第五話 船酔い
酔った。
夕食に出たワインにではない。
船酔いだ。
陸に係留されている間は平気だったのに、出港したその日の昼頃には俺はひどい船酔いに悩まされていた。
別に波が高いとかそういうわけではない。どちらかというと凪に近い穏やかな海だ。しかしそれでも風を受けて、波を切って進む船は揺れる。それもかなり不規則に揺れるのだ。四六時中揺らされた俺の三半規管は悲鳴を上げ、俺は甲板の縁に捕まって海に向かって何度も吐いた。やがて吐くものも無くなって胃液だけになると、俺は縁に背中を預け、青空をじっと見て、なんとか気分が治まるのを待った。
ちなみに病魔治癒スキルは船酔いには無力だった。これは病気ではないということなのだろう。幸い体力だけは治癒魔術で回復できたので、気分こそすぐれないもののグッタリしているということはない。
「マルクさん、大丈夫ですか?」
ダリルがやってきて俺のことを心配そうに覗きこんでくる。
「大丈夫じゃないけど、動けないほどじゃないな」
「定期の天測を行うんですけど、ご一緒にどうかとカルロス三等航海士が言っています。僕らも参加します」
「そういうことなら俺も参加するよ」
吐くものを全部吐いた後なので、なんとか吐き気は収まっていた。
起き上がり、予備の六分儀を借りて、天測の説明を受ける。要は決まった時間に天球の見える位置を確認して、そこから現在位置を割り出すらしい。
もう少し詳しく言うと前日の位置と、そこからどの方向に向かってどれくらいの速度で船が進んだかの情報から、現在の推測位置を割り出して、天球位置とすり合わせをして、より正確な現在位置を割り出すのだそうだ。
計算式に三角関数が出てきてただでさえ気分が悪いのに頭がくらくらする。
ダリルとケントも三角関数に苦戦しているようだった。そこは年長者の意地で先に計算を終わらせて、カルロスに提出し合格を貰う。
「しっかりしろ。見習い航海士ども。船酔いした魔術航海士でもできる問題だぞ」
しばらくかかってダリルとケントも計算を終えたが、答えは間違っていた。流石にあの年齢の少年らに三角関数を完全に理解させようというのが難しいだろう。しかしそんなことはお構いなしにカルロスは少年らを強く叱りつけた。
これも航海士になるための通過儀礼のひとつなのだろう。
天測もできない者を航海士にするわけにはいくまい。
少年らは傷ついているようだったが、気丈にも涙ひとつ見せずに再計算に取り掛かった。
3日ほどが過ぎると船酔いは収まった。陸から乗り込んできたばかりの船乗りの中にはまだゲーゲーやっているのもいるから、俺は立ち直りの早かった方なのだろう。とにかく船の中央にいれば酔いにくいというのはよく分かった。
縦揺れはなんとなく感覚的に耐えられるのだが、俺の場合は横揺れがきつい。だから横揺れの影響を受けにくい船首と船尾を結んだ中央の線状にいるようにすれば、かなり誤魔化しがきいた。
船上の食べ物にも慣れてきた。つまり堅く焼いたビスケットと、塩漬けの豚肉という食事にも、という意味だ。堅パンと野菜スープの旅から、ビスケットと豚肉とは。まあ、それでも俺は夕食には船長室でまともな食事にありつけるだけ助かっている。普通の船乗りたちはそれも無しで、一日に一杯のラム酒を楽しみに日々を耐えているのだ。
航海そのものは順調に進んでいる。偏西風を斜めに受けてマリアナ号はまっすぐに南を目指している。
その先にドルジアのある魔大陸があるのだ。
「魔大陸というからには魔族の支配地域なんですか?」
「いや、そういうわけじゃなくて、発見された時にそこが魔界だったから魔大陸と名付けられただけですよ。全域が魔界なわけじゃないことも今は分かっています」
夕刻、当直任務に立っているジャックとそんな話をする。
「新大陸でも良かったんでしょうけど、新大陸というと皆、東のアルドレストン大陸を思い浮かべますからねえ。今は遠洋航海技術が発達してきて、次々と新しい大地が発見されている真っ最中なんですよ」
「ということは、世界一周はまだ?」
「誰も成し得ていない偉業ですね。それは。ですが、今はどの国も植民地を増やすのに必死で、そのような冒険に金を出す国は中々無いでしょうね」
ということはまさに大航海時代の幕開けに立ち会っているということになるのだろう。この世界にもいずれマゼランのような冒険家が現れて世界を一周してくるのかもしれない。
「でもいいですね。世界一周かぁ。そんな船団を指揮してみたいですね」
「大変な旅になるでしょうね」
マゼラン船団でも、マゼラン自身は世界一周を成し遂げる前に命を落としている。もっともフィリピンでの原住民との戦闘での死亡ではあるのだが。しかし船乗りたちの死亡率はかなり高かったように俺の知識にはある。
「実際のところ、魔大陸への航海はどれくらい危険なんですか?」
「それほどでもないですよ。陸とは違って嵐は見て避けられますからね。むしろ魔大陸の沿岸についてからのほうが危ないですかね。まだ見つかっていない暗礁や浅瀬に乗り上げたらたまったもんじゃありません。測深を繰り返しながら慎重に進むことになります」
測深というのは油をつけた鉛を海中に投げ込んで、海底の深さを測ることだ。ついでに油に付着したもので海底の様子を探ることもできる。船は当然ながらある程度海中に没しているので、ある程度の深さが無ければ航行することができない。だから浅瀬が予測できる場所では測深は非常に重要な作業になるのだ。
今日も定期的に測深が行われているが、結果は全て感無し、つまり測深用のロープを落としきっても海底にはつかなかったということだ。
それに平行して行われる作業に船の速度を測るというものがある。こっちはロープに結わえられた板を海中に投げ込んで、一定の時間でどれだけロープが引き出されたかで測る。ロープには一定間隔ごとに結び目が作られていて、船の速度をノットで表すのはここから来ているのだそうだ。
これらの作業は頻繁に行われたが、それ以外の時間というものは総じて暇であった。もちろん帆の上げ下ろしのような作業になると船乗りたちは大忙しになるのだが、そうでないときは彼らも意外と暇を持て余している。
だったからこうしてジャックと何気ない話をしていられるのだ。
航海13日目、風がパタリと止んで凪が訪れた。
こうなると帆船は手も足も出ない。だらりとぶら下がった帆を見上げながら、早く風が吹いてくれることを祈るしか無い。
船乗りも航海士たちもいつも以上に暇を持て余している。
「マルクよう、お前さんの魔術で風を吹かせることはできるんか?」
船長の懇願するような声に俺はちょっと思案した。
風を吹かせること自体は容易い。だが俺の風スキルは高くなく、帆を揺らすくらいなら不自然ではないだろうが、船を進ませるほどの風となると、スキルを疑われるだろう。
「風が吹くようになるおまじないなら考えましょうか」
「ペテンで風が吹いたら儲けものだ。何か考えてくれ」
おう、冗談だったのに真面目に返されてしまった。
だったらなにか考えなくてはいけないだろう。
「火を炊くというのはどうでしょう。火は風を呼ぶものです」
「そりゃダメだ。船っつーのはものすげぇ燃えやすいんだ。船上で火なんか焚いたらあっという間に火だるまだぜ」
「まあ、そうですよね」
タールを塗ったシュラウドに、帆にもタールが塗られているという。これらは火がつこうものならあっという間に簡単に燃え上がることだろう。船の中にはキッチンがあり、かまどもあるが、そこだけはきっちり鉄で作られている。樽いっぱいの水も料理用という以外に消火用の意味もあるのだろう。
とにかく船の上で火はご法度ということだ。火魔術を使うなどとんでもないということになるだろう。肝に銘じておかなければならない。
結局夕刻になるまで風は吹かなかった。しかし一旦風が吹き出せば、船長以下航海士たちは声を張り上げ、帆で目一杯風を受けようとブレースを船乗りに牽かせ、ヤードの角度を調整した。
そのかいもあって、太陽が天球に隠れる頃には船はすっかり速度を取り戻し、再び南に向けて帆走し始めた。
航海17日目、今度は風が強くなり、船長が縮帆を命じた時に事件は起きた。縮帆のためにヤードに上がった船乗りの一人が足を踏み外して甲板に落ちたのだ。いきなりのことで風魔術で受け止めることもできず、彼は俺の目の前で足から落ち、ズドンと重い音を立てた。
「ニックが落ちた!」
「船医を呼べ!」
にわかに慌ただしくなる甲板で、俺も慌てて彼の下に駆け寄った。
うまく足から落ちたのか息はまだあるが、両足は骨が飛び出し、辺りには血が飛び散っている。苦悶の声が耳朶を打つ。俺は急ぎ彼に治癒魔術をかける。
見る間に傷は塞がっていく。飛び出した骨は肉の中に埋没していき、裂けた肉は真新しいピンクの皮膚に覆われていく。
船医が遅れて甲板に飛び出してきた頃には彼の傷はほとんど回復しており、船医は患者を探さなければならなかった。
「レイモンド先生、患者は魔術航海士殿が治しちまいましたよ」
当直だったカルロスが船医に声をかけると、彼はずれたメガネをクイッと直し、肩を竦めた。
「どうやら患者は足を失わずに済んだみたいですな」
「お仕事を横取りしたようですみません」
なんとなく悪い気がして船医に声をかける。
「いや、見事な治癒魔術だ。羨ましいほどだよ。実際のところ私の仕事と言えば怪我したところを切断するくらいでね。この船乗りは運が良かった。私も嫌な仕事をせずに済む」
確かに治癒魔術が無い限り、あれほどの傷ならばもはや足は切断するしかなかっただろう。海賊なんかがよく手足が欠けているイメージがあるが、あれはあながち間違いでもないということなのだろう。
ニックの傷は治癒したが、治癒魔術は痛みは消せない。彼はレイモンドが引き取って、場合によっては痛み止めを与えるということになった。帆布のタンカが用意され、船乗りが何人かがかりでニックを船の中に連れて行く。
「流石は治癒魔術士が本業なだけはあるな。あんなに見事に傷が治るもんなのか」
船長から声をかけられる。咄嗟のことだったので手抜きをせずに治癒魔術を使ってしまったが、スキルについて疑われただろうか?
「治癒魔術は得意なんですよ。戦争でもっとひどい怪我を治したこともありますよ」
「いやぁ、助かったぜ。人手が足りてるとは言い難いからな。ニックはどれくらいで復帰できると思う?」
「痛みさえ引けばすぐにでも。ただ完全に痛みが引くには2,3日かかるかもしれません。あれだけの怪我だと体は治っても頭のほうが中々痛みを忘れてくれないんですよ」
「それなら十分だ。これからもよろしく頼むぜ。魔術航海士」
バンバンと俺の肩を叩いて船長は船の指揮に戻っていった。スキルを疑われているようなことは無かったようだ。俺はほっと胸を撫で下ろす。
縮帆は無事に終わり、船は軽快に南へと進んでいる。




