第十話 吸魔
アレリア先生は言っていた。
魔界の植物を口にすれば、たとえそれが麦の一粒でも嘔吐する、と。
では魔界産の小麦粉が振りまかれた干し肉を食べた場合はどうなのだろうか?
俺は覚悟を決めて嘔吐感がやってくるのを待った。
村人から恨まれているのは知っていた。何かしてくるかもしれないとも思っていた。このような手段を使われるのは想定外ではあったが、この程度のことで村人の気が少しでも晴れるならむしろ受け入れるべきだろう。
せいぜい見すぼらしく、情けなく、げぇげぇと吐いてやるべきだ。
しかし一向に嘔吐感はやってこなかった。
やがて昼休憩が終わり、村人たちが腰を上げ、歩き出すに至っても、未だ。
嘔吐感が訪れるどころか、なんの不調も起こらなかった。
摂取した小麦粉の量が少なかったからだろうか? そこに閾値は存在しているのか? アレリア先生の言を、俺は“ほんのわずかでも”という意味に取っていたが、それが間違いだったのだろうか?
俺はテオドールを通じてアレリア先生に確認を取ろうとスマホを取り出した。先ほど散々村人のスキル上げに使われたスマホの画面はスキル値を表示した画面のままだ。
これはちょっとした癖なのだが、俺はホームボタンをあまり押さない。バックボタンを押して画面を巻き戻していくという癖がついている。だからこの時も何気なくバックボタンを押した。すると村人の一人のスキルを表示していた画面から、俺のスキルを表示した画面に切り替わる。
俺自身のレベルも上げられる状態になっていた。
魔界の小麦粉を食わされる経験はレベルを上げるには充分なものだろう。そんなことを思いながらレベルを上げ、いつものようにスキルを割り振ろうとして、その手が止まった。
習得可能スキル一覧の中に見つけてしまったのだ。これまでは存在していなかった、存在するはずのなかったスキルの名前を。
ーー吸魔スキル。
それが俺の習得可能スキル一覧の中に確かにあった。恐る恐る指を伸ばして吸魔スキルを習得する。習得できる。できてしまった。
途端に世界が変わった。
目に見える世界が変わったわけではない。肌が触れる大気に魔力が混じっていることが分かる。これはまるで魔力を体外に放出したときのような感覚に近い。これまでは密度が薄すぎて感じなかったそれを今は濃密に感じることができる。
集める。
体外の魔力を意図的に俺に向けて集中させる。枯渇寸前だった俺の魔力はあっという間に回復する。ほぼ全回復だ。吸魔スキルを持っている他の村人とは比べ物にならないほど回復速度が早い。
それだけではない。呼気からも魔力の回復を感じる。感じるほどに早い。
おそらくだが、これは魔力操作のコツを知っているかどうかの違いだ。俺は魔力操作スキル自体は習得していないが、やり方自体はユーリアから聞いて知っている。実際にスキル3程度には扱えているそうだ。
吸魔スキルによって体外の魔力を吸い上げる感覚は、この魔力操作の感覚に近いものがある。それとも呼気からの回復が基本で、この強制的な吸い上げは応用に当たるのかもしれない。
そこまで考えてから、ようやく俺は根本的な疑問に思い至った。
なんで俺が吸魔スキルを習得できるんだ?
俺が魔族で無いのは間違いない。何故ならば人族の食事を嘔吐せずに摂取できているからだ。しかし一方で、俺は魔族の小麦粉をわずかばかりだが口にしたものの嘔吐しなかった。
「誰か、誰か食べ物を持っていないか!?」
村人たちは視線を彷徨わせたが、やがて一人が林檎に似た果実を俺に渡してくれる。
「これはまぞ、人族の食料で間違いないな?」
怪訝そうな顔で見られるが、それが答えということだ。
俺は覚悟を決めてそれを齧った。シャクと瑞々しい味わいが口の中に広がる。ってか、林檎だ。これ。
久々の瑞々しい食料に、俺はあっという間に林檎を平らげた。
さあ、どうだ。いくらなんでもこの量を食えば嘔吐しないわけがないだろう。
しかし、意外なことにというべきか、予想通りというべきか、嘔吐感はいつになってもやってこなかった。
結論はこういうことだ。
つまり俺は人族でもないということだ。
考えてみればちっとも不思議な話ではない。この世界には人族と魔族がいるが、もう一種、別の人種が存在している。つまり俺のような地球人だ。そもそも異世界からやってきた生き物をこの世界の生物の枠に嵌めて考えようというのが間違いだったのだ。
そして魔力を流し込まれることが魔術士スキルの開放条件だったように、魔界側の食料を摂取することが、吸魔スキルの開放条件だったと考えれば納得が行く。
俺は吸魔のスキルをステータス偽装で隠す。先の戦闘で俺のステータスはアンデモンド公国軍に見られただろう。魔族を奴隷のように使役して人族に仇なす人族のオスカーとして、ブラムストンブルクから旅をしてきたオスカーという男は記録に残ることになる。
名前を変えておくべきだったな。
と、今更ながらに後悔する。
ユーリアたちはもうアンデモンド公国にはいないだろうから、さほど心配する必要はないだろうが、オスカーと共に居た者としていずれ嫌疑がかかる可能性がある。いずれかのタイミングで彼女らの名前をまた変更しなければならないだろう。
「あんたは亜族じゃなかったのか……」
考え事をしていたらそんな風に声をかけられた。
見れば林檎を渡してくれた村人が、俺の様子が変わらないのを怪訝に思ったらしい。
「呪い師だからな。そういうこともあるのさ」
「そうなのか」
恐る恐ると言った感じで村人は俺から距離を取った。
正直なんと答えればいいのか分からなかったので適当に答えた。何にせよ、これで食糧問題が解決したのがありがたい。干し肉は干し肉で大事に食べるつもりだが、普通の食事が取れるにこしたことはない。
俺はフィンから杖を返してもらい、吸魔スキルを利用しながら村人に治癒魔術をかけ続け、強行軍で夕刻に入る前にはルーの村に辿り着いた。
そしてルーの村では、やはりというか、避難の準備はろくに進んでいなかった。村人たちはいつも通りに畑仕事に精を出し、牧歌的な風景が広がっている。
俺は真っ直ぐに村長宅に向かう。
「村長! 亜族の軍隊は隣の村まで迫っています。今すぐ村人に避難の準備をさせてください!」
「それは確かですか?」
「隣村の避難民を連れてきました。もはや一刻の猶予もありません」
「アルンも一緒ですか? 是非とも彼に話を聞きたいのですが」
アルンというのはグルッコの村の村長の名前だ。俺はすぐに彼を連れて村長の家に戻ってきた。2人はしばし話し合い、ようやく俺の言っていることが事実だとルーの村の村長も理解したらしい。
「分かりました。すぐに村人に避難の準備をさせましょう。しかしとても避難に耐えられないような者もいるのです」
「俺ができるかぎりサポートします。体力は回復させますし、病気なら治します。歩けない者がいるなら誰かに背負わせましょう。問題があるなら言ってください。できる限りのことはしますから」
百名を超える避難民が押し寄せたことで、村の中は騒然としていた。仕事に出ていた者も、ほとんどが村に戻ってきて何事か確かめようとしている。亜族の軍隊が攻めてきたことについては避難民の口から村人たちに知らされるだろう。
俺は病気を患っているという者のところに行って、病魔治癒を使い、彼らの病を回復させていった。
狩りに出ている者には村の者が知らせに走った。
村人たちは素直に避難の準備を始めた。とは言ってもこれまでろくに旅などしたことのない人々だ。天幕の準備も無ければ、馬車の数が足りているわけでもない。とにかく日持ちのする食料を馬車に詰め込んで、後は歩いて行くしか無い。
準備をしているうちに太陽は天球に沈み、夜がやってきた。避難民はそれぞれに村の家々で屋根を借りることになった。俺はルーの家に厄介になることになったが、他にも避難民の家族が4人ルーの家で屋根を借りることになる。
夕食は豪勢に振る舞われた。どうせ持っていけない食料を使えるだけ使ったようだ。俺も相伴に預かることにした。
「オスカーさんは亜族だったんじゃ」
「それがなんでかは自分でも分からないけれど、食べても大丈夫らしい」
「それじゃ沢山食べてくださいね」
ルーはあまり疑問に思わなかったようだ。
亜族――つまり人族――が、自分たちと同じ食事を受け付けないということを知識としては知っていても、実際にそれで苦しむ人を見たわけではないだろうから、そういうこともあるのかと簡単に受け入れられるのだろう。
事はそう単純ではないのだが、それをわざわざ説明する理由もない。
食事が終わった頃に村人からの呼び出しを受けて、俺は村長宅に向かうことになった。村長宅にはアルン村長や、その他にも幾人かの村人が集まって頭を突き合わせて何やら重苦しいムードで話し合いをしていた。どうやらこれからのことを話しあう場に俺も招待されたようだ。
「オスカーさん、よく来てくれました。是非とも貴方の助言も頂きたい」
「助言も何も、俺はこの国のことを全然知りません。チャムオンに向かうルートなどについてはあなた方のほうがよほど詳しいのでは?」
「ええ、ですが亜族の軍隊がどう動くのか我々にはよく分からないのです。その辺について助言を頂ければと思いまして」
「どれくらい力になれるか分かりませんが」
ハシュゼットという国は長らくの間平和が続いていた。とは言え常備軍が無いわけではない。要所要所には砦もあり、アンデモンド公国軍もそれらを無視しては進めないだろう。
「亜族はこの国を滅ぼしてしまうつもりなのでしょうか?」
「ハシュゼットにはどれくらいの軍隊があるんですか?」
「……分かりません」
誰もが首を横に振った。地方の農村の人々がそれを知るのは難しいだろう。
「なんにせよアンデモンド公国軍は長期戦はできません。補給の問題がありますから、チャムオンを落とそうとまでは考えていないはずです」
アンデモンド公国軍は自国からの補給のみで数千人の軍隊を維持しなければならない。食料の現地調達ができない以上、長期戦は望めないはずだ。
「ですので、皆さんがチャムオンまで避難できれば一先ず安心だと俺は考えます」
「だけどあんたは亜族なのに俺たちと同じ食料を食べられるじゃないか。例の軍隊だって同じかもしれない」
「それはないはずです」
俺が人族と魔族の食料をどちらも摂取できるのは、おそらく俺が地球人だからだ。だがそれを説明するのは難しい。異世界からやってきたからと言っても信じてもらえるかどうか分からない。むしろ一層俺に対する疑いを深くするだけだろう。
「それよりあんたの力で俺たちを全員強くして連中と戦ったほうがいいんじゃないか?」
「貴方の力についてはアルンや避難民から聞きました。恐ろしい力です。ですが、それでこの村を守ることはできませんか?」
二百人の避難民、そのうち戦える者が半数だとして百人を強化して平均スキル7まで上昇させたとする。それは恐ろしいほどの戦力になるはずだ。確かにちょっとした軍隊くらいなら蹴散らしてしまえるだろう。
しかしそれでも、
「勝てるとは限りませんし、犠牲は出るでしょう。避難するのが堅実です」
アンデモンド公国軍が本気で俺たちを潰しにくれば数千の軍隊が押し寄せてくる可能性もあるのだ。その中にはスキルの高い者も混じっているだろう。そうなると必ず犠牲は出てくる。
「ですが万が一のことを考えて強くなっておきたいという者がいるのなら協力は惜しみません。無事に避難できるという確証もありませんから。ただしご存知の通り、そのためには俺と契約を結んでいただく必要があります。それは俺の命令に逆らえなくなるということです。そのことを周知した上でお願いします」
「分かりました。それでは希望者を募っておきましょう」
その後は街道を避けて移動することなどが決められて夜は更けていった。