Another perspective ~HARUKA~①
水野先輩から渡された名刺によれば、場所はここで間違いなさそうだ。
小さくて古いコインランドリーと有名なお弁当チェーン店の間、細い路地を進んだ先。
名刺の右下、極小の簡易な地図に描いてある通りに建っていたビルは、今にも何かが出そうな気配が漂っている。
「だ……大丈夫よ春花、もう私は大人。お化けなんて幻想よ、怖くない、怖くない」
恐怖心を洗脳すように自分の名前を呼んで鼓舞してから、自動ドアをくぐる。
夏だというのに少しひんやりするエントランスはエレベーターが一基と自動販売機が一台、奥に非常階段があるだけのシンプルな作りだった。
『霜平探偵事務所 ――○▲ビル五階』
改めて名刺に目を落とし、上昇のボタンを押す。
こんなに緊張するのは苦手な歯医者に来た時以来かもしれない。
シンプルなチャイムが頭上で鳴っただけでちょっと驚いてしまってから、隙間にヒールを引っ掛けないように足元に気を付けてエレベータに乗り込んで、私は眉根に力が入った。
――五階のボタンが無い。
見上げて確認しても、各階案内にも五階は表示されていなかった。
「どういうこと」
孤独なボックスの中で独り言を呟いてしまいながら改めて名刺を見ても、確かに『五階』と記されている。ビル名にも間違いはない。
多忙な水野先輩に電話で相談しようか一瞬悩んだが、その前に先ずは最上階である四階に向かってみることにした。
不意に感じる慣性力にすらドキリとしてしまう自分の情けなさを自嘲していると、十秒ほどでチャイム音を伴って扉が開く。無事に到着した四階に降りた。
すぐに鼻についたのはやんわりとした汗のにおい。次いで人間の奇声にも近い大きな声が耳に入ってくる。
薄暗い廊下の先に目を遣ると、淡い緑色の畳張りの部屋が見えた。どうやら何かの道場があるらしいが、私の目的はそこではない。
反対側、非常階段と書かれた重そうなドアに手を掛け、一つ大きめに深呼吸をしてからノブを回して力いっぱいドアを押した。
仄暗いフロアに対してやけに照明が明るく異質な印象の非常階段は、ここ四階からさらに上に続いていた。物理的に固唾を呑んでしまったが、エレベーターがいうことを聞かない以上ここから行くしかない。
ヒールの音ができる限り鳴らないように一段一段慎重に上っていくと、一往復したところで行き止まった。恐らくここが五階、これ以上続く階段は無く、先程と同じような重厚なドアがあるだけだった。
そしてドアに貼ってあるこの異様な雰囲気に似つかわしくないポップな文字で書かれた『霜平探偵事務所』の表札に、安堵感が胸に広がる。
ドアノブに手を掛けながら、水野先輩に言われた言葉を思い出す。
『そこに居るマスターに相談するといい。きっと、春花の力になってくれる』
マスター――ということは、この事務所の主人、つまり探偵さんということかしら。
取り急ぎの疑問を掻き消すように大きく一つ深呼吸をしてから、私は重たいドアを開けた。
「失礼しまーす……」
声が震えてしまった私の視界に真っ先に飛び込んできたのは、金色だった。
「誰?」
突然かけられた声に全身が跳ねる。
入口すぐそばの、ふかふかしてそうな真っ黒のソファに座る金髪の女性が私を凝視していた。
金色――殺風景な事務所に似つかわしくない綺麗な金髪だった。
凝視、というのは少し違ったかもしれない。目の前の金髪の女性は目を閉じたままだったからだ。
「あ! え、ええと! わ、私はっ」
咄嗟にうまく動かない舌に苦戦している間も、金髪の女性はじっとこちらを見つめていた。目は開いていないのだけど。
丸襟の白シャツに控えめなフリフリの付いた黒いスカート、黒のニーハイソックス。
成人しているかしていないか分からないくらいの年齢の、おさげの似合う非常に綺麗で素敵な女性だ。
まさかこの人がマスター?
もう一度大きく深呼吸をして落ち着けてから、
「マスターさんに、相談をしに来ました!」
なんとかこんとか言いたいことを口にすると、金髪の女性はスッと立ち上がる。ふわっとおさげが揺れた。
「マスターは今外出中。すぐ戻るからここに座って待って」
自分の座っていたソファを指差して座るように促してくる。
言われるがまま、私は摺り足気味に移動してソファに腰かけた。座り心地は想像よりも少し硬くて、そして温もりが残っている。
「何か飲む?」
「あ、え、えーと」
マスターさんではないということは、この金髪の女性は秘書的な何かだろうか。それとも受付のお姉さん?
「珈琲、紅茶、それかオススメ。どれ?」
「あ、えーと」
こういう時に優柔不断な自分が少し嫌になる。しかしこんな綺麗な人のオススメを無視するのも忍びない気がする。何故か閉眼したままだけど。
「じゃオススメで」
「わかった」
小さな声でそれだけ言うと、金髪の女性は重力を感じさせない歩き方で奥に消えていった。
耳鳴りが聞こえてきそうな静けさの中、辺りを見回してもまともなものが無かった。
今現在私が座っているソファ以外には職員室にでも置いてありそうなグレーのテーブルともう一つ同じソファが対面にあるだけで、他には特に何も置いていない。探偵事務所といえば、普通は資料などのものを仕舞う棚や、ちょっとしたインテリアなどが有ってもおかしくないと思うのだけれど。
奥、開けっ放しの扉の向こう側にはロッカーのようなものが見えるが、中は見えない。
いかにも儲かっていなさそうな雰囲気に、徐々に私の中で『こんなところで相談していいのだろうか』という気持ちが湧くが、水野先輩からの紹介を無下にもできない。
などと脳内セルフ押し問答をしていると、
「ただいまぁ。ちょっとちょっとルナさん、一人でこの洗濯物の量はキツイって。溜めすぎた俺が悪いんだけどさぁ。やっぱり今度から小まめにやらないと――――って、あれ?」
先程私が意を決して入ってきた扉から、人が一人入りそうなほど大きな段ボールを抱えた男性が事務所に入ってきた。
ジーンズにパーカーのラフな格好のその男性は私を見るなり驚嘆顔を作り、段ボールを床に置いてから座る私に近づいてきた。
そしてマジマジと私の顔をのぞいて目をぱちくりさせてから、
「ルナさん、ちょっと見ないうちに随分大人っぽくなったね」
そう言って顎に手を当てた。
いやいや、ルナさんって誰よ。
「いえ、その私は――」
――ゴン!!
私が人違いを訴えようとした瞬間、大きな打撃音が鳴った。
いつの間にか戻ってきた金髪の女性が、男性の頭を木製のトレイで殴打した音だった。
「ってててて……ってあれ? ルナさんが二人!?」
叩かれた後頭部を摩りながら片目をつぶる男性は、私と金髪の女性を交互に見るなりそう言って、
「……さてはキミ、偽物だな?」
私に懐疑的な表情を向けてからそう続けた。
って、偽物ってなによ!
◆ ◆ ◆
「改めまして、どうも。冬根と申します」
あらかたの経緯をルナさん (?)と呼ばれた金髪おさげの女性から聞いた男性は、私の対面のソファに座ってそう名乗った。
雑用か宅配の人かと思ったが、どうやらこの男性が『マスター』らしい。先程ルナさんがそう呼んでいた。
目つきの悪い男性は、私の自己紹介をなんともアンニュイな表情で聞いた。顔のパーツこそそれなりに整ってはいるが、やる気がなさそうで不安が増す。
その斜め後ろ、先程私の前にオススメの飲料の入ったマグカップを置いてくれたルナさんが背後霊のように立っている。トレイを持ったままで、メイドさんのような雰囲気だった。格好はちょっと地雷系って感じだけど。
「それで、どんな要件?」
「は、はい」
いろいろと不安だが、ここまで来て引くに引けない。
私は雑念を飛ばすように一つかぶりを振ってから口を開く。
「人を探してほしいんです」
「人をねえ」
冬根なる男性は眉を片方上げてからこう続けた。
「ちなみに春花さん、探してほしいのはあなたとはどういった関係の人なの?」
「えーと」
そう言われるとどう表現すべきか返事が難航する。
出会ってそこまで時間は経過していない。しかし私にとっては大切で、かけがえのない人。
心の支えにすらなっていた、心が通っていると思っていた人。
「多分、恋人です」
私が顔に熱を集めながら言うと、冬根と名乗った男性は口をへの字にしてから、
「ふーん。恋人ね。では春花さん、一つ提案があるんだけど」
「はい、なんでしょうか」
「ここはひとつ、その恋人のことをスッパリと諦めて、僕と恋仲になるっていうのは――」
――ゴン!!
さっきの倍くらいの音量で、背後のルナさんが冬根の頭をトレイで殴打した。
うわあ、ルナさん可愛い顔をして容赦ない。けれどもなんだかちょっと気持ちがいい。
どうして男の人ってこう軟派な人が多いのかしら。
「っててて……。ルナさんってば冗談通じないよねぇ。まあいいや、探すっていうのは具体的にはどうしてかな? いなくなっちゃったとか?」
頭頂部を自分で撫でる冬根に苦笑してしまいながら、
「実は、いきなり私のもとから居なくなってしまいまして。連絡も取れなくなって……何の前触れもなかったので、絶対におかしいんです」
「ふーん。愛想を尽かされた、という可能性はないのかな」
「ありません! 絶対にありません!」
叫んでしまって、冬根は目を真ん丸にして驚いていた。
ありえない。あんなにも想っていてくれたはずなのに。私に向けてくれたあの笑顔が嘘なはずがない。
「ま、まあとりあえず落ち着いて」
無意識に立ち上がってしまっていた私に、冬根は人差し指を下げて座るように促してくる。
鼻息荒く座ると、冬根は後ろのルナさんを一瞥してから口を開いた。
「失踪、みたいなことになると普通はまず警察に捜索願を出さないといけないと思うんだけど、それはもう出したのかな?」
「い、いえ……警察は、ちょっと」
警察……警察だけは信じられない。きっと何もしてくれない。
嫌なことを思い出しかけて渋くなっていたであろう私の顔を見て、冬根は不意に真剣な顔になった。
「うん、わかった。何とかしてみるよ」
「本当ですか!」
半信半疑だが、藁にも縋る思いとはこのことで、力になってくれるという意志表示だけでも私の心には目映い光が差し込んだ。
「まずは、その人の名前と詳しい情報をできる限り教えてくれるかな」
「はい。名前は『小泉優介』、私の一つ上なので二十二歳、仕事は……詳しくは知らないですけどバーテンダーって言ってました」
「住所は?」
「私の家です」
「同棲ね。んー、交際してどのくらいだったの?」
「三ヶ月です」
「三ヶ月……ねぇ」
何よ! 愛に期間は関係ないでしょ!
薄ら笑っているとまた怒鳴るわよ!
「うん、とりあえずわかった。春花さん、一つ確認するね」
冬根はキリっとした顔になってそう言った。真面目な顔をするとやっぱり結構整った顔である。
「なんですか」
「キミの依頼に対して、僕らは本気で動く。その結果、どんな事実が待っていても受け入れる覚悟はあるかい?」
「覚悟……」
どんな事実って、いったいどんなことが――ううん、春花。どんなことでもいい。
とにかく今は――
「はい。大丈夫です。もう一度会ってちゃんと話がしたいです。理由が知りたい。その為ならどんな事実も受け入れます」
たとえ、本当に彼の私への想いが幻想だったとしても。
私は真実が知りたい。
「わかった。それともう一つ。最終的にはきっと、春花さん自身が決めることになると思うから、その覚悟もしていてね」
「えっ……どういうことですか?」
「まあ要するに僕らはキミが進むためのきっかけにすぎないってことだよ」
得意満面な顔でそんなことを言われても良く意味が分からない
けれども、もしももう一度会えるなら私はどんなことでもする。
「わかりました」
私の決意が伝わったかはわからないが、冬根は真剣な顔のまま一つ頷いた。
「それで……依頼料としてマスターさんにこれを渡せって言われたんですけど」
私は水野先輩からマスターと名乗る人物に渡すように言われていたものを鞄から取り出して冬根に渡した。
渡された個包装の苺チョコを見て、冬根はみるみる顔のパーツが中央に集まっていく。
「春花さん、これ、誰から?」
「私の職場の先輩です。水野という名前なのですが……」
そういえば水野先輩はこの冬根というマスターとどういう関係なのだろうか。
水野先輩も昔この人にお世話になったとか? というかそもそもマスターって何?
まるで虫食いにあって穴の開いたシャツでも見るかのような目で渡された苺チョコを見る冬根は、鼻から大きく息を吐いてからこう言った。
「わかったよ。依頼料はこれでいい」
私の胸に安堵が広がった。
探偵事務所なんて利用したことがないので、どれだけの依頼料を取られるかも分からなかったからである。実質無料で得した気分、勇気を出して来てよかった。
とは言っても、この冬根というマスターがどんな人か分からない以上は安心はできない。
水野先輩の紹介という点は信頼できそうではあるけれど。
「とりあえず、進展があり次第連絡するね」
冬根はそう言って自己紹介時に私が書いて渡した電話番号のメモをパーカーのポケットにねじ込んで渋い顔をしている。
「は、はい。お願いします」
味の薄い期待を噛み締めつつ、立ち上がる前に私はルナさんが用意してくれたオススメをクイッと一口飲んだ。
瞬間、全身に稲妻が落ちた。
甘くて酸っぱくて痺れを伴う暴力的な味。もちろん悪い意味で。何なのよこの飲み物!
「あ、それもしかしてルナさんのオススメ?」
「う……な、んですかこれ」
「ははっ、春花さん面白い顔してる。なかなかの味でしょ?」
冬根は顔が歪む私を見てニヤニヤしている。
背後のルナさんもちょっぴり微笑んでいるように見える。
毒とか入れてないでしょうね!?
本当、いったいなんなのよこの事務所!
「失礼します!」
あまりの味に、事務所を出て帰る頃には建物内の恐ろしい雰囲気も全く気にならないくらいに怒りが渦巻いていた。
今、幽霊が出たら、八つ当たりで引っ叩いてやるわ!