Another perspective ~HARUKA~②
私は一年程前、ストーカー被害に遭っていた。
繰り返される無言電話、どこに行っても付きまとわれているような感覚。
酷い時は郵便受けに信じられないものが入っていたりもして、絶叫してしまったこともある。
常に監視されているような恐怖。
僅かに気配を感じるだけでも震えが止まらず、思考も働かなくなる。
何度か警察に相談をしたこともあるが、明確な証拠が無いと動くことができないと言われた。
「せめてその郵便に入っていたものがあればねぇ――」
なんて言われたけれど。そんな気持ちの悪いものなんかすぐ捨てるに決まっている。とっておけるほど冷静でいられるわけがない。
心の底から悍ましさで困窮しているのに、警察は何もしてくれない。
だから私は警察が信用できなくなった。
怯える日々を過ごしていたある夏の日の仕事帰り。
パニック寸前で暴れる心臓をなんとか押し殺して駆け足で自宅に帰ると、口から心臓が零れ落ちそうになるほどの事案が発生した。
私の家の前に玄関を塞ぐようにして廊下に座り込んでいる人がいる。
細心の注意をはらって恐る恐る近づくと、どうやら胡坐をかいて眠っているようだった。
もしかしたらストーカー? それともただの酔っ払い?
頭の中の冷静さが迷子になる中、どこか自分を俯瞰している他人格のような思考が、もしかするとこれはまたとない好機なのかもしれない、と告げてきた。
動いてくれない警察は当てにできない。それなら自分の手で恐怖の要因をなんとかするしかない。
幸い、見た感じは軽装で危ないものを持っているような気配もない。
私はしばらく迷ってから、胡坐状態で眠っているその男を力いっぱい押して玄関から退かした。
それでも全く起きない男の様子を伺いつつ、玄関を開け、勢いよく家に引きずり込んだ。
そして即座に玄関先で両手足をガムテープで縛った。今考えたらちょっとやりすぎたなって思う。
それから台所からコップ一杯の水を持ってきて、男の頭にぶちまけてやった。
もしも本当にストーカーだったなら、この後私は抑制できずにどんなことをしたか分からない。そう考えると自分でも怖い。
しかしながら結論から言うと、突然の冷水に目を覚ました男はストーカーではなかった。
「ん……えーと、キミ誰?」
泥のように目を覚ました男は焦点の定まっていない視線を私にくれる。
大きく切れ長の目に、鼻筋の通った綺麗な顔、ちょっぴりハスキーな声。
ついさっきまで背筋が凍りつく想いだったのに、何も言えず動けずに見惚れてしまうほど、私の好みド真ん中な顔だった。
少しお酒臭かったけれど、私の問いかけにも正しく応答しながらしっかりと会話もできて、嘘を言っている気配はなかった。
どうやら本当にただお酒にやられ、私の住むこのアパートに彷徨いこんだらしい。
「あー……もし君が良かったら、お願いがあるんだけど」
そう言って彼はしばらくの間泊めて欲しいと言ってきた。
事情があって家が無くなった、詳細は話せない、とのことだった。
それを聞いた私は、やっぱり男の人ってクズばっかり、なんて思った。
出逢ったばかりの女性の家に住む? 非常識極まりない。
でもどうしてだろう。私はすぐに突っぱねられなかった。
何故かこのまま追い出してしまってはいけないと、私の本能が告げていた。何とも情けないが、もしかしたら一目惚れだったのかもしれない。
「もしもストーカーを退治してくれたら、しばらく泊まってもいいですよ」
「ストーカー? 君、誰かにストーカーされてるの?」
「春花、です」
「春花? 女の人にストーカーされてるの?」
「違うわよ! 春花は私の名前! ストーカーしてくるのは……男か女かもわからないけれど」
水に濡れた長めの髪を掻き上げながら、男は小泉優介と名乗った。
親身に私のストーカーに関する話を聞いてくれてから、こう言った。
「わかった。俺が何とかするよ。その代わり、約束忘れないでね」
急転直下とはまさにこのことで、翌日仕事が終わって帰ると、玄関の前に小泉優介と見知らぬ男がいた。
男は優介に関節技を決められていて、痛みに悶えながらその場で失禁していた。
「やあ春花。おかえり。約束通りストーカーは退治したけど……こいつどうする?」
飄々とした口調で私にニヤリと笑む優介が、私には希望の輝きを放っているように見えた。
同時に一気に湧き上がる想い。
結局、ストーカー男に二度とこういったことをしないと約束をさせるだけで終わった。
優介は「警察に突き出さなくていいの?」としきりに訊いてきたが、私は真剣な相談にも鼻で笑って取り合ってくれない警察が信用できないのでそれはしなかった。
こういうことを言うと、メルヘン脳とかお花畑とか言われそうで嫌なんだけれど、その一件から私は優介が運命の人としか思えなくなった。
「っし。これで、しばらく住んでいいかな? 春花」
それが今から約三ヶ月前のこと。
優介は全然クズなんかじゃなかった。
家事もほとんどこなせるし、自分もバーテンの仕事をしているのに寧ろ彼のほうが進んで何でもやってくれた。
更に家賃や食費と称してお金もしっかりと渡してくれた。まるで本当に同棲し始めの恋人のようだった。
分かっていたが、一緒に居て私はどんどん優介が好きになった。仕事の時間が合わないから一緒の時間は少なかったけれど、それでも朝起きたら彼が帰ってきて、仕事が終わって家に帰れば寝起きの彼が拝める。
最高に幸せな日々だった。
お互い明確に恋人関係のような類のワードを口にしたことはない。
でもきっと彼も私のことを好きだったのは強く感じられた。
そんな彼が――――三ヶ月間ずっと一緒に暮らしていた彼が伝言も書置きも何もなく突然いなくなった。
虚無感、なんて言葉は相応しくない。虚無を感じる余裕もないほど私の心は今にも消えそうになっていたから。
いなくなってから初めて気付く。私は優介の連絡先も職場も何も知らない。
ただ知っているのはどこかでバーテンをやっていることだけ。
何を食べても味がしない、どんなものを見ても色彩の無い日々が数日過ぎたある日、
「どうした。顔色と表情が死んでるぞ」
私が職場でお昼も取らずにぼうっとデスクについていると、普段寡黙で仕事が恋人のような水野先輩が話しかけてきて少し驚いた。
女性なのにカッコよくて、女性社員みんな憧れの存在の水野先輩は、私のデスクにサンドイッチをチョンとのせた。
「あ、ありがとうございます」
「何かあったんだな。無理にとは言わんが教えてくれないか?」
残りの昼休みの四半刻、社員食堂の入口横の背もたれ付きのベンチ椅子に座りながら私は水野先輩に全てを話した。
どこの誰かも知らない男を家に住まわせて、居なくなったからどうしていいか分からない、なんて言ったら同僚たちはきっとみんな笑うだろう。だから今まで誰にも話すことはできなかった。もちろん警察にも相談できずにいた。
でも水野先輩なら笑わずに聞いてくれると思った。言葉では言い表せないけど、不思議とそんなオーラがあった。
「ふむ。そうか」
水野先輩はそれだけ言うと、不意に内ポケットから小さな名刺を取り出した。
無駄にキラキラするその名刺はどこかの探偵事務所のものだった。
「春花の悩みはきっとここで解決できる。そこに居るマスターに相談するといい。きっと、春花の力になってくれる」
「マスター? ですか?」
「ああ。きっと大丈夫だ。私が保証する」
見たことのない水野先輩の柔らかい笑顔にときめいてしまうとともに、希望が宿り世界に再び色味が戻っていく感覚。
「あ、ありがとうございます!」
「仕事に集中できない後輩がいるのは困るからな。それと、依頼料としてそのマスターにこれも渡すといい」
水野先輩はそう言って個包装の苺チョコを一つくれて、そのまま立ってどこかに行ってしまった。
依頼料? マスターとかいう人の大好物とか?
はっきり言って意味が分からない。
それでもこれだけははっきりしている。
私はもう一度優介に会いたい。その為の方法があるなら、何でも試してみたい。
優しい追い風をくれた水野先輩のおかげで漲った決意を胸に、実際に『霜平探偵事務所』に赴いたのが昨日のこと。
そこにいたマスター――冬根という人は、どこか軟派というかやる気がないというか、不安を覚える人だったけれど。
そして今日は日曜日。
生憎の泣き顔を見せる空を自室の窓から眺めていると、携帯に着信が入った。