店の人が大勢来るんだろ」

「そうみたい‥私、ここのマスターに去年初めて呼んでもらったの、それも事務所に内緒のお仕事で‥今年は飛び入りで踊っちゃうかな」

「えっ、踊るのかい」

「カズちゃんも、行くんでしょう」

「うん、今年は何とか休みが取れたから行くよ」

「じゃあ、私の踊り見てくれる」

「えっ、さゆりほんとに踊るの」

「今年はお仕事じゃあないけど、カズちゃんが見てくれるなら踊っちゃおかな」

「うん、見る‥きっと見る」

と言いながら、和夫は何度も頷いて笑った。

「でも、あまり近くで見ないでね」

「ううん、一番前で見る」

「ダメ‥私、心が乱れるから」

「そんな事言ったら、俺も心が乱れる」

と言って笑うとさゆりも声を出して笑った。そして

「それ、もしかして‥カズちゃんもマスターからフィリピンの女の娘の話‥聞いたな」

と言って、トレンチで顔を隠して笑った。

「マスター‥奥さんに逃げられてからは、俺は女にはついてないって言うのが口癖だからね」

さゆりが振り向いてカウンターの方を見た。

「でも、もう十年も前の事だって言ってたよ」

「だから、それ以来ずっとついてないんだってさ」

「それはずいぶんと長い間ついてないんだね」

「私も、ずいぶん長い間男についてないから、他人事じゃあないのよね」

と言って首をつぼめて笑った。

「さゆりの場合は、まだまだ授業料の段階だから」

「カズちゃん優しいのね‥でも、もう随分と授業料払って懲りてるんだけど‥どうも、悪い星の下に生まれた見たい」

「いやいやこればかりは結果オーライだから懲りないで、もっともっと授業料を払ってそしてほんとうにいい男を見つければ‥いや、さゆりなら絶対にいい男が見つかるよ‥若いんだものこれからだよ」

「あらら、カズちゃんってほんとうに優しいんだね‥そんな優しい事言われたのなら、よーし希望を持ってまた頑張って生きて行くぞ」

と、胸の辺りで手を握り締めた。

「それ、その今の笑顔、その笑顔が絶対に幸せを運んで来る‥きっと幸せがさゆりをほっとかないよ」

「カズちゃん、酔ってるでしょう‥でも嬉しい」

さゆりの潤んだ瞳を見て、和夫は言葉に詰まった。

「今ね、マスターに肉ジャガを作っているの」

と言ってさゆりがくるりと背を向けた。細いブルージーンズにお尻が上を向いて、とても格好良く見えた。向かいに座るケイコが微笑みながら和夫を見ていた。和夫は目が合うと慌てて煙草を咥えた。

「あの娘、ちょっと有名なダンサーなんだ」

「ダンサー」

「そう、ヌードダンサー」

「ヌードダンサー」

ケイコが、驚いた声で聞き返した。

「小屋には出ないけど、一流のストリッパーさ」

「小屋」

「劇場だよ‥ストリップ劇場」

「へえ、じゃあどこで踊っているんですか」

「大きなクラブだよ」

「クラブ」

「ナイトクラブ‥それも一流のクラブばかりで、俺達なんか敷居が高くて行けない所ばかりだよ」

「そうですか‥とても綺麗な女のひとですね」

「うん綺麗な人だから、そのぶん少し不幸なんだ」

「えっ、そうなんですか」

「よくわからないけど‥たぶんそうだと思う」

「ふーん、そうなのですか」

ケイコが、カウンターの方を見ながら言った。

「あの娘日本中旅しているんだ‥事務所に何人か一流のダンサーがいて外人が多いって言ってたけど、大きなクラブばかり日本中回っているんだよ」

「あのひと凄いんですね‥歳は幾つなんですか」

「俺もよく知らないけど‥俺より二つ三つ上ぐらいだと思うけど、歳下に見える時もあるから」

「えっ、若いんですね」

と言って、また驚いた顔をした。

「十七歳からステージで踊っていると言ってたから、きっとあんたよりも若い時からこの業界で生きているんだよ」

「じゃあ高校生の時から踊っているんですかね」

「いや、高校は一年までだって」

「へえ、随分早く卒業したんですね」

「ああ、いろいろ凄いだろ」

「ええ、いろいろが凄いです」

ケイコが、また驚いた顔をしてそして少し笑った。でも和夫は何故か笑えなかった。少しばかり先に大人の世界に入ってひとりで生きているさゆりを凄いと言えても、笑える余裕はなかった。

「所で逗子じゃあ随分遠いけど、遅くなっても大丈夫‥家の人に怒られないの」

「今日は、いいんです」

ゆったりした話し方が、少しとろい娘なのかなと思った。そしてこの少女の方が凄い気がした。

「そう、いいの」

「はい、今日は家に誰もいないんです」

「なるほど、そうなんだ」

さゆりがコーラと肉じゃがを持って来た。

「たくさん作り過ぎたので、よかったら食べて」

と言って、山盛りに盛られた肉じゃがのお皿をテーブルの上に二つ置いた。和夫とケイコがその肉じゃがを見て、顔を見合わせて笑った。さゆりがもう一度戻って来て、スライスしたフランスパンが入ったバスケットと七味唐辛子を持って来た。

「あのう‥ありがとうございます」

と、ケイコが立ち上がるとさゆりに頭を下げた。さゆりが笑いながら、手で制して帰って行った。

「いつもこんなに遅くまで、遊んでいるの」

「いえ‥今日は、特別なんです」

「そう、特別なんだ‥でももうすぐ十時になるよ

と、和夫が腕時計を見ながら言った。そろそろ研一から連絡が来るはずだと思った。

「今日はいいんです、今日は‥」

ケイコが力強く言った。そして

「いただきます」

と言って、テーブルの上の肉じゃがを食べ出した。何か訳ありかなと、ケイコの食べ続ける顔を見ながら和夫は思った。そしてまた凄い化粧だと思った。

「それならいいけど‥で、ほんとうに高校生なの」

と言ってケイコの顔を見た。

「あ、はい」

と言って、ケイコが和夫の顔を見て少し笑った。

「所で研ちゃんの事、気に入ったの」

「えっ、あの人‥そうですね」

笑いながら、恥ずかしそうにケイコが言った。

「でも、私なんか、本気で相手にしないですよね」

と、また恥ずかしそうに言うと、フランスパンを片手に持って肉じゃがを食べ続けた。

「なんで、俺達なんか誘ったんだい」

ケイコはそれには答えず、肉じゃがを食べ続けた。和夫はバーボンの酔いが、ゆっくりと身体の中をまわって行くのを感じた。先程からわけもなくケイコに意地悪な自分を感じて、そして店内に♪煙が目にしみる が流れているのを聴いた。ふっと小峰が気掛かりになった。すると胸の辺りが騒めいて、思わず胸を押さえた。しばらく二人は何も言わずに、店内に流れるバラードを聴きながら肉じゃがを食べた。

「あの私、友達にすっぽかされたの、嘘なんです」

と、突然ケイコが和夫の顔を見ながら言った。 驚いて和夫が聞き返すと

「友達にすっぽかされたの、あれ嘘なんです」

和夫が薄くなったバーボンを飲み干した。

「私、今日家を出る時、今日はきっと何かが起こる‥って思って出て来たんです‥いや、思ってじゃあなく‥願ってかな」

そう言ってケイコが少し笑った。

「あのお店、二度目って言ったあれも嘘なんです」

「そう、そうなんだ」

と言って、和夫は小峰に何と言ってプレゼントを渡そうか考えた。今日偶然に会い、しかも研ちゃんが誘って迎えにまで行ってるのに、何と言ってプレゼントを渡すのかぼんやりと考えてみた。

「ひとりで横浜駅まで出て来て、そして伊勢佐木町まで行ってぼんやりと歩いていたんです‥街中がクリスマスで、通りに大きなクリスマスツリーが銀色に輝いていたり、クリスマスソングがあちこちから流れて来て‥少し楽しくなって来て、そして少し寂しくなって来て‥ふらっと喫茶店に入ったんです‥何で喫茶店に入ったのかわからないのですが」

和夫はケイコの話を聞きながら、まさか前からプレゼントを用意していて渡すつもりだったなって言えないよな‥と思いながら、煙草に火を付けた。

「私、こんなふうに家を出て来たの、もう三回目なんです‥いつものように何も起こらず、いつものように同じ電車で、いつものように帰るそんな私‥今日は何だかたまらなく寂しくなって」

笑いながら言ったが瞳に涙が浮かんでいた。

「ふとその喫茶店で、思い切りお化粧をしたらいつもの私ではなくきっと別の私になる気がして‥そしたらとうとうほんとうに別人になったんです」

ケイコがハンカチを出して目の辺りを押さえるのを見てグラスに氷を入れる手が止まった。

「お化粧‥初めはもっと薄かったんですが、思い切って別人になろうと思って」

「なるほど」

もう一度ケイコの顔を見て、和夫が言った。

「自分でもびっくりしてますけど‥なんだか私、性格まで変わった気がして来て‥ほんとうに、別の私になったんです」

「そんなもんかい」

「ええ私、仮面を付けたようで‥そして身体の中の何かが、すーっとなくなった気がしてきたんです」

和夫は、なんとなくわかるような気がした。

「ふふっ‥まるでジキルとハイドですよね」

ケイコが笑いながら言ったが、哀しそうな笑顔だった。ジキルとハイド‥和夫が胸の中でつぶやいた。

「そしてその喫茶店を出て、何処をどう歩いたかわからないけど私、ううんと悪い女になった気がして‥歩きまわっている途中、みんなが私を見るんです、振り返って見るひともいて‥みんなに見られている感じ‥私ね、私‥変な快感を感じたんです‥もちろん変な目で見ている事はわかっているんですが、そう‥不思議な快感」

そう言って、うっとりとした顔をした。

「桜木町まで戻って来た時に、何故かわからないけど、とにかくお酒を飲もうと決めて、そしてあのお店に入ったんです」

ケイコの瞳が輝いていた。和夫はこのケイコと言う少女が不思議とわからなくなった。

「私‥あのお店でひとりで座って、コークハイを頼んで飲んでいたんですが、なんだかそれだけで身体がぼーっとして‥あっ私、酔ってきたなって感じたんです‥凄く大人になったような変な気分」

ケイコの瞳がまた潤んでいた。和夫が腕時計を覗いて、小峰さん来るかなと、胸の辺りが騒めいた。

「そしたら、カウンターの中にいたお姉さんが、待ち合わせって聞いたので、私‥ひとりなんて言えなくて、うなずいてしまったのです‥しばらくそのお姉さんとお話しをしていたけど、誰も来る訳ないのに、お姉さんがとても心配して」

ゆっくりと、少しもたれるように言った。

「お姉さんが何度も遅いね、なんて言うから‥私、時計を見たりして落ち着かなくなってきて、そのうちほんとうに誰か素敵な人と、待ち合わせしている様な気になってきて、変にうきうきしているんです私‥おかしいですよね」

ゆっくり話すケイコの言葉が、少しもどかしかった。和夫が腕時計を何度も見るようになった。

「でも、いくら待っても来る訳ないでしょう‥お姉さんに、もういいんです、って何度も言って‥でも少しの間だけでも、私ほんとうに素敵な人が来てくれる様な気分になったので‥あっ、ごめんなさい‥私ひとりで話してる」

と言って、少し笑った。

「いや、いいんだよ‥ちょっと面白い話だから、なんとなくその気持ち、わかる気がするよ」

「ひとりで話してる‥私、今日のいろいろな事に、少し酔っているみたいです‥ごめんなさい」

と言ってまたケイコが謝った。

「いいんだってば‥続けろよ」

「えっ‥それであなた達がお店に入って来て、少し離れていたけど、同じカウンターに座ったでしょう‥ふたりとも凄く楽しそうに話していてなんか親友みたいでいいなと、あのひと親友なんですよね」

「えっまあ、馬鹿ばかりやってる馬鹿友かな」

ケイコが声を出して笑った顔が、幼く見えた。

「私見ていて、あっ親友なんだなと思ったの‥男どうしっていいな‥私ずっと女子校でしょう、女どうしってスマートな所がなくて、それに私、兄弟がいないせいか学校の友達はなんとなく子供っぽく、めんどくさい時があって」

「俺だって大人ぶってるけど、まだまだガキなところが多くて、こんな歳でもまだ中身はガキだよ」

「でも私には、大人の男のひとって感じです」

と言うケイコの顔が、いたずらっぽい顔に見えた。

「私には、ふたりともキラキラして少し危ない匂いがして‥そう、声掛けにくいタイプに見えて」

「えっ俺達、危ない匂いがしたの」

「ええ少しだけ‥それできっと私が何度も見ていたんだと思うの、そしたらお姉さんが仲間に入れてもらえばって言うんですもの‥楽しそうなふたりを見ていて、ほんとうに仲間に入れたらなと思った」

「ああつ、それであれを‥」

「私、いいんですと言っていたのですが‥その後も何度かお姉さんが言って来て、向こうもあなたの事を気にしてるじゃない、なんて言うので私‥言ってしまったんです」

と言って、ケイコがコーラを半分程飲んだ。和夫は肉じゃがを食べながら話を聞いていた。そして

「それで、なんて言ったの」

と、肉じゃがを口に頬張りながら言った。

「どうしたら仲間に入れてもらえるのかなって」

「ああ、それであれなんだ」

「そしたらお姉さんが、そんなの簡単よまかせなさいと言うので私、お願いできますかと頼んだの、きっとコークハイで少し酔っていたと思うんです」

そう言うとケイコが首をつぼめた。和夫がグラスを持ったまま笑って、ふとこの少女が可愛らしく思えた。そして何とも哀しくも思えた。そしてケイコの笑顔を見ながら、このあと研一はこの少女と踊りに行って、その後はどう考えているのかなと思った。ケイコが話すのをやめ、二人とも何も言わず肉じゃがを食べ終えた。和夫が腕時計を覗くと、もう十一時近かった。

「まだ終電あるから、今からでも家に帰らないか」

「えっ、何か私悪いこと言ってしまったのですか」

和夫は何も言わなかった。

「あの‥私、嘘を言ってたからですか」

「いや違うけど‥俺達、あんたが思っている程良い人でも格好いい人でもないんだよ‥やっぱりあんたはそんな格好で、こんな所へひとりで来てはいけないんだよ」

「あのそんなふうに言わないで下さい‥私べつにヤケになって無茶しょうと考えてる訳じゃないです」

「わかってるけど‥あんたが考えてる程この辺りは甘くないよ‥ほんとうにいろんな奴が多いんだよ、あんた今日みたいな事してると、そのうち取り返しのつかない事になるぜ」

「今日みたいな事は、今日だけです‥私だって普通の女の子が、急に飛べるなんて思っていません」

「あんた、もう充分飛んでるよ‥俺達、俺もあいつもこの辺りでいつもフラフラしてる遊び人なんだよ、人に言えない事だってしてきたし‥怪我しないうちに帰ったほうがいいよ」

むきになって言って、思わず店内を見わたした。

「お願いですから、そんな事言わないで下さい‥私、今日だけですから」

少しの沈黙のあと

「あのな‥悪い事は言わない‥いいか、今すぐ店の前でタクシーを拾い、横浜駅まで行って電車に乗り、まっすぐ家に帰る‥帰ったら熱いシャワーを浴びて、そのケバイ化粧をすっかり落としてすぐに布団に入り、そして今日の事は全部忘れて、明日からはまた普通の高校生だ‥わかったね」

また強い調子で言って、少し冷めた。

「お願いです‥きっと私、バカな女に見えるけど‥でも、バカな女‥今日だけですから」

また、沈黙が続いた。テーブルの上にケイコの涙が落ちるのを和夫はぼんやりと見ていた。ムキになっている自分が、不思議に思えた。

「でも‥ほんとうに悪いひとは‥自分の事、そんなに悪く言わないもん」

ケイコが顔を上げて、涙を溜ながら言った。その顔を見た和夫は思わず笑った。ケイコも、大きな涙をひとつこぼしながら笑った。化粧が落ち、目の辺りが真っ黒だった。和夫がポケットからハンカチを出して、ケイコに差し出した。ケイコが慌てて自分のバックを開けようとしたが、それでも和夫がケイコの顔の前までハンカチを差し出した。ケイコが笑いながらハンカチを受け取ると

「ありがとう‥案外、優しいのですね」

ケイコがハンカチを受け取ると笑いながら鼻声で言った。和夫がマッチの箱を開けながら、ケイコの幼さを見た気がした。そして煙草に火をつけた。

「お願いがあるんだけど、いいかな」

和夫が、煙草の煙を吐き出して言った。

「えっ」

ケイコが、少し不安そうな顔で和夫を見た。

「トイレに行って、その化粧を全部落として来ないか‥そして普通の女の娘の顔を見せてくれよ」

ケイコが驚いた顔をして笑った。少しの間を置いて

「はい」

と、白い歯を見せて勢いよく立ち上がった。バックを持ちながら、嬉しいそうな顔で和夫を見るとトイレに向かった。和夫はケイコの後ろ姿を見ながら、今日だけだと言うケイコの言葉に何か訳があるのかと思った。そしてムキになって偉そうな事を言った自分に羞恥心を覚えた。バーボンを飲みながら、何本か立て続けに煙草を吸って灰皿に揉み消し、そして小峰の顔を思い浮かべて溜め息をした。しばらくすると、すっかり化粧を落としたケイコが照れ笑いをしながら戻ってきて、和夫の向かいに座った。

「ええっ」

思わず声が出た。あどけない顔が高校生だった。

「可愛いじゃんか」

と声に出して言うと、何も言わずケイコが照れ笑いをした。口元のほくろが消えていた。

「うん、その顔の方がずっと可愛いじゃん」

和夫がまじまじと見るので、ケイコが恥ずかしそうにうつむいた。

「ほんとうに、ジキルとハイドじゃんか‥でもどっちがどっちか、わからないけど」

笑いながら和夫が言うと

「私、そんなにひどかったですか」

と、ケイコも笑いながら言った。

「凄く、可愛い」

「ありがとう‥嘘でも嬉しい」

ケイコが首をつぼめて言った。

「なんだか今の‥おばさんのフレーズだな」

「あら、そうですか」

とケイコ言うと、二人して笑った。ケイコの幼い笑顔が眩しく見た。店内に♪レットイットビー が流れていた。

「私、お化粧落としている時、なんだか哀しくなってきて‥そして全部落としたら、今度は急に恥ずかしくなって‥もう、なかなかトイレから出て行けなくなって‥私って変ですよね」

そう言うと、白い歯を見せて笑った。

「俺も、あのあと急に恥ずかしくなってね」

「えっ、どうしてですか」

「いや、婆あの説教じゃないけど‥悪かったな」

「ううん、少し嬉しかった‥私、ひとからあんなに言われた事がなくて‥和夫さんって、きっと気持ちが優しいのですね」

「照れるな‥俺が優しいんじゃなくて、そうだな‥きっと男が優しいんじゃないのかな」

「えっ、男が優しい‥そうですね、きっと女より男の方が優しさが大きいかもですね」

ケイコの瞳が潤んで、キラキラと輝いて見えた

「いやほら、渋いフランス映画みたく、男が優しい‥って冗談で言ってみたけど、さすがに俺が言うには十年は早かった」

と言って笑うと、ケイコも遅れて笑った。

「そうだ、あらためて出逢いに乾杯をしようか」

「えっ‥はい」

ケイコが背筋を伸ばして和夫を見た。

「さてと、あんたと俺達が」

「ちょっと待って下さい‥私ケイコです‥ケイコ」

「そう‥そうか、それじゃあケイコと俺達が、偶然にもこの街で知り合い、そしてこうして一緒に酒を飲める事に乾杯」

「乾杯‥あの‥よろしく、お願いします」

ケイコが恥ずかしそうに言った。和夫がグラスをケイコのグラスに軽く当て、少し笑ってケイコの顔を見た。ケイコの顔がゆっくりと微笑みに変わって行くのを見て、そしてずっと前からこの少女を知っているような気持ちになった。

「あの考えてみるとほんとうに不思議ですね‥ついさっきまではお互いに顔も名前も知らない人と、こうして向かい合い乾杯なんて言っている事が、何か夢を見ているようでとても不思議な気持ちです」

「ほんとうに、そうだね」

和夫が煙草の煙をゆっくりと吐き出して言った。

「こんな事って小説や映画の中でしか知らないので、夢を見ているようでとても不思議な気分です」

「じゃあ目の前の女の子は、夢の中の女の子かも」

「いえ、それは私の夢ですから‥きっと和夫さんの夢の中のひとは‥今、何処かにいるんです」

と、ケイコが硬い顔で言った。和夫の胸の中に小峰の顔が現れた。そして思わず胸を押さえた。

「ケイコの夢の中に出れて感謝しなければ」

と言いながら 和夫が笑い掛けると、ケイコの硬い顔が微笑みに変わった。清々しい風が胸の中を通り過ぎて行くような気がしてうつむいて少し笑った。突然、ケイコを抱きしめたい衝動がした。それは自分でも不思議だった。腕時計を覗くと十一時を過ぎていた。研一はどうしたんだろうと和夫は不安になった。店の中の客はもう和夫とケイコだけだった。煙草に火を付けていたらさゆりがやって来た。ケイコの顔を見ると、驚いた顔をした。

「カズちゃん、研ちゃんから電話だよ」

と言って、またケイコの顔を見た。そしてケイコに肩をつぼめながら笑い掛けた。ケイコも恥ずかしそうに笑いながらうつむいた。

「カズ遅くなって悪かったな‥待たせてごめんな」

受話器の向こうで、生バンドのロックンロールと、賑やかな声が一緒に飛び込んできた。もうパーティーは始まってた。

「研ちゃん‥随分騒がしいけど今、何処なんだよ」

「ゲットだよ、生バンドが入ってるから‥偶然にも恵子がユミコと来ていて‥それに小島の彼女も一緒に来てたよ」

「えっ‥惠ちゃん、いるの」

「小峰さん、もうすぐ出られるんだって‥それでよ、みんなでグッピーのパーティーに行く事になったんだ‥そこから近いだろ、もうすぐ始まるから先に行っててよ」

「踊りに行くのはどうなっちゃったんだよ」

「ええっ踊り‥ああそうか、あの女まだ一緒か」

「一緒かはないだろうこんなに待たせておいてよ」

「悪い悪い‥カズ、お前だいぶ酔ってるな」

演奏曲が♪ロックンロールミュージック に変わり、同時に何人もの笑い声が聞こえた。

「おい‥カズ、聞こえているのか」

「ああ、まだ酔っちゃいないよ‥俺達ほっといて、だいぶ盛り上がっているじゃんかよ」

「ごめんよ‥ただ思いがけず、恵子が来ていたんで‥小峰さん何も言わないんだもん、それに中村もまた後でグッピーに来るって言ってた」

「惠ちゃんとは、別れたんじゃないのかよ」

「そう言うなよ久し振りで仲直りできそうだから」

「ケイコは、どうすんだよ」

「えっ、恵子」

「こっちのケイコは、どうするんだよ」

「ああ、その女‥何処かに捨てて来いよ」

「捨てて来い‥あのな、研ちゃん随分事情が変わったじゃんかよ‥とにかくひとりでこっち来いよ」

「カズどうしたんだよ‥今、恵子と一緒なんだよ」

「どうでもいいから、とりあえずひとりでこっちに来いよ‥こっちのケイコ、ずっと待ってんだぞ」

和夫が受話器の向こうに怒鳴った。

「カズ、待たしたのは悪かった‥謝るよごめん‥後でグッピーで、もうすぐ行くから」

「研ちゃん‥こっちのケイコと約束してるんだろ」

「しょうがないだろ恵子が来ているんだから‥電車まだあるだろう、タクシーに乗せてくれよ」

「捨てて来いなんて、随分ひどい事言うよな‥なんで声掛けたんだよ、なんで約束なんかしたんだよ」

「じゃあどうしろって言うんだよ‥小峰さんもみんなとグッピーに行くって言ってるんだよ‥俺だってよ、なんとか恵子と仲直りできそうなんだよ」

「約束していて捨てて来いはひどい話じゃんか」

「カズ何度も言わせるなよ‥いいか今ここに恵子が来ているんだよ、わかるよな‥小峰さんも小島の彼女やユミコもそれに中村だって来るんだよ‥みんなでグッピーのパーティーに行こうよ‥悪いがその女にタクシーを拾ってあげてくれよ」

「自分でまいた種だ、自分でなんとかしろよ‥とりあえずこっちに来てケイコに謝ってくれよ」

「わかった悪かった、じゃあ一緒に連れて来いよ、そのかわりその娘にはよく事情を話してくれよな」

和夫は何も言わず、音を立てて受話器を置いた。そして、しばらく電話の前に立っていた。テーブルに戻ると何も言わずにレシートを握って、マスターとさゆりに挨拶をしてケイコと外に出た。グッピーは、ここから歩いて十分とはかからない所にあった。和夫は何も言わず、コートのポケットに両手を入れて歩き出した。ケイコも何も言わずに後ろをついて来た。冷たい風が顔に当たり、頬が痛かった。ケイコが何も聞かないのはやはり事情が変わったのがわかったのだろうと思った。そう考えていると、後ろからついて来るケイコの靴の音が少しずつ離れていく気がした。通りをひとつ曲がった所で立ち止まり、和夫は後ろを振り向いた。ケイコの姿がなかった。曲がり角まで戻って見る と、少し離れた所でケイコが毛皮のコートのポケットに両手を突っ込んで空を見上げて立っていた。通りの向かい側でタクシーに乗り込む客に若いホステスが大笑いしながら何やら話していた。和夫は曲がり角で立ち止まり、煙草をくわえてマッチで火を付けた。黒っぽい野良犬が、和夫を避けるようにしながら通り過ぎて行った。薄雲の中にぼんやりと星が見えた。突然

「月、出てるでしょう」

と少し離れた所から、ケイコが上を向いたまま声を掛けてきた。口元に微かに白い息が漂って見えた。

「あのビルの少し上の当たり」

ケイコが指を差しながら言った。

「ちょっと来て見ませんか‥ほら、あれ」

と、指を差して和夫を見た。和夫は空を見上げ、煙草を深く吸って吐き出した。

「ほら見て‥月が凄いんです」

ケイコが、ポケットに両手を入れたまま言った。

「さっきの電話、聞こえていたんだろ」

「ほら、あの月‥幻想的ですね」

「研ちゃんの彼女が、来ていたんだ」

「あの月‥まるでオブラートで包んだみたい」

「ほんとうに‥悪かったな」

「こんな月‥私、初めてかもしれない」

ケイコの声が潤んで聞こえた。そして和夫の胸に、寂しい痛みが込み上げてきた。和夫が腕時計を覗くとケイコの腕を突然つかみ、大通りの方へ歩き出した。ケイコは腕を引っ張られながら、何も言わず歩いていた。ケイコの甘い香水の匂いが艶めかしく鼻についた。和夫は研一の気持ちもよくわかり、仕方ない事だと思った。あの時声を掛けた事や、頼まれて踊りに連れて行く約束さえも、仕方ない事だと思った。だか自分でもわからない怒りが、胸の中に渦巻いていた。何も言わずに腕を引かれて歩くケイコを見て、胸の中がとても虚しくなった。そのまま大通りに出ると、昼間と変わらない程たくさんの車が走っていて、そのほとんどがタクシーだった。

「あのう‥何処へ行くのですか」

和夫はだまったまま、歩き続けた。

「あのう‥何処へ行くのですか」

歩きながらまたケイコが不安そうに言った。和夫は何も言わず、タクシーを捜しながらケイコの腕を引いて歩いた。ケイコの哀しげな声が和夫の何かを掻き立てた。大きな交差点に出ると、ぼうっと赤信号が正面に見えた。何台もの車のテールランプが通り過ぎて行き、ほとんどがタクシーなのだが空車が見当たらない。頭がくらりとして、すぐに酔っているなと思い苦笑いをした。人通りは少なく、二人はその大きな交差点で立ち止まって、顔を見合わせた。

「あのう‥」

「駅だよ‥横浜駅、まだ電車あるだろう」

と言って、和夫が腕時計を覗いた。

「私‥」

「電車に乗せるまでは、俺の責任だから」

「あの‥‥いいんです」

ケイコの声が、少し震えていた。

「駅まで連れて行く」

「いえ、いいんです」

「いや、駅まで連れて行く」

「いいんです」

ケイコが強く言って、目を伏せた。

「いや、絶対に駅まで連れて行くから」

「あのう、もういいんです、私ならどうにかしますから‥行って下さい」

「何をどうにかするんだよ」

「ですから」

「ばか言うな」

「ほんとうにいいんです‥行って下さい」

「あのな」

「いいんです‥もう私に、構わないで下さい」

硬い顔で言うケイコが、急に遠くに感じた。

「おい」

と和夫が言って、ケイコの腕を引き寄せた。

「もう私に構わないで、行って下さい‥お願いです」

ケイコが髪を掻き上げながら言った。そして首を小さく振り続けた。和夫はその顔を見て何か言おうと言葉を探したが、見つからなかった。和夫は何も言わず、ケイコの腕を強く掴んだまま歩き出した。

「痛い」

と言ってケイコも歩き出した。通り沿いにタクシーを捜しながら歩いたが、空車が見当たらない。車のほとんどがタクシーなのだが、どれもみな客を乗せていて空車はなかった。和夫は顔をしかめながらケイコの腕を掴んで歩き続けた。腕を離してしまうと、このまま何処かへ行ってしまいそうな気がした。大通りをせわしなく歩くと、ケイコも時々つまずきながら何も言わず一緒に歩いた。タクシーがたくさん通り過ぎるが、まったく空車が見当たらない。和夫は何度も時計を見ながら歩いた。日ノ出町の大きな三叉路の交差点に出た所でふたりは立ち止まった。ここならきっとタクシーを拾えると思った。橋があり、暗い川にキラキラした外灯と赤と青いネオンの灯りが浮かんで揺れていた。橋のすぐ向こうで薄汚れた犬を連れた浮浪者が、リヤカーにダンボールをいっぱいに載せてゆっくりと横切って行った。薄汚れた犬が、面倒くさそうに歩きながら振り返って二人を見た。尻尾を垂れた犬の目がビー玉のように光っていた。何枚も重ね着をした浮浪者が、二人には見向きもせずに重そうにリヤカーを引いていた。橋の先の大きな交差点で、タクシーがハザードランプを点灯させて止まっているのが見えた。そしてドアが開いた。和夫はケイコの腕を離して、走り出した。交差点の信号が変わる所だったが、そのまま走り抜けた。ちょうどタクシーのドアが閉まるところで和夫は追いついて、声を出しながら窓ガラスを叩いた。タクシーの運転手が和夫の顔を見ると、手を振ってそのまま動き出した。和夫が慌てて車を止めようとしがみついて前へ覆いかぶさったが、走り出した車は和夫をボンネットの上に載せたまま七八メートル程進み止まった。和夫がその拍子にボンネットから転げ落ち、道路の真ん中に投げ出された。タクシーの運転手が慌てて窓ガラスを開けると、凄い顔を突き出して怒鳴った。

「おいコラ‥危ないじゃあないか」

白髪頭の運転手が、窓から乗り出して怒鳴った。

「おいてめえ、死にたいのか」

もう一度運転手が怒鳴った。倒れたまま夜空を見た。何台も車の行き交う音がした。そして頭を上げ、運転手の顔を見た。右の腰の辺りが痛かった。身体を起こすと右肘がズキっと痛んだ。ワイシャツのボタンを外して、ジャケットごと袖をまくり上げると血が流れていた。大きく深呼吸をすると立ち上がって運転手に近寄った。

「コラ、ちょっと待てよ‥このままで済むと思ってないよな」

和夫が低い声で凄んで言った。

「お前酔っ払ってるのか‥危ないじゃあないかよ」

運転手が先程よりも小声で言った。和夫がポケットからハンカチを出して右肘にあてると、口に咥えて縛った。腰の辺りを手で触ると少し痛かった。ケイコがやって来るのが見えた。すかさず開いてる窓に手を掛けて顔を近づけると

「横浜駅まで行ってくれないか」

と、大きく息を吐いて言った。運転手が何も言わず手を振って、窓に掛けた手を振り解こうとした。和夫は力いっぱい乗り出して、ハンドルに手を掛けて車のキーを抜き取った。

「この馬鹿野郎、何するんだよ」

と、運転手が慌ててキーを奪え返そうとした。

「よお、横浜駅まで行ってくれよ」

「見えるだろ、この車東京の車なんだよ、悪いな」

「東京の車‥じゃあ横浜駅は帰り道じゃんか」

「悪いが、乗せられないんだよ」

「なんだって」

和夫が凄んで言った。

「だから、乗せられないんだよ‥東京の車って言っただろ、東京まで行くのだったら乗せるけどよ」

「横浜駅だよ‥どうせ帰りに通るだろ」

「兄さん悪いが、ここでは営業できないんだよ」

「なぁ俺、腰の骨折れたみたいだから、救急車を呼んでくれないか‥とりあえず警察に電話しろよ」

運転手は何も言わなかった。ケイコが後ろに立っているのがわかった。次々と車が徐行しながら和夫の横を通り過ぎて行った。

「なあ‥ドア開けろよ」

と、和夫が静かに言った。運転手は何も言わず考えているようだったが、しばらくすると黙ってドアを開けた。ケイコに乗るように手で施して、続いて和夫もタクシーに乗り込んだ。

「大丈夫ですか」

タクシーが動き出してすぐにケイコが言った。

「腕、大丈夫ですか‥血が出てるようですが」

赤く滲んだハンカチを見て、ケイコが又言った。

「終電の時間‥わかるか」

と、和夫が腕時計を見ながら言った。ケイコが何も言わないので、ゆっくり振り向いて横顔を見た。桜木町駅の近くで、道路工事の渋滞に引っ掛かった。辺りの車はタクシーばかりで、屋根のランプがとりどりに並んでいた。小さなバーの出し看板の横でクリスマスツリーがぼんやり灯りを灯していた。和夫がもう一度ケイコの横顔を見ると、ぼんやりと前を見ているその瞳に、街の灯りがキラキラと輝いていた。タクシーのラジオから♪アンチェインドメロディ が車内に流れ、息苦しさを感じるとジャケットの内ポケットに手を入れて、またそっとプレゼントの箱を触ってみた。自分でもわからない胸の詰まりを不思議に思うと、とっさに目の前に見えたケイコの膝の上の手を、和夫は握ってしまった。とても冷く、柔らかい手だった。ケイコが和夫を見て、口元で少し笑った。車はゆっくりと渋滞を進み、それでも止まる事はなかった。右折ラインに並ぶ車の点灯するウインカーの灯りが幾つも流れ、左側に並ぶ道路工事のパイロンの点灯して流れる灯りをぼんやりと見て、これもクリスマスツリーなのかなと思った。すると車内の曲が♪ホワイトクリスマス に変わった。和夫は腕時計を覗くと十二時をだいぶ過ぎていた。渋滞を過ぎると、どの信号にも引っかかる事なく横浜駅西口のロータリーに入った。タクシーの料金メーターはオフのままだったが、数枚の千円札を運転手に渡して礼を言うとタクシーを降りた。駅前の広場に、大きなクリスマスツリーが輝いていた。和夫は腕時計をもう一度覗くとケイコの腕を掴んで小走りに駅の中に入って行った。駅の中は改札口から出て来る人や、小走りに入って行く人が大勢いた。改札口の上の大きな時計を見た。十二時二十四分‥きっと間に合う、と和夫はつぶやくと

「切符、切符買って来る‥逗子でいいんだろう」

と、改札口の横の自動販売機へ走り出した。改札口の前に、若い駅員が立っていた。

「横須賀線、逗子だけどまだありますよね」

「えっ、横須賀線‥横須賀線の下りはたった今アナウンスが流れましたよ」

「もしかして‥もしかして行っちゃったの」

「はい、0時二十一分です」

と言って、若い駅員がすまなそうな顔で言った。

「行っちゃったの」

「たった今‥横須賀線の下りは出ました」

と言いながら駅員が構内の時計を見たので、和夫も振り向いて時計を見ると、針が動いて二十六分になった。改札口から七八人の若い男達が、慌ただしく和夫の前を通り過ぎて行った。その向こうにケイコがポケットに手を入れてこちらを見ていた。和夫はゆっくりとケイコに向かって歩くと

「今‥行っちゃった」

ケイコが黙って小さく頭を下げてうなずくと和夫は大きく息を吐いて、もう一度構内の時計を見た。ケイコの顔を見ると、にこりと笑った。急に力が抜けて、胸の中が楽になった気がした。タクシーで逗子までいったい幾らかかるかと考えてみて、そして大きく溜息をついた。

「逗子まで、タクシーでどれくらいかかる」

と聞いてみたが、ケイコが笑いながら

「いいんです」

と言って、肩をつぼめた。和夫がケイコの腕を取って歩き出すとケイコも歩き出したが

「もう、いいんです」

と言って、首を振った。

「でも」

「ううん、いいんです‥ありがとうございました」

と言って、ケイコが微笑んだ。腰の辺りに手をあてて触ってみると鈍い痛みがあった。和夫は黙ったまま、ケイコの腕を取って駅の外へ出るとケイコも何も言わずに和夫と一緒に歩いて外へ出た。すぐに冷たい風が吹きつけ、思わず顔を伏せた。膝に巻いたハンカチを取ると、血は止まっていた。汚れたハンカチをポケットに入れながら軽く腕を回してみると、鈍い痛みはあるが大丈夫だろうと思った。駅前の広場に出ると、大きなクリスマスツリーがぼんやりとした灯りでたたずんでいた。おそらく時間がきて、派手なイルミネーションはもう終わったのだろうと思った。冷たい風に、ケイコが和夫の腕を掴みながら顔を寄せてきて、香水の匂いの中から髪のシャンプーの匂いが微かにした。和夫はケイコを抱きしめたい衝動が走ったがポケットに入れた手を握りしめ、じっとその衝動を押さえた。そしてゆっくりとポケットから手を出すと、ジャケットのポケットからプレゼントの箱を出してケイコの手を取りその手のひらに乗せた。赤と緑のリボンが掛かった箱を見て、ケイコが不思議な顔をして和夫の顔を見た。

「メリークリスマス」

と、小さい声で和夫が言うとケイコが手のひらの箱と和夫の顔を見て、また不思議そうな顔をした。

「メリー‥クリスマス」

和夫が少し笑いながら、もう一度言った。

「あの‥私‥‥これ、私に」

ケイコが手のひらの箱を見て、振り向いて言った。和夫が何も言わずに微笑んで、そしてうなずいた。

「でも、これ‥‥これ、誰かにプレゼントするんでしょう」

「もう、いいんだよ‥‥もらってくれないか」

「えっ‥‥でも」

「いいんだってば‥もらって欲しいんだよ」

「でも、私は‥何もプレゼント用意してないから」

「いいんだよ‥‥俺‥今日ケイコに出会えて、なんだかとても素敵なクリスマスイブだったから」

「あの‥私もこんな素敵なイブ、一生に一度だと思う‥‥ほんとうに、ありがとうございます」

ケイコがプレゼントを握りしめて、潤んだ声で言った。少し震えた声が何かの歌のように聞こえた。

「今日初めて会ったのに‥‥それも、つい何時間か前に‥それにこうしてこんな時間に‥しかもこんな大きなクリスマスツリーの前でプレゼントを渡すなんて‥‥何か妙な気分だよ」

と和夫が言って、照れ笑いをした。

「私‥私も、プレゼント用意しておけば良かった」

「いや、そうだな‥じゃあもし覚えていたら、来年のクリスマスにプレゼントを楽しみにしているよ」

「私‥‥私、絶対忘れない」

ケイコの瞳に涙が溜まり、そして頬を流れるのを見て、和夫は胸の中から熱い物が滲み出てくるのを少し不思議に思った。

「私、絶対に忘れない‥‥絶対に」

と、もう一度言うケイコの声が、また震えていた。

「よし、そしたら俺‥来年のクリスマスイブには雪を降らせて、そして‥‥これよりも、もっと大きなクリスマスツリーを用意しておくよ」

と言って、目の前のクリスマスツリーを見た。

「えっ‥‥‥雪」

「うん、雪を降らせる‥そして、これよりもっと大きいクリスマスツリーを絶対に用意して置くから」

「ええっ‥‥ほんと、素敵‥‥うん」

と、小さくうなずくケイコの瞳がクリスマスツリーの灯りでキラキラ輝いて、とても幼く見えた。そして和夫の顔を見て、震える唇を動かしたが声にならなかった。だが、その唇の動きでケイコが何を言ったのかが和夫にはわかった。

「ありがとう」

と、ケイコは確かにそう言った。その震える唇を見つめながら、身体が熱くなるのをまた感じた。冷たい風が吹き、とっさにその冷たい風に背を向けてケイコを包み込む様に抱きしめた。香水の強い匂いと、冷たい髪からまた微かなシャンプーの匂いがした。和夫はこのまま、目の前のぼんやり灯るクリスマスツリーをいつまでも見ていたいと思った。そしてこのまま時間が止まってしまえばいいいのにと思った。また冷たい風が吹きつけて、そしてその瞬間、二人の時間が本当に止まった様な気がした。

 

             一 章   おわり   



    ニ 章  君が雪を降らせた


「カズ、さっきのリクエストした曲‥凄えな、あれなんて曲なの」

レコードがジョンレノンの♪イマジン に変わつた。研一がジンライムを一気に飲み干すと大きく息を吐き、グラスをカウンターの上に置いて聞いた。

「えっ‥キングクリムゾンの宮殿」

「凄え‥カズがジミヘンをバンドに持ち込んだ以来だな‥うん、メロディに哀愁がある」

研一の得意な哀愁が出たなと笑いながら思った。

「研ちゃん、去年のグッピーのクリスマスパーティー覚えてる‥久し振りにみんなが集まったね‥俺、去年初めてだったから、ついテンションが上がって飲み過ぎちゃったよ」

「ああ、お前ベロベロに酔って‥小峰さんが付きっきりで介抱してたよな」

和夫がバーボンを飲んで、溜め息をした。

「いや、俺あの時‥桜木町で研ちゃん、あのヤバそうな女の子を引っ掛けただろう」

「ああケイコか‥じゃあ何か‥あの時の事、まだ根に持ってるのか」

「そうじゃないよ、そうじゃないけど‥研ちゃんはケイコと親しいの」

「えっ、ああ‥去年のグッピー以来、俺よりも恵子の方が親しくしているけど」

「ああ、そうなんだ」

またバーボンをひとくち飲み、溜め息をした。

「俺、あの時のクリスマスツリーを思い出してよ」

と言って、和夫が目を細めた。

「クリスマスツリーって、去年のか」

「ああ、ケイコを横浜駅まで送って行った時、西口に大きなクリスマスツリーがあったんだよ」

「ああ、あれか‥そう言えば今年は西口で見ないな、去年は十一月の初め頃からあったよな」

「西口で大きな工事をしているから中止みたい」

「カズ、何かいい事でもあったんか」

「いや今日イブだから、去年あの娘を送って行った時の事を思い出したんだよ‥あの時のあの大きなクリスマスツリー、綺麗だったな」

「ところで、今日小峰さんと何時に約束してるの」

「えっ十二時、でも来ないかもしれないけど」

あれは十一月の初め頃の事だった。和夫が勤めているデパートのウインドウディスプレイが、クリスマスに衣替えをしたのを見て、ふとケイコの涙を溜めたキラキラ輝いていた瞳を思い出した。十二月に入ると街のあちこちがクリスマスのデコレーションで埋まり、クリスマスツリーも幾度となく目にするようになり時たまふっとケイコの寂しそう顔を思い出した。あのイブの日以来、ケイコとは一度も会っていなかった。あれから春が来て夏が来ても和夫はケイコの事を思い出す事はなかったが、やがて冬が来てクリスマスのデコレーションを見てふっとケイコを思い出すようになった。そしてまたあの同じイブの日に、小峰と付き合うようになった事が不思議な気がした。小峰の顔がふっと浮かんで、どうしょうもなく胸が熱くなって締め付けられた。煙草の煙が目に染みて和夫は目を押さえ、バーボンを口に含み舌の痺れをいつまでも味わって飲み込んだ。突然また小峰の顔が浮かんで、和夫は手を握り締めた。


「ううん‥だあい好き」

小峰が虚な目で和夫にしがみついて来た。素肌に長い髪が触れて気持ち良かった。和夫の腕の中で、ジャスミンの優しい髪の匂いに目を閉じて微笑んだ。

「終わった後、そんな事言っちゃダメだよ‥なんだか嘘っぽく聞こえちゃうから」

和夫が小峰の乳房を握りながら言うと、小峰が和夫の腕の中から小さな溜め息をして笑った。その笑いの意味が気になり、何か言おうとしたが言葉に詰まって乳房を握る手に力が入った。じっと目を閉ると汗ばんだ身体に軽いだるさがとても心地良かった。和夫は乳房に置いた手をゆっくりと下へ滑らせ、くびれた腰の辺りで軽く力を入れて握ってみる。

「ううん‥」

と言って、小峰が身をつぼめた。そのままゆっくりと手を下へ滑らせて、足の間へ滑り込み太ももの内側をそっと握った。閉じた足に一瞬力がが入ったが、ゆっくりと力が抜けて行った。小峰は相変わらず和夫の胸に顔を埋めてまどろんでいる。まだ濡れている所にそっと指を差し込むと、つかさず小峰が和夫の手首を掴んだ。和夫がその手に力を入れると

「だめ‥やめて」

と、小峰が腕の中から曇った声で言った。和夫がそれでも力を抜かないと

「もう一度抱いて、って言うよ」

小峰が小さな声で、ゆっくりと甘えて言った。

「ええっ‥」

和夫が笑いながら言うと

「だから‥やめて」

まどろんだ声で言った。和夫が手の力を抜くと、手首を掴んでいる小峰の両手の力がゆっくり抜けた。

「これ、何て言うか知ってる‥手首の女」

「ふふふ‥そう」

小峰が和夫の腕の中で、小さくつぶやいた。和夫がもう一度手に力を入れると

「お願い、やめて‥もう一度抱いてくれるの」

「えっ‥まだ足りない」

「ううん‥もう充分」

小峰が目を閉じたまま、小さな溜め息をついた。

「ほんとうに」

「ほ‥ん‥と」

小峰の声が曇っていた。

「だったら、どうしてそんな事言うの」

「女って‥そういうものなの」

「じゃあ‥もうちょっとまってて」

「ううん‥もういいの‥もう充分よ」

と言って、目を閉じたまま微かに笑った。

「大丈夫だから、もうちょっとまってて」

そう言いながら、力を入れて小峰を抱きしめた。

「だめ‥じっとして動かないで、さめちゃうから」

ゆっくりと力を抜いて、小峰の乳房に手を置いた。乳首を撫でていると、目を閉じた小峰の身体が時折ぴくりとした。それがとても可笑しくて、和夫は乳首を撫で続けた。

「ううん‥今までの中で一番良かった」

しばらくして、小峰が曇った声で言った。

「あら‥先週もそう言ったよ」

と言う和夫の言葉に、小峰は何も言わずに目を閉じたまま微笑んだ。和夫がもう一度同じ事を言うと

「い‥い‥の」

と、小さくささやいた。静まり返った部屋に、ラジオから和夫の知らないスローなラブソングが流れていた。和夫は腕の中の小峰の乳房を握りながら、このまま時間が止まってしまえばいいなと思った。

「気持ちいい‥このままこの中に溶けちゃいたい」

と、小峰が腕の中で小さな声で言うと、力を入れてしがみついてきた。そんな小峰の腰からお尻の辺りを優しく撫で続けた。そして小峰の髪に頬を寄せて満たされた心の中で、このまま身体がくっついてしまい、ほんとうに時間が止まってしまえばいいなと思った。和夫はこの時、この満たされた時間がいつまで続くのかなと考えてみた。が、すぐにやめた。


和夫は休日はほぼ小峰と過ごした。そしてほぼ小峰の部屋に泊まっていたが、小峰の働く店に行く事は一度もなかった。酔った男達を相手に働く小峰を見たくなかった。小峰の部屋で、仕事を終えて帰って来るのを待つ事が、和夫の休日の日課だった。そのたび、毎回違う花を一本と酒と、そして食事を作って待つ事が和夫の喜びであった。そんなある日の事だった。初めてあの男の事を知った。そうあの手紙を偶然見つけてしまったのだ。その日はワインと、ワインにあわせて赤いバラの花を一本にかすみ草を添えて小峰の部屋へ行った。クリームシチューを作りながら、何かレコードを掛けようとレコードラックをあさっていると、いちばん隅に二通の手紙を見つけてしまった。何気に手に取って封筒の裏を返して見ると、一通目の手紙に長崎の住所と小峰順子の名前が書いてあった。もう一通の手紙にも長崎の住所と男の名前が書いてあった。和夫は散々迷った挙句、封筒の中身を取り出した。そしてシチューの火を止めて戻ってくると、座り込んで読み始めた。


  愛する裕ちゃんへ

裕ちゃん手紙ありがとう、ほんとにありがとう。

母さんもう驚いて、嬉しくて、そして涙が出てきて、泣きながら裕ちゃんの手紙を読みましたよ。元気でしたか、ほんとうに、もう三年振りです。 何から書いていいのかわかりませんが、裕ちゃんが突然家を出て行ってもうすぐ三年になりますね。

最初の頃は随分探しましたよ、母さんにとってこの三年は毎日がとても長かったです。

裕ちゃんの事だから、何処へ行ってもきっと元気で頑張っている事と思っていました。それでも母さんは死んだお父さんのお仏壇に手を合わせて、毎日裕ちゃんの無事を祈ってました。

突然の裕ちゃんの手紙にとても驚きましたが、元気そうなのでほっとしました。

母さん嬉しくて、何度も読み返しては泣いてます。

かおりが短大を卒業して、裕ちゃんが勤ていた桜ヶ丘幼稚園に去年職が決まって毎日頑張ってます。

もうすぐお父さんの命日です。帰って来て下さい。お願いです、帰って来て下さい。

上田の家は銀行に渡って、今は村上さんと言う大阪から来た人が住んでいます。とてもいいひと達で、裕ちゃんから連絡が来たら知らせてくれるようにお願いしておいたのです。ポストに小峰の名前まで入れてくれたのです。なのでこうして裕ちゃんの手紙を見る事ができましたよ。

母さんとかおりは桜ヶ丘のアパートに移り住んで、もう二年が過ぎました。長年暮らした家を出るのはとても寂しかったですが、いろいろとひと通り終わると、上田にはいられず母さんの育ったこの大村にかおりと来ました。かおりと二人でのこのアパート暮らしもなかなか楽しいですよ。

考えてみれば、あの広い家にかおりと二人では、なにかと大変ですよね。お父さんや裕ちゃんの想い出がいっぱいあるあの家で暮らすのは、母さんにはとても出来そうにありません。

ただお父さんの本家の方々には、申し訳ない事をしました。特に大森のお爺様には、とても申し訳ない気持ちです。工場と上田の家は銀行に取られてしまい、残った借金は大森のお爺様が、ご自分の山や土地を大部手放して返済に当てて下さいました。ほんとうに申し訳ないです。

お父さんの保険やその他のいろいろな保険は、工場に残った社員の方々に全て渡しました。みんな最後まで随分と頑張ってくれた人達です。

それから、いけない事と思いましたが、昭義さんに裕ちゃんからの手紙を見せました。怒らないでね。裕ちゃんがあんなに好きだった人なんですもの。

申し訳ない事に、今回の件で昭義さんに大変お世話になりました。銀行や債権者の方々には、昭義さんが全て間に入って処理して下さいました。大森のお爺様も、全て昭義さんに任せたようです。お爺様も大変感謝してましたよ。できれば裕ちゃんからも昭義さんにお礼を言って欲しいのです。

上田を逃げるようにして大村に来ましたが、こうなってみると他人の親切が身に染みます。心配しないでね、もう何もかも片付きましたよ。

狭いアパート暮らしですが、かおりと頑張って暮らしてますよ。母さん、なんだか生まれ初めて、一生懸命暮らす楽しさを知った気がします。

お父さんもなにも死ななくてもと、今はそれだけが残念です。でもプライドの高いひとでしたからね。

そうそう、母さんも職が見つかりました。すぐ近くに大きなスーパーが出来たのです。この歳まで働いた事がないので、母さんみたいな者でも働けるのかと、初めは心配でした。母さんは薬と雑貨のコーナーにいますよ。朝九時前に出勤して夕方の六時まで働いています。最初は三時まででしたが、だいぶ慣れたので、この春からは六時まで働けるようになりました。もう一年以上働いてますが、母さん今だに商品名が覚えられません。母さん、カタカナはどうも苦手です。商品名の入ったパンフレットを持って帰って家で見ますが、家へ帰るともうくたくたになってしまって、あれやこれやと家の事がひと通り終わると、もうパンフレットを見る気がしません。もう少し慣れてくれば余裕が出ると思います。

それにしても横浜とは、随分遠い所に行ったのですね。裕ちゃんに何があったか母さんは分かりませんが、小さい頃から気の強いしっかり者の貴方が突然いなくなるのには、それ相応の凄い訳があった事と思います。一緒にいて何もわかってあげられなかった母さんがとても残念で、今でも悔やんでいます。 何も聞かないのでお願いです、早く帰って来て下さい。話したい事がたくさんあります。そしてたくさんの人達が裕ちゃんを待っている事を考えて下さいね。お願いします、早く帰って来て下さい。新しい住所と電話番号を書いて置きます、また手紙を書いて下さいね。母さんもまた手紙を書きます。早く逢いたいです。母さん達も元気で頑張るので、裕ちゃんも元気で早く顔を見せて下さいね。

大村の街もなかなかいいですよ、裕ちゃんが元気で早く帰って来る事を祈っています。  母より


三枚の白い便箋に、ボールペンのとても綺麗な字で書かれた手紙だった。所々にボールペンの滲んだ跡があり和夫は読み終えた手紙を持ったまま、しばらくぼうっとして動けなかった。突然だった、熱いものが込み上げて目がぼやけてきて大粒の涙が頬を伝って素足の上に落ちた。なぜか思わず微笑んで、涙を手で拭いた。そして和夫は自分の母親の顔を思い浮かべてみた。物心ついた時から母は働いていた。今も働きながら、友人と旅行することが唯一の楽しみなのだ。一緒にピンクの便箋が入っていた。


  お姉ちゃんへ

お姉ちゃん元気でしたか。手紙、大変驚きました。

あれからもうすぐ三年になりますね。しばらく家を出ます、心配しないで下さい。だけで出て行くなんて、大の大人のする事じゃあないですよ。どんな事情があったのかは別で、お母さんの事を考えなかったの。お父さんの事、工場や家の事、工場の倒産で親戚中が大騒ぎしていた事とか、それに昭義さんの事。今回は大変お世話になって、そして昭義さん、とてもお姉ちゃんの事を心配して随分と探してた。

お母さんはとても気丈に頑張って、ひと通り終わると逃げるようにここ大村に来て、もう抜け殻のようになって。始めの頃は夜になるとふたりしてよく泣いていたけど、やっと、そうやっと笑うようになった。かおりも学校どころじゃあなかったよ。お母さんに背中を押されて、やっと卒業出来て、たくさんのひとにたくさんお世話になって。

いったいそんな遠くで何をしているの。

特に昭義さんにはとてもお世話になりました。

お姉ちゃんは知っていますか、昭義さん一昨年の選挙でなんとか当選はされたけど、ほんとうにぎりぎりの当選だったんだよ。昭義さんの選挙、お姉ちゃんあれほど一緒に頑張ると言っていたよね。よっぽどの事情があるとは思うけど、お姉ちゃんは子供の頃から愚痴や弱音をまったく言わない人だったが、お父さんの御葬式が終わるとすぐに出て行くのは、あんなに家が大変な時に、もう少し落ち着いてからでもよかったのではないですか、お母さんや昭義さんを置いて何も言わずに居なくなるお姉ちゃんを、かおりはとても恨みました。お父さんがあんな事になって、お母さんを置いていなくなるなんて、かおりはお姉ちゃんを許せません。特に昭義さんはお姉ちゃんがいなくなって狂った様に探していましたよ。この三年間嵐のように過ぎていったけど、お姉ちゃんはそんな遠くでいったい何をしているのですか。しばらく家を出ると書いてあったけど、もう帰って来れるのですか。もうこれ以上お母さんや昭義さんに心配を掛けないで欲しい。

何も聞かないので帰って来て下さい。 かおり

追伸 かおりはお姉ちゃんと同じ桜ヶ丘幼稚園の先生になにました。園の先生達もお姉ちゃんの事をとても心配しています。お姉ちゃんの園児達はみんな小学校へ行きましたが、時々会うとお姉ちゃんの事を聞かれます、みんながどれだけ心配しているかを少しだけ考えてみてくださいね。

会える日を楽しみに待ってます。 かおり


和夫は二通の手紙を重ねてゆっくりと封筒の中に戻して、小峰の母親と妹の事を考えてみた。なんだか自分の知ってる小峰はほんのひと握りではないかとふと思った。そして寂しさと嫉妬を感じた。和夫の知ってる小峰は、この一年間の小峰でしかない事に何故か腹が立った。もう一通の手紙を手に取って、手紙の裏の男の名前を見て背中がざわざわするのを感じた。消印を見るとこちらの封筒の方が10日程遅い。消印から、小峰はこの手紙を昨日読んだのだろうと思った。和夫は几帳面な住所と宛名の字をもう一度見てから、中の便箋を引っ張り出すとなぜか胸がときめいた。淡い青味掛かった便箋が何枚か出てきた。一瞬ためらったが、和夫は便箋を開いた。


裕子、突然の手紙で驚いている事と思います。

今、手紙を書きなが、少し戸惑っています。

そう、もう三年になりますね。かおりちゃんから裕子の手紙を手渡されて、読みました。

あれから私なりに随分捜しました。上田のお母さん達は警察に捜索願いを出して、もう親戚中で大騒ぎでしたが、まさか以前裕子と旅行で行ったあの横浜だとは思ってもみなかったですね。

会って話したい事がたくさんあります。裕子にいったい何があったのか、私にはとてもわかってあげる事は出来ません。それがとても残念で仕方ありません。今でも、私の胸の中は裕子でいっぱいです。この三年間、胸が押し潰されそうで、いろいろな想いが嵐のように駆け巡り、日常生活が手に付きませんでした。裕子の胸の中には私はいるのでしょうか。今もその胸の中に、私はいるのでしょうか。それだけがとても不安で仕方ありません。

とりあえず、近いうちに会いに行きます。話したい事はたくさんありますが、今は何も言いません。そして何も聞きません。ただ顔が見たいです。お願いです、裕子の元気な顔を見せてくれませんか。

仕事の整理がつき次第、すぐに行くので顔を見せて下さい。 覚えていますか、紫陽花の花が美しく咲き誇る季節になって小降りの雨の中、突然裕子が紫陽花の鉢を持って我が家を訪れた時の事を、私も母も慌ててしまって、母は急いで着物に着替えてました。あの紫陽花、次の年は庭で青い綺麗な花を咲かせましたよ。今度咲く花は、是非裕子とふたりで見たいです。


この手紙を読んでいくうちに、背中が熱くなっていくのがわかった。背中の熱いものが上がってきて、耳たぶがどっと熱くなった。顔が火照って、腫れているように感じた。この短い手紙に、身体中を嫉妬と恐怖感が走り回るのを、手を握り締めて必死に抑えた。突然、さっと血の気が引いていくのがわかった。そして自分でも驚くほど冷静に戻った。煙草を咥えてマッチで火を付けた。深く吸い込んでゆっくりと煙を吐き出すと、急に喉が渇いた。二枚目の便箋はそのまま読まずに元の封筒に戻した。小刻みに震えてる指先を見つけて、思わず苦笑いした。


その日は和夫の給料日だった。小峰は店に休みをもらい、久し振りに映画を観た。小峰がどうしても観たいと言うので『卒業』を観に行った。和夫は一年程前にこの映画を観ていて、今回がニ回目だった。興奮気味の小峰に、帰りに映画音楽のサイモンとガーファンクルのサウンドトラックのレコードを買い、馬車道で焼肉を食べた。ワインの酔いもあり、小峰は映画の話で夢中だった。和夫はこれほど夢中で話す小峰を見た事がないので驚いた。小峰が和夫の腕にしがみつく様にしながらアパートに帰って来ると、電灯の下に男がひとり立っていた。小峰の笑い声で男が振り返り、白いトレンチコートのポケットに両手を突っ込んだまま、小峰と和夫の顔を見た。小峰の笑い声が止まった。男の異常さに気付き、和夫は小峰の前に出て男の顔を見た。とっさに小峰の店の客かと思った。

「昭義さん」

和夫の肩越しに小峰のささやく声がした。身体に稲妻が走る思いを感じてゆっくりと後ろを振り返って小峰を見ると、小峰の硬ったその顔はまっすぐ男の顔を見ていた。和夫はゆっくりと小峰の前をどいて、そしてふたりの顔を代わる代わる見た。男は和夫には目もくれず、小峰の前へ進んで立った。

「裕子」

男はそう言うと、小峰の顔を見つめた。小峰は硬った顔のまま、何も言わなかった。男はコートの下にきちんとネクタイを締めているのが見えた。男は三十過ぎぐらいに見え、硬った青白い顔が神経質そうに感じた。とっさにこの男があの昭義と言う手紙の男だと思った。

「裕子」

また男が名前を呼んだ。小峰は黙ったままだった。

「随分、待ったよ」

そう言って青白い顔に無理な微笑みを作った。男の足元に、無数の煙草の吸殻が落ちているのを見た。

「あっ‥あ、あのう」

小峰の声が震えていた。そして少しの沈黙が続いた。和夫はこの沈黙がとても長いものに感じて、身体中から汗が吹き出してくる気がした。

「裕子‥裕子だよね‥随分、捜したよ」

と男がゆっくり言った。和夫には、とてもゆっくりと聞こえた。そして、小峰の後ろに下がった。

「手紙‥読んでくれた」

男の声が、少し震えていた。小峰は何も言わなかった。その硬った顔を見ていると、和夫はこの場にいるのが息苦しくなり

「あの‥俺、帰るよ」

と言って、小峰の顔を見た。小峰は二度ほど小さく頷いて、微笑んで見せた。何か言ってくれ、と心の中で思ったが小峰は硬った顔に戻ると、和夫から目を離し男の方に向き直って何も言わなかった。和夫も何も言わずに、ゆっくりとその場を離れた。表の角を曲がった所で立ち止まり、微かに震える手でマッチを擦って煙草に火を付けた。

「どうぞ」

と言う小峰の声が遠くで聞こえて、ドアが閉る音がした。和夫から小さな、とても情け無い声が出た。そしてあの男が今夜小峰の部屋に泊まるのかと思うと、胸が締め付けられた。和夫は胸の中でザワザワするものが次第に膨らんでくるのを感じ、息苦しくなってきて、歯を食い縛りもう一度胸を叩くと両手をポケットに入れて速足で歩き出した。和夫は無性に嫉妬を感じ、何も言えずに逃げ出して来た自分が情けなく悔しかった。情けない‥情けないと、何度も呟いた。その胸の中の声がだんだん大きくなって

「ちくしょう」

と、とうとう大声で怒鳴ってその場にうずくまってしまった。そのまま力一杯両手を握りしめ、込み上げてくるのをじっと抑えて歯を食い縛った。そして胸の中に向かってもう一度、ちくしょうと呟いた。


「カズちゃん、このテープ変えてもいいかな」

と言って、小峰はカーステレオのカセットテープを変えた。和夫は何も言わず、煙草を咥えたまま真っ直ぐ前を向いて車を走らせていた。しばらくすると車の中に♪サウンドオブサイレント がゆっくり流れてきた。車は大磯ロングビーチを過ぎた辺りだ。小峰が海を見たいと言うので、小田原から海沿いの134号線へ出て来た。昨日、和夫は激しく小峰を抱いた。小峰もそれに応えた。小峰が激しく応える程、それは哀しかった。二ヶ月程前、あの夜のあの男に会って以来、昨日まで小峰とは逢っていなかった。その間は和夫にはとても長い時間で、何度も電話をしょうと受話器を取っては置いた。逢いたいという悲痛な気持ちと、反面声を聞いた途端、あの男の影にたまらない嫉妬を感じると思うと、とても怖かった。いつかきっと、あの男の事を問い詰めて、そしてとてつもない形相で、悪態を浴びせてしまうだろうと思った。嫉妬が渦巻き、自分でも醜いくらいの事を思いたった。が、そのつどとても情けなくなり、もう元には戻れない気がして焦りを感じた。すぐにでも逢わなければ、このまま小峰の心がどんどん遠くに離れてしまう気がした。

「ねえ、何か話してよ」

と言って、小峰はギアシフトを握る和夫の手の上にそっと手を置いた。すぐ側に小峰を感じているのに、胸の中で何か焦りを感じていた。

「ねえどうしたの‥さっきから黙っているけど」

和夫が掛けてるサングラスの間から、瞳を覗き込んで小峰が言った。

「いや、何でもないさ」

と言った声が、和夫は自分でも情けなく聞こえた。

「そう」

と言ったきり、小峰も黙ってしまった。和夫が車の窓を少し開けると、風が音を立てて車内に入ってきた。冷たい風は潮の匂いがして、火照った頬に気持ちが良かった。右側に防風林が一面に続き、海を遮って途切れ途切れに海が見えた。昨日から小峰はあの男の話を一切しなかった。和夫は何度も話を切り出そうとしたが、言えなかった。それがとても息苦しくて、小峰の説明をじっと待った。やがて左側にパシフィックホテルが見えた。雲が厚く、どんよりとした午後だった。少し開いていた窓を閉めると、カーヒーターの温もりが妙にほっとさせた。そして風の音が消えて、車内の小峰を感じた。防風林の途切れ途切れに少しだけ海が顔を覗かせ、鉛色の海に白い波が立ち上がり、強い風がその白い波をちぎり飛ばしていた。沈黙の中で、先程からサイモン&ガーファンクルのテープが回り続け、今車内に♪ボクサー が流れ出した。小峰と観た卒業の映画が想い出された。ふたりは何も言わずに車は海岸通りを走り続け、やがて江ノ島がぼんやりと見えてきた。立て続けに煙草に火を付け、頭の中で何度も男の名前が出て来たが、口に出す事が出来なかった。和夫は昨日の朝、勇気を出して小峰に電話をした。行くあてはなかったが、以前小峰と行った箱根まで足を伸ばした。湖畔のホテルを遠くで見つけた時、小峰が思いつきで泊まりたいと言い出したので、和夫もその気まぐれに乗ってみたくなった。小峰を改めて抱く事で、胸の中の不安がまるで霧がみるみると消えて、やがて青い空が音を立てて現れる気がしたからだ。そして自分自身に小峰のすべてが自分のものだと、確信して言い聞かせる必要があった。だが昨夜小峰を抱きながらも、小峰を連れ去るあの男の影に怯えた。それは狂ったように抱くその手に、いくら力を入れても消えなかった。

「ねえ、中華街で食事しない」

ふいに小峰が言った。和夫は何も言わずに車の時計を見ると四時半過ぎだった。六時前ぐらいには中華街に着くかなと考えながらも、胸の中のふっふっとした突っかかるものを感じたままだった。

「ああ、いいね」

と、少し間を置いて短い返事をした。和夫は先程から何度も小峰の目線を感じていた。やはり小峰も息苦しいのだろうか、何かと会話のきっかけを探しているように思えた。それっきり、小峰がまた黙ってしまったので、和夫は小さく溜め息をした。そして

「オッケー、それじゃあ美味いもんでも食うか」

と、力強く微笑みながら言った。小峰も和夫の笑顔を見て、硬い顔に笑顔を作って見せた。

「えびワンタンの、凄く美味しいお店があるのよ」

小峰が明るく言った。中華街で和夫の知らない小峰の言う店に、妙に嫉妬した。

「そのお店、少し並ぶけどいいかな」

「並ぶのかい」

「この前行った時は、三十分くらい並んだけど‥でもそのお店、ほんとうに美味しいのよ」

小峰が得意そうに言った。そのお店、誰と行ったのか誰と三十分も並んだのか、と和夫は胸の中が熱くなるとハンドルを握る手に一瞬力が入りそして肩の力がふっと抜けた。和夫は急に自分はなんと嫌な奴だろうと、情けない気分になった。海を右側に見ながら江ノ島を越えて、海沿いにゆるくカーブすると、左側にサーフショップとレストランがカラフルに並んでいた。中華街での夕食にはまだ時間があるので、そのまま海を眺めながらゆっくりと海岸通りを鎌倉に向かって走った。

「同じ海でも、長崎とは随分と違う気がする」

海を眺めながら、小峰がぽつりと言った。

「長崎の海と、どこが違うの」

「どこと言っても‥ん、あっちはこんなにお洒落じゃあないから」

「お洒落」

「そうね‥そう、もっとシンプルなの」

「シンプル‥じゃあ、長崎の海とどっちが好き」

小峰は何も言わなかった。途中、左側に江ノ電の四両編成の電車とすれ違うと、目の淵で少しだけ笑った小峰の横顔を見て和夫も微笑んだ。

「今の電車‥あれなら、長崎には負けないぜ」

と和夫が言うと

「うん‥そうね‥少し違うけど、似たような路面電車があるかな」

と、懐かしそうな顔をした。

「やっぱり海辺を走っているの」

「うんう‥街中を走っている」

「さっきの電車も路面を走るよ‥路地裏や民家の庭先も走るし‥今度乗ってみるかい」

と聞くと、小峰は少し笑って何も言わずに小さく首を振ってうなずいた。西陽が差し込んできた海面が、薄日の中でいたる所がキラキラとオレンジ色に輝いていた。そこに、風が止んだ海面にぽつんぽつんとサーフボードにまたがったサーファー達が、穏やかな海にふわふわと浮かんでいるのが見えた。彼等は一様に遥か遠くの沖を見つめ、いつ来るとも知れない大きなうねりをじっと待って浮かんでいる事を和夫は知っていた。キラキラした海の上で、奇妙な程静かに揺れているサーファー達が、和夫はなんだか物悲しく見えた。そしてゆっくり海岸通りを走りながら、胸の中が徐々に少しだけ優しくなっていくのを楽しんだ。そして暫く沈黙が続いた。

「ねえ、カズちゃん‥ひとつ聞いてもいい」

その小さな声に、和夫は振り向くと小峰のうつむく横顔を見た。そして黙ったままでいると

「カズちゃん‥昨日から、何だかとても変」

それは、やっと吐き出すように聞こえた。

「変って‥どんなふうに」

「話を聞いてないし‥イライラしているようで」

「そんな事ないさ」

和夫が、すかさず言った。

「お願い‥今日はいつものカズちゃんでいて」

「だから、そんな事ないって言ってるだろう」

和夫は強く言った後、すぐに後悔した。小峰はそのまま、黙ってしまった。違うんだと、和夫は胸の中で呟いた。車は鎌倉を過ぎても、そのまま海岸線を走り続けた。互いに言葉に詰まり、静かな車内に♪スカボロフェア が流れた。やるせない気持ちが、胸の中でとても憂鬱だった。

「カズちゃん‥この間の、アパートの前で待っていたあの人‥あの人の事でしょう」

「えっ」

和夫は、そのまま言葉を飲み込んでしまった。身体が熱くなっていくのを感じて、胸が高鳴った。小峰が黙ったまま、海を見ていた。しばらくして

「ごめんね」

小峰が、海を見ながら言った。

「えっ」

「ごめんね‥カズちゃん‥ごめんね」

小峰の声が少し震えて、しばらく沈黙が続いた。そのとても長い憂鬱に胸の辺りが息苦しく、だんだんと風船の様に膨らんで、もうそのまま破裂してしまえば楽になれる気がした。

「ごめんね‥カズちゃん」

また少し震える声で言うと、肩を震わせた。それは、とても悲しそうに聞こえた。小峰の悲しみを、和夫はわからなかった。なぜお互い胸の痛みをじっと我慢して耐えなくてはいけないのだろう。人間は何と人の気持ちがわからないものなんだろうと、和夫は思った。そしてふと、このままずっとふたりでこの海岸通りをいつまでも走っていたいと思った。

「あの人の事‥もう少しだけ、聞かないで」

小峰の小さな声が、とても切なく聞こえ、それはどことなく長崎なまりの匂いがしたせいもあった。

「いいよ‥言わなくてもいいよ」

和夫が硬い顔で言って振り向くと、小峰は海を見ていた。車内に♪明日に架ける橋 が流れた。

「いつか‥いつかきっと、私の事‥全部話すから‥だから、もう少し‥もう少しだけ待って」

窓に頭を付けて、海を見ながら言った。そして、息苦しい沈黙がまた続いた。しばらくして

「怒らないでくれよ‥俺、実は手紙読んだんだ」

「うん‥うん、知ってた」

小峰が海を見ながら言った。先程より少し落ち着いて聞こえた。車は海岸通りを走り葉山に来ていた。

「あのう‥手紙、ごめんね」

「ううん、いいの」

そして、またしばらく沈黙が続いた。でも息苦しさは消えていた。すれ違う対向車がヘッドライトを付けていた。まだ明るいが和夫もヘッドライトを付けて海を見た。海面が夕陽でキラキラして見えた。そして聞いた事がない長崎なまりの言葉に、まったく知らなかった小峰を見た気がした。そしてまた、海を見た。遠くにカモメが二羽翔んでいるのが見えた。紅い夕陽が雲の切れ目のいたる所を濃いオレンジ色に染めていた。空と海の区別がゆっくりとなくなっていくこの海に、小峰とまた来たいと思った。


「ところでカズ、今日この後どれくらい時間ある」

研一が時計を見て言った。和夫は何も言わずにバーボンを口に含んで灰皿の煙草の煙を見ていた。

「おいカズ‥カズ、聞いてるのか」

「あっ、ああ‥聞いてるよ」

「なんか、うわの空だなぁ」

「ああ‥ごめん‥で、何」

「だから、今日小峰さんと何時だったっけ」

「この後‥十二時に待ち合わせした」

「十二時か‥じゃあそれまでは大丈夫だよな」

「ああ‥何かいい事でもあるのかい」

「じつは頼みがあるんだけど‥時間まででいいので、今日ある女の子とデートしてもらえないかな」

「なにそれ、冗談だろう‥あっ、もしかして‥どうせ研ちゃんの彼女なんだろ」

「違うよ‥訳あって今日、女の子二人だから時間まででいいので一緒にデートしてくれないか」

「俺は嫌だよ」

と言って、店の奥に目をやった。外人の若い男が赤毛の女の子にテーブルへ肘を付いたまま向かい合ってキスをしていた。ふたりともまだ幼く、中学生か高校生ぐらいだろうと思った。その微笑ましい光景に、思わず顔が緩んだ。そして向き直ると

「ふたりの女の子とイブにデートなんて‥研ちゃんね、女の子はイブの日は一番好きな男と居たいんだよ。俺が研ちゃんのピンチヒッターなんか、出来るわけないじゃんか」

と言って、和夫は小さく溜め息をついた。

「だから、彼女じゃあないって言ってるだろう‥俺だって馬鹿じゃないから、恵子の後輩だよ」

「言っただろう、小峰さんと約束があるって」

「十二時だろう‥それまで頼むよ」

和夫は何も言わずに、バーボンを口に含んでゆっくり飲み込んだ。喉から腹の中へ降りて行くのがわかった。胸の中の塊は一向に消えず、息苦しい程憂鬱な気分だった。そしてすべてがめんどくさく思った。今日、研一が何度も時計を気にしていたのは、この事だったのかと思った。ふと、このまま研一と別れてひとりになる事が、急に恐ろしく思えた。

「研ちゃん‥待ち合わせ、何時なの」

「えっ、七時にアロー」

煙草の煙を吐き出して、またアローかと思った。

「よかった‥カズ、少しは気分が晴れるよ、そんな湿った顔しないで凄い明るい娘だから」

「そんなに明るいんじゃサングラスがいるかな」

「ははは‥たまには歳下もいいぞ」

「で、四人で何処行くの」

「中華街に予約してある」

「中華街‥じゃあ最初からそのつもりだったのか」

「そのつまりだな、本当の事言うと俺頼まれたんだよ‥恵子が今日カズに合わせたい娘がいるって」

「えっ、それどう言う事」

「だからカズに紹介したい娘がいるけど、カズには小峰さんがいるから‥それでどうしようかと考えたんだけど、恵子がどうしてもクリスマスイブじゃあないと、って言うもんで」

そう思えば、今日研一と会った時から何か少しおかしいと思った。特に小峰の事をそれとなく聞いてきたり、遠回しな言い方が研一の優しさを感じて嬉しかった。そして同時に、小峰にチンピラみたいな男がいると言った嘘が、心苦しく恥ずかしかった。紛れもなくそのチンピラが、小峰の婚約者だと言うことを素直に言えなかった自分を後悔した。

「カズ、今日聞いて気持ちはわかるが‥そんな時じゃあないのもわかるけどよ、会うだけ会ってみないか‥せっかくのクリスマスイブじゃないか‥でもどうしても気が向かなければ来なくてもいいよ。恵子には俺から話すから」

「いや、恵ちゃんには本当に悪いんだが、またこの次にもっとうんと可愛い娘を紹介してもらうよ」

「馬鹿言えよ‥この次って、もうあれ以上可愛い娘なんて、俺達には無理だから」

「あれ‥研ちゃん、その娘に会った事あるんだ」

「えっ、ああ‥それはそれは可愛い娘だぞ、カズのそのシケた顔にはもったいないけど」

「ははは‥でも最初は研ちゃんの彼女かと思って、よりによってイブにダブってデートなんて、惠ちゃんが呆れるのもわかる気がしたよ」

「おいカズ、俺そんなに器用じゃあないぜ」

「いや、なかなか器用ですよ‥知ってるだけでも」

と言って、和夫が指を折って数える真似をした。

「もういいよ‥やっぱ無理かよ」

と言うと、大きく溜め息をした。

「研ちゃん、頼みがあるってその事だったのか」

「まあ、カズとは夏以来じゃん‥それに恵子がその老けた顔を見たいって言うからよ‥俺もその老けた顔を見たくなったんだよ」

「なんなら俺の写真、定期入れにでも入れとく」

「それ、魔除けにいいかも」

 と言って研一が笑った。レコードがエリツククラプトンの♪いとしのレイラ に変わった。カウンターの中の男と目が会って、訳もわからず一緒に笑う研一達の顔を見てまた笑った。結局和夫は、小峰と待ち合わせの時間まで研一達と付き合う事になった。そして店を出てアローに向かった。十分もしないで着くと、研一は店の前で腕時計を見た。六時半。

「少し早いかな」

と言いながら、店のドアを開けた。

「おいカズ、幸先のいい曲が流れているじゃんか‥♪男が女を愛する時 だぜ」

「バカじゃないの、何を期待してるんだよ」

と言って和夫も店の中へ入った。去年と変わらず、入ってすぐのカウンターの隅に小さなクリスマスツリーがぼんやり目に入った。ただ去年と違って、各テーブルの上にキャンドルランプの灯りが赤くぼんやりと灯っていた。マスターの姿は見当たらなかった。テーブル席の隅々にカップルが三組、顔をくっつけるようにして囁きながら座っていた。

「まだみたいだ‥ちょっと早かったな」

ふたりは窓側の席に向かい合って座った。

「研ちゃんバーボンでいい、ボトルがあるから」

「ああ、でもお前もうだいぶ飲んでるんじゃない」

「いや、今日は全然酔わなくてよ」

「去年のグッピーみたいなのはごめんだぜ」

「ああ、わかっているよ‥所で今年もグッピーのパーティーに行くの」

「そのつもりだけど、カズは去年が初めてだっけ‥あそこのクリスマスパーティーはこの辺りの水商売の同業者ばかりなので、毎年夜の十二時に始まって朝までやってるから‥‥小峰さんも毎年来てるからカズも一緒に来たら」

「ああ‥行けたら」

和夫はそれ以上言わなかった。

「カズ、去年はみんなに飲まされて、あまり覚えてないだろう‥大変だったんだぞ、特に小峰さんが」

「何度も聞いたよ、もう言わないでくれよ」

「だけど酔い潰れたお陰で好きだった小峰さんと付き合う事になったんだから、みんなに感謝しろよ」

「ああ‥次の日の朝、小峰さんの部屋だったから」

「カズ酔って小峰さんにべったりだったから、きっと仕方なしに介抱したんだよ」

「ああ‥わかってるよ」

と言って、黙ってしまった。トイレに立つ研一の後姿を見て、これからみんなで中華街で食事をする事がとてもめんどくさく思えた。今日小峰は十二時前には店が終わるので、店の近くのバーで十二時に待ち合わせをした。今日の待ち合わせは強引にしたので、もしかしたら小峰は来ないだろうと思った。和夫のバーボンのボトルにグラスと、アイスペールに氷が山盛りに入ってテーブルに置かれた。和夫が二つのグラスに氷とバーボンを入れて、そのひとつを研一の前に置いた。そしてもうひとつのグラスで研一の前に置いたグラスに軽く当てると、バーボンを口に含んで目を閉じてゆっくり飲み込む と少しむせた。胸の息苦しさは一向に消えず胸に手を当てると頭がぐらっとして慌てて目を開けて、酔っている自分に思わずニヤッとし笑った。研一がカウンターで店の女の子達と話しているのを見ながら、またグラスのバーボンを口に含んで目を閉じた。


小峰のアパートの近くに、二人してよく行く居酒屋があった。その店は和風作りのカウンターだけの小さな店で、ふたりは入り口近くに並んで座った。奥に細長いその店はまだ早い時間の為、他に客の姿はなかった。小峰は何処かに出かけた帰りなのか、オフホワイトのブラウスに濃いグレーのタイトスーツを着ていた。

「お店‥辞めたんだってね」

箱根に泊まった一ヶ月程あとの休みの日だった。

「俺には言わないの‥俺、小島から聞いたんだぜ」

「言っても、きっと反対するから‥それに以前二ヶ月ぐらい会ってなかったでしょう」

「反対って‥何が」

小峰は、黙って小さな陶器の器に熱い日本酒を注いで飲むと、小さく溜め息をした。和夫は煙草に火を付けて、小峰の言葉を待った。そうあの男と会った後、小峰と二ヶ月程会わなかった。二ヶ月振りに会ってふたりで箱根へ行った。箱根から帰ったあと、和夫は二度小峰に電話をしたが、疲れた声と投げやりな言葉に、電話する前のときめきが萎えてしまった。逢いたい気持ちとあの男が胸の中でスクランブルして、沸騰するかのような痛みにじっと耐えた。

「仕事、今何してるの」

和夫が聞いたが、小峰は何も言わない。

「仕事‥してるんだろう」

和夫が前を向いたまま、もう一度聞いた。

「‥‥」

小峰は何も言わずに細身のライターで煙草に火を付けた。店の中に、小さな音でジャズが流れていた。

「何で、黙っているの」

和夫が酒を飲み干すと、器に酒を注ぎながらゆっくりと言った。

「キャバレー」

小峰が吐き出すように言った。

「キャバレー」

と、和夫が驚いた声で聞き返した。

「桜木町の小さなキャバレー」

「キャバレー」

和夫がもう一度言った。

「うん、ちょっとお金がいるのよ」

小峰がおでんの大根を、箸でちぎりながら言った。そしてその声が、和夫にはどうにも冷たく聞こえ、自分でも不思議な程遠い人に感じた。

「そう、キャバレー‥お金がいるのか」

和夫がつぶやくと突然、身体中に熱い血がどっと湧き立つのを感じた。酒を目をつぶって飲み込むと、胸の中のモヤモヤした物が騒めき息苦しかった。

「それで、なぜお金がいるの」

小峰を見たが、小峰は何も言わずに酒を飲んだ。

「この間の男と、関係があるのか」

和夫が言うと、そのまま長い沈黙が続いた。和夫の胸の中の小峰は絶えず嫉妬が付きまとい、小峰の笑顔を見てもすぐ嫉妬の渦が湧いて来た。小峰が天井を見上げて大きく溜め息をした。そしてみるみる小峰の瞳が潤むと、大きな涙が頬を伝わってカウンターの上に音を立てて落ちるその音を和夫は聞いた。煙草に火を付け、何も言えずに何杯か続けて酒を飲み、沈黙が続いた。しばらくして

「ごめんね」

小峰が手で涙を拭くと、少し笑いながら鼻声で言った。そして溜め息をして和夫に笑って見せた。

「父が‥自殺したの」

と、大きく息をして、また慌てて手で涙を拭いた。小峰の声が震えて聞こえ、和夫は何も言えなかった。自殺と言う言葉があまりにも重たく、胸の中に息苦しく残った。小峰がもう一度大きく息をついて、自分を落ち着かせた。

「ごめんねカズちゃん‥手紙を読んだから少しは知ってると思うけど‥長崎の田舎で私のうち、自動車部品を作る工場をやってたの。祖父の工場を父が継いで少しずつ大きくなって‥と言っても従業員が十四五人ほどの小さな工場だけど‥あんな事が起こる五年ほど前に、父の同級生の地元の県会議員に自動車部品を製造している会社を紹介して下さったの。そこから下請けの話が来て、そして銀行の方にもその議員さんが話を通して下さって、父が銀行からお金を借りて新しい工場と生産ラインの機械を入れたの‥三年程はとても忙しかったけど、四年目あたりからその親会社が傾きかけて.五年目にはとうとう‥‥その煽りをもろに被ってうちも倒産、父は追い詰められるとそのまま行方不明に‥‥ニ週間後に山の中の崖下で車の中の父の遺体が見つかった‥‥家や工場など全部銀行に持って行かれて、連帯保証人だった母の実家が山など、いろいろ処分して」

小峰がそこまで話すと、小さく溜め息をしてひとくち酒を口に含んだ。

「私ね‥‥私、幼馴染みの婚約者がいたの‥そう、その県会議員さんの長男の方‥でも、そのお父様は結婚に反対していて」

と言ってまた溜め息をして、酒を口に含んだ。

「父のお葬式が終わると、借金の残債の件で‥私もう、体も気持ちも限界で‥‥父がその県会議員さんからも、かなりの借金をしていて‥それを知って私、家を飛び出してしまったの」

と言って、小峰は唇を噛んだ。

「母と妹を残して家を飛び出して来た事が‥どうにも自分が情けなくて」

声が震えて、そして手で涙を拭いた。和夫は何か言葉を探したが、見つからなかった。小峰もそれ以上言わずに、酒を自分で注いで飲んだ。

「カズちゃん‥‥覚えている」

しばらくして、小峰がぽつりと言った。

「カズちゃんと初めて行った山下公園‥あのマリンタワーの上から見た夜景‥‥私一生忘れない」

酒を一気に飲んで、小峰が天井を見た。その横顔を見て、たまらなく抱きしめたい衝動に、和夫も一気に酒を飲んで堪えた。

「カズちゃん、私ね‥私、二十五日に長崎に一度帰る事にしたの」

小峰がゆっくりと器に酒を注いだ。和夫は何も言えなかった。そしてあの男の顔が浮かんだ。急に言いたい事や聞きたい事が胸の中に溢れて来たが、じっと押し殺した。しばらく沈黙が続くと店内に ♪ 別れの朝 が流れて来た。まだ客の姿はなく、和夫と小峰の二人だけだった。

「かおりと、母さんに逢いたい」

突然、吐き出すように言った小峰の小さな声が、切なく聞こえた。長崎訛りのそのひと言が、このまま小峰は戻って来ない気がした。そして同時に、小峰を長崎に行かせたくないと強く思った。急に息苦しくなって手を握りしめた。和夫は先程から何も言葉が出て来ないで、ただ胸の騒めきだけが渦巻いている。小峰が長い髪をかきあげるたびに、小峰の匂いがして胸を締め付けられた。二人が店を出ると、外はいつのまにか雨が降っていた。それは霧のような冷たい雨だった。その霧雨は時より吹く風に舞って、外灯の下でまるで虫のようにキラキラ輝いて見えた。小峰が少し速足で歩き、和夫は何も言わずにその後ろを歩いた。五分ほどで小峰のアパートの前に来た。小峰がドアの鍵を開けている間、和夫は少し離れたところに立って小峰を見ていた。

「どうぞ」

と言う小峰の顔に、少し微笑みを感じた。和夫はためらった。でもなぜためらっているのか、自分でもわからなかった。ポケットに手を突っ込んで立っている和夫を見て

「さあ、どうぞ」

と言って、ドアを開けたまま小峰は部屋の中へ入って行った。部屋に灯りが付き、小峰が石油ストーブに火を付けているのを和夫は玄関のドアのところから見ていた。小峰が少し不思議そうな顔をして、玄関まで戻って来ると

「さあ、どうぞ」

とまた言って、ヤカンに水を入れて火を付けた。和夫はふと気がつくとコートを着たまま、部屋の中で熱いコーヒーを飲んでいた。小峰がコーヒーカップをテーブルの上に置いたのを見て、いきなり抱き寄せた。それは突然の衝動だった。小峰が腕の中で拒んだので和夫は力を抜いて、座り直した。長い沈黙が続き、泣き出したい気持ちを抑えた。和夫はコーヒーカップを両手で持って、好きになる事ってこんなにも大変だったのか、と不思議なほど冷めたもうひとりの自分が胸の中で言った。

「いつ、帰って来るの」

和夫が、コーヒーカップを見詰めながら言った。

「えっ‥向こうへ帰ってみないとわからない」

潤んだ瞳でストーブの灯りを見ながら言った。

「何故、わからないの」

「だって、帰ってみないと‥‥私、あんなふうに家を飛び出してしまったから」

「帰って来るんだろう」

と言って、胸の中が重たく騒めいた。

「えっ‥‥うん」

なんとも頼りなく聞こえた。

「俺も‥‥その、一緒に行っちゃだめかい」

言った後、自分でも驚いた。小峰も少し驚いたようだが、すぐに微笑んで笑って見せた。和夫は顔の血の気が引いていくのが、自分でもわかった。息苦しくなって溜め息を付いて

「俺、一緒にいたいんだ‥この先もずっと」

言った後、胸の中が少し楽になった気がした。小峰は何も言わずにストーブの灯りを見ていた。

「俺、時々ふっと思うんだ‥今、たった今ここにいて欲しいと‥それは仕事中だったり‥電車の中だったり‥そして、ひとりで部屋にいる時だったり‥みんなとわいわい飲んでいる時でさえ‥ふっと思うんだよ‥今、ここにいて欲しいと」

和夫が、ぎこちなく言った。しばらく二人とも何も言わずにストーブの灯りを見詰めていた。トラックが通り過ぎる音の後に、犬の遠吠えの声が、ぼんやりと聞こえた。小峰は今何を考えているのだろうかと、和夫はふっと思った。

「帰って来たら‥帰ったら、俺と暮らさないかい」

声が震えているのが自分でもわかり、思わず手を握りしめた。小峰は何も言わなかった。和夫は何か言って欲しくて、小峰の顔を見た。小峰はストーブの灯りを見ていたが、その瞳に涙が見えた。

「ありがとう、カズちゃん‥とても嬉しい‥でも、無理なのよ‥わかってカズちゃん」

「何が、何が無理なの」

「ごめんね、カズちゃん‥わかって‥無理なのよ」

「何故」

「カズちゃんは、まだ若いわ‥私なんかと‥‥もっともっといっぱい恋をして、きっといい女の娘が見つかるから‥カズちゃんの気持ちはとても嬉しい‥でも、私なんかに引っ掛かっちゃだめ‥‥いつか、もっと若くて素敵な女の娘が現れるから‥‥カズちゃんに似合う、笑顔の可愛い娘がきっと‥きっといつか」

小峰の顔にストーブの灯りが照り返って、ゆらゆらと薄赤く燃えるように見えた。

「俺とは、だめなの」

「ううん、違うの‥‥今の私じゃだめなの、わかってよカズちゃん」

「何をわかれって言うの‥‥じゃあ俺、待ってる、だめでなくなるまで待ってる」

「ごめんね、カズちゃん‥もう言わないで、お願い、私が惨めになるから」

小峰の瞳に涙が溢れているのが見えた。気が付いたら、和夫はアパートの外に飛び出していた。外は霧雨が降っていた。街灯に霧雨がキラキラと輝いて、まるで小さな虫が舞っている様に見えた。震える手でポケットから煙草を取り出して、マッチで火を付けた。そして、街灯に舞う霧雨をしばらく見詰めていた。それは突然だった。和夫がポケットに手を入れて駅に向かって歩き出すと、急に込み上げてきた。慌ててポケットから手を出して口を覆うと、その場にうずくまった。女達の声が聞こえて顔を上げて見ると、前から3人の若い女達が大きな声で笑いながら歩いて来るのが見えた。和夫は立ち上がって、脇の細い路地へ体を入れてうずくまった。後から後からと込み上げてきて、両手で口を覆った。込み上げる声が両手から漏れて、背中が大きく震えた。女達の声が近づいて来て、両手で力いっぱい口を覆った。冷めた自分が慌てたが、口を覆ったまま声を出して泣いた。女達の笑い声が急に止まって、静かになった。和夫はそのまま霧雨の舞う路地で、うずくまって泣き続けた。


「カズ、お前今寝てただろ‥‥恵子達が来たぞ‥‥おい、飲みすぎるなよ‥今年は大丈夫だよなあ」

研一の声で目を開けて、顔を上げた。恵子がコートのポケットに手を入れて、歩いて来るのが見えた。

「お久し振り、カズちゃん」

と言って、微笑みながらコートを脱いだ。和夫は慌てて立ち上がり

「あっ恵ちゃん、ひさし‥」

「ちょっと待った‥今、少し見ないうちにまた綺麗な女になったな‥って言おうとしたでしょう」

と、和夫の言葉を遮って、恵子が笑いながら言った。ダークグレーのタイトスーツにオフホワイトのブラウスを着た恵子に、大人の女を感じた。

「何だよ‥‥今、俺も言おうとしたんだよな」

と、笑いながら和夫が言った。

「ほら、やっぱりね‥顔に出てたもん」

と、恵子が笑いながら言った。

「相変わらずだな‥‥恵ちゃん元気そうで、その元気分けてくれよ」

「ははは‥カズちゃん、元気ないのか」

「ううん‥恵ちゃんの顔を見たら、元気が出たよ」

「あのう‥お久し振りです」

と、恵子の後ろから声がした。

「えっ‥あの、ケイコ」

「はい‥あのケイコです」

と、和夫の前に出てきて微笑んだケイコは、パステルブルーのシャネルスーツに白のブラウスで、大人びて見えた。手に、見覚えのある黒い毛皮のハーフコートを抱えていた。四人が座ると和夫が恵子に白ワインとケイコにコーラを注文した。

「カズちゃん、驚いたでしょう‥去年のクリスマスパーティーでケイコとは意気投合して、逗子のお宅にも何度かお泊まりさせて頂いて、お母様ともすっかり親しくさせてもらっているのよ」

「俺もバーベキューに呼ばれて、恵子と一緒に逗子のケイコの家に行った事あるよ」

「えっ、研ちゃん‥なんで俺には何も言わないんだよ‥‥そうか、少し驚いたよ」

「カズ、だってお前それどころじゃなかっただろう‥それにお互い仕事が忙しくて、なかなか会う機会もなかったじゃんか」

「でも随分久し振りだね‥‥なんか、ほんとうにあのケイコなのか」

「はい‥あのケイコです」

「ああ‥確か、去年のクリスマスイブだったよな」

「はい、ちょうど一年振りです」

「カズ、一年振りなんて‥何だか七夕見たいだな」

「あら研ちゃん、随分と素敵な事を言うんだね‥‥何だかフランス映画みたいじゃない」

と恵子が言って、ケイコに微笑んだ。

「ははは‥そんなにカッコ良くないよ」

と、和夫もケイコを見て笑いながら言った。

「恵ちゃんと研一さんの方が、何て言うか‥フランス映画みたいです」

と、ケイコも笑いながら言った。

「恵ちゃんの、何処とない気だるさ‥あれ、長野県が産んだカトリーヌドヌーブと言われいるんだよ」

と、和夫がケイコに言うと

「カズちゃん‥今、作ったでしょう」

と言いながら、恵子が和夫の肩を指で押した。白ワインとコーラが来た所で恵子がグラスを持って

「それじゃ乾杯しましょう‥今夜のクリスマスイブと、そしてカズちゃんとケイコの一年振りの七夕に‥乾杯」

それぞれに乾杯、と声を出してグラスを寄せた。八時前に店を出て、四人はタクシーで中華街へ向かった。途中渋滞に遭ったが、大分時間に余裕を持って着いた。中華街は人が溢れて大変な賑わいだったが、予約していたのですぐに待合室へ通された。四階建ての店内は、外の賑わいと相まってとても落ち着いて、微かにお香の匂いがしていた。不思議な楽曲が流れて、四人はエキゾチックな気分になった。しばらくすると、黒いジャケットに錦糸の刺繍を施した赤いチャイナ服を着た女性が来て、研一と親しそうに話しをすると軽く抱き合って、声を出して笑った。四人はエレベーターで三階の個室に通された。真ん中に大きな円形のテーブルがあり、壁いちめんに金の刺繍の中で龍やグジャクが飛んでいた。老酒で乾杯をするとコース料理が始まり、次々と中華料理が出てきて四人ともよく食べた。デザートに冷たい杏仁豆腐とメロンが出てきて、恵子とケイコがデザートは別腹だと言って研一達の分まで食べた。四人が店を出ると、先程の人の賑わいはもうなかった。冷たい風が吹いていたが、酔っているせいか心地よかった。恵子とケイコが腕を組んで先を歩き、研一と和夫がその後ろを並んで歩いた。すると突然、恵子とケイコが腕を組みながら歌い出した。

♪あなたの好きな人と 踊ってらしていいわ

優しい微笑みも そのかたにおあげなさい

けれども 私がここにいることだけ

どうぞ 忘れないで

声質の違う二人の歌が、とても心地よかった。通り過ぎる人達が振り返って見ていた。冷たい風が吹いて、貨物船の汽笛の音が聞こえて来た。山下公園の入り口の交差点に差し掛かった所で、和夫が振り返ってマリンタワーを見上げた。小峰の熱い顔が浮かんで思わず胸に手をあてた。身体中がざわざわしているのが自分でもわかった。赤と青のマリンタワーの灯りが遠くまで伸びているのを見て、もう一度小峰とあの灯りを見てみたいと胸にあてた手を握り締めた。恵子が和夫に寄って来て

「カズちゃん、研ちゃんがクリスマスプレゼントを買ってくれるって言うので、申し訳ないけどケイコをお願い出るかな‥時間が来たらタクシーに乗せてね‥よかったら、カズちゃんも一緒にグッピーにおいでよ‥いろいろあると思うけど‥シンプルにね」

と言って、恵子が和夫の肩を叩いた。和夫は、言葉に詰まって恵子の顔を見詰めていた。恵子が和夫の顔を見て、もう一度肩を叩いた。交差点でタクシーを拾って二人が乗り込むと、恵子が車の窓ガラスをいっぱいに開けて

「バイバイ、あとでね‥楽しんで来てね」

と、ケイコに言って手を振ると、和夫を見て小さくうなずいた。タクシーが走り出して二人と別れると、冷たい風に首をつぼめ目を細めるケイコの顔を見て、思わず笑ってしまった。

「寒いな‥‥ほんとうに公園の中へ行くのか」

と、和夫が聞くと

「はい、山下公園‥私、大好きなんです」

「もうこんな時間じゃ、誰もいないかもな‥それに港は海風で寒いぞ‥大丈夫か」

「はい‥私、和夫さんとこの公園を腕を、組みながら歩いている夢を見た事があるんです」

「へええっ‥それって、ほんとうに俺なのか」

「はい、もちろん‥和夫さんです」

と、笑いながらケイコが言った。

「ここへは、よく来るのかい」

「いえ、今日が三回目です‥小学生の頃母と、高校生の時に友人達と、港の見える丘公園に元町に中華街とマリンタワー‥そしてここ、山下公園‥定番のデートコースだとかで、私もいつか素敵な人と来たかったんです」

「それが、俺でよかったのか」

「はい、もちろん和夫さんで‥とても嬉しいです」

「そうか、俺みたいので申し訳ないけど‥喜んでもらえて、俺も嬉しいよ」

「こんなクリスマスイブに、申し訳ないです」

「いや、いいんだよ‥でも少し驚いたよ、研ちゃん何も言わないから‥‥普段からサプライズが好きなんだけど、本人はサプライズのつもりがなくて」

「実は私‥‥恵ちゃんに、クリスマスに和夫さんと逢えないかな‥って言ってたので」

「そう‥俺でよかったらいつでも気軽に声かけて‥‥あっでも、今仕事がやばいから‥いつでもってわけじゃないか」

「はい、私は暇ですから‥私の方がいつでもです」

「ははは‥ボーイフレンドはいないのか」

「はい、いません」

「ケイコ可愛いから、まわりがほっとかないと思うけどな‥確か、今年から大学生だったよね」

「はい、中学からの女子大で、教育学部です」

「へえ、教育学部‥じゃあ、学校の先生か」

「はい、小さい頃からの目標だったので」

「そうか‥ケイコならきっと、素敵な先生になるんだろうな」

「はい、素敵な先生になります」

「うわ‥凄い自信だね」

「はい、小さい頃からの目標だったので」

「その‥はい、はい、って言うのはやめないか」

「あっ、すいません‥気になる様ならやめます」

「ここで立ち話も何だから、公園の中へ行くか」

「はい‥いや、ごめんなさい」

「ははは‥もういいよ」

ふたりは交差点を渡って公園の中へ入った。身体がふわっとして、酔っていることがわかった。和夫は腕時計をのぞいて見ると、十一時を少し過ぎていた。急に胸の中が騒めいて、小峰の顔が浮かんで来た。寒さのせいなのか時間のせいか、公園は閑散としていた。冷たい港の風に、和夫がケイコを引き寄せた。そして、ケイコの冷たい手を取ってコートのポケットに入れると、ケイコが和夫の肩に顔を寄せて、ふうっとため息を吐いた。洗った髪の匂いがして、去年のあのジキルとハイドの無邪気なケイコが懐かしく思い出されると、思わずポケットの中の手に力が入った。

「今日は食べ過ぎたよ‥まだ苦しいよ」

と、笑いながら和夫が言うと

「私も‥こんなに食べたの、たぶん生まれて初めてだと思う」

「ははは‥生まれて初めてか」

と笑うと、ケイコも無邪気に笑った。港に昔から停泊している氷川丸の大きな船体に、灯りが無数に輝いているのが見えた。海面は真っ暗で、停泊している貨物船達の灯りがとてもエキゾチックに思えた。左奥の大桟橋に、大きな客船の無数の灯りが賑わって見えた。ふたりは冷たい風を避けて公園の中へ戻ると、噴水広場の近くのベンチに身体を寄せ合って座った。隣のベンチにも、一組の男女が身体を寄せ合って座っていた。

「寒いだろう、大丈夫かい」

「寒いけど、大丈夫です」

和夫が、マフラーを取ってケイコの首に巻くと、ケイコが慌てて外して

「だめですよ、風邪ひきますよ」

「いいんだよ‥俺、だいぶ飲んでるから」

「だって‥風が」

「いいんだって、いいから首に巻けよ」

「でも‥‥私」

「いいから、使ってくれよ」

ケイコが少し笑って、マフラーに顔を埋めると

「あったかい‥和夫さんの匂いがする」

と、少しかすれた声で言った。そしてケイコがマフラーに顔を埋めたまま、目で隣のベンチへ促した。和夫が振り返って見ると、男女が抱き合って熱いキスをしていた。

「いいんだよ‥今日は、クリスマスイブだから」

「そうか‥クリスマスイブだからいいんだ」

と言って、ケイコが笑った。和夫が腕時計を見ると十一時二十分になっていた。また、胸の中が騒めいて来た。すると、夜空にマリンタワーの赤と緑の灯台の灯りが見えて、小峰と見た夜景が蘇って騒めいた。目を閉じると身体がふわっとして、酔っている自分を感じると少し笑った。

「和夫さん‥去年のクリスマスイブに言ったこと、覚えています」

「えっ‥なに」

「ほら、あの西口の大きなクリスマスツリーの前で‥来年のクリスマスイブには、これよりも大きなクリスマスツリーを用意して、そして雪を降らせる‥って」

「えっ‥そう言えば、そんなこと言ったな‥思い出したよ」

「私、感動して‥あんなこと、きっと世界中探したって言われた人いないですよ」

「ああ‥そんなこと言ったな」

「私‥‥一生忘れない」


三日前だった。和夫は、働いているデパートの屋上に通じる、階段のフロアーにいた。ピンク電話の上に10円玉を重ねて置いて、小峰に電話を掛けた。呼び出し音を十二回数えたが、なり続け続けた。小峰の部屋の中で、なり続ける呼び出し音を想像しながら待った。十七回目で受話器を取った

「‥‥はい」

「和夫です‥寝ていた」

「‥‥‥」

「その‥‥帰るんだろう」

「‥‥‥」

「二十五日に、やっぱり帰るんだ」

「‥‥‥」

「あの‥‥長崎に帰るんだろう」

「‥‥言ったでしょう」

小峰の冷めた言葉に、だんだんと気持ちが萎えて行くのを感じた。

「そうか‥‥帰って来るよね」

「‥‥‥」

「帰って来るんだろ」

「‥‥‥」

「何か言えよ」

「‥‥‥」

「俺‥待っているから」

「‥‥‥」

「待っていてもいいよね」

「‥‥‥」

「なあ‥待っててもいいよな」

「カズちゃん‥‥私‥帰れなくなっちゃうじゃん」

「俺、待ってるから」

「お願い‥そんなこと、言わないで」

「待ってちゃ、だめなの」

「そんなこと言ったら、帰れなくなるから」

「俺、絶対待ってるから」

受話器の向こうで、小峰が泣いてるのがわかった。 沈黙が続いてしばらくすると、小峰がマッチで煙草に火を付ける音がした。そして、ゆっくりと煙を吐き出した。

「カズちゃん‥‥私ね‥私」

と言って、また沈黙が続いた。和夫は10円玉を数枚入れて、受話器を持ち変えた。

「カズちゃん‥‥‥私‥‥‥私、彼のお父様に‥‥犯されたの」

「えっ‥‥‥何」

そしてまた、長い沈黙が続いた。

「私が‥ばかだから‥‥‥ごめんね」

和夫は言葉に詰まって、何も言えなかった。

「ごめんね‥‥カズちゃん」

「帰る前に、もう一度逢おう」

「ごめん」

「逢いたいんだよ」

「‥‥‥」

「もう一度、逢おうよ」

「‥カズちゃん」

「もう一度逢ってよ」

「‥‥‥」

「俺、逢いたいんだよ」

「お願い、そんなこと言わないで」

「十二時前には、お店終わるだろう‥‥‥あの‥‥ローズで待ってるから」

「‥‥‥」

「十二時にローズで‥‥俺、帰る前にどうしても逢いたいんだよ」

「逢ったら‥私、帰れなくなっちゃうじゃない」

「お願いだから逢ってくれよ‥俺、待ってるから」

「‥‥‥」

小峰は何も言わず、また沈黙が続いた。そして

「私‥‥行かない」

と、小峰が小さな声で言った。

「‥俺、待ってるから」

「‥‥‥」

そして静かに受話器が置かれて、信号音が続いた。

和夫は受話器を握りしめたまま立ち尽くし、屋上へ通じる階段のフロアーを眺めた。西陽があたるフロアーの陽だまりに、若い母親が幼い女の子にソフトクリームを食べさせているのが見えた。女の子が口の周りを白くして、母親に催促していた。その母親のピアスが西陽に輝いているのを、受話器を握りしめたまましばらく見詰めていた。


遠くで、低い汽笛の音が長く響き渡った。空は曇って星の姿もなく、海と空の区別もつかないほど暗かった。先程からの冷たい海風が止んで、少し暖かく感じた。

「あの‥さっき恵ちゃんと歌っていた曲、とても素敵だったな」

「あっあれですか、恵ちゃんが弾き語りでよく歌ってくれるんです‥ラストダンスは私に」

「ああ、越路吹雪だな」

「この歌、研一さんと付き合うコツなんですって」「へえ、そうなんだ」

「この曲、好きなんですか」

「ああ、俺も恵ちゃんの弾き語り、聴いたことあるよ‥もう一度歌ってくれないか」

「えっ、ここでですか」

「ああ、歌ってくれる」

「でも‥」

と言って、ケイコが辺りを見渡した。

「ケイコの歌、もう一度聴いて見たい‥なんか、声がとても素敵だったから」

もう一度、ケイコが辺りを見渡して

「でも、ここじゃあ」

「ケイコの歌う声が聴きたいな」

また、ケイコが辺りを見渡して

「それじゃあ、歌いますね」

と言って、ケイコが息を吸うと先程よりもゆっくりと歌い出した。

♪ あなたの好きな人と 踊ってらしていいわ

  優しい微笑みも そのかたにおあげなさい

  けれども  私がここにいることだけ

  どうぞ 忘れないで

  ダンスはお酒みたい 心を酔わせるわ

  けれどお願いね ハートだけは盗らないで

  そして私のため のこしておいてね

  最後の踊りだけは

  あなたに夢中なの

  いつか二人で誰もいないところへ旅に出るのよ

  けれど送って欲しいと頼まれたら断ってね

  いつでも 私がここにいることだけ

  どうぞ 忘れないで

  きっと私のためのこしておいてね

  最後の踊りだけは

  胸に抱かれ踊る ラストダンス

  忘れないでね

ケイコの暖かい声が響いて、和夫の胸に沁みた。

「ありがとう、凄く素敵だった」

「うあ‥ありがとうございます」

とケイコ言って、輝く瞳で笑顔を見せた。

「あの‥これ」

と言って、ケイコがクラッチバッグから赤と緑の掛かった箱を取り出した。

「メリークリスマス」

と、小さな声で言って、和夫の前に差し出した。

「えっ‥何これ」

「腕時計です」

「えっ、どうしたの」

「和夫さんに似合う時計を二ヶ月ほど前からいろいろ探して、やっと見つけたので使ってください」

「えっ、でも俺‥何も用意してないのに」

「使ってください、お願いします」

「俺‥」

「もう、行くのでしょう」

「えっ」

「待ち合わせ」

「えっ‥‥知ってたの」

「いえ‥何度も時計を気にされてたから‥‥綺麗な方ですね」

「えっ‥知ってるの」

「去年のグッピーの、あのひとでしょう」

「何で」

「だって、酔った和夫さんをずっと付き添っていたから‥‥ほんとうに、綺麗な方ですね」

「ごめん‥一年振りなのに、ごめんね」

「いえ‥とても素敵なクリスマスイブでした」

「久し振りだったのに‥ごめんね」

「私こそ、ごめんなさい‥こんな日に」

「いや‥‥その‥来ないかも知れないんだ」

「えっ」

「その‥来ないかも知れないんだ」

「えっ‥‥いや、きっと待っていらっしゃるから」

「それが」

「さっ‥待たせたら、かわいそうですよ」

と言って、ケイコが立ち上がると、和夫に手を差し出した。ケイコにそう言われて、ほんとに小峰が待っている気がして来た。

「さあ早く‥お見送りさせてください」

「いや、恵ちゃんと約束したし‥ケイコをタクシーに乗せるまでが、俺の責任だから」

「それじゃあ和夫さんをタクシーで送って、その車で私がグッピーに行きます」

と言って、ケイコがクリスマスプレゼントの箱を、和夫のポケットに入れた。そして手を引っ張って歩き出した。歩きながら、もしかしたらこれは去年と逆じゃないかと和夫は思った。しばらく歩くと、右奥の木立の向こうの方がひときわ輝いているのが見えた。ケイコが振り向いて和夫を見て、そして手を引っ張って早足で歩き出した。木立を抜けて広場に出たところでふたりは立ち止まると、そこには去年よりもはるかに大きなクリスマスツリーがふたりの前に現れた。しばらくふたりともその場に呆然と立ちすくんだ。ケイコの肩が震えているのが見えたので、そっとケイコの顔を覗くとクリスマスツリーの灯りで瞳がキラキラと輝いていた。そして次から次へと涙が頬を伝わっているのが見えて、震えるケイコの肩に手を置いた。そのまましばらくふたりとも、大きなクリスマスツリーの輝く灯りを見上げていた。和夫自身も、身体が震えてる気がした。そして和夫の顔の前に、ふわっと舞い落ちるものが見えた。そしてまた、ふわっと舞い落ちてケイコの頭に止まった。ケイコも気づいて、振り向いて和夫の顔を見ると、ふたりの顔のあいだをふわっと大きな雪が舞い落ちた。ケイコの肩の震えが大きくなり、和夫は辺りを見渡すと大きな雪が、辺りをふわふわと舞い落ちていた。ケイコが肩を大きく震わせながら、和夫を見て何か言おうとしているが言葉にならなかった。キラキラと輝く濡れた瞳で和夫を見て、その震えるくちびるが

「ありがとう」

と、言ったのがわかった。和夫が微笑むとケイコを見て、ゆっくりと首を振った。

「いや‥‥君が雪を降らせた」

そしてもう一度、自分に向かって言った

「君が、雪を降らせた」


             第 二章  終わり




「ラストダンスは私に 」

(一章 最終電車 )(二章 君が雪を降らせた ) を読んで頂き大変ありがとうございました。この小説は四十年以上前に友人に、さやかなラブストーリーを贈りたくて書き始めた小説です。お互い高齢となって久し振りに会った時に、突然この小説をもう一度読みたいと友人が言い出したので、今になって三日ほど掛けて昔を思い出しながら編集し直した小説です。また、この小説を読んで頂いた貴方は誰とラストダンスを踊るのかな‥なんて思いながら投稿しました。初めて書いた素人の小説な為、当時の情景等がうまく伝わってもらえたか心配です。また誤字脱字などは大変申し訳ありませんです。宜しければ、是非感想をお聞かせ頂くと大変嬉しいです。そして、三章 四章 といずれ書きたいと思っていますが、ただ歳のせいか集中力がない為、いつになるのか‥でも何故か昔の事は不思議とよく覚えているので、いつかまた書きたいと思います。それまでは主人公のその後のストーリーを、それぞれの読者の方とそれぞれの夢の中で、お会い出来たらと楽しみです。 ありがとうございました。


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