第四話 エルゲン砦の夜
この世界の戦争は天球が明るくなってから始まる。
エルゲン砦から少し離れた人界と魔界の混生地帯に魔族が軍を進め、人界の森を焼き払おうと火矢や、火魔術を放ってくる。
戦争とは言っても、軍が軍を打ち破るのが目的ではない。
魔族にしてみれば人界の森を焼いて、魔界の森を侵食させることこそが、侵略そのものなのだ。
それに対してオーテルロー公国軍は森への被害を最小限に抑えつつ、魔族軍を攻撃し、撤退させなければならない。
水魔術士は森の火災の鎮火に走り回り、それ以外の軍勢は魔族軍へと襲いかかる。
兵数はオーテルロー公国軍が二千五百に対し、魔族軍は二千ほど。正面からぶつかればオーテルロー公国軍に有利だが、魔族軍は攻撃を受けるとすぐさま後退してしまう。
彼らの目的は森に被害を与えることであるから、無理にオーテルロー公国軍と事を構える必要が無いのだ。
オーテルロー公国軍としても深追いはできない。どんな伏兵が待ち構えているか分からないし、混生地帯には魔物も出現する。もし竜種の群れと出くわしたりすれば、壊走とまでは行かずとも無益な犠牲者を多数生むことになる。
そのため人界と混生地帯を挟んで小競り合いが繰り返されることになる。
オーテルロー公国軍が下がれば魔族軍は進み、森に火を放ち、公国軍が反撃に出れば魔族軍は後退する。
もちろん小競り合いと言ってもそれなりの犠牲者、負傷者が出て、彼らはエルゲン砦に後送されることになる。
そしてそんなことを繰り返しているうちに南の空から太陽が顔を出し、そうするとお互い打ち合わせたように戦闘を止め、戦場から負傷者を回収して一時後退する。
戦争の続きはまた明日というわけだ。
だから俺たちのような治療部隊がもっとも忙しくなるのは天球が暗くなり始めた頃からということになる。もちろんそれまでも負傷者は運び込まれてくるのだが、散発的であり、数もそれほど多くない。
しかし夕刻になって兵士たちがエルゲン砦に戻ってくるときには、多くの負傷者も一緒になって戻ってくるため、一気に忙しくなるというわけだ。
あの中年女性の衛生兵は“慣れる”と言った。
その時はそんな馬鹿なと思ったが、それは気遣いや慰めではなく、純然たる現実のことだった。
運ばれてくる負傷者に、力尽きる兵士に、物言わぬ遺体に、ほんの十日もかからずに、俺は慣れた。
それどころか、衛生兵が遺体から包帯を剥ぎとってそのまま別の負傷者に使おうとしているのを見て、衛生観念の無さに気づき、包帯などを使用する前に煮沸消毒することを助言する余裕まで出来た。
詳しい知識があるわけではないが、少なくとも感染症の蔓延を多少なりとも予防することができるはずだ。
俺の助言は怪訝な顔をされたが、手の空いているアレリア先生とシャーリエに使用前の包帯を煮沸消毒させることについては、特に何も言われなかった。彼らも洗った清潔な包帯を使うほうがいいとは分かっているのだろう。ただ何故包帯を煮なければいけないのかが分からないだけだ。
もちろん砦で使う包帯すべてに手が回るわけではないから、そのうち、消毒した包帯を使用した負傷者とそうでない負傷者で、感染症リスクの差が出てくるはずだ。できれば結果からでいいので、この知識が広まってくれることを祈るしか無い。
俺の治癒スキルについて誰かに何かを言われるということはなかった。
現場にはそんな細かいことを気にしている余裕が無いのだ。
俺たち治癒術士の仕事はおおまかにふたつに分けられる。
ひとつは命を落としかけている兵士をなんとか死なないところまで回復させること。
もうひとつは骨折や裂傷など、治癒魔術を使えば明日にでも戦場に復帰できる兵士の治癒だ。
俺たちは主に前者が仕事だ。
エルゲン砦には他にも多くの治癒術士がいるが、そのほとんどがスキル3までで、重傷者の治癒は荷が重い。俺も見た目は治癒スキル3だが、他の治癒スキル3の治癒術士より治癒術の効果が高いということで前者に回されている。実際は治癒スキル5なのだから当然の結果だと言える。
「今日は負傷者が少ないな」
「そうですね」
衛生兵とそんな会話をする余裕まで出てきた。
ちなみにペアを組んでいるのは初日に世話になった若い兎人の衛生兵だ。名前をレックスと言い、前線に立つことを希望して軍に入ったが、適性の無さ――つまり戦士スキルの低さ――を理由に衛生兵に回されたのだという。
医者スキルが3まで伸びているので、こちらのほうが天職なのだろう。ちなみに戦士スキルは2だ。公国軍では戦士スキルが3無いと前線には立たせてもらえないそうだ。
きちんと訓練を受ければ来年には前線に立てると彼は息巻いているが、この医者スキルの伸びを見ると、彼は来年も衛生兵として頑張ることになるのではないだろうか。
気の良い青年なので、前線に出て怪我をするより、こうして衛生兵でいてもらいたいところだ。
「死にそうなやつはもういないな」
「そうですね。運のいい日みたいです」
これも俺の助言で、負傷の度合いに分けて運ぶ部屋を分けてもらっている。
これまでは負傷者は運び込まれた順番に部屋に押し込まれていた。それを俺やユーリア、それと数の少ない治癒スキルの高い治癒術士を一箇所にまとめ、死にそうな負傷者をその部屋に回すようにしてもらったのだ。
治癒術士のほうで自分を必要としている負傷者を探す手間が無くなって、劇的とは言えないまでも治療の効率が上がっている。簡単なトリアージ、優先順位決定だが、この世界にはその概念が無かったようだ。
「軽傷者の部屋に移動するか」
「魔力のほうは大丈夫ですか?」
「今日は余裕があったからまだ大丈夫だ」
見ればユーリアも重傷者の治療を終えたところだった。他の治癒術士も一息ついている。幸いなことに今夜はここで命を落とす者はいなかったようだ。慣れた、とは言っても死人が出るのは気持ちのいいものではない。
彼らは命を繋いだとは言っても、もはや戦えるような体ではない。明日の朝にでも馬車に乗せられてブライゼンに戻ることになるだろう。そこでさらに治療を受けて、その後どうなるかは彼ら次第ということになる。
「ユーリア、まだ魔力に余裕はある?」
「アイン様、はい。まだ、大丈夫です」
「じゃあ、軽傷者の治療に行こうと思う。一緒に行こう」
「はい。そうします」
ユーリアとレックス、そしてユーリアとペアを組んでいた女性の衛生兵と共に軽傷者が集められた部屋に移動を開始する。
「それにしてもお二人とも凄いですね」
「え? なにが?」
「お二人が来てから死者がぐっと減りましたよ。治癒魔術も凄いですけど、負傷者を選り分けたり、考えもつかなかったことです」
「負傷者を探す手間を他人に押し付けただけだよ」
実際、負傷者を選別する役割を誰かが担っていることになる。おそらく助かりそうにない負傷者を治療することすら諦めるということまではやっていないだろうが、負担がかかる仕事であることは確かだ。
そのおかげで俺たちは治療に専念できる。
「今日は、誰も死にませんでした」
「ああ、こんな日が続けばいいんだけどね」
とは言え、前線で死人が出ていないわけではないだろう。なんとか砦に運び込まれるまで生きていた兵士たちが全員助かったということに過ぎない。だがそんな些細なことでも喜んでいいんじゃないかとは思う。
俺たち治癒術士の小さな勝利だ。
そんな小さな喜びを噛み締めている時――
ガラン!
と、鐘が鳴った。
突如として周囲が慌ただしくなり、鐘の音が何度も打ち鳴らされる。
『なんだと?』
『敵襲か!?』
『こんな時間に、まさか!』
兎人の言葉があちらこちらで喚き散らされている。
レックスが慌てて駆け出したので、俺たちもその後を追う。彼は砦の外周壁に飛びつくと、その外側を覗きこんだ。俺たちも遅れて砦の外をうかがう。
そこでは篝火の群れが砦を囲んでいた。
目を凝らすと暗視スキルが発動して、よりはっきりと見えるようになる。
篝火の半数は松明だが、残りは――!
「レックス! 下がれ!」
俺はユーリアを床に押し倒して叫ぶ。次の瞬間、放たれた無数の火矢と、火の魔術が砦を襲った。視界の端で見張り台が炎に包まれるのが見える。魔術の集中攻撃を受けたのだろう。あれでは誰も助からない。
悲鳴と怒号が上がる中、レックスの体が倒れこんできた。
「あちっ!」
熱さに思わずその体を振り払う。それから恐る恐る彼を見ると、その片目に火矢が直撃して、その顔がごうごうと燃えていた。考えるまでもなく、彼は死んでいた。もう一人の衛生兵が悲鳴を上げる。
『パルメ、落ち着いて! 身を隠すの! 早く!』
しかしパルメというその女性の衛生兵は完全にパニックになっているようで、その場に立ち尽くしている。俺は彼女の足を払って床になぎ倒す。頭を打たないように、手で受け止める。
ガタンと音がして、顔を上げるとハシゴの先が砦の外周壁に掛けられていた。俺はそれを全力で横に蹴り倒す。まだ固定されていなかったようでハシゴは隣のハシゴを巻き込みつつ横に倒れた。しかし外周壁に立てかけられたハシゴの数はひとつやふたつではない。
一方で公国軍も武器を手に外周壁に集まりつつあった。
レックスの遺体も誰かの手によって砦の中に引き込まれる。
さらに火矢が打ち込まれ、こちら側からも弓矢の応射が始まった。
俺も炎弾を作り出して、篝火を目印に撃ち込む。炎がばっと散って、いくつかの人影が火だるまになるのが見える。
『ユーリア、アリューシャたちと合流しろ』
『アイン様!?』
ちゃんと伝えるために兎人語を使う。俺がスキルを取っていたことを知らなかったユーリアはびっくりしたようだ。
『二人をここに連れてきてくれ。ここで戦う』
目の前で知己が殺されておめおめと引き下がる気は全くない。それだけではない。これまで俺が診てきた負傷者も元はと言えば魔族との戦いによって傷ついたのだ。彼らと戦うことについてもはや一切の躊躇もない。
ユーリアは頷いて砦の中に駆け込んでいった。
次の火矢の一斉射を風の魔術でなぎ払う。俺の周囲には一本も届かない。その代わりに風の魔術を貫いて火の魔術が俺の脇をかすめた。回避スキルがなければ直撃を食らっていただろう。俺はその術者の辺りを目掛けて炎弾をお見舞いする。術者に当たったかどうかは分からないが、何人かが火だるまになる。
ハシゴを登ってきた子どものような体躯の魔族が、槍に貫かれて外周壁から弾き落とされる。だがどこでも上手く行っているわけではないようだ。
手近なハシゴを炎で焼き落とす。
『ここは俺に任せろ!』
少なくともこの周囲には一匹足りとも魔族を這い上がらせるつもりはない。
『任せたぞ。魔術士!』
戦士たちが別の戦場を求めて移動していく。その代わりに俺の近くには弓兵が集まってきていた。恐らく俺が火矢を風の魔術で吹き飛ばすのを見て、ここなら少しは安全だと思ったのだろう。
『火矢は任せろ! だが魔術は防げないから自分で避けろ!』
無茶な言い分だとは思うが事実なので仕方ない。魔術を食らった者には運が悪かったと諦めてもらうしかない。
俺は姿を晒して火矢を撃ち落とすことに専念する。たぶん俺の火の魔術より、弓兵のほうが効率よく敵を殺せている。彼らを守るほうがより効率がいいはずだ。
時折俺を目掛けて火の魔術が打ち込まれるが、回避スキルでなんとか避ける。追尾してこないのが有難い。これだけの距離があれば、打たれてからでも回避はできる。
エルゲン砦の長い夜はまだ始まったばかりだった。




