第八話 アレリア邸
アレリア先生の家は冒険者ギルドから徒歩で一時間――この世界での一時間だ。――ほど歩いたところにあった。赤っぽいオレンジ色の外壁の三階建の邸宅だ。外からここだと言われた時に、ここの一室か、あるいはワンフロアだと思った俺の感覚は現代日本人としては間違っていないに違いない。だがアレリア先生の言っていた、人よりちょっとお金があるというのは、つまりこの建物が一件丸ごとアレリア先生の邸宅であるということだった。
「そういえばアレリア先生のご家族は」
「両親はすでに他界していてね。他に身寄りもいない。気ままな独り身だよ」
不躾なことを聞いた謝罪をする間もなく、アレリア先生は家の扉を開けた。
「シャーリエ、ただいま! さあ、みんな入って適当に寛いでくれ」
玄関が開くとそこはいきなりリビングだった。
うっ、靴のまま絨毯を踏むのに抵抗がある。しかし他の皆は気にすること無くどかどかとリビングに入って行くと、そこらの椅子やらソファやらで勝手に寛ぎだした。そういうものか。俺もそうするべきだろう。
ぐっと抵抗感を押しのけて絨毯を踏む。今まで石畳を歩いてきたので絨毯は優しく足を受け入れてくれた。それだけでちょっとほっとするが、やっぱり靴を脱ぎたい。脱いじゃっていいだろうか。
「えっと、俺の国では家の中では靴を脱ぐんですが、脱いでも変じゃないですかね?」
「変だな」
「変だね」
「変わってるな」
「変、です」
「変だ」
「…………」
一斉に返事が返って来てちょっとヘコむ。若干一名返事が返って来ていないが、視線が明らかに変だと訴えてきていた。
「他人の家のリビングで靴を脱ぐのはマナー違反だな。だがそれさえ覚えておいてくれれば、我が家では好きにしていいさ。今日からは君もここに住むんだしね」
アレリア先生からありがたい許可を頂いて俺は途中の村で手に入れた革の靴を脱いで、ソファの隅に腰を落ち着けた。
今度こそ心からほっとする。と同時に軽い痛みが足に走った。よく見ると、踵の辺りが靴ずれで赤くなっている。
「治癒、します、ね」
ユーリアがそう言って治癒魔術をかけてくれる。
「ユーリアもフードを取ったら? アレリア先生の家なら平気なんじゃない?」
魔界を抜けて人類の領域に入ってからというもの、ユーリアはずっとローブのフードを被りっぱなしだった。やはり神人でないことを気にしているのだろう。実際、立ち寄った村で兎人であることが人に知られ、冷たい態度を取られるところを目にしている。
差別、か。
元の世界にだって差別はある。人種差別や、あるいは生まれた場所だけで決められてしまう差別や、あるいは性格や容姿のような個人性で行われる差別もあるだろう。だが記憶が無いからなのか、それとも元々そうなのか、俺にはそうものを実際に見た経験は無いように思う。
だからだろうか、ユーリアがそういう、つまり差別的な扱いを受けた時、俺は腸が煮えくり返るような気持ちになった。外見から分かることはただ彼女は俺とは耳の位置と形が違うだけだ。だがその時、村人に食って掛かることもできなかった自分が一番腹立たしい。
後から、言っても仕方のないことだとは言われたが、果たして仕方のないことで済ませていいのか俺にはどうしても納得がいかなかった。
「ワンは、フード無いほうが、いいですか?」
「うん。ユーリアの顔が見えたほうがいいな」
「じゃあ」
と言ってユーリアがフードを取った。桃色の髪がはらりと落ちる。わずかに頬を染めた顔が現れた。
やっぱり可愛いな。
そう思って何か声をかけようとしたところで、
「わわわわわ、お帰りなさいませ。お館様」
クラシカルなメイド服を着た猫耳少女が階段を駆け下りてきた。
「こら、シャーリエ!」
アレリア先生の声が飛んで、ピンと黒い毛を逆立てて少女はその場で足を止め、突然優雅な歩調に変わり、階段を降り終えると、その場で腰を曲げて頭を垂れた。
「お帰りなさいませ。お館様。それとようこそいらっしゃいました。お客様方。すぐにお茶をお持ちいたします。どうぞお寛ぎ下さいませ」
そう言ってもう一礼してから扉から隣の部屋に消えた。
俺は呆然とその後姿を見送る。
「当然だが、ワン君は初めてだな。彼女はシャーリエ、我が家の召使だ」
「え、えっと、猫の耳でしたよね」
「猫人だからな」
「町中では神人以外は見かけなかったですが……」
「数は少ないが神人以外もこの街には住んでいる。もっともほとんどは奴隷としてだし、シャーリエも私の奴隷だ」
「奴隷……」
ぎゅっと胃の奥を掴まれたような感覚に襲われる。
奴隷というのは現代日本の感覚からすれば、あまりにも縁遠い存在だ。イメージとして浮かぶのはやはり黒人奴隷だろうか。かつて欧米諸国はアフリカで暮らす黒人を奴隷として扱っていた。しかしそれももう遠い昔の話だ。差別は残っているにせよ、奴隷制度は廃れて久しい。
しかしこの世界では奴隷制度が当然のように残っているのだ。
「ひょっとしてこの国では神人以外は……」
「そうだな。基本的に奴隷という扱いだ。例外は冒険者くらいのものだな。城塞の中で見つかれば官憲に引き渡され、奴隷商人のところに連れて行かれることになる」
ぎゅっとユーリアが身を縮ませた。
これまでにも危ないことがあったに違いない。
「逆に猫人の国で神人が奴隷として扱われているところもあるのだ。彼らの言い方をすれば我々は亜人らしい」
「亜人……」
どちらかと言えば兎人のユーリアや、猫人のシャーリエなど、人と他の種族が混じったような人種を一纏めにするときに使われる用語のような気がするが、この世界では考え方が違うのだろう。
「ワン君にひとつ注意しておくが、この国では神人以外にあまり肩入れしないことだ。ユーリア嬢と仲良くするのは構わないが、ユーリア嬢が兎人であることを理由に誰かに絡まれた時にユーリア嬢の味方をすれば、君のこの国での立場は保証できなくなる。特に天球教会に目をつけられたら厄介だ」
「天球教会ですか?」
「門の衛兵が言っていただろう。天球の導きがあらんことを、ってやつだ。あれは彼らの決まり文句だな。神人以外は人に非ずとはっきり明言している宗教で、この国の国教でもある。フィリップ君も天球教会の信徒だったな」
「ええ、私がというより親がそうだったという感じですが、洗礼も受けていますよ」
「ゴードン君とエリック君も」
二人が頷く。
「っても冒険者稼業をやってりゃ神人以外と関わることも珍しくねーからな。そこまで敬虔な信徒ってわけじゃねーですよ」
天球教会の信徒と言ってもその程度は様々だということらしい。敬虔な信徒であればたとえ奴隷であっても神人以外を家に入れるなどとんでもない。話をするのも汚らわしい、ということになるそうだ。官憲に捕らわれた神人以外が直接奴隷商人のところに連れて行かれるのも、国家としては神人以外には直接関わらないという方針だからだそうだ。
なお、彼らは神人以外という遠回りな表現はしなかった。猫人が神人のことを亜人と呼ぶように、彼らは神人以外のことを亜族と呼んだ。つまり神人、亜族、魔族というおおまかな分類であるようだ。
そのような話を聞いている間にお茶を入れ終わった猫人の奴隷シャーリエがトレイにティーカップとポットを持ってリビングに入ってきた。
彼女の入れてくれたお茶は意外なことに緑茶のような味わいで、俺は懐かしい味にほっとする。
それからアレリア先生がフィリップさんたちに俺を護衛することになった分の報酬を払い、ひとまず解散ということになった。
「アレリア先生、明日はユーリアに町を案内してもらいたいのですがいいですか?」
「ああ、シャーリエにやってもらおうと思っていたがユーリア嬢がやってくれるのならそれでもいい。私も学会への報告などでしばらく忙しいからな。ひとまず羽を伸ばすといい。だが色々気をつけるんだ。ユーリア嬢は兎人だし、君はレベル1という世にも珍しい存在だ。そのことを忘れるんじゃないよ」
「了解しました。ユーリアもそれでいい?」
「わたしは、いい、です」
「じゃあ、決まり。悪いけど迎えに来てくれるかな?」
「はい。そうします」
そんなわけで名残は惜しかったが、フィリップさんたちとも別れの挨拶をして、彼らはアレリア先生の邸宅を去っていった。後に残されたのは俺とアレリア先生とフィリップさんたちの分のお茶の後片付けをしているシャーリエさんだ。
「さて、シャーリエ、彼はワン君。しばらくは我が家に滞在することになる客人だ。悪いが客間をひとつ使えるようにしてくれるかな?」
「承知いたしました」
「彼のことは客人として丁重にもてなすように。それから確認しておくが、君はもう子どもの産める体だったな?」
「え? あ、はい」
「それは重畳だ。ワン君に求められたら応じるように。なんなら誘惑したまえ」
「うっ、その、はい。承知いたしました」
一瞬苦しげに顔を歪めたシャーリエさんだったが、すぐに一礼してティーセットを片付けに隣の部屋に消える。
「って、なんですか、いまのやりとり!?」
「なんだもなにも私の研究の一環だ。旅の途中にも考えていたんだがね。君が本当に我々と同じ人かどうか確かめる手段のひとつだよ。子を成せるなら少なくとも我々人類種と同じ種族だと言えるだろう?」
「だからと言ってそんないきなり言われても」
「確かにシャーリエは幼いし、女性としての魅力には少々欠けるかもしれない。だが彼女の申告した通りすでに子どもの産める体ではある。何も問題はあるまい」
「大有りだよ!」
シャーリエさんを最初に見た時に少女と表現したが、それは誇張でもなんでもない。本当に彼女は十歳そこそこの、まだ第二次性徴すら迎えていないような女の子にしか見えないのだ。シャーリエさんと心の中で呼んでいるが、どちらかと言えばシャーリエちゃんと言ったほうがよほどしっくりくる。はっきり言って子どもなのだ。
「君は胸の薄い女性には興味が無いのかい? ふむ、私でも代役は努められそうにないな」
アレリア先生は少し考え込んだ後に自分の胸に手を当ててそう言った。
「そこじゃねぇ! 大体仮に、仮にですよ。シャーリエさんに子どもができたとしてその子はどうなるんですか?」
「ん? 奴隷の子は奴隷だ。私の所有物であるシャーリエが産んだ子どもなのだから、当然私の奴隷ということになる。ゆえにその養育責任も私にある。そういうことを心配しているなら何の問題もないぞ。なにも気にせず種付けすればいい」
「ああ、もう、そういうことじゃなくって」
俺は頭を抱える。
何かが根本的にずれているのだ。しかしそれがアレリア先生がずれているのか、俺がこの世界の一般常識とずれているのかの判断がつかない。とは言えここは引ける一線ではない。
いくらなんでも俺は子どもとそういうことを致すつもりはないし、恋愛感情も無しにそういうことはしたくないのだ。
「なんだ。契約したじゃないか。私の研究に協力すると」
「出来る範囲で、とも言いました。これは明らかに逸脱しています」
「むぅ、君にとっても悪くない提案だと思ったのだが」
そう言ってアレリア先生は唇をとがらせる。
「だがその気になったらいつでも押し倒したまえ。ちゃんと子どもができるようにするんだ。分かるね」
「絶対しませんからね!」
「分かった分かった。無理強いはしない。だがまあ、仲良くはしてやってくれ。あれは少々落ち着かないところがあるがいい娘だ」
「それなら善処しますよ」
アレリア先生から頼まれる最初の協力がこれとは。
俺はほっとしたのもつかの間、まったく違うため息をつくことになるのだった。
次回は10月9日0時更新です。