第二話 魔族の村にて
アルカム山脈に挑み始めて、3日目。
いくつか目の尾根を越えて、木々の隙間から平野部が広がるのが見えた時、俺たちは最後の尾根を越えたことを知った。
ブラムストンブルクは遥かに遠く、ここはすでにハシュゼットの、つまり魔界の領域であると言っていいだろう。ただ植生だけは人界のものと魔界のものが入り乱れていて、馬はどうやって見分けているのか、その辺の草を勝手に食んでいる。嘔吐している様子は無いから、ちゃんと見分けがついているのだろう。
野生生物も動物と魔物が入り乱れている。ハンスは時折俺たちの足を止めさせ、弓矢で獲物を落とした。魔物を狩ることも忘れない辺り、ルーへの気遣いが見て取れる。
「案内はここまでだ」
そうして山を降りきった辺りでハンスはそう言った。
「後は川に沿って行けば魔族の村に出る」
「ありがとうございます。助かりました」
ハンスは無愛想な男だったが、優秀な道案内であった。一度も道に迷うことも詰まることもなく、馬を連れたままで山を越えさせてくれたのだ。自分たちだけではとてもこうは行かなかっただろう。
ハンスは特に別れの挨拶をするでもなく、山の森の中に消えていった。
彼の背中を見送った後、俺はルーを呼ぶ。
「今からハシュゼットに入るけれど、その前に奴隷契約を解消しておこうと思う」
「はい。ありがとうございます。ご主人様」
「だから、そのご主人様はもう止めにして、オスカーと呼んでくれ」
「じゃあ、オスカーさん」
「それでいい。宣言する。オスカーはルー・フー・ルーに関する全ての契約をここに破棄する」
ルーの全権は俺が持っているので彼女の同意は必要ない。俺からの一方的な宣言で彼女の奴隷契約は破棄された。
それから俺たちは馬に乗り、ハンスに言われたように川に沿って森の中を下って行くことにした。しばらく進むと森を抜け、草原に変わる。さらにしばらく進むと明らかに手の入った畑などが見えるようになってきた。ぱっと見た感じは人族の作る畑と何も変わらないように見える。だがそれを耕しているのはオークの農夫だ。
皆がピリピリしているのが分かる。俺だって心がざわつく。
「ルー、ここは君の村か?」
「いいえ、違います」
「でも共通語は通じるんだよな」
「言葉は変わらないと思います」
そんなやりとりをしていると、俺たちの姿に気がついたのか、オークの農夫がクワを片手にこちらに近づいてきた。
「やあ、山の方からきた人。見ない顔だね。亜族の商売人かい?」
オークの言葉はやや聞き取りづらかったが、言っている内容が分からないというほどではない。
「ルー、亜族というのはどういう意味なんだ?」
「人族、つまりオスカーさんたちの言う魔族ではない人々のことです。ええと、分かりにくいですよね。私や彼は人族です。オスカーさんたちは亜族です。これでお分かりでしょうか?」
「つまり魔界に住む人々が人族で、人界に住む人々が亜族、という括りになるのか」
所が変われば立場も変わるだろうが、これはややこしいにもほどがある。言語が共通なだけにかえって分かりにくくなっている。
「私たちは魔界とは呼びません。現界、そしてオスカーさんたちの世界を亜界と呼びます」
「オーケー、現界に住む人は人族、亜界に住むのは亜族、ちょっと分かりやすくなった」
「亜族の人らで間違いねーようだな」
オークの農夫がゲッフゲッフと咳込みながら、後でルーから聞いたら笑っているのだそうだったが、クワを地面に突き刺して、そこにもたれかかるようにする。
「商売かい?」
「いえ、このエルフの娘を亜界で保護したので故郷に連れて行こうかと思っているところです」
「そうかい、お嬢ちゃん、名前は?」
「ルー・フー・ルーです」
「ルー・フー・ルー。聞いたことあるなあ。確か村長がなにか言ってたような気がするわ。案内するからちょっと待ってな」
そう言ってオークは畑から農道に上がってくる。
「いいんですか?」
「別に畑は逃げたりしないしな。おいらはグルッコだ。よろしくな」
どこかで聞いたようなことをグルッコという名のオークの農夫は言い、俺たちを先導するように歩き出した。
「ところで亜界ってのはどんなところなんだい?」
「少なくとも農村に関して言えば、こちらとほとんど違いはありませんよ」
「そんなもんかい」
その他にも請われるままに亜界の話を聞かせているうちに、住居の並び立つ辺りに差し掛かって、一件の家の前でグルッコは足を止めた。
「村長に話をしてくるからちょっと待ってな」
グルッコはそう言って、ノックをしてから家に入っていった。仲間たちもそれぞれに馬を降りて、背伸びしたりして体をほぐしている。というのもどこかで見たような気がする光景だ。
「魔族の村と言っても、人族のそれと何も変わらないな」
「うむ、私も驚いている。魔族が人族とそれほど変わりない生活をしているとは知っていたが、実際に目にするとな。しかも共通語が通じるというのだから」
「あまり警戒されてもいませんね」
シャーリエは辺りを見回しながらそう呟く。自分が守りの要だという自覚のある彼女にしてみれば魔族の村の中でリラックスというのは難しいのだろう。
「まあ、魔族の村に来る冒険者は大抵商売のために来るからな。なんかやらかすにしてもこっそりとやる。ルーをさらった冒険者が森の中で事に及んだようにな」
つまり堂々と村を訪ねてきた亜族は敵ではないということか。
そんなことを考えているとグルッコが一人の男性を連れて家から現れた。てっきりオークの村長が現れるのかと思っていたら、俺たちと変わらない外見の老人だ。つまりはエルフということなのだろう。
オークとエルフが仲良く共存しているというのも、なんだか不思議な感じだ。またひとつ日本の創作物から得た常識を捨て去らなければならないようだ。
「グルッコから話を聞きました。亜界でルー・フー・ルーを保護してくださったとか。ええと、どの娘がルー・フー・ルーですかな?」
「私がそうです」
ルーが一歩前に踏み出すと、村長は彼女の顔をまじまじと見つめた。
「ふむ、そうか、確かにルー・フェン・ツァイの面影がある」
「お母ちゃんをご存知なんですか?」
「知っているとも。おまえさんは運がいい。ここはおまえさんの村の隣村だよ」
「そうなんですか!」
ルーが声を弾ませる。
無理もない。いくらハシュゼットの領域に戻ってきたとは言っても、故郷がすぐに見つかるとは限らなかった。彼女にしてみれば不安で一杯だったはずだ。
「お客人に礼を言わなければなりませんな。この娘の両親はたいそう心配してほうぼうに連絡を取っていたのですよ」
「お礼を言われるほどのことでも……」
確かに俺たちはルーを保護したが、無事に保護したとは言えない。彼女は大いに傷つけられた。それは取り返しのつかないものだ。俺たちに責任のある問題ではないが、快く礼の言葉を受け取る気にはなれない。
「謙虚なことは結構ですが、礼の言葉くらいは素直に受け取るものですよ。我々の同族を連れ戻してくださってありがとうございます」
「はい。どういたしまして」
諭すように言われては受け入れるしかない。
「それでルーの村まではどれくらいの距離になるんでしょうか?」
「徒歩で一日というところですな。馬をお持ちだからもっと早く着けるでしょうが、山を越えてきてお疲れでしょう。今日はここで休まれては? 幸い空き家もあります。ゆっくりされていかれるとよいでしょう」
時間は昼を大きく過ぎ、もうすぐ夕方に入ろうとしている。一刻も早くルーを両親の下に返してやりたいのも山々だが、夜闇の中を進んで迷っては元も子もない。それに治癒魔術を使っていたとは言え、山越えの疲れが全くないわけではない。屋根のあるところでゆっくり休めるというのは誘惑だった。
「ではお言葉に甘えようと思います」
「それは良かった。食事のおもてなしこそできませんが、ゆっくりしていってくだされ」
「ありがとうございます」
幸い食料はハンスが山で獲物を仕留めてくれていたお陰で、出発時と大差ない。馬の飼料のことを考えなければ、しばらくは魔界に滞在することも可能だ。
「じゃあおいらは畑に戻るでよ」
「グルッコさんもありがとうございました」
「おいらこそ、色々聞けて楽しかったよ。娘っ子を送って行って帰る時にはまたこの村さ、立ち寄るといいさ」
「近くを通るようならそうします」
「それじゃあな」
グルッコは大きく手を振ると畑の方に戻っていく。
「それでは空き家にご案内しましょう」
エルフの村長に先導されて俺たちは魔族の村の中を歩く。すると物珍しさからか、どこからともなく魔族の子どもたちが集まってきた。
「ねーねー、どこからきたのー?」
「おねえちゃんはどうして兎の耳が生えてるの?」
エルフやオーク、それからゴブリン、それ以外にも名前の分からない種族の子どもたちが俺たちの周りを取り囲む。
「こらこら、おまえたち、お客人をあまり困らせるようなことを言うでないよ。この人たちは遠くからきて疲れているんだよ」
「いえ、ちょっとくらい構いませんよ」
山を越える前の村でアレリア先生を生贄に捧げた罪悪感がちらりと胸をかすめて、俺は子どもたちに答えてやることにする。
「俺たちはブラムストンブルクというところから来たんだよ」
「ぶらむすとんぶるく?」
「しらないー」
「どこなの、それ」
俺はアルカム山脈を指さた。
「あの山を越えてまだずっとずっと向こうにある街だよ」
「おじちゃんたち、猟師なの?」
「どうして?」
「お山には猟師しか入っちゃダメなんだって、父ちゃんが言ってた!」
「まあ、猟師でもあるかな」
狩人スキルがあるので、猟師を名乗っても、まあ嘘ではないはずだ。
それから子どもたちの無数の質問にできるかぎり答えながら、村長の後を付いていく。村長宅から少し歩いた、住居の立ち並ぶ辺りからはちょっと離れたところにある家に案内された。
「昨年から住んでいる者がいないので埃っぽいとは思いますが、野宿よりはマシでしょう」
「いえ、助かります。明日、出発する前には一度挨拶に伺います」
「そうしてください。ほら、子どもたち、質問はここまで。お別れしなさい」
「はーい。おじちゃんたちバイバイー」
「バイバイー」
子どもたちが唱和して、別れの挨拶をする。俺たちもそれに応えて、それから長らく空き家だったという家の中に落ち着いた。
「にしてもおじちゃんか。ちょっとショックだったな」
「子どもから見たらそんなものだよ。気にするようなことでもないさ。私もさんざんおばちゃん扱いされたからな。まあ、実際、私はおばちゃんだが……」
「いや、アルマはまだまだ若いって」
「君のいた世界ではそうかも知れないが、この世界ではなあ」
「そうだ。掃除をしましょう!」
どんよりとアレリア先生が落ち込みかけたところで、シャーリエが手を打って建設的な意見を言う。
家の中の家具などには布が掛けてあって、確かにその上には埃が積もっていたが、布さえ取り払えば問題なく使えそうだ。窓や戸を開けて、布を取り払うと、後は風魔術で埃を家の外に吹き飛ばしてしまう。
「寝室は2つで、ベッドは1つずつですね」
「女性陣に使ってもらおう。テオドール、それでいいだろ?」
「まあ、そう言うだろうと思ったし、文句はねーよ。しっかりした屋根があるだけありがたい」
そんなわけで、部屋割りはアレリア先生とシャーリエ、ユーリアとルーということになり、俺とテオドールは居間で夜を過ごすことになった。ソファなどもないので、板の間に布を敷いて寝ることになるが、テオドールが言った通り、しっかりした屋根があるだけで、天幕とは違う安心感がある。
ただ夜は交代で誰かしら起きていることにした。この村の人々が友好的に見えたとは言っても、俺たちは余所者で種族もまるっきり違う。俺たちに害意を持つものが村人の中にいないとも限らない。そうでないと思いたいが、それは俺の単なる希望的観測でしかない。
そんなことを決めている内に、太陽が昇り、俺たちは夕食の支度にとりかかったのだった。