乙女の貞操
2017/05/03 誤字脱字を修正しました。
梨を食べて、一晩寝たら『恋の流れ』が見えたの。
やっぱり駆け落ちなんてできるはずもない。柊の君の方もする気も無い。白梅の君の占いの言葉通りに、東宮妃入内に私の運命は決まっていたのよ。必死に理想の夫探しをしていたのが愚かに見える。
思えば、どれだけこの初恋に振り回されてしまったのか。初恋に惑わされて舞い上がっていたのだわ。
もう一度だけ柊の君にお返事した。もしこれで恋の戯れを終わりにしてくれたら、こんなに辛くは無いのだけれど。
『もう戯れの恋は終わりです。あなたを全て諦めました』
その日の内に、またお文がコッソリ届いた。いつも不思議に思うんだけど、なぜ、ここまでお文が届くのかしら? いったい誰のツテよ?
『諦めないで下さい。どうしても伝えたい事があるので、もう一度会いに行きます』
来ないでよ! 決心がついちゃったじゃないの! どうして普通の恋にならなかったのかしら?
次の新月の晩に柊の君は来られるという。本当に強引で無茶な方。明かりの中にいてはならない、隠れた恋に相応しく、新月の闇夜に会いに来るのね。
久しぶりに山吹の君が部屋を訪れてくれた。少し機嫌が良い。どうしたのか尋ねると、成人の儀の日取りが決まったという。
「姉上の女御様のご懐妊や、四の姉上の騒ぎでなかなか話が進まなかったんだけど、ようやく内々にだけど官位もいただけることが決まったんだ。子供ながら、よく働いたねって褒められた。これで僕も大人になって、宮中の変なお遣いから解放されるよ!」
「良かったわね。おめでとう」
私の気の無い返事に、山吹の君は心配顔になった。一緒に大喜びしてくれるものと期待していたのね、ごめんなさい。
「……姉上、どうされたの? 入内が決まったんでしょ。良かったじゃないか! 光栄なことだよ! 入内しても、宮中では悪口や陰口で、針の筵のような気がするかもしれないけど、大丈夫、お強い姉上なら跳ね返せるよ!」
「褒められたと受け取っておくわ。それに、そんなことは全く気にしていないわ」
「本当に? 普通、とっても気にするところじゃない? 相変わらず、のんびりと言うか、気楽だね。頼もしいよ」
悪口や陰口なんてどうでもいいの。だって私は天下の右大臣家の姫よ。姉上の女御様の様に一睨みで黙らせてやるわ!
ご機嫌の山吹の君には悪いけど、成人の儀の前に一波乱起きるかもね。
「姫様、真面目なお顔して、何を企んでおられるのですか? どこにお文を?」
とても心配顔の小雪に、たった今書いたばかりのお文を二つ渡す。中身を読めないように露草に結んで。白梅の君と紅葉の少将の君宛だ。
これまでお世話になった方々への、入内前の単なるお礼状よ、とニッコリ笑ってみせた。小雪は疑いの眼だ。何を勘ぐっているのかしら。
柊の君の事を考えていたら、いつも以上に、ぼんやりのんびりしてしまったようね。ますます小雪に心配を掛けたみたい。
その日から、何故か私の周囲から刃物が消えた。小雪が隠したようね。誰も髪を切って無理矢理出家なんてしないわよ。今更するくらいなら、宮中を退場した時にしているわ。余計な心配よね。
新月の日になった。いよいよ今夜なのね、ドキドキするわ。私も上手くいくことを祈る。
心なしか邸全体がそわそわとして落ち着かない。それもそのはず、姉上の女御様のご出産の準備や、山吹の君のめでたい成人の儀の準備も始まり、私の入内の支度もある。……父上、今年は総額で莫大な支度金が掛かりますね。お子様のために大変です。
なぜか突然、百合姫が訪問の是非を問うこともないまま、先触れだけを寄越して右大臣邸に現れたわ! 何しに来られたの? 来るなんて、聞いてないわ! まだ舞いたくなるには早いのでは?
表向き宮家の姫であられるので、御簾内の几帳越しに対面したけど、何やら扇越しの目つきが厳しいわ。
「百合姫様、親友の私達の間柄とは言え、また突然のご訪問ですわね。いかがされました? 新東宮が立たれて、世間(桂木の君)はお忙しいと聞いておりましたが? もう、鬱憤が溜まられましたか?」
「いえね、こちらの姫君が、何やら妙なことを企んでいると聞かされましたの。とある筋からお止めしてしてほしいと、泣き付かれました」
百合姫に余計なことを頼み込んだのは小雪かしら? 出過ぎよ! と、きっと睨みつけると、視線を反らされた。外腹生まれとはいえ、宮家の姫? に小雪が頼み事をできる訳がないから、恐らく父上が関わっているのだわ。
それにしても、百合姫、いつの間にか我が右大臣家で絶大な信頼を得ておられるのね。恐ろしいお方。
「まあ、百合姫も何をご心配されているのやら。私は何もしませんのに」
「あなた様は前も『何もしない』事で、大事を引き起こされましたからね。ある意味、楽しみにしておりますのよ。……ただ、皆様がご心配されているようですが、引き裂かれる初恋に悲嘆のあまり、ご出家をされる気ではありませんよね?」
「まさか! 出家する機会はこれまでにもありましたけれど、現世に未練が有り過ぎまして……」
まあ、ほほほ、と『女同士』の腹の探り合いをした。本当に女性だったら、宮中にでも上がられて、好敵手になられたのに。とても残念ですわね。
百合姫が私を見張ると言うのは本気らしい。私が悲嘆のあまり死ぬとでも思って心配しているの、小雪? 新月とか満月って、何か事を起こしたくなるものだから?
静かに日が暮れていく。百合姫と過ごせたのは良い気晴らしになったわ。一緒に夕餉を食べたり、宮中の女官についておしゃべりしたり。でなければ緊張のあまり、そわそわしてしまっただろうから。いえ、しているけど。
それにしても、百合姫、いつまで他人の邸に居座るおつもり?
え? 男の桂木の君は夜遊びしていると思われるだけだから大丈夫ですって? いえ、姫君が暗くなるまでいることが不自然では? 泊まることになっている? どれだけ自信がおありか分かりませんが、正体がバレても知りませんよ!
私の何がそんなにご心配なの? 死んだり、出家したりはしないと言っておりますわ、だから、もうお帰りになられたら? と何度もお勧めするが、うんとは言わない。どうなっても知らなくてよ!
不意に、邸の別所で仕える女童がやって来て小雪に耳打ちする。慌てた小雪が、側を離れることを詫びて、女童を連れて部屋を出て行ってしまった。何があったのか……。
「私がお側にいるためでしょうか。女房が誰もいなくなるなんて……。あまりにも不用心ですわ」
「元々、私に使える女房は少なく、今はご懐妊やら入内やら成人の儀やらの準備で、忙しいのです」
「もし、私が殿方と知っていたら、姫君と二人きりなんてさせないでしょうに。闇夜に邸の薄明りの中、とても危険ですよ。誰にも遮られることなく、こうして可愛いあなたのお手を取れる……」
すっと、二人を隔てていた几帳に百合姫は身を寄せ、私の手を握って甘い『男声』で囁いてきた。
簀子の軒先につるされた数少なく弱い釣燈籠の灯。庭からは奥ゆかしく恋の歌を奏でる鈴虫の音。御簾内では一つしかない燭台の明かりの中で、几帳越しとはいえ二人きり。
「四の姫様と私の間には、隔てる物がないと感じているのです。ありのままの心で向き合える……。入内がお決まりになっていなければ、今ここであなたに妻問いを……。そう思うのですよ」
ああ、これが噂に聞く爽やか桂木の君の口説きなのね。お声は甘いけど、迫り方が重くはないのよ、どこまでも清純な爽やかさがあるわ。
でも、急に何を考えておられるのかしら? 呆れてしまう。とても女心がときめくはずだったわ、普通の殿方がお相手なら。
もし狩衣姿の桂木の君に言われたのなら、他人からは恋人との逢瀬と見られるわね。でも、私より美しい天女が、私に甘えて縋っている図にしか見えないの。何か女として、腹が立つんですけれど!
「お美しい天女が縋っているようにしか見えませんことよ。それにこの暗がりでは、誰がどちらの姫に妻問いをされているのか、他人が見たら分からないでしょうね。とてもお美しい姫君ですもの」
「ああ、この姿ではそう見えてしまいますわね、やはり……」
何、扇の陰で顔を赤らめて、可愛らし気に恥じらっていらっしゃるのよ。美しい姫と褒められて嬉しいんですよね! 最近、女らしいお振る舞いにますます磨きがかかったご様子です。我が家で場数をお踏みになって、洗練されてきたのですね。
もはや我が邸の誰もあなた様を殿方だなんて疑ってません。
「姫様と私なら、末永く深く分かり合えると思っておりますが、男と女で夫婦になれないのが非常に残念です」
「女同士の親友にはなれたではありませんか。いつでも何でもおっしゃって下さいね。それに、私達二人では、どちらが妻の立場になるかで困りますわ」
「そうですわね、姫様は下手な殿方よりお強いお心をお持ちですから」
ちょっと! 何でもおっしゃってとは言ったけど、最後のお言葉は褒めていないわ! 人を強者の様に言わないで、天女の姫君! どうせ姫君らしさで、私は負けているわよ。
「お怒りにならないで。あなたはとても可愛い方ですわ。本当に可愛い方……」
美しい男の天女に慰められても、傷ついた女心は癒されなくてよ。
でもしばらくの間、男と女ではない二人の末永い友情の証に、何も言わずそっと手を握り合ったまま鈴虫の音を聞いていたの。
そんな妖しい女の世界を繰り広げた後だった。ぱしん! と扇を閉じる音が御簾の外から聞こえてきて、誰かがそこにいることを伝えてきた。
御簾越しに見えるのは、弱い釣燈籠の灯で作られる妖しい狩衣姿の影。柱に背を預けて腰を下ろし、肩越しに御簾内を伺っているわ。灯の作る影は薄いのに、肩が広いのが分かる。
いやだ、胸がドキドキと拍動しているわ。
「四の姫君、お約束通りあなたに会いに来たよ。今宵こそは、あなたに私の全てを知っていただく……。そして、あなたのお気持ちを聞かせてもらうよ……」
来た! 柊の君だ! 新月の暗がりで御簾内がよく見えないのだろう。百合姫がいることに気付いていないらしい。
困ったわ。百合姫も気を利かせて奥にでも場を外しなさいよ!でも出ていく様子はない。
ん? 心なしかカタカタ小さく震えておられる? 殿方のくせに、すっかり怯えて動けないのかしら? そう言えば、初めて会った時もそうでしたわね!
殿方の声から逃れるように身を小さくして、扇で顔を隠しつつ酷く怯えた様子で、私に縋るように身を寄せてきた。どっちがか弱い怯えた姫よ! あなた、本当は殿方でしょう? 殿方が忍んで来られたくらいで腰抜かしてどうされるの? よくこれまで宮中でお勤めがお出来になられましたわね。
しようがないから百合姫を隠すため、とっさに一つしかない近くの鉄製の燈台に立てられていた蝋燭の弱い灯を消す。天女の親友が殿方だなんて、柊の君に気付かれる訳にはいかない。
「姫、お返事は? 隠れるなんて、いけない子だ」
小さくなって震える百合姫の存在にあわあわしてお返事できずにいたら、御簾をからげて柊の君が入って来てしまった。
優雅な足取りで余裕たっぷりに静かに近付いて来る。身を寄せ合うしかできない姫? が二人。
そんな私たちの気配を探りながら、柊の君は甘く囁いてくる。
「さあ、私の傍においで、可愛い姫。二人で楽しい昔話をしよう。今宵、私達の中に隔ては無くなるよ」
ひぇ~、先程の女の友情を誓った言葉に似ているのに、どうしてこうも漂う色気が違うの? 桂木の君の爽やかさから一転して、包み込むような濃密な甘さを含んでる! 怖いわ!
「や、止めて、近寄らないで! 困るのよ!」
天女の桂木の君のため、私はなんとか柊の君が近づくのを思い止まらせようと、几帳の影から柊の君にお願いしてみた。
桂木の君、逃げて、奥の部屋に逃げるのよ! 今なら側仕えが身を引いて、別室へ移ったと思ってくれるわ。その正体がバレたら終わりよ! ダメだわ、もうほとんど床に蹲って動けないみたい! 本当にか弱い深窓の姫君ね!
柊の君から返ってきたのはクスクス笑い。お願いを本気にしていないみたい。しようがないわ、私が違う所へ移動すれば、きっと柊の君は私を追いかけてくるはず!柊の君と話をするのは、二人きりになってからにしましょう。
柊の君を天女から少しでも引き離そうと、私は几帳から離れた。でもそれがいけなかった!
「可愛い声は聞かせても、几帳の陰に隠れて、私を焦らす気かい? 悪い姫だな。また、お仕置きが必要かな?」
暗がりの中、大きな体がそっと腕を伸ばし、几帳の傍で小さくなって怯える体を捕まえ抱きしめた。
「ん? 姫? 体が大きい? でもお声は……」
ゴソゴソ、シュルシュルと絹の滑る音がする。柊の君! ちょっと、あなた、いきなり何をされているの? 私に何をする気だったの! 私の目の前で止めてよね!
「いや~! いや、離して! ……離せ!!」
絹を引き裂くような、若い男の甲高い悲鳴が右大臣家に響いたわ!! まさしく、天女の君の乙女の貞操が掛かった、心からの叫びね!