第十話 薬師ミラーノ
冒険者ギルドを出ると雪はその勢いを増していた。
大きな綿雪がさあさあと空から舞い降りてきている。
空にかかる雲は分厚く天球を覆い隠し、こうして見ると日本の雪空と何も変わらないように思える。
ぬかるんだ地面に落ちた雪は、ところどころに塊を作り始めている。このまま雪が続けば積もるだろう。
身が引き締まる寒さの中を、俺は教えられた通りにミラーノさんの家を目指し歩いた。
ブライゼンの居住区からは少し離れた森の中に進むと、やがてぽつんと立つ丸太を組み上げて造られた家が見えてくる。庇の下には無数の植木鉢が置かれ、様々な植物が育っているのが見える。
表札は見当たらなかったが、ここがミラーノさんの家で間違いないだろう。
扉を叩くとやや遅れて、
「……開いてるよ」
と、しわがれた声で返事が返ってきた。
「失礼します」
そう言いながら扉を開く。部屋の中には、外よりも沢山の植木鉢が並べられていて、ちょっとした植物園のようになっている。
「早く閉めな。熱が逃げる」
思わず立ち尽くしていた俺は慌てて中に入り扉を閉めた。
奥のほうにある暖炉の前に、安楽椅子に腰掛けた老婆の姿が見える。ステータスを確認するとミラーノさんで間違いない。
「あの、初めまして、俺、私は」
「ユーリアの主人だね」
俺を一瞥したミラーノさんは、俺の言葉を遮って、長く息を吐いた。
「ユーリアなら帰ったよ。さ、もうこの老い先短い年寄りを虐めるもんじゃない。帰った帰った」
ミラーノさんはそう言って暖炉の火に視線を戻す。
「いいえ、その、ユーリアに用があったのではなく、ミラーノさんにちょっと話を伺いたくて」
「なにかい? 散々怒鳴り疲れたあたしに、まだ喋らせようと言うのかい」
「ユーリアのお母さん、ルシアさんについてお伺いしたかったんですけど、日を改めましょうか?」
「そんなもん、ユーリアに聞けばいいじゃないか」
ミラーノさんはぎぃと安楽椅子を揺らす。
「ユーリアからも話を聞きました。でもお付き合いの長かったというミラーノさんの話も是非聞きたくて」
そこで言葉を切ったが、ミラーノさんからの返事はない。続けて言葉を発しようとしたところで、ミラーノさんがぼそりと呟いた。
「それはユーリアの父親の話かい?」
「ええ、ご存知なんですか!?」
再び、嘆息。
「いいや、ユーリアにも同じことを聞かれたからね。ルシアが言ってたフィリップって男はユーリアの父親じゃなかったんだろう?」
「その人が言うにはそういうことらしいです」
「……まあ、そうだろうね」
「やっぱり何かご存知なんですか?」
そう訊ねるとミラーノさんは再びこちらに目線を向けて俺のことをじっと見つめる。その視線はなにか問いたげで、しかし次に発された言葉は質問ではなかった。
「その前に一杯お茶を用意してくれないかね。あんたはお茶も淹れたことなさそうな顔をしているけれど、やり方は教えるからその通りにやってくれ」
そう言われたら仕方がない。俺はミラーノさんに言われるがままに、お茶っ葉をポットに入れ、暖炉で沸いていたヤカンから別のポットに一旦お湯を移し、少し冷ましてからお茶っ葉の入ったポットに注いだ。
蒸らしている間はミラーノさんはただじっと暖炉の中の火を見ていた。ひょっとしてそのまま眠ってしまったんじゃないかと思った頃、もう充分だと言われ、お茶をカップに注いでミラーノさんに渡す。
「あんたも飲みな」
言われて別のカップにもお茶を注ぐ。一口飲むと苦い味わいが口の中に広がった。
「体が温まるんだよ」
俺の表情に気付いたのか、ミラーノさんは憮然と言って、自分も一口すする。
「不味いね。下手くそだ」
言われるままに淹れたのにこの言いようは無いと思ったが、黙って受け入れる。
しばらくミラーノさんは不味い茶をすすっていたが、やがてその重い口を開いた。
「結局、ユーリアには言えなかったよ。あんたの母親が嘘つきだなんてね」
「じゃあやっぱり――」
「黙って聞きな。だけどね、あたしだってルシアから直接聞いたわけじゃないんだ。ただなんとなく分かるんだよ。ルシアはフィリップって男がどんなに素晴らしい男かよく語ったが、全てが上っ面を並べ立てた綺麗事のようだった。まるで初めて恋をする生娘かのようだったよ」
昔のことを思い出しているのか、ミラーノさんは目を細める。
「完璧な男なんていやしないさ。完璧な女がいないのと同じようにね。だけどルシアは本気でそのフィリップって男と自分は結ばれたのだと信じていた。ならばどうしてその男はルシアと共にいないのか。そう尋ねてもルシアは色々と言葉を濁すだけだった。自分で信じる理屈を自分で作り出して、それを信じている感じだったね」
「ルシアさんは、その――」
「気がふれていたのかってことかい? どうだろうね。誰だって自分の信じたいことを信じるものだろうさ。ただあたしから見ればルシアは明らかに幻想を信じこんでしまっていた。いつかあの人は私たちを迎えに来る。そう言い続けて、結局は病に倒れてそれっきりさ」
「ルシアさんの病気というのはどんな病気だったんですか?」
「この辺りじゃ、時折熱病が流行ることがあるんだよ。昔っから色んな薬を試してきたが、ついぞこれと言った薬は見つからなんだ。皆が皆逝っちまうわけじゃないが、ルシアは運が悪かったんだね。治癒魔術がいくら使えても病じゃね」
俺のステータスに隠されている病魔治癒スキルがあればどうだったのだろうか? それは仮定に過ぎないが、そんなことをふと思う。なぜこのスキルは俺だけが取れて、ユーリアには取れなかったのか。もしもユーリアにこのスキルがあったなら、ルシアさんは助かっていたかもしれないのに。
「それで、ルシアの過去をほじくり回して、あんたは何がしたいんだい?」
「ユーリアを本当の父親と会わせてあげられたら、と」
「はっ、止めときな」
一蹴だった。ミラーノさんはこちらを見ようともしない。
「どうしてですか?」
「そんなことも分からないのかい」
心底あきれ果てたというようにミラーノさんはため息を吐いた。
「今更それが何になるんだい。そもそも見つかりやしないさ。もし万が一、何かの間違いでその男が見つかったとして、その男がユーリアの父親であることまで認めるとでも思うのかい?」
「それでも本当の父親であれば――」
「あんたはよほど遠い国から来たんだろう。さぞかし立派な親に育てられたに違いない。周りの環境にも恵まれていたんだろう。そうでもないとそんな甘っちょろい考えが浮かぶはずもないからね。だけどここまで旅をしてきたんだろう? 何を見てきたんだい? あんたは何も見ていなかったんじゃないかい?」
「そんなことは……」
言葉が続かない。
俺が現代日本の出身者で、それゆえにこの世界の人々と考えが合わないということはあるだろう。それでも親の情というのは時代や場所に関係なく存在しているものじゃないのか? それともそれすら環境が生み出す幻のようなものだというのか。
「それともユーリアが言ったのかい? 本当の父親に会いたい、と? そんなバカなことがあるものか。ユーリアがあたしに聞いたのは、ルシアの言葉の真偽だけだったよ」
確かにユーリアとこの話をしたことはない。
それはユーリアを奴隷にしてから長らく距離を置いていたからだ。彼女が母親の墓参りには行きたいというので、自然とオーテルロー公国を目指してきた。だが俺の思う目的についてユーリアときちんと話しあったことは一度も無かった。
「じゃあミラーノさんはユーリアの本当の父親は探さないほうがいいと仰るんですね」
「あたしはね。あんたとユーリアが探したいと言うなら好きにすればいいさ。あの子ももう一人前だ。自分のすることの責任は自分で取れるだろう。失敗も後悔もすればいい。それに押しつぶされたりしなければね」
突き放すような言葉だったが、ユーリアのことを気遣っての言葉にも聞こえた。
それからミラーノさんはカップを安楽椅子のわきのテーブルに置いて、目を閉じた。
「もうしゃべり疲れたよ。ちょっとは年寄りを労って欲しいもんだ」
「その、色々とありがとうございました」
「礼を言われるようなことはなにもないよ。さっさと帰っておくれ」
そうして俺はミラーノさんの家を後にした。
相変わらず外は雪が降り続いている。暖かい家の中から出てきたことでぶるりと体が震える。
ユーリアの本当の父親についてはなにも得られることはなかったが、痛いところをいくつも突かれて、考えるべきことは色々とできた。
雪の中を傘を差して歩きながら、俺はそのことを考える。
ユーリアの本当の父親はどこかにいる。これは間違いのないことだ。だがその人がユーリアの父親であるという自覚があるかどうかは分からない。俺はそんなことも考えたことがなかった。
そんな人の前にユーリアを連れて行って、彼女はあなたの娘ですと言って受け入れてもらえるものだろうか?
ユーリアの父親ということであれば、もういい年齢になっているはずだ。自分の家庭を持っていても何もおかしくはない。それをユーリアに見せるのか?
本当に自分はなにも考えていなかったのだ。
そして一番大事なのはユーリアとちゃんと話し合うことだ。彼女の意思を確認することだ。それすら怠っていた自分を殴り飛ばしてやりたい。代わりにシャーリエの木剣の一発でもわざと食らってみようか。
いや、シャーリエに悪いな。やめておこう。
とにかく今日にでも時間が取れたらユーリアと話をしよう。
幸いにして時間だけはたっぷりとある。
そんなことを考えながら、どこかに行く気にもなれずに俺は宿に戻ってきた。
昼食にちょうどいい時間だったが、食欲が無く、そのまま部屋に戻る。
泥だらけの靴を脱いでベッドに倒れ込んだ。
トントン――と、ノックの音で俺は目が覚めた。
いつの間にか眠っていたらしい。
気配からするとアレリア先生のようだ。
「開いてるよ」
ベッドから起き上がりながら言う。
「ちょっとお時間よろしいでしょうか?」
扉を開けてアレリア先生はそんなことを問うてきた。
「うん。大丈夫。何か用?」
「ちょっとご主人様のことが心配でな」
部屋に入るなりいつもの口調に戻って、アレリア先生は言った。
「心配って何が?」
「聞いていいものか迷ったが、砦で何かあったのではないかい?」
その言葉を受けた途端、俺の中にある黒い澱のような感情がどっと溢れ出てきた。
ずっと心の奥底で燻っていた感情だ。
無駄に散らせたいくつもの命、それも自分のミスによるものだ。
努めて考えないようにしていたが、忘れられるようなものでもない。
夜にうなされて起きることも稀ではなかったし、その度に気配を探って誰も起きていないことを確認していたが、アレリア先生には気づかれていたようだ。
「初めての戦争だったからな。色々とショックだったさ」
誤魔化すようにそう言ったが、アレリア先生の瞳にじっと見つめられて、俺は必死に取り繕ってきた心が折れそうになる。何もかもをぶちまけてしまいたくなる。
「それだけじゃないだろう。なにか人に言えないようなことがあったのではないかい? 私でよければ聞かせてくれないか? もちろん口外はしない。約束しよう」
アレリア先生は俺の隣に座り、俺の手を取った。だから小刻みに震えていることにも気づかれたに違いない。
もう駄目だ。隠し果せない。
「砦についた最初の夜です。俺の目の前で7人死にました」
「ああ」
「ですがその後で気付いたんです。その時の治癒スキルは3で、俺には5まで上げられるスキルポイントが余っていた。すぐに気付いて治癒スキルを上げていれば何人かは助かったかもしれない」
「うん。そうかもしれないな。それから?」
「レックスが死んだ時、つまりあの夜襲のあった夜です。最初の火矢を俺は隠れてやり過ごしました。風の魔術で打ち払うことだってできたのに。それでレックスが死にました。俺は判断を間違えて何人も死なせてしまったんです」
「それで? 他にはなにかないかい?」
「分かりません。他にも判断を間違えたかもしれない。それで何人も無駄に死なせているかもしれません」
「うん。その可能性もあるな。だが私は違うことも知っているぞ」
アレリア先生はぎゅっと俺の手を握りしめて言った。
「君はレベルアップの度にスキルポイントを治癒に割り振って、魔力の尽きるギリギリまで多くの負傷者の治療に携わった。負傷者の搬送について新しいアイデアを出し、包帯の衛生観念に一石を投じた。夜襲の際には自ら前に出て戦い、その時も多くの負傷者を救い、ブラムストンブルクの王子の命を救った。私にオーク共の足止めをさせ、地竜を倒し、あの勝利を呼び込んだ。すべて君がやったことだよ。君の判断ミスで失われた命より、君がいたことで救われた命のほうがずっと多いと私は断言できる。いや、他の誰に聞いても同じことを答えるだろう」
「それでも失われた命はあるんです」
「それでも救われた命があるんだよ。君は失点ばかり見ているが、得点のほうにも目を向けるべきだ。君が君自身を許せないというのなら、私が君を許してやる。君は頑張ったし、結果も出した。よくやった。君でなければできないことをやったんだ。もっと自分を誇っていい」
「でも――」
「それでも辛いというのなら、いくらでも私に吐き出すといい」
重ねられた手がそっと離れて、俺の体に回された。
ぎゅっと抱き寄せられて、アレリア先生の体の温もりを感じながら、俺はこの世界に来てから初めて涙を零した。声を殺して泣いたのだった。
次回は11月29日(土)更新です。




