まさかの災難
2017/05/03 誤字脱字を修正しました。
せっかく今日、山寺で開運、恋愛成就の祈願をして来たのに? 寄進だって沢山したわ! 神仏のご加護は?
どうしてここは、この部屋はこんなにも静かなの? まだ夕方よ? 他の女房や、警護の家人だっているはずなのに。小雪はどこ? どうして傍にいないの、私の女房のくせに!
仮にも右大臣家の姫や若君が宿泊するからと、わざわざ手配した知り合いの別邸。大きなお邸ではないけれど、手入れがよく行き届いていて調度品も上品な物がそろっていた。
通された部屋は、静かで馴染みやすい雰囲気がある。昨夜泊めていただいたお寺の荒れた別棟に比べれば夢のよう。目的の山寺からは少し離れてはいたけれど、古くて狭いお寺の宿に泊まるよりはずっと楽だわ。
どなた様のお邸かしら、と尋ねさせてみれば、とある宮様の隠居所になる予定の所だと言う。そんなお方のお邸なら安心ね、なんて考えていたのが愚かだったのよ。決して油断していた訳ではないのに。
逃げ出したいのに、大きな体が私の表着の袿の端上に乗り掛かり、その重さで俯せで這いずることも出来なくなっている私。
相手は余裕たっぷりの様子で迫ってくる。薄暗い灯の中、狩衣姿の妖しい美しさに、反って恐怖が湧く。
「男を焦らして、待たして、いたぶる。本当に悪い姫だ……」
「何言っているのよ! 離しなさい! 一体、私を誰だと……」
右大臣家の名が効くかは分からないけど、精一杯、虚勢をはって振り向き睨み付ける。でも、やはり涙目では効きめがあるはずもなく、ニヤリと笑い返された。整った容貌なだけに、妖しい笑みだ。
そう、不埒な鬼が、また私の前に現れたのだ。旅先の警備厳重なはずのこの別邸に。あり得ない!
誰か、助けて! 白梅の君の沢山のお札も不埒な鬼には効かず、鬼に会いたがっていたくせに肝心な時にいない紅葉の少将。桂木の君はか弱き天女だし。誰も頼りにならない!
いっそのこと、袿を蝉の抜け殻のように脱いで抜け出ようかしら? 内着の小袖に袴だけでは身を護る物が減って、それも危険?
「四の君は、泣き顔まで可愛いのは変わらないな……」
恐怖に駆られて、なりふり構わず扇やら腕を振り回して暴れてみたけど、その腕ごと抑え込まれるように、正面から抱き締められてしまった。
「やっと捕まえた。本当にずいぶん待たされた……」
大きな手が広い胸にそっと私の顔を押し付ける。
もうダメよ。こうして無理やり力強くで、私の人生は無茶苦茶にされるんだわ。橘の宮様と同じく、またもや、殿方の都合で!
相手の狩衣を濡らしてやる勢いで、相手の胸を叩きながら私はワンワン泣いてしまった。
「……済まない、また怖がらせて。つれない姫にちょっとした意地悪のつもりだった。これ以上は、何もしない」
気が付くと、幼児を慰めるように座って膝に抱かれ、大きな手は私を押さえつけているのではなく、優しく私の頭を撫でている。
頭上から優しくも寂しそうな声が降ってきた。
「なあ、本当に私が分からないか?」
泣いてスンスンと鼻を鳴らしていた私は、何となく落ち着いてきた。だって、私を撫でている手が優しいから。
「兵部卿の宮家に出た鬼……。私の首に噛みついた……」
「噛みついた鬼とは酷いな、ハハ……。私は鬼ではないよ。……それだけ? 覚えているのはそれだけか?」
ふと、狩衣に焚きしめられてる、覚えのある上品な香りに気が付く。これは、あるお文に焚き染められていたものと同じ? 何か、記憶の底に在って、嵐を呼ぶような香り。
「……あと、名乗らずに意地悪な(ツンツンの)柊の文を送ってくれた方? 葉が一枚の?」
「それも、正解だけど。……あのお返しの文で、姫はもう一度やり直せ、って伝えてきたね? だからやり直しに来たんだが……。また泣かせてしまったな」
「怖くてたまらなかったわ。意地悪よ。もっと普通にできないの?」
また睨み上げてみたけど、大きな鬼に抱えられてるのでは様にならない。小さな姫が駄々をこねているようよね。
「今、ゆっくり進める余裕が無い。それに姫は、一番に求婚の声をかけた私を差し置いて、陰陽師の君や紅葉の少将の求婚を許していると聞いた。本当に私をいたぶるのが上手な、酷い姫だ」
「だって、橘の宮様と破談になったのですもの、夫となる殿方を探さなければ、尼になるしかないわ。それに、あなたのことは、私を食べようとする鬼だと思っていたの」
柊の君は何故かハハハと笑い、私を優しく抱きしめる。でも、もう怖くはないわ。
「てっきり私を思い出してくれていると思っていた。でも、その様子では私を忘れてしまったんだ」
「お会いしたことあったかしら? 宮中ではないわよね。宮中に上がる前の右大臣邸では、殿方にはお会いしていないわ。もっと昔?」
「あんなに『仲良く』過ごしていたのに。……でも四の君は怒っては泣いてばかりいたかな? どちらの様も可愛らしくてね……」
薄暗い部屋の中、妖しく寂しそうに私を見つめるけど、『仲良く』なんて言うほどの人は、子供の頃の白梅の君ぐらいしか覚えがない。
「大事な事を忘れて、無邪気に貴公子を振り回す悪い姫。鬼のお仕置き、受け取って?」
妖しくも美しい顔が間近に迫ったかと思うと、柔らかくて温かいものが私の唇に押し当てられた。それはどのくらいの間だったのか。何が起こったのか理解した途端、私の顔も頭も、火が付いて燃えたように熱くなった。顔が真っ赤になったと思う。
「これで悪い姫は私のものだ。もう、他の貴公子の求婚を受け入れてはいけない。私だけを見るんだ。でなければ、また、お仕置きするよ」
「な、な、何を……? お仕置き?」
私を強く抱きしめる鬼の柊の君からの衝撃の求婚に、理解が追い付かず頭がクラクラと。ああ、気のせいか床を力一杯踏み鳴らすような、ドスン!ドスン!と言う音まで、身体に響いてくるの。ああ、ドスン!ドスン!が響く。何度も何度も。
「おおっと、お守がうるさいな。今度までには、思い出すんだよ。泣き虫姫、ではまた」
「思い出す?あなたを?」
にやり笑いを残して柊の君は私からそっと離れると、風の様に部屋の外へと消え去った。部屋は静まりかえる。
どのくらいの間、私はその場で呆けていたの? 心配顔の小雪に軽くピシャリと両頬を叩かれて、やっと視点が合った。何かもう、先程のことは夢だったんじゃないかしら? あら、小雪が目の前で手をヒラヒラさせているわ。
「あの、姫様、まずはこの水をお飲みいただけますか? 私が申し上げていること、お分かりになります?」
「……はい、飲みます。……ねえ、小雪、私、目を開けたまま眠っていたらしいの。横になりたいわ」
「その方がよさそうですね。……これをゆっくりお飲みになって、そのまま全部。……はい、ではお休みになりましょうね」
小雪が寝る支度をしてくれた。幼子にするように。さらに頭をよしよしと撫でてくれた。
衝撃が強すぎて、何も考えたくない。まずは眠ってやり過ごそう。
翌朝、お文が届いていた。朝顔の花が添えられている。
『夕べしおれていた朝顔は、今朝は元気に咲きましたか?』
読んだら頭が熱くなって、顔は紅くなって。翌朝の文なんて、まるで結婚初夜の後に送られる後朝の文みたいじゃない。小雪が誤解するからやめて、意地悪よ。
『露を帯びて咲いています』とかなんとかお返事した気がする。小雪に返信の文を渡したけど、何も言わなかった。
「で、あっさり陥落されたと。思い出して、なんてずいぶん古臭い手に乗せられましたわね。それとも本当にお知り合いですの?」
参詣から戻って、数日後、約束通り見目麗しい『天女』の桂木の君が、百合姫として遊びに来た。やっぱり誰も止めない。なぜ? 扇で隠しているとはいえ、お背も高いし、声だって女性のものじゃないのに、誰もが宮家の姫としか思っていない。
几帳越しにも分かるほど私が真っ赤な顔しているので、興味深々に厳しく詰めてきた。慣れた姫言葉で。
絶対に秘密にしなければならない事ほど、誰かに相談したくなるのは何故かしら? それに桂木の君でもある百合姫なら、男女どちらの気持ちも分かると思うの。
だから女房達を遠避けて、(一応)几帳越しにヒソヒソと誰にも聞こえないように、小声で相談してしまったわ。絶対に他言無用と、お互いの秘密をかけて約束した。
「思い出せないけど、大切な事をお約束していたらしいの。ちょっと意地悪なところがおありだけど、無理強いせず、優しくもして下さったわ」
扇を持っていない右手の指が、思わず『の』の字を繰り返し床に書く。恥ずかしさを持て余してしまうの。
「真っ赤な顔して、嫌ね。これが姫様の初恋ですわね。二大貴公子の、筆頭である桂木の君(私)や、次点の紅葉の少将には全く心動かされたご様子はありませんもの。会っただけで惚れるなんて、きっと美形なんでしょう」
「お背が高くて、整ったお顔立ちでしたわ。それだけにこの世の者とは思えず、怖くもありましたけど。……恋、なのね……」
「ここまでのろけておいて、今更何をおっしゃるのか。のんびりな姫様よね。まあ、お相手も、本気とは思いますけど、正体不明なのが大問題です。正体不明で何故か届くこまめな文に、出掛け先の厳重な警備を二度も掻い潜って会いにこられる。……この『初恋』に作為的なものを感じるのは、私の勘繰りでしょうか? ご注意下さいね」
百合姫は、これが私の『初恋』であると言われるのね。男心と女心をお持ちの百合姫のおっしゃる事だもの、きっとそうなのよ。だって物語のように胸がドキドキするもの。橘の宮様には感じなかった気持ちだわ。
後半の戒めは耳には入らない。もっとよく聞いておけば良かったんだけど。
「初恋、だなんて……」
扇の陰で恥ずかしさにモジモジとしていたら、百合姫が呆れたようにため息をつく。
「聞いておられます、姫様? 新東宮が立たれて、世の中、目まぐるしく動いておりますのよ、四の姫様はご身分上、お振舞いにはご注意された方がよろしくてよ。いくら世間を気にしないのんびり姫でも限度がございますからね」
百合姫の心配は、もっともでありがたい。なぜなら、私が下手なお相手と縁を結ぶと政治の流れが変わり、右大臣家にも問題が生じる可能性もあるからだ。姉上の女御様がお産みなれるお子様もおられるし。いっそ尼にでもなれば良いのだが、私にはまだその気はないし(のんびりですからね)、父上も無理には勧めず、右大臣家にとって都合の良い縁談を探しているようです。
先日ようやく新東宮が正式に立たれた。占いで吉日を選んだり、何だかんだと手間取っていたらしい。そう、それまでは橘の宮様と同様に、あくまで東宮候補でいらしたのだ。
実は帝が先帝から帝位をお継ぎになられる際も、次の東宮に誰が就かれるかで大いに揉めた。何故なら、当時、橘の宮様は私と同じ7歳であられたのだが、生まれた時からとにかくお体が弱く、寝込んで高熱を出されては呼吸困難で何度も生死の境を彷徨い、東宮位は無理ではと言われた。
東宮になられる前に、諸卿の姫が輿入れしても子供の頃に死なれては、未来の東宮となる御子も無いまま無駄に終わる。よって誰もが無理には姫と結婚させず、様子見の状態が続いた。
東宮を決めようと揉めるたびに、次点の候補に挙がるのが今回の新東宮様だった。病持ちの先帝は位を譲られる前にご自分の御子を推薦され、新帝もたった一人の御子である橘の宮様を東宮に推薦される。各派閥が後見について大騒ぎになったそうだ。
そのとき大胆な折衷案が出た。『それぞれの親王が成人されるまで、ワシがとりあえず東宮になる』と気軽に挙手された恐れ知らずの宮様がいたのだ。
当時のご年齢が既に75歳。もう足腰がよろよろされて、『もういつ死んでもいい』が口癖だとか。
先帝よりもお年上!(誰よりも先にあの世へ?)と誰もが思ったが、決着がついたら未練なく東宮位を譲り出家すると言われた。御子もご正妻様も先立たれていない、ほとんど出家されているような方だった。自分が邪魔ならいつでも殺せばよいと、にこやかに微笑まれた豪胆な方らしい。
親王が成人される前にあの世へ?と心配されたが、とりあえずは病知らずの方だった。
しかも、この大胆な問題の先送り案は、通ってしまったのだ。信じられない黒歴史として、公式記録からは消える予定らしい。
以来十年、年寄りの病弱を理由に、東宮としてのお仕事を(元気な時だけ)橘の宮様に代行させることで、橘の宮様の東宮候補としての地位は、奇妙な方法で守られた。
そして、右大臣家の四の姫たる私が関わる。橘の宮様も寝込むことが多いとはいえ、成人の儀を無事迎えられ、ある程度ご健康にもなられた。もう大丈夫だろうと、女御候補の姫達との結婚の話が進み出してはいた。そして、まずは(さんざん待たされて)最年長(17歳)である右大臣家の姫たる私と結婚すれば、正式な後見を得て、橘の宮は東宮になられるはずだったのだ。
咲耶姫との純愛のため、橘の宮様を守るこの十年間の問題先送り法は、無駄に終わってしまった。
「私は既に宮中で大恥をかいた身。無難な夫を得てお邸に引っ込んで、世間には関わらずにいるつもりですわ」
「大恥をかいた身であるとおっしゃいながら、世間知らず過ぎて、まったく堪えておられぬご様子。好きなように過ごされている、のんびり姫様、上手くいけば良いのですが、心配ですわ。親友として心配しておりますのよ」
几帳の陰にいる呑気な様子の私を見て、扇の陰で百合姫は、深いため息をついた。そして元気づけの災難除けと無理矢理の理由を述べて、鬱憤晴らしの天女の舞を披露された。その麗しいお姿に感動した女房達から称賛の声を掛けられ、満足されてからお帰りになられた。
なまじ男君の桂木の君として宮中に関わっておられるから、ご心配事が多く、鬱憤が溜まるのではないかしら。反対に私の方が心配してしまうわ。
でも、麗しい天女の舞は災難除けにはならなかった。翌日、新たに届けられた柊の君からの文をコッソリ読んでいたら、『災難』はやって来てしまったの。
「新東宮がどうしてもとお望みなので、四の姫、そなたを東宮妃として入内させることが決まった。信じられないが、本当だ」
父上が、この世の不幸を一身に背負ったような沈痛な面持ちで、私に告げた。
私は悪役姫として宮中から退場したはずなのに!?
始まったばかりの初恋、柊の君のことはどうしたらいいの?