シナモンクッキー
実家からの荷物が届くと、私はいつものように、他の中身を確認する前に、あるはずのジップロックの袋をまず探す。
そして、その中から、一枚のクッキーを口に放り込み、母に荷物を受け取ったことをメールで報告する。
続けて、クッキーをまた頬張りながら、中身の品々を確認する。
それらにもし、備考もしくは解説があれば、その後、母から電話が来る。
これが、実家から荷物が来た際の一連の流れだ。
母は、とても料理が上手な人だ。
洋食、和食に問わず、台湾料理やスペイン料理だとか色んなジャンルの料理をつくる。
普通、おふくろの味的なものは、煮物だとか味噌汁とかそういうものが出てくるのだろうが、どの料理も美味しくて、逆にこれといって、言えるものがない。
強いて、私が一つ選ぶなら、クッキーだ。
シナモンがたっぷり入ったクッキー。
もちろん母の煮物や味噌汁もおいしく、何度も食べたくなる味だ。
ただ、母のクッキーだけは、他で食べたことがなかった。
市販とも製菓店のとも、友人が手づくりしたものとも違った。
通常、美味しいと一般的にいうクッキーは、サクッ、ホロッという効果音が使われるが、母のは、カリ、パキッ(時々、ガリ、バキッ)という効果音が適切だろう。
硬くて、薄く、しっとり感とサクサク感が少ない。
こう言うと、本当に美味しいのか、と思われてしまいそうだが、こればかりは、実際に食べないと伝わらない。
甘さ控えめで、シナモンの風味が広がり、一度食べたら、ずっと食べ続けられる。
これに、ダークなココアパウダーを加えたチョコ味もある。
基本、甘さ控え目なお菓子が好きな私にとっては、これもまた好きなものだった。
世の中、もっと、シナモンとチョコの組み合わせの製品があるべきだと常々思う。
おふくろの味にお菓子を選ぶな、と言われてしまいそうだが、とにかく私は、母のクッキーが好きだった。
幼稚園の頃の夢は、クッキー屋さんだった。
他の女の子たちが、お花屋さんやケーキ屋さんになりたいと言う中で、私だけはクッキー屋さんになりたかった。
美味しいケーキ屋さんはいくらでもあるが、我が家ほどのクッキーは他にない。
これは売れる! と、幼いながらに可愛げのない私は考えたのである。
ここまで行くと、私はどんだけクッキー大好き人間なんだという感じだが、実を言うと、一番好きなお菓子は、モンブランでクッキーじゃない。
料理上手な流石の母も、モンブランを家でつくるという強行策にはでなかった。
父の好きなショートケーキはよくつくってたが。
モンブラン好きの私だが、沢山食べたくなるのはクッキーの方だ。
モンブランは一つで満足できる。
例えるなら、どんなに美味しいコロッケでも、そう何個も食べることはできないが、ポテチはいくらでも食べてしまう。
そんな具合だ。
これまで、母の料理をべた褒めしてきたが、実は母はかなりの面倒臭がりだ。
灰汁取りをしないのはしょっちゅう、料理の順番は適当。
分量は長年の勘。
ジャガイモを水にさらす姿は見たことがない。
クッキーと聞いて、普通の人がイメージするのは、綺麗な丸型や、ハートや星の形だろうが、私は、丸めてただ親指で押したことがよくわかる薄い赤血球のような形をイメージする。
しかし、型抜きを使うこともある。
何かイベントがある時や、人にあげる時は、型抜きを使う。
小4の頃、私は初恋をした。
同じクラスの男の子。
その年のバレンタインには、母にお願いして、一緒にチョコレートクッキーを作ってもらった。
少し、恥ずかしかったが、ちゃんとハートの型を使った。
結果はというと、まあまだった。
というのも、彼もクッキーを喜んでくれたし、私に対してもそういう好意をもってくれていたが、私の小学校では付き合うといった風習がなかったので、特に何も起きず、別々の中学に上がり、その恋は幕を閉じた。
中学でも、クッキーはバレンタインに大活躍し、友チョコや部活で大量にあげるのに便利だった。追加であげる場合も、タネさえ作り置きしておけば、すぐに作ることができた。
ここまで、私のクッキーエピソードを続けてきたが、しょっちゅう食べるようになったのは、むしろ高校からだった。
高校には、全寮制の学校に入った。
実家から送られてくる荷物の中には、毎回、ジップロックに入った大量のクッキーが必ず入っていた。
詰め込み過ぎて、綿がしっかり入った四角いクッションのような形をしていた。
大量なのは確かだが、毎度一週間足らずで食べきってしまう。
食べきった直後にまた食べたくなって、もうないことに軽い絶望を感じる。
しばらくその禁断症状を他のお菓子で紛らわし、収まった頃にまた、次の荷物が届く。
こうして、私は順調にクッキー依存症になったのである。
高2のころ同室だった子とは、食の趣味が合い、私たちはすぐにグルメ仲間となった。
休日は、気になるカフェを巡り、帰省したときは、地元の美味しいものを買ってきては、互いに自慢した。
春休みに二人で横浜で、赴くままにお店に入る食い倒れツアーなんかもして、いい青春の1ページを刻んだ。
そんな彼女は時々、私のクッキーをせびることがあった。
他の誰かにあげるのが少し勿体無い気がしたが、この美味しさを誰かと共有する喜びの方が強く、毎回彼女の要求に応じた。
それに彼女は味のわかる人だから、悪い気はしなかった。
受験期には、主にかりんとう、氷砂糖、母のクッキーが私のお供だった。
もちろん、コーヒー、紅茶も、必須アイテムだった。
ご褒美にクッキーを設定し、長時間の勉強のモチベーションを図ったりもした。
試験が近づくと母から、いくつかの合格祈願のパッケージをしたお菓子と一緒にクッキーが送られてきて、センター当日には、昼食の時間に、参考書片手に、クッキーをボリボリ食べた。
卒業後は、東京の大学に進学し、就職してからも、首都圏を出ることはなく、一人暮らしを続けていた。
その間も、時々荷物は送られてきた。
しかし、その仕送りは、入社2年ほどで、ぱったり止んだ。
母が死んだ。
突然死だった。
日常とは、突然、崩れ去り、心に陰りを落とす。
その瞬間がいつ来るかは誰にも分らない。
覚悟なんてする暇もなく、母はいなくなってしまった。
母の死からしばらくしたある日、思い出したようにふと思った。
あのクッキーが食べたい。
母のいない今、自分で作るしかない。
ネットでクッキーのレシピを調べ、記憶を頼りに作った。
しかし、シナモンを入れて、薄焼きにしただけでは、母のクッキーと何か違った。
その後も、試行を重ねたが、結局、母のクッキーにはたどり着かなかった。
長期休暇に入り、実家に帰省した。
今は、父が一人で住んでいる。
クッキーのレシピがどこかにあることを期待して、家の中を探した。
しかし、一向にレシピは見つからない。
そうだった。
あの人は、分量を適当に量る人だった。
しかし、その捜索活動で思わぬものを見つけた。
母の日記だ。
私の3才までの育児日記。
正直、意外だった。
面倒だと思ったらすぐ辞めてしまうような母の字でぎっしり埋まっていた。
なんとなくパラパラ斜め読みをしてみる。
母から直接聞いてはいたが、幼いころの私は今とは真逆のわんぱくで色々やらかすタイプだったようだ。
母は、私のことを、こいつは大物になる、と思っていたらしいが、ことごとく私は、母の期待を裏切って、平凡で淡泊な性格となった。
実は、私はこの性格になってしまったのは、母の性格の反作用のようなものだと思っている。
母の性格を一言で表すのは難しいが、あえて言葉にするなら、母は自由な人だった。
その性格を活発で行動力がある、といえば聞こえはいいが、それに振り回された人間は少なくない。
それを見て育った私は、自分は人様に迷惑をかけまい、と心がけ、現在に至る。
しかし、母のような性格に、内心、憧れていたのも、また事実だ。
日記の中には、それなりに面白いエピソードがあったが、ここで話すのはやめておく。
3年目にはいると一つのワードが目に入った。
クッキーだ。
こんな時から食べてたのかと思うと、少々、自分でもあきれた。
よく読むと、そのページは、クッキーを私と作った時の話だった。
容量を得ない2才の私はクッキーの形成に手間取り、タネの温度が上がってバターが溶け、ベトベトになってしまったらしい。
数ページめくると、クッキー作り再挑戦の記録があった。
今度は、時間が経っても大丈夫なように、通常よりバターを減らしてみたらしい。
ここで、ようやく謎が解けた。
母のクッキーの秘密。
私が母のクッキーをなかなか再現できなかったのは、バターの量の問題だったのだ。
よくあるレシピ通りではなく、幼い私と一緒に作れるようにアレンジされていた。
気づいたら、ポロっと紙面に一滴落ち、あわててそれ拭いて、日記を閉じた。
何というわけではない。
ただ、知っただけだ。
あのクッキーが生まれた理由を。
ただ、その事実を知っただけ。
けれど、その事実はとても優しく、温かかった。
不意にきた久しい温もりに心揺らされてしまったのは、言うまでもない。
この話はフィクションですが、バターを少なめにした厚みの少ないシナモンクッキーは、本当に美味しいです。ぜひ、一度作ってみてください。