第六話 嵐
航海37日目、船は嵐の中にあった。
ジャックの話では嵐は見て避けられるとのことだったが、必ずしもそうではないということだ。今回の場合は嵐の範囲が広く、速度も速かったため、船が避けきれなかったのが原因だ。
船内では動く物は徹底的に片付けられ、船が揺れるのに備えた。
帆を全て畳んだ船は、まるで木の葉のように波に揺られている。俺は収まったはずの船酔いが再発し、船首にあるトイレで海面に向けて吐いた。流石にこの揺れの中、船の縁に掴まって身を乗り出す勇気はない。
揺れに慣れている船乗りたちの中にも船酔いを起こした者が何人もいて、トイレに間に合わなかった者も多く、そこら中に吐瀉物が撒き散らされている。それらは甲板から流れ込んだ雨水が洗い流している。
動く元気のある者はポンプにしがみつくようにして、船底から水を外に向けて汲み上げている。原始的なポンプは船乗りが何人がかりかで、クランクをガチャンガチャンと上げ下げすることで動作する。その度にほんの少しの水が汲み上げられ、ホースから排水されるのだ。
しかしそんな努力もむなしく、船が波を被るたびに、ざあざあと海水が甲板から流れ込んでくる。
甲板から船室に繋がる階段を除いて、他の穴という穴はすべて帆布で目張りされているのにこれだ。
仕方なく手桶を使ったバケツリレーまで行われている。
「マルクさん! 船医がお呼びです!」
船乗りに呼ばれて船医室に向かうと、そこは怪我人が何人も運ばれていた。どうやら船の揺れに足を取られてあちこち打撲した船乗りたちらしい。
「ほとんど軽傷だが、中には頭を打って意識不明な者もいる。力を貸してもらいたい」
「もちろんです!」
そうして俺は船医室で怪我人の治療に当たることになった。
とりあえず手早く怪我人の治癒を行っていく。それから体力の回復だ。今は人手が足りておらず、元怪我人でも痛みを我慢して働いてもらうしかない。
「体力が50を切っているものがいたら船医室に来るように伝えてくれ。体力を回復させる」
そう言伝を頼むと、今度は疲れきった船乗りたちが続々と船医室を訪れるようになる。
「魔術士殿、大丈夫ですか?」
「これくらいならまだなんとか」
実際には吸魔があるのでいくらでも治癒魔術は行使可能だ。だがまだ吸魔を使うほど魔力を使っているわけでもない。俺は範囲治癒魔術を利用して船乗りたちの疲労を一斉に回復させていく。
食事としてビスケットが運ばれてきたが、俺は断った。胃に何か入れるとまた吐きそうだ。今も口元までせり上がってきた胃液を無理に飲み込んだばかりだった。
「銀貨20枚じゃ割りにあわない!」
思わず大声で愚痴ると、その場にいた船乗りたちが笑い声を上げる。
「なんだ、どうした?」
「あっしらはドルジアで銀貨3枚を受け取る約束でさあ」
「そうか、悪いことを言ったな」
「そうでなく魔術士様の働きぶりならもっともらってるもんだと思ってたんでさあ」
「俺はまた足元を見られたのか!」
船乗りたちがどっと笑う。
「ええい、お前ら体力は回復させたんだからさっさと働け!」
「アイアイサー!」
船乗りたちが笑いながら船医室から飛び出していく。とりあえずあれだけ元気があれば大丈夫だろう。
その後も怪我人やら、疲れきった船乗りへの治癒で忙しく、気がつけば一昼夜が過ぎ、それでもまだ嵐は止む気配を見せなかった。もう長い間時刻を知らせる鐘の音を聞いていない。そんな余裕はどこにもないのだろう。
俺もついに空腹に負けてビスケットにかぶりついた。この際食べられるならコクゾウムシが湧いていたって構うもんか。湿気ったビスケットは喉に詰まり、慌てて手近なカップに水魔術で水を満たして飲み込んだ。
気がつけば船酔いは嘘のように収まっていた。いい加減揺れが大きすぎて慣れたのかもしれない。今では船医室に居ながらにして、いま船がどのように波に乗り上げているのかすら想像できるようになっていた。
波の頂点を船首が割ると、甲板に海水が叩きつけられて、船は波の向こう側へと滑り落ちていく。その度に船はギィギィときしんだ不快な音を立てる。どの辺りが船の限界なのか俺には分からないが、その辺はもう船長たち航海士に任せるしかない。俺にできることは船乗りたちの体調を管理して、元気にして送り出すことだけだ。
そこでふと船長以下航海士たちが一度も船医室に顔を出していないことに気がついた。彼らだって疲労しているはずなのにどうしてだろうか。
「先生、ここをちょっとお願いします。俺は船長たちの様子を見に行ってきます」
「ああ、充分に気をつけて」
今また波を乗り上げようとしている船の中を甲板に向けて進む。甲板への階段に足をかけたところで、ざあと海水が流れ込んでくる。流されそうになるのを必死に階段に掴まってやりすごす。これでは気を抜けばあっという間に海の藻屑だ。
前傾になった船の甲板に飛び出して、とにかく近くのロープに掴まった。波の終わりが来て、すぐに次の波に乗り上げ始める。空から叩きつけられる豪雨でまともに目が開けていられない。突風がごうごうと体に吹きつける。
改めて船を見て、俺は後部マストが中程からぽっきりと失われていることに愕然とした。ステイやシュラウドが船の後部の海中に向けて伸びている。ミズンマストの上部はあの海中に没しているに違いない。
「船長! 船長! ミズンマストを切り離さないと!」
船内にこだましているギィギィというきしみは、折れたミズンマストが船を引っ張っているからに違いない。このままでは船が中央からへし折れてしまうかもしれない。
後部デッキで舵輪にしがみついている船長に向けて叫ぶが声が届いている様子はない。
俺は索具や滑車などにしがみつきながらコーターデッキに移動した。
「船長、ミズンマストが船を引き裂こうとしてる!」
「分かってる! だがミズンマストが船を引っ張って波に真っ直ぐ舳先を向けているんだ! ここでミズンを切り離したら、横波を受けてそれこそ船が沈んじまう!」
「なんてこった!」
とにかく船長の体力を治癒魔術で回復させる。
「なんで船医室に来ないんですか! 体力を回復させないと!」
「持ち場がある! 離れられん!」
「他の航海士も!?」
「他の航海士もだ!」
「いいです! こっちから回復させに行きます!」
「すまん! 頼んだ!」
それから俺は船の各所を回り、航海士たちの体力を回復させて回っていった。見習い航海士のダリルとケントも、見習いだというのにこの状況下では完全に戦力とみなされている。船の浸水状況の把握や、ポンプ班の指揮などは彼らの仕事だ。
俺はダリルの体力を回復させようと、彼のステータスを見て、そのレベルが上がっていることに気がついた。ついでにスキル欄に燦然と輝く航海士1の文字にも。
「ダリル! 航海士スキルじゃないか! おめでとう!」
ダリル自身も俺に言われて初めて気付いたらしい。自分の右手を見てステータスを確認する仕草をすると、その顔がぱぁと輝いた。
「やった! マルクさん! ありがとう!」
この苦難の状況が彼のレベルを上げ、仕事に忙殺されたことが航海士スキルの習得に繋がったのかもしれない。スキルの習得には、レベルが上がるまでの間、何をしていたかに左右される側面があるとアレリア先生は言っていた。
「あっと、いけない。浸水3尺、船長に伝えないと。浸水3尺」
「甲板は波を被るぞ。気をつけて行くんだ」
「アイアイサー!」
ダリルは笑顔のままで階段を駆け上がっていく。
続いて俺はポンプ班を指揮しているケントの下に向かい、彼にも治癒魔術をかけた。ケントのレベルも上がっていたが彼のスキルに航海士は相変わらず無いままだ。こればっかりは運なので仕方がない。
ダリルの航海士スキルのことを教えるかどうか迷ったが、今は黙ったままにしておくことにした。余計なことを教えて気落ちされても困る。
「マルクさん、助かりました。元気が出てきました」
「それは良かった。嵐を抜けるまでの辛抱だ。頑張れ」
「アイアイサー!」
ついでに疲労の色の濃いポンプ班にも治癒魔術をかけていく。
船医室に戻ると、また数人の怪我人が運び込まれていて、俺は彼らを治癒魔術で回復させる。
嵐は結局三日三晩続き、俺は何度も吸魔スキルを利用する羽目になったが、誰もそのことに気づく余裕すらないようだった。ほとんど誰も睡眠を取らずに、治癒魔術でドーピングしながら嵐と戦い続けたので、波が収まる頃には皆、うつらうつらとしており、俺も例外ではなかった。
だがとにもかくにも嵐は抜けたのだ。
あれだけ空を覆っていた暗雲が嘘のように晴れ渡った空の下で、まずはミズンマストの切り離し作業が行われた。手斧を使ってミズンマストを船に繋ぎ止めていたロープを切り落としていく。
ミズンマストが切り離されたら、今度は船倉から予備の円材を運び出して、ミズンマストの再取り付け作業だ。折れたミズンマストが固定鋲のところで外されて、新しいミズンマストがロープを巧みに使って引き上げられ、取り付けられる。
取り付けられたばかりのミズンマストに各種ロープが結いつけられ、帆桁も取り付けられる。
こんな作業はゆっくり休んでからすればいいのに、と思ったが、船を最善の状態にしておくことに船長は病的なほどの執着心を抱いているようだ。それは船長という船の全責任者としては当然の心持ちなのかもしれない。
やがてミズンマストに帆が取り付けられると、船はすっかり元の姿を取り戻した。
「当直は第一班だ。それ以外は解散してよし。ゆっくり休め」
甲板上に歓声と不満の声が同時に上がる。
「最初の当直は何時間かで終わるぞ。第二班はさっさと寝れるだけ寝ろ!」
船長が宣言すると、当直ではない船乗りたちは慌てて甲板から船室へと降りていく。
「ジャック、航海士ではお前が最初の当直だ。船乗りどもが居眠りしないようにしっかり見張ってろ」
「アイアイサー」
「それからダリル、航海士スキル習得のお祝いだ。夕食時までゆっくり寝てていいぞ」
「ありがとうございます、サー!」
「みんなよくやった。特にマルク、お前さんのおかげで死人が一人も出なかった。感謝する」
「やれることをやったまでです」
「よし、それじゃみんな解散だ。眠れる時にしっかり眠れ」
「アイアイサー」
それから俺は自分の部屋に戻り、それこそ泥のように眠った。どれくらい寝ていたのか自分でも分からない。船の上では定期的に鐘が鳴っていたはずだが、それもまったく睡眠の邪魔にはならなかった。
そう、
「魔術士だ、殺せ!」
その声が聞こえるまでは――。




