第三話 帰郷
心配していたようなことは何も起こらずに朝になり、出立の支度を整えた俺たちは村長に挨拶をして、この農村を後にした。村長の話によるとルーの村はこの村からは北西に進んだ位置にあり、街道を進めば迷うこともなく到着するという。山の麓を進む道なので、迷いようもないようだ。
草原の中に踏み固められた土の道を行く。馬車の行き来があるのか、轍ができている。
魔界とは言ってもその光景は人界のそれと何も変わらない。
この世界に来たばかりの時も思ったことだ。魔界という言葉から連想させる光景からは程遠い。それも当然のことで、魔界と言う呼び方は人界の人々からの一方的な呼び方だ。魔界の人々は自分たちの住む環境を現界と呼び、自らを人族と呼んでいる。どちらも自分たちが本当の人なのだと主張しているのだ。
もしも、これは本当にもしもの話だが、もしも彼らと俺たちで食べられるものに違いが無かったら、俺たちは何事もなく共存できていたのかもしれない。
いや、食べるものが違うから共存できないということはないのではないか?
ふとそんな考えが頭をよぎる。
「アルマ、魔界の植物も人界の植物も、育つ環境に違いがあるわけじゃないんだよな」
「それはもう君だってよく知っていることだろう。だからこそ混生地帯のような、人界と魔界の入り混じった領域が発生しうるのだから」
「じゃあさ、同じ畑で人族と魔族の食料を生産することもできるんじゃないか?」
「理屈の上では可能だ。人界で出回っている魔族の食糧の生産にはそういう手法が使われている可能性もある。だが両者を混同しないようにする注意が必要だろうな。例えば見たかい? さっきの農村ではキャベツにしか見えない作物を育てていた。いや、彼らは彼らでキャベツと呼んでいるのかもしれない。しかしあれらは魔族の食料であるからには我々が食べられるものではない。残念なことにこれらの見分けは非常に難しいんだよ」
「まあ、確かに混ざってしまうと困ったことになるよな。一々食べて確認するわけにもいかないし」
そういう見分けに鑑定スキルが使えないのはどうなっているのかと問いたくなる。ステータスにしても名前や能力、契約にスキルは確認できるが、種族については記載されていない。吸魔のスキルがあるから人族と魔族の見分けはつくが、その括りの中でどの種族か、ということになると外見から判断するしか無いのだ。
「野菜の類なら注意深くより分ければ問題が無いかもしれないが、穀物となるとどこかで混じるだろうな」
「実際のところ、拒絶反応ってどれくらいのものなんだ?」
「これはあくまで文献からの話ではあるが、試しに魔界の麦を一粒食べて見た学者がいる。見事に嘔吐したらしい」
「それはまたすごい人だな。自分の体で試してみるとか」
「学者というのはそうものさ」
1つの村程度の規模ならば人族と魔族が一緒に暮らすこともできるかもしれないと思ったが、それは大きな間違いであったようだ。日々口にする食物に毒物が混じるかもしれないなんて考えながら生きるのは難しいだろう。できるかもなんて考えた俺でも、そんな生活は御免だ。
「例外があるとすれば混生地帯に住む野生生物たちだろうな。彼らは見事に共存している」
「そう言えば馬も勝手に草を食んでいたけど、ちゃんと食べられる草を分かっているみたいだったな」
「野生生物にはそういう嗅覚が備わっているのだろう。ところでオスカー君、どうしてそんなことを聞いてくるんだい? いや、おおよそ想像はつく。当ててみせようか。君は人族と魔族が共存できないかと考えているんじゃないかい?」
「うっ、分かりますか」
考えていたことを言い当てられてつい敬語が出てしまう。
「いかにも君が考えそうなことだからな。それに実を言えば私も考えていたのだ。魔族に抵抗の無い人族、人族に抵抗の無い魔族、我々はそんな特徴を持った2つの村を訪れた。私の常識からすればあり得ないことだったが、彼らは現に存在していて、その事実に目を背けることはできない。ゆえに私もその可能性を否定出来ない」
「しかし食料の問題は残るか」
俺がそう言うとアレリア先生はまじまじと俺の顔を見つめた。
「そういう言葉を聞くと、君は本当に別の世界から来たのだなと思い知らされるな」
「どういうこと?」
「人族と魔族が共存するにあたって、君が懸念する最大の問題は食料なのだろう?」
「まあ、そうだな」
人族と魔族を分け隔てている最大のモノが何かと考えれば、それは食料だろう。見た目の違いや、言語の違いなんかは人族の間でもあるものだ。それでも人族はおおむね共存している。魔族がその繋がりから断絶されているのは、食料の違いによって生存圏自体が断絶されているからだ。
「だが私に言わせれば人族と魔族の共存を目指す上で最大の障害となるのは感情だよ」
「感情?」
「そう、感情だ。魔族は敵だ。魔族は悪だ。我々人族はそう教育される。親から子へ、あるいは私のように学び舎で、人族は魔族への悪感情を刷り込まれる。それは魔族と戦い続けてきた歴史に基づいた根拠のある感情だ。今更、魔族と手と手を取り合って生きていきましょうとか言われても、そうだな、この感情を言葉にするのならば、困る、というのが適切かな。これでもルーと生活を共にしたり、魔族の村で歓待された上で出てくる感情だ。一般の人々はもっと強烈な反発を示すだろう」
「だけど魔族に対して抵抗の無い人々もいるじゃないか」
「そうだ。だから可能性を否定出来ないと言った。だけど、オスカー君、それを一般的なことだと思わないほうがいいということだ。なにか特別な環境があって、人族と魔族が共に暮らす場所があるかも知れない。それは現にあるかも知れないし、これから作ることができるかも知れない。しかしそれが一般化することはまず無いし、あり得るとしてもすぐにというわけにはいかないだろう」
「そうか、人族と魔族が争わずに暮らしていければと思ったんだけどな」
「君は……」
アレリア先生は目を細めて俺のことを見つめたかと思うと、その視線を馬の行く先に戻した。
「俺は、なに?」
「君は人族だよ。それを忘れないほうがいい。私から見ると君は随分と危なっかしいことを言っているんだ。少なくともそういうことは私たち以外の前では口にしないほうがいい」
「分かった」
それで会話は途切れた。
結局のところ、人族と魔族の共存は不可能事ではないにせよ、今のところ現実的ではないということだ。
そしてそれが現実味を帯びるには長い、長い時間が必要になるだろう。俺は頭を振った。とても自分の頭で想像がつくことではなかったからだ。
「村です!」
何か悪い思考のループに陥りかけていた俺を救い上げたのはルーのそんな声だった。
気がつけば時間は昼を大きく過ぎて、ルーの故郷に到着してもおかしくない時間になっていた。
顔を上げて見れば丘から見下ろせる低地の湖のほとりに、小さな集落と言って差し支えないような建物たちが見えた。
「あたしの村です。間違いありません」
テオドールの後ろで、ルーは体をそわそわさせている。本当には今にも馬を降りて駆け出したいのだろう。
「それじゃちょっと急ごうか」
俺たちは馬で丘を駆け下りた。時間にすればほんの一時間程度のことだったが、ルーにしてみればかつてないほど長い一時間だったに違いない。さすがに駆け馬のまま村に入ると一大事になりそうだったので、村の前で速度を落とす。
他の村でもそうだったように建物の周りには畑があって、今は作付けの季節であるらしく、農夫が忙しく働いている。
「おーい!」
そんな人々に向かってルーは馬から身を乗り出して手を振った。
「どうする? 挨拶していくのか?」
「いんえ、家に向かってください。この時間ならお母ちゃんがいるはずなので!」
「じゃあ案内してくれ」
ルーの案内に従って馬を進めるテオドールに付いていく形で、俺たちはルーの故郷の村を進んだ。やがて住居の並ぶ一角でルーはいても立ってもいられなくなり馬から飛び降りた。木造の家に向かって駆け寄ると、ルーは、
「ただいま!」
と、声を上げて扉を開いて中に駆け入った。
それを見送った俺たちはそれぞれに馬から降りる。
「良かった、です」
ぼそりとユーリアが呟いた。
母親を喪っているユーリアにしてみれば、辛いことがあったにせよ、帰る家があり、母が待っているというのは羨ましいことだったのかもしれない。それを思うと胸が締め付けられて、俺はユーリアの頭を撫でた。
するとユーリアは俺に身を寄せる。
「ああ、良かった」
しばらくユーリアの温もりを感じていると、家の戸口からルーが泣きはらした顔を覗かせた。その後ろからルーの面影のある女性が現れる。ステータスによると名前はルー・フェン・ツァイ。隣村の村長から聞いた話と一致する。彼女がルーの母親だろう。
「この度は娘が大変お世話になったそうで、どうお礼をすればいいかも分かりませんが、とにかくありがとうございます」
そう言ってルーの母親は俺たちに向かって深く頭を下げた。
「その、顔を上げてください。旅のついでみたいなものですから」
「しかし、その私たち家族にはお礼に差上げられるものが何もないのです」
「ええ、ルーから、そのルーさんから、そうだろうとは聞いています。見返りを求めたりはしませんからご安心ください」
「でも何もお礼をしないというわけにも、ああ、でも亜族の方に差上げられるものなんて」
「いいえ、本当に大丈夫ですから」
それでもお礼は、お礼はと繰り返すルーの母親をなだめるのには少し時間が必要だった。というのもどうやら本当にお礼をしたいという気持ちもあるのだが、それ以上にこの村の文化として、人から受けた親切にはきちんとお礼を返さなければならないというものがあるらしく、それをちゃんとしなければ、今後の村の生活にも影響するというのだ。
いい習慣だとは思うのだが、強制されてはたまったものではない。そうなると何も受け取らないというわけにもいかなくなる。しかしルーの実家には贈れるような物が無い。
「それでは一晩宿を貸していただけませんか?」
「しかしそれだけでは」
「それでも何も無いよりはマシでしょう」
ルーの母親はしばし考えた。
「……それでは精一杯のおもてなしをさせてください」
「食べ物はダメですからね」
そう言うとルーの母親は困ったように眉をひそめた。