第九話 見習い船長
「彼らは良き父であり、良き子であり、良き兄弟であり、良き船乗りであった。願わくば彼らの魂がこの海を通じ――」
船医のレイモンドから教えられた死者への祈りをなんとか諳んじて、葬儀が終わり、帆布の遺体袋に包まれた死者たちは海の中へと投じられた。船乗りたちの悲しみ方は様々だったが、元凶である元海賊たちに対して暴行を振るうことは固く禁じたため、そのような暴挙に出るものが1人もいなかったことは幸いだった。
朝まで続いた霧は、昼までにはすっかり晴れ、葬儀を終えた俺たちはようやく天測を実行することができた。六分儀を貸し与え、見習い航海士を含めた5人全員で天測を行う。航海士の経験の無い2人には計算式から教えなければならない。
「少し南に流されたようですね」
「南に進んだ分はいいが、どれだけ東西に流されたかだな」
天球天測から測れるのは緯度だけなので、経度については太陽天測を行うしか無い。
「海賊どもが言っていた島とやらを探すべきか」
「しかしあまりウロウロしていると食料の問題があります。まずは魔大陸に当たるまで南進するべきでは?」
「そうだな。島については見つかったら、ということにしよう。展帆用意しろ」
「展帆用意!」
ケントが復唱して、にわかに甲板上は忙しくなる。
「向かい風だな。こういう時はどうしたらいい?」
「ジブスルを先に展帆しましょう。船首が風下を向いたら横帆を張ればいいと思います」
「じゃあそうしてくれ」
指示はケントに任せ、俺は船の上で作業が順調に行われているかに注目する。元々の船乗りと、元海賊が混じり合って作業をしているのだ。どういう不幸な事故が起こるか分かったものではない。
「錨を上げろ!」
キャプスタンに船乗りたちが飛びついて、ぐるぐると回す。錨が引き上げられて、船は自由を取り戻す。
続いてジブスルが展帆され、三角帆は風を受けて、船首を徐々に風下のほうに向けていく。横風になった辺りで、十分に角度がつけられたヤードから帆が落とされ、船は南に向けて滑り出した。
船が順調に進み始めると、ケントの言ったとおり船乗りたちから雇用契約の申し出があった。前と変わらない契約でいいということだったので、ドルジアについたら銀貨3枚で船乗りとして雇うという契約を結んでいく。もちろん奴隷にした元海賊たちは別だ。彼らには存分にタダ働きをしてもらうことにしよう。
夕刻になり太陽天測をすると、船は予定航路からかなり東にずれている計算になった。
「風上に切り上げて進まなければなりませんね」
「難しいな」
「これまでのような速度は出せないでしょう」
「食料はどれくらい残ってる?」
「これまで通り配給すると20日ほどで尽きます。嵐で海水を被って駄目になった食料が痛いですね」
「どこか途中で食料を補給できるような港はないか?」
「いっそ東進してニュージスタンに向かう手が無くもないですが、その後ドルジアに向かうのは向かい風になりますので時間がかかります」
「とりあえずドルジアに向かってみよう。船足がどれくらい出るか見てみるんだ」
船の向きを南西に向けて風上に切り上げて進む。
速度を測ると3ノットしか出ていなかった。
海図を頼りにドルジアまでの距離を測ると、今のままでは30日で到着できるかどうかというところだ。それも風が吹き続けての話だ。
「どうしますか、船長」
決断を下すのは俺の役割だ。このままドルジアに向かうか、それともニュージスタンに向かうか決めなくてはいけない。
「このままドルジアに向かう。足りない食料は釣りをして補おう。餌には海水を被った食料を使えばいい」
そういうわけで翌日のマリアナ号は急遽釣り船と化した。
予備の鋲などを釣り針に打ちなおして、紐に括りつけ、塩水を被ったビスケットを餌にすると、意外なほどに魚は釣れた。
新鮮な魚は次々とキッチンに運び込まれ、焼き魚になって船乗りたちの舌を楽しませた。俺としては刺し身でも楽しみたかったところだが、どうやら生魚を食べる習慣はこちらには無いらしい。よく考えたら刺し身がでてきても醤油がなければ十分には楽しめないだろう。俺は潔く諦めて焼き魚を楽しむことにした。
船上では誰が一番大物を釣ったかを競い合い、元々のマリアナ号の船乗りと、元海賊の船乗りは一緒になって釣りを楽しんでいるようだった。
このままでは海水に浸かったビスケットを使い切り、食べられるビスケットまで餌にし始めそうだったので、十分な量の魚を釣った後は釣りの中止を命令しなければならないほどだった。
「まさか商船で釣りをすることになるとは思いませんでしたよ」
「食料が足りなくなったら昔からよくやったことでさ。流石船長、よくご存知で」
「知らなかったよ。ベンノ。たまたまさ」
「とにかくドルジアに無事到着する目処は立ちましたね」
今日の天測でも船は順調にドルジアに向かっていることを示している。
俺は船長室に戻り、航海日誌を書くことにした。マルセロ船長の書いていたものの続きを、だ。日誌は春下の3日で終わっている。嵐についての記述が無いからその前日までだろう。ということは今は春下の9日ということになるだろうか。まあ、そこが一日二日ずれていても大した問題ではあるまい。
俺は今日を春下の9日として、嵐から今に至るまでの顛末を記入していった。
それを終え、テオドールに連絡を取るためにスマホを起動させると、向こうからのメッセージが入っていた。それによると彼らは無事ドルジアに到着したそうだ。彼らも嵐にあっていたらと思っていたがどうやら杞憂だったらしい。
とりあえずこちらもドルジアに向かっていること、あと20日ほどかかりそうだということを返信しておく。
それからレベルを上げられるだけ上げておく。驚くことにレベルは66まで上昇した。それだけマリアナ号での経験が密だったということだろう。レベルはもちろん62に偽装しておく。スキルポイントについては保留しておくことにした。船がドルジアに到着するまでは、どんな航海士系のスキルが必要になるか分かったものではないからだ。
その日の夜遅くのことだった。
船がそれまでとは違う揺れ方をして俺は飛び起きた。まるで何かに衝突したような前進が止まる揺れ方だったからだ。
慌てて甲板に上がると舵輪に付いていたグレンが申し訳無さそうな顔をした。
「すみません。裏帆を打っちまいました」
裏帆を打つというのは、帆に逆風を受けてしまうことだ。当然船の進みは止まり、操舵も難しくなる。
「風向きが変わったのか?」
「いいえ、もう少し風上に切り上げられるかと思った自分のミスです」
「分かった。舵輪を預かろう」
「お願いします」
航海士スキルのない者に操舵を任せている以上、こういうことも起きるだろう。操船スキルこそ無いものの、航海士スキルを習得している俺のほうが上手く船を操れるはずだ。
今、船は風上に切り上げるつもりでヤードを目いっぱいまで傾けており、そこで裏帆を打ったため、より風上に向けて船首を向けようと後退していっている。それに逆らうように舵を切ったが、風が船を傾けようとする力のほうが強くてうまく行かない。というのも船の速度がほとんど無いために舵が利いていないのだ。
「ヤードを動かせ! 正面から風を受けるんだ!」
俺は舵を正面に戻し、船を後退させることを選んだ。舵を利かせるには速度が必要だ。そしてそれは後退でも構わないはずだ。
そして充分な速度が得られたと確信した段階で大きく舵を切った。それに合わせて風を裏帆に受け続けるようにヤードを動かさせる。そして風が完全に横風になった時点で、ヤードを逆に傾けさせた。
ようやく帆は正しい向きに風を受け、船は前進を始める。
「お見事です。船長」
「うん。なんとかなったな。グレン、焦ることはない。確実に前に進もう」
「アイアイサー」
しかし見習い航海士を含めた船乗りたちが船足の遅さに苛立ちを感じているのは確かだった。
翌日になると俺は一度錨を降ろし、船を一時停泊させると、ボートを下ろして船のバランスを見直すことにした。マルセロ船長に同行させられた経験を活かそうというつもりだ。
食料を消費したことと、ミズンマストを一度失い、予備の円材でミズンマストを立て直したことで船の重量バランスは大きく崩れていた。
俺はボートの上から指示を飛ばし、船倉の荷物の置き場を変えさせる。
何時間かかけて満足のいくバランスになり、俺は再び船を出発させた。
十分に速度が出たところで、速度を測らせると船は5ノットの速さを出していた。
船乗りたちから歓声が上がる。
これで予定よりずっと早くドルジアにたどり着けるだろう。
航海50日目、マストに上がっていた見張りから陸影見ゆという報告が入った。船乗りたちは我も我もとシュラウドを駆け上がり、南に向けて目を凝らす。俺もマストに上がろうと思ったが、ケントたちに止められた。今やこの船に唯一の航海士である俺の身に何かあれば一番困るのは彼らだからだ。
「ドルジアはまだ西だな」
「はい。天測が正しければそういうことになります」
「天測と海図が正しいことを祈るしかない。それから、ここからは船を切り返しながら進まなければならないな」
「はい」
陸地に沿って進むとして、進行方向は風上である西になる。船は風上に向けて切り詰めながら斜めに進むことはできるが、真っ直ぐに風上に進むことはできない。だから斜めに陸地に近寄って行ったり、離れていったりしながら進むしか無いのだが、向きを変える度に難しい操船を必要とする。
「上手回しと下手回し、どちらにされますか?」
「無理はしない。下手回しで行こう」
上手回しというのは、風上に向けてそのまま舵を切り、裏帆を打つのも構わずに細かな操舵をして切り返すやり方だ。以前、裏帆を打って船が止まってしまった時の何倍も難しい操船を要求される。その代わり、上手くいけば船が風下に流されることはほとんどない。
一方下手回しというのは、船をぐるりと風下に向けて一周させて向きを変えるやり方だ。難しい操船はほとんど要求されない代わりに、船は風下に大きく流される。
例えばこれが戦いの最中で、相手の風上をどうしても取らなければならないような状況なら、上手回しで回頭することも考えなければならないだろう。
しかし今はそのような状況ではない。だからこそ上手回しの練習をするのもひとつの手ではあろうが、ここは急がばまわれで下手回しで回頭することにする。
一度見えた陸影から遠ざかることに船乗りたちは寂しそうではあったが、あんまり陸地に近づくのも、浅瀬や暗礁がどこにあるか分からなくて怖い。
俺は指示を出して船を下手回しすることにした。
航海62日目、天測によればマリアナ号はドルジア近海にあった。
海図によれば目の前に張り出している岬を回れば、その向こうにドルジアの町が見えるはずだ。俺たちは測深を繰り返しながら、慎重に岬を回っていった。
船乗りも見習い航海士も、当直の者もそうでない者も、甲板に出て固唾を呑んで岬の向こう側に注目している。やがて徐々に岬の向こうが明らかになっていき、そして歓声が上がった。
「やりましたね。船長。ドルジアです」
「ああ、なんとかなったな。ケント、君のサポートのおかげだ」
「ありがとうございます。サー!」
これで厄介なスキル制度さえなければケントを正式な航海士にしてやれるのだが、そういうわけにもいかないのがもどかしい。彼はすでに充分な経験を積んでいるし、その資格もあるように思える。
もちろん彼の全権を一度預かり、レベルが上がるまで一緒にいれば航海士のスキルを与えてやることは可能なのだが、そのためだけにケントに秘密を明らかにするのはいくらなんでも躊躇われた。
とにもかくにも俺たちは長い航海を終え、ついにドルジアに辿り着いたのだった。




