悪鬼降臨
少し長くなってしまいました。2話に分けるには収まりが悪いので、申し訳ございません。
2017/05/03 誤字脱字を修正しました。
ドタタタッ!
軒先の釣燈籠の淡い灯に照らされる薄暗い簀子を誰かが走って来た!
「誰だ!?」
橘の宮(もう様付けしないわ)、誰だなんて、決まっているではないですか! 愛しの乙女を救いに来て下さる方よ。
もちろん、そうよ、あなたなの! 絶対来て下さるって、信じてた。ちょっと間に合わないかも、とチラリと疑ってしまったけれども。でもでも、頼りになるお方だってことは分かっていたもの、柊の君!
一瞬、驚きのあまりか、私の髪を掴む橘の宮の手の力が緩む。引っ張られていた頭が、楽になって助かったわ!
突然現れ駆け寄って来た者に驚き、膝で私を押さえつけていた橘の宮は、対峙する態勢に向き直すのに遅れが生じた。その僅かなためらいの間をついて、柊の君が橘の宮様に駆け寄りそのまま跳びかかった。
ぐふっ!! 背中に乗って押さえつけていた重しが、いきなり二つに増えた。重苦しくて、ちょっと呻いてしまった。
でもすぐに柊の君が、体で押し退けるようにして私の上から二人そろって転がり落ちてくれた。
髪からも手が離れて良かった。女の命は守られたみたい。助かった!
私から離れたお二人は、共に膝立ちのお姿で、小太刀を奪おう奪われまいと、力を込めて握り締め引き合っている。若干、柊の君の方がお力が勝っているご様子で、橘の宮は苦しそうに歯を食いしばって耐えるのに精一杯のよう!
お二人、お顔を寄せて厳しい眼差しで睨み合っている! ……こんな時に不謹慎だけれども、美形同士が間近で鋭い視線を交わすお姿って迫力があって、絵になるわね!
ドンッ! 橘の宮が簀子に突き倒された! ……小太刀は!? 柊の君の手にある! ホッとしたわ。
少しの間、力比べが続いたけれども、やはりお体が大きくて逞しい柊の君に、細身の橘の宮では敵わなかったのね。病がちであまりお体を鍛えていない橘の宮は、力比べに疲れたのか、少し息を乱している。
柊の君は、取り上げた小太刀を簀子の外、庭へと投げ捨てた。血を見ずに済みそうで良かったわ。怖いもの!
「これ以上、無体な真似は止められよ、橘の宮!」
「あなたは、いつも私の邪魔ばかりする! 私の望むものを皆全て奪っていく!」
悔しそうに唇を噛み締めつつ、橘の宮は柊の君を憎々し気に見つめる。と、突然、跳ね上がるように立ち上がって、今度はその華奢なお体で、柊の君に猿の様に襲い掛かったわ! たった今、力比べで負けたばかりなのに無謀な!
よっぽど悔しいのね、息切れしつつ細い腕で襟元を掴んで揺さぶろうとしているけれども、あっさり振り払われ、再び床に転がされた。
きゃあ! そこへ怒りに目を細めて見下ろす柊の君が、止めとばかりにお体に蹴りを入れたわ!
やだ、もの凄い痛そう! うぐぐ……、と橘の宮はお腹を抱えて呻いてる! ざまあみろ、と言ってやりたかったけど、ちょっとこれはお気の毒かも……。
柊の君、紅葉の少将以上に、結構気性がお荒いのね。生まれて初めて間近で見る殿方の諍いは、迫力満点で激しく、私もちょっと怯えた。
「お二人とも、そこまで! 引かれなされ!」
貫禄ある凛とした殿方の大声が、響いた。
その声に固められたように、柊の君、橘の宮の動きが止まる。
「おじい様……、なぜここに?」
橘の宮が苦しさに呻きながらボソリと呟く。
「……そこの庭に控えておられるお二人も、こちらに姿をお見せなされ」
とんでも無いお方が現れたみたい。橘の宮様が親しみを込めて『おじい様』とお呼びになられるのは、この世でただお一人。
今は出家されて、袈裟を身に着けられた僧侶のお姿だけれども、かつては宮中で『眩しい月の宮』と密かに呼ばれておられた尊いお方……。いつ死んでもいい、が口癖の、確か御年85歳になられる前東宮様ではないの!
庭の方からゴソゴソ動き回る音がして、少し離れた階から紅葉の少将と白梅の君が現れ、前東宮様の傍に跪いて礼をとる。一応、袖で顔を隠すしかない私。
そうよね、柊の君だけがここにいるはずがないわ。あの攫われた時の状況じゃ、このお二人も絶対一緒に来ているはずよ。柊の君が一人で大丈夫と言われたのか、いつでも加勢できるすぐそばで見守っていたのね。気付かなかったわ、私。
先程、柊の君が無造作に投げた小太刀でお怪我されませんでしたか?
白梅の君が、どこからか私の扇を拾ってきてくれていて、さり気無く手渡してくれた。姫君の嗜み上、助かるわ。でも、この騒ぎの中、どうやって見つけたの? え? 失せ物探しが得意です?
「ワシの命で、宮様に仕えさせている従者が、ワシの邸に慌てて知らせに来たのです。宮様が家人に怪しい事を命じていると。お止めしてほしいというので、老体に鞭打って、この夜中に駆けつけて参った。隠居した年寄りの手を焼かせんでいただきたい!」
ああ、未だに噂通りの御威光が目に眩しい……。
東宮位に就かれていた時、既に年老いてかなり禿げられていた。辛うじて残った御髪を何とか結われてはいたけれど、見事な禿は冠でも隠しきれず。その油でテカった禿げ頭の見事な輝きが満月に似ているから、冗談で『眩しい月の宮』と笑いと親しみを込めて皆が陰でお呼びしていたの。
誰も敵わない、天下御免、命知らずの豪胆な老宮様だわ。今はご出家されて僧侶姿だから、隠さず堂々と禿げていられるわね!
「……おじい様、私は認められません。私はこの姫のせいで、この……」
「お命が惜しくば、もう、潔く諦めなされ! ……いや、もう既に遅かったのであろう。それでもこの年寄りが、そなたのためにできることはこれだけじゃ」
前東宮様は座って居住まいを正され、ゆっくり静かに頭を下げ伏された。
「極刑ものの事柄とは理解しておりますが、どうか、この橘の宮のお命だけでもお助け下さい。老い先短い年寄りの願いです。どうかお許しを、東宮様」
柊の君、いえ、『東宮様』は、困った顔をされて老僧侶を見下ろされた。
そう、東宮様。
だからお戯れはお止め下さい、と何度もお伝えしましたのよ、『東宮様』。
柊の君とお会いするたびに、私は泣いたり怒ったり舞い上がったり。でもそれで、昔の子供の頃の事を思い出してしまったのよね。男の方とそんな風に過ごしたのは、ほんの童女だった時だけ。それも高貴な姫という立場の私にそんな態度を取ることができたのは、あの少し年上のちょっぴり意地悪だった若宮様、新東宮様だけだったのよ。幼馴染で付き合いも長い白梅の君だって遠慮がちな態度だった。
一年も一緒に過ごしていなかったから、未だにお顔は思い出せないけど、やっぱりそうだったのね、今更に思う。こんな大事なことにすぐさま思い至らないなんて、私って本当にのんびりだわ。
もしかして新東宮様ではないかと気づいた時、私の東宮妃入内は既に決定していた。私は柊の君との恋のため、あなた様との駆け落ちも、出家もできない、する必要も無いのだと気付いたの。大いなる矛盾だもの。わざわざこんな恋のお戯れを仕掛けるのは、意地悪に揶揄われているんだと思って、知らずに恋したことに内心深く傷ついたわ。
尊いお立場に就かれながら、宮中を抜け出して私に妙な悪戯ばかりするから、こんな事件が起きてしまったのですよ。反省していらっしゃいますか?
お陰様で、高貴な姫君が邸内で静かに過ごしていなければならない理由っていうのをこの身を以って実感したわ。
「私にとっても、あなたは祖父同様のお方だ。幼き頃より難しい立場の私を密かに庇って下さった御恩もある。おじい様、どうか頭をお上げ下さい。しかし、橘の宮は東宮妃入内が決まっている私の姫を攫ったのです。罪を許すのは難しい。……もし私が許すとしても、橘の宮がこのように反省の色が無いのでは処罰するしかない」
「……いつもそうだ。叔父宮は、いつも私がしようとする事の前に立ち塞がる! そしてあちらの方が優秀だと、皆が言う!」
悔しそうに橘の宮が声を荒げて訴える。それを怒りの眼差しで東宮様も睨み返した。
「何が立ち塞がるだ! 私が何をしたというのだ! 私は身分は高くても公務に就けず、宮中に出仕もしていなかったから、父院の下で燻っているしかなかった。たまに宴に招かれたことはあっても、碌に顔も合わせたことも無いはずだ!」
「宮中で皆がいつも言っていた。……あちらの若宮は、大変健やかで頑強だと」
幼い頃から病がちで体が弱く、寝込んでばかりいた橘の宮様の耳には、常にあちらこちらから、元気な幼い叔父宮の噂が入っていたそうだ。宮中は好き勝手な噂が走り回るから。
あちらの若宮様は大変健やかで病知らず。乗馬や狩りの腕前が良く、横笛を良く嗜み、武術も学問も幅広く学んでおられる。ある宮家から入内された、お母上によく似た美しい顔立ちをしておられる……。ってどれだけ天才? 容姿端麗でいらっしゃるのは認めるけど。
でも、この迷惑な悪戯好きな性格については、誰も語らなかったのかしら?
「私がどんなに体を鍛えても、叔父宮ほどには丈夫にならず、学問も人並みがやっとだ。歌舞音曲で褒められても、男らしいとは思われない。許嫁の右大臣家の四の姫も、元は叔父宮の許嫁で、大変仲が良かったのを引き裂いたと、私が悪者扱いされた。それに、きっと心の中で比べて、不出来な私を貶めているんだ」
「橘の宮様、私は何も言っておりません! 全てはご想像ですわ! 私は一生懸命頑張られておられる宮様を尊敬しておりましたのよ(かつては!)。それに仲が良いといっても、顔も忘れたくらいのほんの童の頃のことです!」
「……やっぱり忘れていたんだ。私はずっと忘れていなかったのに……」
ちょっと、変な呟きを漏らさないで下さい、東宮様。私が六つくらいのことです。一年も一緒にいなかったんですから、忘れてもしようが無いと思います! お顔の記憶は無くても、共に過ごした思い出はありますよ。
「咲耶姫だけだった。私の辛い気持ちを理解して、優しく同情してくれた。いつも寄り添って慰めてくれた……。私が東宮位に就き、いずれは帝になった暁には、優しい咲耶姫を正妃にすると誓った。それには、叔父宮、それに右大臣の権力をもたらす四の姫が邪魔なのです!」
あ~、しつこい。ここで何とかしておかないと。いつまた私の髪が狙われるか分かったものではないわ!
「橘の宮様は、本当に咲耶姫を愛しておられるのですね」
「もちろんだ。咲耶姫はこの世で一番美しく心優しい……。どこかの姫とは違って……」
ムカッ! この期に及んで嫌味ですか! 本当に腹が立った。泣いているあなた様を甘やかしてさしあげなくて悪かったわね。私もこの宮に一蹴り入れて良いですか?
「でもこのままでは、橘の宮様は……。私だけでなく、畏れ多くも東宮様にまで襲い掛かったんですもの。それに愛する咲耶姫にも罪科が及ぶかもしれませんね」
「この! 咲耶姫に何をする気だ! 優しい姫は、この件については何も知らないのだ!」
怒りにかられた橘の宮様は立ち上がろうとしたところ、紅葉の少将と白梅の君に飛びつかれて、すぐさま取り押さえられる。そのお姿を私はゆったり余裕の態度で、扇の陰から見る。
「でも、東宮様に襲い掛かったのではなければ、罪はもっと軽くなるでしょうね」
「何が言いたい!」
「右大臣家の四の姫……の女房である私は、今宵、鬼に攫われましたの。ですから助けに来られたのは、女房の知り合いの殿方です。まさかここに、宮中におられるはずの東宮様が、いらっしゃるはずがないのです。たかだか女房一人のために」
「……今宵の事を得意の右大臣家の権力でもみ消すつもりか? これだけ上位の者が集っているのに?」
忌々し気に私を睨む橘の宮様とは対照的に、何を始める気か? と東宮様は私の言うことを見守ることにしたらしく、とりあえず否定はされなかった。老僧侶の前東宮様も興味深そうなお顔をされて、事の成り行きを見守って下さるみたい。
「鬼に攫われた女房は、どうやら助けられましたの。鬼退治に燃える紅葉の少将様と、陰陽師の君様と、その他の方々のお力で。このお二方は、以前も兵部卿の宮邸や、今宵の右大臣邸で鬼を追い払った有名な方々ですのよ。……橘の宮様も攫われた女房の私をお助け下さいますか? ……それとも私を襲った鬼になって、咲耶姫と共に破滅されますか? 今度は私を無実の罪で断罪した時の比ではありませんよ」
「そなた! 咲耶姫の命を盾に、私を脅す気か! 大切な咲耶姫を!」
さっきまでの反抗的な態度から一転して、橘の君は狼狽え出した。真っすぐな方だから、私との婚約を人前で破棄されたくらい愛する咲耶姫の命ために、どこまでされるかしらね。殿方のように、殴る蹴るだけが攻撃ではないのよ。
「陰陽師の君様、今宵、鬼は退治されましたのよね」
「はい、女房殿。おしゃる通りです。私の術を用いて退治しました」
さすが優しい幼馴染はニッコリ微笑んで、あの約束通り、私の企みに協力してくれる。何も言わなくても分かってくれて嬉しい。
「紅葉の少将様、鬼は退治されましたのよね」
「はっ? 鬼?」
「左大臣家のご子息、紅葉の少将様。右大臣邸で、まさか鬼ではない畏れ多いお方に襲い掛かりましたの? 『左大臣家』の少将様は、鬼を退治されましたのよね」
鈍い少将様に、『左大臣家』を強調することで、知らずとは言え東宮様を襲ったため、橘の宮同様、お家が不敬罪で危機的状況である事を悟らせる。
「あっ! はい! そうです、私は畏れ多いお方に乱暴などしておりません! 鬼を追い払い、退治したのです! そして美しい四の姫をお助けしました!」
こやつ! まだ私が四の姫と気づいていないとは! どれだけ百合姫に惚れ込んだの? まあ、できれば正体はバレない方が良いのだけれども。
「おい、ひょっとして、悪者の鬼って私か? あなたのため、ここまで駆けつけ救った私に、それは無いんじゃないか?」
事の成り行きに気付いて、東宮様が不満の声を上げられたので、ここはきちんと治めねば。更にまずい状態になるので、扇の陰から笑みを向ける。
「どこのお方かは存じ上げませんが、逞しく素敵なお方。髪を掴まれ、鬼に頭から食べられそうなところをお救いいただき、ありがとうございます。我が主、四の姫様も心より感謝されると思われます」
「……どれほどの感謝か、後で姫君に教えてもらうことにしよう。そう、お伝えしておくれ」
悪戯な柊の君は、私の耳元にそっと囁く。ゾクッとしたわ、やめてよ、誰かに聞かれたら恥ずかしいでしょう?
さて、気分を取り直して。視線を眩しい月のお方に向ける。嬉しそうにお目を輝かせ、これで可愛い橘の宮のお命を守れると、感謝を込めて微笑んで下さった。
「いずれのご身分のあるお方かは存じ上げませんが、徳の高い僧侶様とお見受けいたします。鬼退治にご助力いただき、ありがとうございます」
「そうですな、人知の及ばぬ鬼のしでかした事であれば、仕方のないこともありましょう。何もお力にはなれずとも、人の心を惑わす鬼が退治されて、皆無事であれば何より。皆にもそう言い伝えましょう。……二度とお心を鬼に惑わされることがあってはなりませんぞ、橘の宮様。咲耶姫のためにも」
「……はい、おじい様。くそっ! 今宵、私は鬼を見た! 愛しい咲耶姫を襲おうとした鬼を見た! 鬼だよ、酷い悪鬼だ! ここで皆が分かっている全てを世間に明るみにすれば、鬼に頭から喰われるのは私達の方だ! ここにいるのは、四の姫だけのはずだったのに、何故にこうも人が集まってしまったんだ? ……私は悪鬼に弱みを、首根っこを掴まれたんだ、一生!」
橘の宮様は、悔しそうに私を睨みつけた後、一度だけ床を力強く叩いた。ポロリと涙を零して歯を食いしばっている。
愛しい咲耶姫のため、かつて断罪した私に情けを懸けられ、更には暗に脅された。誇りだけは高い方だから、酷い屈辱に苦しんでいる。情けを請うて、私にひれ伏しなさいよ!
お~、ほっほっほっ! 心の中で勝利の声が上がる! 扇の陰で思わず意地悪い笑みが零れるわね! 上から目線で、床に蹲る橘の宮を見下ろす。
今夜、私を『鬼』呼ばわりした人が二人に増えた。でも、酷いわね、悪気は無いのに。
でも、橘の宮様に至っては、一見私が虐めているようでいて、実はお命をお助けしたのよ! 悔しがっていないで、逆に感謝しなさいよ!
「では、帰ろうか、可愛い女房殿。真夜中だが、こんな鬼が出るような縁起の悪い所からは、さっさと退散しよう。恐ろしい思いをしたね。私の邸で、じっくり慰めてあげよう。きっとあなたの主の四の姫も同意するよね」
さっと逞しい腕に横向きに抱き上げられてしまった、再び。ニヤリと笑いながらスタスタ歩き出される。
「え? 何を言われているのですか、柊の君(話の流れ上、東宮様とはお呼びできないわ)? 右大臣邸に帰るのでは?」
「今夜の最初からやり直そう。想いが通じ合った恋人の闇夜の逢瀬だよ。楽しみだな」
柊の君は腕の中で小さくなった私をその大きな胸にギュッと抱きしめる。どうもこれがお好きなご様子ね。ああ良かった、柔らかいとか呟いておられる。何が?
若い者は良いのう、ではありません、前東宮様! この若者の暴走を諫めるのが、年寄りの、僧侶のお役目では?
確かに東宮様は私の婚約者になって、入内も正式に決まったけど! でも、ちょっと困るわ、にやにや笑うこのお方に、このままどこへ連れて行かれるの? これは、乙女の最大の危機では? 誰か助けて!
次回で最終話! ……になるのかな?