妻付き物件
おまけが付いてくると嬉しい。女性とくっ付いているとあたたかい。不意を突いてくると楽しい。だからこの物件につい手を出した。今日一日がツイていればそれでいい。
お金が底をついてしまうと辛い。誰かが嘘を吐いてくると悲しい。ため息をついていると虚しい。不幸せを背負った悪霊が憑いてくると疲れる。それがなければそれでいい。
家具が付いている。家電が付いている。ロフトが付いている。庭が付いている。そして、妻が付いている。車で寝て、車で食事して、車で移動して、車を家替わりにして数ヵ月。この物件は、申し分ない。だが、内見は出来なかった。
深く考えずに即決。一度も部屋を見ずに即住。女性の顔も性格も全く知らないのに即夫婦。少しでも迷っていたら即孤立だから。
初めて家路につく。妻を愛する決心がつく。明かりが点く家に、僕は着く。
「お帰りなさい」
「ただいま」
結婚生活二年目の接し方。憧れの人を見つめる時の微笑み方。今まで見たなかで三本の指に入る髪の長さ。闇色の髪。小悪魔を演じるのが上手そうな顔かたち。そして、全身から溢れ出る幸せな空気感。妻は美しい。
中流家庭の部屋の広さ。女子高生が好きそうな色味と柄。生活に存在しなくても困らない家電の数々。優しさを振り撒く家具の軍団。100円ショップには売っていなそうな小物達。最高の部屋。
傷つけないこと。嫉妬させないこと。遅くに帰らないこと。それだけが妻と暮らすためのルール。ルールというか僕への警告。
「お食事もう少しで出来るから待っててね」
「うん」
出身地不明。というか日本人かさえ不明。職業不明。というか職業は物件の妻か。妻の名前もうろ覚え。曖昧。聞けない空気。もらった書類や送られてきたメールに書かれている妻の情報に目を通しておけば良かった。
荷物は車の中。服も日用品も寝袋も全部。まずは車から自分の部屋に荷物を運ばなくてはならない。その前に自分の部屋を確認する必要がある。玄関入って直進するとリビング。左側にあるのが妻の部屋。そして右側にあるのが僕の部屋と聞いている。扉を開ける。
「あっ、パパお帰り!ノックぐらいしてよ。いつも言ってるよね?」
「ごめん。あっ、パパの部屋どこだっけ?」
「パパとママは仲良しだから一緒の部屋でしょ?もしかしてボケた?」
「あっ、ちょっと荷物取りに車に行ってくるね」
「うん。ごはん出来たら呼びにいくよ」
「おう。分かった」
家具付きと聞いている。妻付きとも聞いている。だが、妻と以前から親しくしていたという設定付きとは聞いていない。演技付きとも聞いていない。妻と一緒の部屋とも聞いていない。初対面みたいな感じで妻との生活が始まると思っていた。不意は楽しい。でも嘘は悲しい。
携帯を見た。メールを見た。情報を見た。妻は広恵。歳は28。傷付きやすい。真面目。そんな簡単な情報しか書いていない。書類をあさる。あさり続ける。部屋が妻と一緒ということ。妻が演技をするということ。娘が付いてくること。娘が演技が上手いこと。それは何一つ書かれていなかった。
車のドアが数回叩かれた。大きな音がした。僕はビクッとなった。書類を掻き集める。急いで掻き集める。するとドアが開いた。
「パパ、ごはん出来たって!桃もパパも大好きな唐揚げだよ」
「おっ、そうか。楽しみだな」
「パパはやくね。冷めちゃうから」
指を掴まれ引っ張られる。小さな手で。あたたかな手で。やさしい手で。強い力で。幸福感が僕の足を進ませようとする。歩かせようとする。不信感が僕の足を止まらせようとする。踏ん張らせようとする。
悪い妻ではない。悪い娘ではない。最高の妻。最高の娘。世間でいう理想の妻。理想の娘。最高の家庭。でも、むず痒い。でも、受け入れる。ただ、幸せを噛み締める。
「いただきましょう」
「いただきまーす!」
「い、いただきます……」
「唐揚げいっぱい食べていい?パパとママの分はちゃんと残すから」
「桃ちゃんは好きなだけ食べていいわよ。あなたも冷めないうちに食べて」
「うん」
「美味しい。ママの唐揚げ一番好き」
「うん。美味しいよ」
「良かった」
左には娘。前にはテーブル。テーブルの上には豪華な料理。料理はカラフル。カラフルな料理の奥には妻。笑顔の娘と妻と食卓を囲む。
初対面だが、初対面ではない。本当の愛のように見えて、本当の愛ではない。本当の夫婦のように見えて、本当の夫婦ではない。本当の親子のように見えて、本当の親子ではない。
住むところが無いから決めた。車生活に疲れたから決めた。安いから決めた。お金が無いから決めた。優しさが欲しいから決めた。温もりが欲しいから決めた。これを逃したら後悔すると思ったから決めた。幸せになるために決めた。でも迷うべきだった。嘘はいらない。
嘘を吐くのが嫌い。嘘を吐かれるのが嫌い。嘘に付き合うのも嫌い。嘘は全て嫌い。嘘に関わるものは全て嫌い。僕はお金で嘘を買った。
求めていたのは自然な愛。求めていたのは誠の愛。演技の愛でも嘘の愛でもない。決める前に演技だと想像出来たはず。いや、妻付きとはそういうものだ。確認すれば良かった。よく確認すれば良かった。僕は欲が強すぎるのか?僕はわがままなのか?とりあえず我慢しかない。
「明日、三人でどこかに出掛けましょうか?」
「やったー。桃はね、遊園地に行きたい」
「あなた?それでいいわね?」
「明日は友達と出掛けるから駄目なんだ。ゴメンね」
「えっ、何で……」
「パパ、友達ってどういう人?」
「幼馴染みで今はOLしてる人だよ」
「女の人なの?」
「パパのバカ!家族の方が大事じゃないの?」
「本当の家族じゃないですし、僕達が会うのは今日が初めてですよね。好きじゃないんです、こういうの」
「ママが好きになった人だから、もっといい人かと思ってた。もういい」
「全部、私が悪いのよ。桃ちゃん」
「ママは悪くないよ」
「この人はいい人よ。私が全部悪いの。こんなやり方卑怯だもんね」
重苦しい空気。重みのある涙。くしゃくしゃの妻の顔。響く泣き声。威圧感漂う娘の視線。頭を飛び交う小さな疑問符。怒りは最小限に留まる。不意と嘘の関係性に頭を抱える。矛盾が蔓延る世界にもがき苦しむ。部屋へ逃げ込む娘。
「どういうことですか?」
「私はあなたのことを前から知っていました。そして前からずっと気になっていました。話したことはなく、擦れ違うだけでしたけど」
「僕のことを知っていたんですね」
「あなたの友達とは知り合いで、あなたのことを聞き出して性格も分かっていたので、このようなカタチにすれば夫婦みたいになれるかなと思いまして。こんなに上手くいくなんて思ってなかったんです」
「じゃあ妻付き物件を考えたのも、友達に物件を勧めさせたのはあなたなんですか?」
「はい。娘がパパのいる家庭に憧れていて。少しでもいいから幸せな家庭を味わわせてあげたくて」
「本当の娘さんだったんですね。でも僕は嘘が好きではないんです。安くて充実してる物件で、珍しさにも惹かれてつい手を出してしまっただけなので」
「桃ちゃんは家族三人で食卓を囲んだり、遊園地に行ったり、一般家庭では普通のことがしたかったんです。桃ちゃんは嘘でなくて自然体で理想を演じていたんです。私があなたを好きなことも嘘ではありません」
「そうですか。ここは持ち家なんですよね。僕は出ていきますね。家賃は一ヶ月分きちんとお支払しますので」
「普通に話しかけて普通に誘っていたとしたら、私と娘の相手をしてくれてましたか?してくれてませんよね?」
「してないかもしれないですね。実際に会話をしないと性格なんて分かりませんからね」
「桃ちゃんがもっと傷付いちゃいました。母親失格ですね。本当にすみませんでした。友則さん、大好きでした。さようなら」
「さよなら」
嘘は悲しい。別れは悲しい。悲しみは悲しい。悲しんでいる人を見るのは悲しい。。愛は悲しい。愛は儚い。悲しみは果てない。
いくつもの後悔が押し寄せる。あの物件を選んだ後悔ではない。迷わずに決めてしまった後悔でもない。嘘を買ってしまった後悔でもない。ほとんど住んでいないのにお金を払ってしまった後悔でもない。
それは自分のことしか考えていなかった後悔。それは幸せな嘘に嫌悪感を抱いてしまった後悔。それは妻と娘を傷つけてしまった後悔。それは娘に優しく出来なかった後悔。それは娘にさよなら出来なかった後悔。それは妻と娘を愛してあげられなかった後悔。そして家を出てしまった後悔。
愛が膨らんできてしまった今、頭の中に後悔しか生まれてこない。頭の中に娘の笑った顔はない。妻の泣き顔と娘の睨み顔は想像したくもない。逢いたくないという気持ちもない。また一緒に暮らしたくないという気持ちもない。それを伝える勇気もない。
違約金はなかった。でも二人を傷つけてしまった。傷つけないことがルールだった。僕に不動産屋の担当者が言う。
「備え付けの妻の方が相当傷ついておりますので、弁償か買い取りになります」
「あ、あの、どのくらいの金額なんでしょうか?」
「弁償が1000万円で、買い取りなら5000円になります」
「買い取りというのはどういう?」
「はい。妻の方がまだ好きだと言っておりまして、責任を持って大切にしていただければと思います。買い取った後のことは全て妻との話し合いで決めて貰えればと思います」
「娘は?」
「娘さんも一緒に住むことを望んでおりますよ」
「そうですか」
弁償は1000万円。買い取りは5000円。妻に値段は付けられない。娘の価値も計り知れない。
幸せはお金で買えない。愛はお金で買えない。未来はお金で買えない。お金が全てではない。愛が全てかもしれない。愛の影響は計り知れない。
「買い取ります」
「はい、5000円ちょうどですね。頂戴致します。ではこれをお受け取りください」
「あの、これは……」
「遊園地の一日パスポート3枚です。大人は2000円、子供は1000円となっておりまして、こちらからのプレゼントという訳では御座いませんので。私からということは二人には内緒にして頂きたいのですが宜しいでしょうか?」
「はい。ありがとうございました。」
「物件の場所は覚えていらっしゃいますよね」
「はい。しっかりと」
女性の家に向かうのは今日が二度目。前とは違うカタチ。入居者としてではない。夫としてではない。二人を愛する男として。
受け入れられるかなんて分からない。許してもらえるかなんて分からない。どう接していいのかも分からない。未来なんて分からない。人の気持ちは正直分からない。でも愛がある。
扉の前に立つ。チャイムを鳴らす。足音がする。息が漏れる。扉が開かれる。瞬間を待つ。嘘のない自然体で。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「パパ。お帰り」
「おう。ただいま」