第一話 南への旅路
チャムオンを後にして最初の夜に俺がしたことは自分の名前を変えることだった。どんな名前でもいいのだが、やはり目立たないほうがいいだろう。そうすると候補はこれまで比較的見かけることの多かった名前ということになる。いくつか印象に残っている名前があったが、今回はその中からマルクにすることにした。
それに伴い偽装するスキル構成も少し弄った。
魔術士5に水と治癒を4、火と土を3、風を2、いかにも一人旅をしていて器用貧乏に育った魔術士と言った具合のつもりだ。
それと同時にテオドールにこちらの用事が片付いたことをメッセージで伝える。電話が通じればよかったのだが、通話機能は双方がスマホをオン状態にしていないと繋がらないので仕方ない。
今頃ユーリアたちはどの辺りまで進んでいるだろうか?
アンデモンド公国に長居をしているわけはないから、すでに別の国に向かっているか、もう到着していることだろう。うまく行けば次の国辺りで待っていてもらって合流することもできるかもしれない。
そんな希望を抱きつつ俺は眠りについた。
翌日の夜にはテオドールからの返信が入っていた。
――悪いが、すでに船に乗っちまった。
そんな文面から始まるテオドールの返信によれば、アンデモンド公国を発った彼らはエルデナントという国に入り、そこからドルジア行きの船に乗ったらしい。
――皆、お前が無事なことを喜んでいる。ドルジアで待つ。
メッセージはそう締めくくられていた。
俺からもできるだけ急いで向かう旨を返信し、翌朝からはさらに急いだペースでハシュゼットの草原を南下していった。
避難民と共に移動したときは果てしなく長く思えた行程も、馬を走らせればなんてことはない距離だ。アンデモンド公国軍にだけは見つからないように注意しながら、先を急ぐ。
途中から焼かれた村を見かけるようになった。苦労して避難させた村のひとつだ。残っている村人はいないはずだったが、それでもアンデモンド公国軍は火を放って行ったようだ。
ルーの村も焼かれていた。言うまでもなくグルッコの村も。
彼らがいつか自分の土地に戻り、村を再建できるかは分からない。だがそうであって欲しいと思う。アンデモンド公国軍もいつまでも戦争は続けられないはずだし、刈り取った領土を維持するのはもっと難しいはずだ。
だがそれはもはやアンデモンド公国とハシュゼットの問題で、俺がとやかくできることではない。少なくとも俺は国家間の争いに手を出す気は無い。
しばらくして大森林に入り、多少迷いながらも木々の合間から見える天球を頼りに南に進み、五日ほどかけて大森林を抜けた。ということはもうアンデモンド公国の領域に入ったということでいいだろう。
少し迷ったが馬はここで放した。一刻も早く先に進みたいが、吸魔スキルを持った馬に乗っていて誰かに見咎めらると厄介事になりかねない。
荷物を背負い、今度は自分の足で歩き出す。
街道を見つけるまでには二日を要した。それからさらに一日歩いて農村にたどり着く。親切な老夫婦の家に一晩厄介になって、村の中で馬を買えないか交渉したがうまく行かず、そのまま徒歩の旅が続いた。
村を出た翌日にアンデモンド公国の首都モルサスに向かうという行商人を見つけ、銀貨5枚と引き換えに馬車に乗せてもらえることになった。行商人の表情からぼったくられたことはなんとなく分かったが、道案内を兼ねていると思えば俺としては安いものだ。
俺は馬に逃げられた間抜けな魔術士として、木箱と一緒に馬車に揺られて旅を続ける。
食事休憩の時にエルデナントについて行商人に聞いてみた。
「エルデナントですか。いいところですよ。色んな国の色んな物が集まっていて、商売には事欠きません。私もモルサスで一商売したらエルデナントに向かうんですよ。良かったらお安くしておきますよ」
俺は苦笑いして値段を聞いてみると銀貨で20枚だと返ってきた。高いか安いか分からなかったので返事は濁しておく。それに彼の商売にどれくらいの時間がかかるか分からないという。それならモルサスに着いたらすぐにエルデナントに出発する馬車を見つけるほうがいいだろう。あるいは馬を買うかどちらかだ。
財産のほとんどはシャーリエに預けてきたが、金貨5枚と小銭くらいは持っている。多少の贅沢なら許されるだけの額と言えるだろう。
二日ほど馬車の旅が続き、馬車はモルサスに入った。なるほど、銀貨5枚では割高なわけだ。食事は別だったのだから尚更だ。
「それでは馬車が必要になったら商館まで言付けくださいね。マルクさんなら大歓迎ですよ」
「ありがとう。世話になりました」
そう言って行商人とは別れる。
せっかく訪れた孤人族の国だが、長居するつもりは全くない。俺は行商人と別れた足で、モルサスの門のところに戻り、衛兵にエルデナントに向かうにはどうするのがいいのか聞いた。
「エルデナンドへなら一日に一本駅馬車が走っている。だが今日の便はもう出発した後だな。そこに停留所があるから明日の便を予約したいなら急ぐんだな」
俺は衛兵に礼を言って駅馬車の停留所に向かった。
馬小屋としか形容しようがないその建物の中に入ると、ドアに取り付けられた鈴がチリンと鳴った。机に目を落としていた壮年の男性が顔を上げる。
「いらっしゃい。どちらにお向かいで?」
「エルドナンドなんですけど、今日の便はもう出発した後だとか」
「そうなんですよ。あと何時間か早かったら間に合ったんですがね。明日の便でよろしいですか?」
「料金はいくらになるんですか?」
「食事別で銀貨5枚です」
あの行商人のボッタクリめ。
「一応、他にエルデナントに向かういい方法ってないですかね?」
「それを私に聞きますか」
そう言って男性は笑う。
「お金を節約したいということでしたら、お客さんは魔術士ですから、なにがしか旅の護衛という形で雇われ先があるでしょう。お急ぎということであればご自身で馬を買われるほうが早いでしょうね。楽をしたいということであれば是非ともウチにお任せください」
馬の相場を聞いてみたが、俊馬ということであれば金貨1枚にもなるということを聞いて諦めた。どちらにせよエルデナントからは船旅になるのだ。馬は連れていけない。
行商人などに雇われることも考えてみたが、そう都合よく依頼があるとは限らないし、この国は目下戦争中だ。冒険者ギルドに顔を出すのは避けておきたい。依頼主を個人的に探すのも手間だ。
結局俺は駅馬車を利用することにする。
「支払いは今ですか?」
「予約ということであれば前金として銀貨1枚貰うところなんですが、全額支払って頂けるなら喜んで。お客さんが多少遅れたところで馬車の方を待たせておきますよ」
「なら全額支払っておきます。ところでここらでいい宿はご存じないですか?」
「それは安くていい宿ですか? それとも高級宿で?」
「安くていい方でお願いします」
「それなら弟がやってる宿をご紹介しましょう。素泊まり銀貨2枚のところを夕食朝食付きにさせてもらいますよ。私がそう言っていたと伝えてもらえればちゃんと通るはずです」
「商売上手ですね」
「このモルサスでは褒め言葉なんですよ、それは」
なんにせよこの男性には好感しか感じなかったので、説明された宿に向かうことにする。飲食店が兼用になっている1階で駅馬車の停留所で話を聞いてきた旨を伝えると、喜んで部屋を用意してくれた。
部屋に荷物を置いて一息つく。夕食まではまだ時間があったので、俺は一度街に出ることにしてみた。
宿の主人にこの街でどこか見どころは無いか聞いてみる。
「旅人さんなら教会を参拝されてはいかがですか?」
「教会というと、天球教会ですか?」
「はは、まさか、ここはモルサスですよ。モルサスと言えば旅の神様、カトゥネ様を祀る教会に決まってます。旅路の安全や、商売の成功を願って旅人が足を運ぶんですよ」
「それは知りませんでした。行ってみます」
宿の主人から教会の詳しい場所を聞いて出向いてみることにする。
戦時中だというのに、モルサスの街は活気にあふれていた。戦場がはるか遠くであること、そしてアンデモンド公国側からの侵略戦争であることが原因だろう。戦場の悲痛さや残酷さはここには無い。そのことに多少の理不尽さを感じながら、俺は教会の前へと辿り着いた。
旅の神様を祀る教会とやらは石造りの大仰な建物で、宿の主人が言うように参拝客が数多く集っており、一部には行列ができていた。何の行列かと思ってその先頭を見てみると、司祭のような出で立ちの男性が、すぐ横に置かれた大きな壷から何かを掬い取って、参拝客一人一人の頭に撫で付けていっている。頭に何かを付けられた参拝客は壷とは逆どなりに置かれた大きな皿にお金を置いていっているようだ。
俺の知識では詳しいことは分からないが、どうやらそれが旅の安全などを祈願する儀式であるようだ。
せっかくここまで来たのだから、教会内の荘厳な雰囲気を楽しむだけでなく、儀式にも参加していくべきだろうか。しかし何を頭に撫で付けられているのか分からないのが怖い。
そこで参拝客というよりは散歩の途中に立ち寄ったとでも言う風な老人に聞いてみることにした。
「あれは何の儀式なんですか?」
「旅の安全を願うお祈りだよ。若い魔術士さん」
「あの頭に付けるのってなんだかご存知ですか?」
「あれは聖別された油だよ。ああやって旅の邪魔をする悪魔を追い払うんだ」
「そうなんですか。ありがとうございます」
老人に礼を言って別れる。
「あのー……」
うーん、どういう儀式かは分かったが、頭に油を塗られるというのはどこか抵抗がある。ワックスを塗るようなものだとは分かっているのだが、まさかその油で髪を整えるわけにもいくまい。
「あのぅ、すみません。マルクさん」
髪を洗うにも石鹸しかないので、油が落ちるか分からないし、落としていいものなのかも判断がつかない。いや、別に信仰心があるわけじゃないし落としていいんだけれども。それだと最初から儀式を受ける必要も無いわけで。
「えっと、マルクさーん?」
そこでようやく自分が呼ばれているのだと気がついた。名前を変えたばかりは、名前を呼ばれても気づきにくいのは仕方ない。そもそも初対面の相手に名前を呼ばれるわけがないという固定概念が、呼ばれているのは俺じゃないという思い込みを作り上げてしまったんだろう。
振り返るとそこにはシスターの格好をした一人の女性が困り果てた顔で立っていた。
「すみません、考え事をしていて。俺に何か用でしょうか?」
「いいえ、こちらこそ突然すみません。ちょっとお話をよろしいでしょうか?」
ステータスを見ると、彼女の名はクラーラ、修道士スキル2ということは修道女、つまりシスターで間違いない。
「はい、構いませんよ」
「では、こちらへ」
てっきりここで話を始めるものだと思っていたら、教会の奥へと案内される。石造りの通路は薄暗く、来る者を拒むような雰囲気すらある。そして通路の一角でクラーラは不意に足を止めた。
「こんなところで申し訳ありません。魔術士様のお力を借りたいのです」
「と、言いますと?」
「実は熱病に侵された患者が何人も運び込まれているのですが、この教会の治癒術士ではとても手が回らず、魔力不足で倒れてしまう始末で。旅の方にこんなことをお願いするのも本当に申し訳ないのですけれど、命に関わりそうな方の体力の回復だけでも構わないんです。どうかお力を貸してください」
そう言ってクラーラは深々と頭を下げる。
万が一に備えて半分戦闘態勢に入っていた俺は、ほっと息を吐いて体の力を抜く。
「それくらいのことならいいですよ」
「ありがとうございます!」
まるで逃がすまいと手を引かれて教会のさらに奥へと連れて行かれる。やがて辿り着いたその部屋には、床に敷かれた毛布の上に所狭しと病人が並べられていた。二十数人はいるだろうか。あちこちから咳の音が聞こえ、熱に苦しむうめき声がその隙間を埋めている。
数人のシスターが患者たちに水を与えたり、体を拭いたりしているが、部屋の空気は澱み、明らかに衛生状態は良くない。
さて範囲治癒魔術で患者たちの体力を一気に回復させ、病魔治癒スキルで快癒させていくのは簡単だ。だがあんまり簡単にそれをすると、スキルについて変に追求されかねない。ここは偽装してあるスキル相応の仕事をやりながら、一手間入れるべきだろう。
「一番重症の方から診ていきます。どの方ですか?」
あちこちから救いを求める声が上がったが、本当に重症な者はもはや声を上げることもできない様子だった。最初から部屋に居たシスターに一人の老婆の下に案内される。体力は30を切っていて、本当に一刻の猶予もない状態だ。
俺は老婆に治癒魔術をかけ体力を一旦回復させる。病魔治癒スキルも使ってしまいたいところだが、今はまだ我慢する。俺に治癒魔術をかけられたら一瞬で病気も治ってしまいましたではマズい。
俺はそれから部屋の中に居た患者全員に治癒魔術をかけて回った。抑え気味に魔力を使っていたので、魔力切れを起こして吸魔に頼る必要もない程度だ。しかしそれでもシスターたちから、何度も礼を言われる。
「本当にありがとうございました。お陰で今晩は無事に越せそうです」
「いえ、これで終わりにするつもりはありません。後でまた戻ってきます」
俺はそう言い残して教会を後にすると、市場に立ち寄り、塩と装飾の施された銅製のカップを買って教会に戻った。カップは別の店で買った絹の布でくるんである。こうしてみるといかにも高級品のように見えてくるから面白い。
「魔術士様、それは?」
「霊薬と、聖別された器です。これらの力があれば病魔などたちまち退散させることができるでしょう」
そう言って俺は最初に治癒した老婆のところに行って、カップの中に水魔術で水を作り出すと、そこに塩をひとつまみ投じる。そしてその薄い塩水を老婆に含ませた。それから再び老婆に治癒魔術を使う名目で、治癒魔術に病魔治癒スキルを乗せて使う。
「ああ、不思議です。急に息をするのが楽になりました」
「大丈夫です。貴方の中に居た病魔は今払われました」
これまで息をするのも辛そうにしていた老婆がはっきりと物を言うのを聞いてシスターたちがどよめく。俺は急かされながら次々と患者たちに塩水を与えながら、病魔治癒スキルを使っていくのだった。
やがて最後の患者を治癒する頃になると、部屋の中からは半数ほどの患者がすでに居なくなっていた。元気になった彼らは礼を言ってさっさと立ち去ってしまったのだ。まあ、居座られても困るのでそれはそれでいいのだが。
「ありがとうございます。魔術士様。まるで聖人様のようです」
「聖人だなんてとんでもない。ただ少し恵まれた道具を持った魔術士ですよ」
「旅をする貴方様が疫病に見舞われたこの時にこの地を訪れたのもきっとカトゥネ様のお導きでしょう。まるでレオノーラ様のよう」
「レオノーラ?」
覚えのある名前につい聞き返してしまう。
「あら、旅の方ではやはりご存知ありませんか? 神の恵みを受けた剣の申し子、剣聖レオノーラ様が魔族の討伐が行われているちょうど今、この地を訪れていらっしゃったのです」
「そうですか……。そのレオノーラ様とはお知り合いで?」
「教会にお祈りに参られた時に少しだけお話をさせていただきました。凛々しくて、美しくて、まるで夢のようでした」
目を輝かせて語るクラーラはまるで恋する乙女のようだ。俺は罪悪感で胸が押しつぶされそうになる。
「少し魔術の使いすぎで疲れたようです。後はお任せしてもいいですか?」
「これは気が付かなくて申し訳ありません! その実はお礼に差し上げられるようなものが……」
「旅の無事を祈ってください。それで十分です」
「毎朝、毎夜、必ずそうさせて頂きます」
「レオノーラ様の無事も同じように?」
「はい。一緒で申し訳ないのですが」
聞かなきゃ良かった。
「なにを文句の言いようがありましょう。よろしくお願いします」
無理した笑顔を疲れのせいだと思ってくれればいいのだが、と、そう祈りながら俺は教会を後にした。そしてそれ以上観光という気にもなれずに宿屋の自分の部屋に直行する。
「お前の出番は終わりだよっと」
聖なる銅のカップは俺の荷物袋の中に放り込まれた。