第六話 戦士ジェイド
天球が明るくなり、この世界の朝がやってきた。
空の半分を巨大な惑星が覆うこの光景に慣れる日がいつかやってくるのだろうか? 今はとてもそんな気にはなれない。惑星の見た目は昨日とは多少違っているようだ。木星にあるような大斑点が見えている。この大地があの惑星の衛星だとしたら、昨日の夕方見た辺りのちょうど反対側を見ていることになるのだろうから見た目が違うのは当然だろう。
そして目が覚めたら記憶も戻り、元の世界、という希望も叶わなかった。記憶の無い俺からすれば、それは本当に儚い希望だったけれど、せめて温かいベッドの上で目覚めたかったとは思った。
残念ながら一夜が明けてもレベルは上がっていなかった。
馬小屋じゃないのがいけなかった、ということはあるまい。どうやら睡眠や時間経過はレベルアップの条件ではないようだ。
慌ただしく朝食を取り、野営地を冒険者たちが片付けているのを俺は少し離れて眺めていた。エリックさんの助言通り、魔術士への道が絶たれると確定するまでは極力なにもしないという方針だ。自分としてはなにも手伝わないことに良心の呵責を感じたが、同じく片付けを免除されているアレリア先生からの質問攻めに答えるのに忙しかった。
そんなことをしている間に出立の準備はできたようだ。
四匹の馬はそれぞれイケメン中年、大剣さん、長槍さん、エリックさんが乗馬し、エリックさんの馬には荷物が多めに積まれている。アレリア先生は大剣さんの後ろに、ユーリアはイケメン中年の後ろに乗るようだ。ということは消去法で俺が乗馬するのは長槍さんの後ろということになるのだろう。
どうせなら昨日話して打ち解けたエリックさんの後ろが良かったが、わがままを言えるようなものでもない。だけど長槍さんは無口でちょっと苦手な感じではある。いっそ会話を諦めてしまうのも手ではあるのだろうけれど。
とは言え、何も言わないわけにもいかないだろう。ええと、この人の名前はなんだっけか。
「あの、ジェイドさん、よろしくお願いします」
「…………」
ほらね、返事無しだよ。
言っては悪いが、この冒険者たちの中で格段にとっつきにくい人だ。いっそはっきり嫌っていると意思表示してくれれば分かりやすいのだが、この人の場合は何を考えてるか分からないんだよな。レベルの低い人には興味が無いという話だったが、それが本当ならレベル1の俺なんかカメムシ以下の存在に違いない。カメムシのレベルっていくつなんだろう? 鑑定ができるようになったら調べてみよう。
「……乗れ」
ぼやぼやしていたら急かされてしまった。
しかしどうやって乗るんだ。
この馬たちは競馬なんかで見るようなサラブレッドではなく、どちらかと言うとポニーのような背の低い馬だったが、それでも乗馬経験なんて無い――であろう俺に乗り方なんて分かるはずもない。
するとジェイドさんがため息をひとつついて、手を差し伸べてくれた。その手を取るが、それからどうしていいか分からない。
「あぶみに足をかけろ」
あぶみってのは、馬に乗る時に足をかけるやつのことだろう。そこに足をかけると、ジェイドさんがぐいと手を引いて俺の体を馬の上に引き上げてくれた。
「う、わ……」
ジェイドさんにしがみつくようになりながら、なんとか馬の背にまたがる。
「掴まってろ」
言われるままにジェイドさんの体にしがみつく。両手を回そうとしても体が大きい上に皮鎧のせいで、とてもじゃないが手がとどかないので、どちらかというと鎧にしがみつくようになってしまった。
「よし、準備できたな。先生、アルゼキアへ帰還します。いいですね」
「よろしく頼む。安全第一だ」
「了解しました。それではみんな出発だ」
こうして一行は俺が召喚された遺跡群から出発した。
馬の旅ははっきり言うと最悪だった。馬を走らせることはしないのだが、それでも一歩ごとに尻が揺れる感触にはとても慣れられそうにない。騎乗スキルなるものがあるなら、今すぐ習得したいほどだ。不安定に揺れるせいでジェイドさんにしがみつく手も力が入ってガチガチになっている。これならいっそ歩きたいが、馬を歩かせているとは言え、徒歩でついてこれるような早さでもペースでもない。俺は景色を見る余裕も、ジェイドさんに何か話しかける余裕もなく、ただただしがみついているしかなかった。
昼飯はスープ無しの堅パンだけだった。
震える手でそれをむしって咀嚼していると、ユーリアが隣にやってくる。
「だいじょうぶ?」
「なんとか、ね。ユーリアは平気なの?」
本当はもう限界近かったが、それを女の子の前では出さないのが男の子ってもんだ。
他の皆のように何かに腰掛けてないのも、尻が痛くてたまらないからだが、バレバレでも口にはしない。
「慣れてる……から」
慣れとは恐ろしいものだ。俺もこの馬旅に慣れる日が来るのだろうか?
「治癒魔術使って、いいですか?」
「あ、えーと、お願いします」
男の子の意地なんてこんなもんだった。
ユーリアが杖の先を俺の体に当てると、そこからすぅと温かいものが流れ込んでくるような感じがあって、あっという間に手と尻の痛みが引いていった。それに疲れていたはずの体もなんだか軽くなる。これが治癒魔術か。すごい。
「体力、減ってた、から……。もう、だいじょうぶ、です」
「そうか、ステータスで体力とか見えるんだ」
俺の意地っ張りなんて文字通り見え見えだったわけですね。恥ずかしい。
「俺の体力ってどれくらいなの?」
「今が78、です」
「それって多いの、少ないの?」
「……?」
返事はきょとんと首を傾げる仕草だった。可愛い。
「……体力はみんな80、くらいにするようにするのが鉄則、だから」
「みんな? じゃあユーリアの今の体力っていくつなの?」
「私は、83、です」
「アレリア先生は?」
「先生は74、です」
「エリックさんは?」
「エリックさんは88、です」
「ジェイドさんは?」
「ジェイドさんは72、です」
「みんな同じくらいなのか」
「そうなるようにするのが、大事、です」
何か会話に齟齬のようなものを感じる。
体力ってのはいわゆるヒットポイントとは違うのだろうか?
「回復前の俺の体力はどれくらいだったの?」
「53でした」
「それって最大値はいくつなの?」
「最大は100です」
「みんな?」
「みんな、です」
ヒットポイントというよりは、最大値100固定のスタミナみたいなものなのだろうか?
「ちなみにゼロになると死ぬ?」
「死んだらゼロになります」
なにか微妙に食い違いがあるような。
「ワン君はユーリア嬢にべったりだな。分からないことがあれば聞く相手が違うだろう」
「アレリア先生、いや、別にユーリアを優先してるわけじゃなくて、あ、いや、ユーリア優先にしたいですけど」
ユーリアがぷぅと頬を膨らませたので慌てて言い加える。なにこの可愛い生き物。
「君はもう尻に敷かれてるな。まあいい、ステータスの項目のひとつ、体力についてだったな。これは文字通りその個人の体力を割合で表示しているものだ。パーセント表示と言って分かる……みたいだな。ゆえに数値そのものは個人差が大きい。例えば同じ距離を全力疾走したとしても減る体力は人によって違う。だから一概にまとめて扱うのは難しいんだが、指標としては扱いやすい。例えばこういう旅の道中では全員の体力が80を割らないように行動する、というようにな。ただし今回は70に設定しているし、君の体力は考慮の外だ。減りやすいのは分かっていたからな。飯を食って少し休めばジェイド君だって80半ばまでは回復するだろう。それから妙なことを聞いていたな。ゼロになったら死ぬのか、だったか?」
「ええ、はい。俺のイメージする体力という数値はゼロになったら死ぬというものだったので」
「ふむ、言葉のニュアンスに多少の違いはあるのかもしれないが、あえてそれを無いものとして答えよう。体力はゼロになったら死ぬのではなく、死んだらゼロになるというのが正解だ。1でも残っていれば、それはまだ息があることを示している。もっともそれはほとんど死んでいるのと変わらないがな。重傷を負い死ぬ寸前、あるいは病に倒れて死ぬ寸前、というのでもなければ体力が10以下になるということは早々無い」
「それはつまり逆に言えば体力がどんなにあっても、一撃で死ぬこともある、と」
「それは当たり前だろう。頭が陥没するような一撃を食らったとして、その時体力が90くらいあったからと言ってなんになる?」
「それは確かにそうですね」
今度はゲーム感覚を忘れなければいけないみたいだ。どちらかと言えば現実として状況に対処しようと思っていたが、体力なんてゲーム的用語が出てきたからついヒットポイントを連想してしまった。この世界では|致命的な一撃は文字通りに一撃で死んでしまう。それはどんなにレベルが上がっていようと同じこと。レベルが上がったから言って死ににくくなるわけではない。
少しだけ安心する。それは逆に言えばレベル1の俺が極端に死にやすいというわけでもないということだ。
「体力はその人の状態を示す目安のひとつに過ぎないってことですね」
「そうだ。しかし有用な目安でもある。実際、ユーリア嬢は君の体力が減っていることを心配して治癒魔術をかけてくれただろう?」
「ええ、助かりました」
「そしてこういう休憩の目安にもなる。ほら、ジェイド君の体力が80を超えたから出発だ。次の休憩は野営地を決める頃になるだろうな」
「うええ、俺の体力保ちますかね」
「その辺はジェイド君に考えがあるようだ。君は彼に感謝するべきだぞ。さあ、出発だ」
何をジェイドさんに感謝するべきなのだろうと思っていたら、馬の前でジェイドさんがロープを結び合わせた何かを俺に渡してきた。
「馬に乗ったら背中に回して、先を俺に渡せ」
言われるままにまた手を借りて馬に乗ったあとに、受け取ったそれを背中に回して両端をジェイドさんに預けると彼はそれを自分の腰の前で結び合わせた。俺の体は引っ張られるように彼の背中に密着する。
「掴まってろ」
そう言ってジェイドさんが馬を進める。するとジェイドさんの背中に捕まっている手の負担が格段に楽になった。要は子どもを背負うための紐のようなものだ。マシな言い方をするとシートベルトと言っていいかもしれない。とにかくこれで手が震えるほど力を込めなくて済みそうだ。
「もしかして休憩中にこれを作ってくれていたんですか?」
「…………」
ジェイドさんからの返事はない。だがそう考えて間違いないだろう。彼は俺を除いた中で一番体力が減っていたにもかかわらず、俺のことを気遣ってこんなものを作ってくれていたのだ。
レベルの低い相手に興味が無い?
俺はその評価を改めなければならないと感じた。
彼が言葉少なく、接しづらい相手なのに変わりはない。だが彼は他人を気遣うことのないような人ではない。
「ありがとうございます。これ、とても楽です」
「……そうか」
ジェイドさんの返答は相変わらずだ。
だが俺は彼への苦手意識が失われていることに気づいた。
俺は本当に幸運だった。
俺が巡り会えたのは最高の冒険者たちだったのだ。
ジェイドさんが真のイケメンだった。
次回は10月7日0時更新です。