脱走少年と過保護少女-3
少しだけ、沈黙が走った。
気恥ずかしいのか、桐花は口を開けたり閉じたりしていた。
三十センチ定規も収まらない距離にある桐花の顔はなんというか、興味を引いた。
頬骨や鼻の頭は赤く日焼けしていて、そこにそばかすもできていた。
目の色はいつ見ても不思議な気分にさせられてしまう。
この距離だと、虹彩までよく見えた。
まるで、翡翠の中に細い集中線が走っているみたいだ。
他人の目に対して中二病的表現は慎めよとは思いつつ、止められなかった。
「あ、ごめん」
桐花の目が少し伏せられたことで、穴が開くほど見詰めてしまっていたことに気付いた。
「ご、ごめん。目、きれいで」
気持ち悪いことを言ってしまった。
案の定、桐花はシートを頭から被ってしまった。
また少しの間、沈黙が流れた。
「ど、どうした?」
少しだけ、桐花からかかっている重みが増えた気がした。
眠気に襲われているらしい。
男の横で、しかもどんなに大声を上げても誰も助けてくれないような場所で寝る気か?
間違いなんて起きないのは確かなんだけど。
そろそろここにいるのも限界か。
「寝たら風邪引くぞ。母上呼ぶから……うおっ!」
ばさっと保温シートから頭を出した桐花が思いきり首を横に振った。
そして、口をパクパクと動かしているが、声になっていなかった。
「お前の家車ないだろ。シート倒せば自転車は二台くらい乗るから」
桐花はそれでも首を横に振り続けていた。
口は動いているが、言葉が出てこなかった。
何かがおかしい。
桐花は何か言いたそうにしていても、あきらめて口をつぐんでしまうことはよくある。
でも、今の桐花はあきらかにおかしかった。
もどかしげに口を一生懸命動かしているのに、口からは空気がスースーと漏れるばかりだった。
こんな状態の桐花を看過することはできない。
「桐花」
俺の真面目な声に驚いたのか、桐花の体が硬直した。
「お前……しゃべりたくないんじゃなくて、しゃべれないんだろ……ま、待てっ!」
桐花が逃げ出そうとするのは予想済みだった。
両手で桐花の肩を掴んでなんとか立ち上がらせないようにするが、桐花の力に負けそうだった。
「どこ行く気だ馬鹿たれ! 痛てぇって!」
俺を引き剥がそうと、桐花の手が腕に食い込んだ。
「……ゴホ!」
俺から逃れようと身悶えしながら、喉から空気が抜けていくような音を出していた。
「いいから座れ! な!」
抱きしめて全体重をかけているのに、桐花に押し返されそうだった。
「か、風邪引くからここから出るなっての!」
くそ! どう止めりゃいいんだよもう!
「誰にも言わないから!」
ストン、と桐花の体から力が抜けた。
多江とほぼ同じサイズなのに、どうしてこんなにパワーが出るんだか。
「……離すけど逃げるなよ?」
桐花は抱きすくめられたまま、何の反応も示さなかった。
「逃げるなよ?」
もう一度釘を刺しても、反応がなかった。
でも、隙あらばバネのように跳ねて逃げてしまいそうだ。
この手は使いたくないけれど、仕方ない。
「……置いていかないでよ」
俺の両腕を掴んでいた桐花の両手が、だらんと垂れた。
桐花はこう言えば絶対に動けなくなる。
自分よりも、他人の苦しみが我慢ならない。
「ほんとに、誰にも言わないから」
小さく頷いた気がするので、両腕の力を少しずつ抜いた。
「あの、俺は味方だから、安心してよ」
桐花の眼から涙が溢れ始め、鼻水まで流れ出していた。
また女の子を泣かせてしまったのか。
「ほら、顔」
鼻水くらいは拭いてやらないと。
汗ふきタオルで申し訳ないんだけど。
「……ごめ……なさい」
このガサガサとした声は聞き覚えがある。
まさか、声が出せなくなるとは思いもよらなかった。
「いつからこうなったんだ? あ、いや、また今度でいいから」
質問しておいて何言ってんだ俺は。
「じゅ……けん……」
受験と言ったのか?
「めんせつ……ゴホ」
「そ、それで、お母さんが働いてる私立じゃなくてうちの普通科入ったのか? あ、ごめん、もう話さなくていい」
桐花の口がわずかに動くが、また声が出なくなってしまったようだ。
そんな挫折を経験してこの県立高校に入学したのか。
一般受験にも面接はありそうだけど。
「他に、しゃべれなくなること、知っている人はいるの?」
桐花が首を振った。
「お父さんとお母さんは?」
首を振った。
なんでだと問い詰めるべきかもしれないが、俺にはできなかった。
確かに言えないよ、こんなこと。
秘密にするべきではないなんて、百も承知だ。
でも言えないことは必ずある。
俺達みたいなガキにだって、親に心配をかけたくないというプライドくらい持ち合わせているからだ。
桐花のような性格だったら尚更だ。
「よ、よく一人で耐えてきたな」
桐花の我慢強さには脱帽してしまう。
「ゲホッッ」
「喉荒れちゃうから」
何かを言いたいが、また声が出ないらしい。
全身が震えている桐花には筆談も無理だろう。
時刻はもう六時を回っていたが、この際時間なんて気にしていられなかった。
しゃべれないままで家に戻すことなんてできない。
「交流会、終わってからずっと声が出ないのか?」
桐花が喉を鳴らしながら、頷いた。
「こんなに長い時間、声出せなかったことはある?」
桐花は震えるばかりだった。
もう雨は止んでいた。
川の中州のようになっていた休憩小屋の外も、少しずつ元の状態を取り戻していた。
「座ってろって! ……ごめん」
立ち上がろうとした桐花に、声を荒らげてしまった。
暗くなってきたことに焦ったのかもしれない。
「優先順位を考えてくれよ。俺が時間通りに帰ることなんてどうでもいいだろ?」
頭を左右に振られようが知らん。
「お前だって、その、例えば、嗣乃がもし困ってたら何とかしようとするだろ」
桐花の視線が下がってしまった。
頭の中で必死に反論材料を探しているんだろう。
再び俺の携帯が鳴った。
『どこいんだ!? 心配させんな!』
画面を確認せずに出てしまったが、やはり嗣乃だった。
「まだ帰れない。ごめん」
そう言って通話を切る。
電話の向こうで『はぁ!?』という怒声が聞こえたが、気にしていられなかった。
また桐花の目から涙が溢れていた。
「大丈夫だから」
「ゴホ!」
分からない奴だな。
「いつか話せる気になったら話せばいいだろ。何日後かでも、何年後かでも」
俺は多分、帰ったら嗣乃にぶん殴られて言葉責めにされる。でも、どうでも良い。
桐花とこうしてまた秘密を分け合った優越感で乗り越えられる。
うん、俺の神経本当にゲスい。
また涙と水っぱなをタオルで拭き取ってやろうとするが、もう拭ける場所がなかった。
それを察したのか、桐花は震える手でバックパックの中から分厚いポケットティッシュを取り出した。そして、何故か俺に渡した。
顔を拭いてもらうという甘えは覚えてくれたようだ。
「ちょっと、鼻」
止めどない鼻水を処理する間も、桐花は完全に身を任せていた。
少しは抵抗してくれよ。可愛いすぎて連れ帰りたくなるだろ。
「……ト……トイレ……」
なんとか聞き取れる声が、桐花の口から漏れた。
「一緒に行こう」
足がフラフラの桐花を半ば抱えるようにして、公衆トイレへと連れて行く。
こんな小さな体にこんなハンデを背負って、よく頑張り抜いてきたな。
それを思うと、俺の視界もぼやけてしまった。




