第九話 奴隷シャーリエ
その後、アレリア先生は報告書をまとめなければならないと言って階段を上がっていき、俺は一人リビングに取り残されることになった。
ある意味、ようやく一人になってじっくり考える時間ができたということだ。
俺は温くなったお茶に口をつけながら、自分の置かれた状況を改めて考えてみる。
異世界に召喚された。
これはもう間違いないだろう。
魔法、じゃなかった、魔術や、ユーリア、シャーリエさんという人とは明らかに異なる外見の種族が存在することで、もはや疑いようもない。
では、何のために?
お話でよくあるパターンとしては、魔王を倒すために勇者として召喚される、というものだろう。
だが俺の召喚は誰かの意図によって引き起こされたものではないようだ。その可能性もあるが、アレリア先生は否定していたし、それを確かめる術もない。少なくとも俺が召喚された遺跡ではアレリア先生たち以外には誰とも出会わなかったし、その痕跡も見つからなかった。
アレリア先生は事故だと言った。先代文明の遺跡が暴走した結果として起こった事故だと。
ということは俺は特に何の理由もなくこの世界に召喚されてしまったことになる。
では、どうするのか?
ここで問題となるのが俺の記憶が無いということだ。日本に関する知識はあるが、記憶が無い。俺が召喚されてしまったことで心配している家族がいるのかどうかも分からない。そのせいだろうが、日本に帰りたいという意識はあるのだが、焦燥感のようなものはない。せいぜい困ったなあという程度の認識だ。
そしてそれは記憶についても同じことが言える。
困ったなとは思うのだが、思い出してどうなるものでもないような気がする。しかしそれは感覚的なもので、現実的に考えると記憶は取り戻したほうがいいに決っている。特に召喚される前後の記憶だ。どんな状況から召喚されて、あの場に出現するまでに何があったのか。それとも何も無かったのか。
自分の感覚としてはどこかに向かって歩いていた途中だった。しかしどこに向かっていたのかは思い出せないし、召喚されたのも突然だ。だが召喚に至るに当たってなんらかの情報が与えられていた可能性もある。
小説なんかの転生モノでは、神様のような存在が現れて、これからどうしたらいいのかの情報を与えてくれる展開はザラだ。俺の身に同じようなことが起きていてもおかしくない。
そしてそれが次の問題の解決につながっている可能性もある。
何故、俺はレベル1なのか。
ゲーム的に考えれば召喚されたばかりの俺がレベル1なのは当然だ。魔物なんかを倒して経験値を貯める必要があるだろう。だがどうやらこの世界では普通に生活しているだけでもレベルが上がっていくようだ。しかし俺はレベルが上がるに足る経験をしているにもかかわらずレベルが上がる様子が無い。
そこから考えられるのは、俺の場合はレベルが上がる条件が他の人とは違うという可能性だ。
例えば俺は魔物を倒さなければ経験値が入らない。
そういうことは考えられる。これがゲームだと仮定すればなおのことだ。
どうだろう?
何か俺でも倒せるような魔物がいて、それを倒す機会を得ることはできないだろうか?
しかし倒すと言っても具体的にどういうことが倒す行為に当たるのかが分からない。戦って撃退すればいいのか、それとも殺してしまう必要があるのか。もし殺す必要があるのだとして俺にそれができるのか? 虫も殺したことがないとは言わないが、少なくとも哺乳類を殺したような経験はないように思える。鶏の首を落とせば経験値が入るとして、俺にはそれを簡単にできる自信はない。
では別の可能性。冒険者になって簡単な依頼を達成することでレベルが上がらないだろうか?
ゲームによってはクエストクリアの報酬として経験値が入るものもある。この世界では何をしても経験値が入るようだから、そういう可能性もあるだろう。だがそれが今のところレベルの上がっていない俺に適用されるかどうかは分からない。
そもそも俺はまだ自分のステータスを見ることすらできないでいるのだ。
ステータスの見方は旅の途中に皆から教えられた。それぞれにやりかたはあるようだが、基本的には自分の手の甲を見つめる。自分の体に対して鑑定スキルを使うのだそうだ。だが鑑定スキルが無い以上どうすればいいのか分からない。彼らもそこをどう説明すればいいのか分からないようだった。ただ鑑定スキルにかぎらず、あらゆるスキルは習得していなければ使えないということはない。だから感覚さえ掴めばステータスは見えるはずだ、ということだそうだ。
それ以来、暇さえあれば自分の手を見つめているのだが、相変わらず思うのは、なんか自分の手っぽくないなあという感想ばかりだった。記憶が無いのに何を言っているんだという話だとは思うが、これは感覚的なものなので説明のしようがない。あるいは記憶が無いからそう思うのかもしれなかった。
とりあえずこれは続けていくしか無い。この世界では誰でも当然のようにできていることらしいので、俺にもそのうち感覚が掴めるだろう。きっと。多分。そうであって欲しい。
「ワン様、お部屋の準備が整いました」
不意に呼びかけられ顔を上げるとシャーリエさんが立っていた。考えに没頭していて彼女がいることに気が付かなかったが、どうやらアレリア先生に言われた客間の用意を整えてきたようだ。
俺は靴を履き直すかどうかちょっと考えて、やっぱり止めておくことにした。手に持って立ち上がる。
シャーリエさんに案内されたのは二階の北寄りの一室だった。
北寄りとは言っても、この世界では北とは天球の中心方向を指すので、日当たり的に言えば南寄りと同じということになるのだろう。窓から見えるのは路地と隣家と、空で異彩を放つ天球だけだ。
部屋は俺の想像していたものより大きかった。十畳は軽く超えている。ピンとシーツの張ったベッドと、クローゼット、机に、ソファまで備わっていた。なんというか落ち着かない広さだ。
「もしも足りないものがあればご用命ください。なんでも仰せつかります。……その、今すぐというのなら、か、覚悟はできていますのでっ!」
「ちょっとタイム! 待って!」
俺は慌ててシャーリエさんを押し留める。
「そういうことをするつもりはないから、安心して。アレリア先生の暴走だよ。あれは」
「そ、そうですか。でも、あの、その、ええと」
わたわたと手足をばたつかせた後、シャーリエさんはぎゅっと目を閉じて、スカートの裾を掴んだかと思うと、ぱっとそれをめくり上げた。ドロワーズというのだろうか。かぼちゃパンツの長いやつみたいなのがあらわになるのを俺はぽかーんと眺めていた。
「えっと、あの、よ、欲情しませんか?」
そこで俺はピンと来た。アレリア先生は言っていた。なんなら誘惑しろ、と。それがこれなのだろう。
俺はどうするべきかちょっと考えて口を開いた。
「うん。まったくしない」
ガーンという擬音が聞こえてきそうな表情で、シャーリエさんがスカートの裾を取り落とす。
「俺はもっと大人の女性にしか興味が無いんだ。だから君にそんなことはしない。だから君も無理なことはしなくていいよ」
「でもでも、それじゃお館様のご命令が」
シャーリエさんは苦しそうな表情になると、急にこちらに駆け寄ってきて、体ごと俺にぶつかってきた。思わず受け止めると、猫耳の少女は俺に体を擦り付けてくる。ぷつぷつとボタンの外れる音がして、彼女のメイド服がめくれていく。
しかしその光景はいやらしいというよりは痛々しくて、俺は彼女の体を抱きしめて動きを止めさせた。
おかしい。
彼女が望んでこのようなことをしているはずがない。それは彼女の表情や反応で明らかだ。だから俺は俺が望んでいないし、興味もないという体で逃げ道を与えた。彼女はそれに逃げることだってできたはずだ。
「アレリア先生は俺が求めたら応じるように君に命令しただけだよ。誘惑はオプションだ。つまりやらなくていいことだ。それは命令違反にはならないよ」
「ほ、本当ですか?」
「本当だとも。後で一緒にアレリア先生に確認しに行こう」
その時にアレリア先生が改めて命令する可能性もあったが、そこは俺が止めさせてもらおう。こんな小さな子どもにやらせるようなことではない。
それよりも気になったのが彼女の苦しげな表情のほうだった。
「もしかして命令に逆らうと苦しかったり、痛かったりするのかい?」
「は、はい。シャーリエは奴隷ですから、お館様の命令に逆らうことができません」
「今はどう? もうだいじょうぶ?」
「はい。本当にワン様を誘惑しなくていいのでしょうか?」
「本当だよ。約束する」
「なら、その、だいじょうぶです」
「そうか、良かった」
俺は抱きしめたままの少女の頭を撫でてやる。
シャーリエさんの身長は俺の胸のあたりまでしかない。体つきは華奢というより、子どものそれだ。シニョンにまとめた髪を崩さないように気をつけながら彼女の頭を撫でていると、年の離れた妹をあやしているような気持ちになる。猫耳がぴこぴこ揺れるのは見てて楽しいのだけれど。
まったく、こんな子どもに何を強制させてるんだ、とアレリア先生に対する怒りが生まれるが、そこはぎゅっと心の奥に閉じ込めた。俺の感性のほうが間違っている可能性だってある。いや、そのほうが高いのだ。この世界ではこのくらいの少女でも性の対象であるし、奴隷として子どもを生むことを命じられることもある。そう考えておかなければならない。
それよりも大事なことがある。
シャーリエさんは奴隷で、アレリア先生の命令には逆らえない。逆らえばそれだけでなんらかの苦痛を受けることになるようだ。だがそれはシャーリエさんの自意識に影響されている。自分がしていることが命令に逆らっていると、シャーリエさん自身が判断したときに、その苦痛がやってくるということだ。だからアレリア先生の“誘惑したまえ”という言葉を命令だと受け止めていた彼女に、それは命令じゃないと言い聞かせることで苦痛を取り除くことができたのだと思う。
これは彼女と付き合っていく中で忘れてはいけないことだ。下手をすれば俺の言動ですら彼女を傷つけかねないのだから。
「それにしてもアレリア先生はなにを考えているんだよ」
いや、アレリア先生の意図は本人から聞かされている。
俺がこの世界の人類と性交渉を持って子どもができるかどうかを確認したいのだ。それにより俺がこの世界の人類と同じ人類かどうか確かめられる。
この世界にその概念があるかどうかは分からないが、つまり遺伝子が相似しているかどうかということになるのだろう。エリックさんの話しぶりからするに、ユーリアは神人であるフィリップさんと、兎人であるルシアさんの間の子どもである可能性があるということだった。
つまり人類、神人とそれ以外の種族はお互いに子どもを作ることができるということだ。だから俺に猫人であるシャーリエさんを差し出した。俺がこの世界の人類に相当する種であれば、シャーリエさんとの間にもちゃんと子どもが作れるはずだからだ。
「お館様の考えは難しくてよく分かりません。でもお館様はとても聡明な方ですから、意味のないことを命令はされません」
「確かに意味はあるんだろうけどなあ」
それならばそれこそアレリア先生自身を差し出すべきじゃないんだろうか。例えばじゃあ私でと、そう言われてもアレリア先生とそういうことをしたいかと言われたらちょっと悩むところだ。先生は綺麗な人なんだけど、そういう対象として見れないというか。
はっきり言ってしまうと色っぽく無いのだ。
「それにお館様はお優しい方です。猫人の奴隷であるわたしにも良くしてくださいます」
「そっか」
それが奴隷として主人を立てなければならないがゆえの発言なのかどうかは分からないが、とりあえず今は受け入れておく。
とりあえず抱きしめたままだったシャーリエさんを開放して、彼女に服の乱れを直してもらう。
「はしたないことをして申し訳ありませんでした。お許し下さい」
「許すもなにもないよ。シャーリエさんはアレリア先生の命令だと思って頑張っちゃっただけなんだから」
「ありがとうございます。でも、その、シャーリエさんというのはお止めください。どうかシャーリエと呼び捨てに。神人の方からそのように呼ばれると、わたしがお叱りを受けてしまいます」
「そっか、じゃあシャーリエ。これからよろしく」
「こちらこそよろしくお願い致します。ワン様」
「それじゃ早速なんだけどお願いしていいかな?」
「なんでも仰せつかります」
「さっきのお茶を淹れてきてくれないかな。二人分。それから君の話を聞かせて欲しい」
「仰せのままに」
それからシャーリエにもソファに座ってもらって、彼女から彼女自身の話を聞いた。
シャーリエは生まれついての奴隷だった。
彼女の母親が奴隷だったからだ。
奴隷の女性が妊娠して胎児にステータスが発生すると、その時点でその子には母親と同じ奴隷契約が結ばれている。これは奴隷契約が承継契約、つまり親から自動的に子どもに付与される契約に当たることを示している。
女性の奴隷を買うということは、つまりその子どもも買うということと同義なのである。
さて、この国の奴隷制度について簡単にまとめておこう。
勘違いしていたが、この国では亜属だけが奴隷にされるというわけではない。亜属に限らず、神人でも借金を返せなくなったり、あるいは犯罪を犯したりして奴隷に落とされる者がいる。そしてこの国のみならず奴隷という存在はどうしても必要なものだ。
その原因はスキルにある。
エリックさんから聞いたようにレベルアップ時に習得するスキルは、それまでにその人がどんな経験をしていたかに左右される。魔術士が魔術以外のことをできるかぎりしないようにするのは、より確実に魔術スキルを上昇させるためだ。これは魔術士に限らずあらゆる職業に言える。戦士にしても、商人にしても、必要外の経験をすることによって必要のないスキルを習得するのは損だと考えられているからだ。
しかし生きていくためにしなければならないことはあまりにも多く、それらの行為に関するスキルもまた多い。
ではどうするか?
答えは他人に任せてしまうのである。
特に家事、あるいは他人との交流、家業に至るまで、奴隷がそれを執り行っている例は枚挙に暇がない。上げたいスキルが中々伸びないから、あるいは伸びているからこそさらに伸ばすために、そのスキルのみを行うことに没頭し、それ以外を奴隷に任せてしまう。それがこの国の貴族の通例であり、また金銭に余裕のある市民の生き方でもある。
そんな貴族の一人、マクスウェル・アートマンの奴隷だったのが、シャーリエの母親シーリアだった。そして彼女がマクスウェル・アートマンの奴隷だったから、シャーリエもまた生まれながらにマクスウェル・アートマンの奴隷だった。
しかし彼女が生まれて直後のこと、ある事件が起こりマクスウェル・アートマンとその妻、さらにシーリアは亡くなってしまう。結果として奴隷契約はアートマン家の一人娘だったアレリア・アートマンに相続されることになった。
さらにアートマン家には男子がいなかったことから、お家取り潰しということになり、アレリア先生は貴族ではなくなった。アレリア先生に残されたのは親から受け継いだ資産だけということになり、アレリア先生はそのほとんど売り払って、まだ幼かったシャーリエと、他数人の奴隷だけを手元に残し、今の邸宅を買ったのだそうだ。そしてシャーリエがある程度働けるようになると他の奴隷も売ってしまった。
そうして今ではシャーリエと二人でこの邸宅で暮らしているのだそうだ。
「どうしてシャーリエだけを手元に残したんだろう?」
「わたしがまだ幼くて、アートマン家のことを何も知らないからだと思います。お館様はお家のことを思い出すようなものをすべて処分されましたから……」
アートマン家のことをよく知る奴隷たちは、失われた家を思い出すから手元に置いておきたくなかった。だがシャーリエの面倒を見るためにしばらくは手元に置いておく必要があった。ということだろうか。
それにしても事件か。
シャーリエは詳しいことは知らないようだった。当然だ。生まれて間もない頃のことを詳しく知っているはずもない。それにアレリア先生も教えはしなかったのだろう。
「少しお話しすぎたかもしれません。どうかこの事は」
「だいじょうぶだよ。誰にも言わない」
「ありがとうございます。ではわたしは夕食の支度がありますのでそろそろ。ワン様、何かお好きなものはございますか?」
「そうだな。堅パンじゃなければなんでもいいよ」
そう言うとシャーリエは笑って、では柔らかいパンをご用意しますねと言って部屋を出て行った。
シャーリエの作る食事は、とても美味しかったとだけ付け加えておく。
次回は10月10日0時更新です。