第九話 旅の一日
旅の朝は俺の目覚めで始まる。意外に思われるかも知れないが、一行の中で一番朝に強いのは俺だ。いや、言わなくていい。分かっている。俺が24時間の生活サイクルからまだ脱しきれていないだけだ。この世界の人と同じくらいの時間に寝ると、どうしても俺が先に起きてしまう。
目覚めがいいというのもあるだろう。どうやら俺はあまり布団でダラダラしていられるタイプではないようだ。すっきりと目が覚めてしまって、その後ゴロゴロしようとしてもどうにも落ち着かない。
なので他の三人を起こさないようにそっと天幕を抜けだしてとりあえずラジオ体操をすることにしている。なんでラジオ体操なのかは自分でも分からないが、とりあえず体に染み付いた習慣みたいになっている。真面目にやると体も温まって、寒さに強張った体にちょうどいい。
それから馬の世話をする。とは言っても水を用意してやったり、ブラシを当てたりする程度だ。魔界ではないので、馬たちは食事にその辺の野草を勝手に食べている。それでもずいぶんこの馬たちとは仲良くなれた気がする。そろそろ何か名前をつけてもいい頃ではないだろうか? それともそんなことをすれば別れが辛くなるだけだろうか? ブリッグの街では皆、割と簡単に馬を手放す話をしていた。あくまで家畜ということだろうか?
なあ、お前はどう思う?
言葉には出さずそんなことを思いながらブラシを当てていると、ガブと髪を噛まれた。
まあ、売られるのは嫌だよなあ。
水魔術で生み出した水の塊に頭を突っ込んで、髪とついでに顔を洗う。
ふぅ、すっきりした。
乾燥させるのも水魔術だ。適度に水分を“拾う”ことで、水気はあっという間に切れる。ついでに火魔術と風魔術を組み合わせて熱風をドライヤー代わりにした。このドライヤー術は女性陣にも好評で、彼女らが髪を乾かす時の最後にやらされている。どっちがご主人様なのだか分からない話だ。
起きだした時にはまだ暗闇だった天球は、徐々に青さを取り戻し、空の青さに馴染んでくる。毎朝この大斑点を見上げるのにも慣れてきた。
そろそろシャーリエが天幕の中でもぞもぞし始める。実は朝はあまり得意ではない彼女は、ただただ努力で起きだしてくる。メイド根性という感じだろうか。彼女は召使であることに誇りを感じているようだったし、それは今でも変わらないようだ。
「おはようございます」
「おはよう」
挨拶を交わし、俺はシャーリエのために木桶に新しい真水を用意する。本当にどちらが主人か分からないが、水を生み出せるのは俺かユーリアだから、今は起きている俺がやる仕事だ。自分でやったみたいに水の塊を空中に固定して、直接頭を突っ込ませてもいいのだが、どうにもシャーリエは水に頭を突っ込む行為に萎縮するみたいだ。だからシャーリエは木桶の水を手ですくってパチャパチャと顔を洗う。
顔を乾かしてやると、シャーリエは着替えに天幕に戻り、髪も結ってくる。それからしばらくは二人で柔軟体操だ。俺のほうが体が固いので、シャーリエの手を借りつつ、体をほぐしつつ温める。ほどよいところで、シャーリエが皮鎧と木剣を装備し、俺は手甲を両手につける。
組手がどんな感じかは先日の通りだ。身体強化を使いこなしだしたシャーリエに、体術回避のみの俺はただただ翻弄される。シャーリエの相手を務めるために、身体強化か格闘辺りを習得することを考える時期かもしれない。あるいは秀でた前衛がもう一人いてくれればシャーリエのいい練習相手になってくれるのだろうが。
ユーリアが起きてきたら朝の組手は終了する。
シャーリエも俺も水で一気に汗を流して、ざっと乾燥させる。それだけでは寒いのでドライヤー術で適当に温めておく。
ユーリアは朝は弱くないのだが、面倒臭がって中々起きてこないタイプだ。今もお腹が空いたからようやく重い腰を上げたのだろう。いや、体つきはほっそりとしてるよ。一部分を除いてね!
そんなわけでユーリアとシャーリエが朝食の支度を始めたので、俺は偵察も兼ねて辺りをしばらくランニングする。探知スキルで周囲を捜索しながら、キャンプ地から離れて行く。キャンプ地が探知スキルの範囲ギリギリまで来たら、ぐるりと一周走り、その後ダッシュでキャンプ地に戻る。探知スキルの範囲は大体1キロくらいだろうか? アレリア先生に10町くらいだと言われたので、多分合ってるはずだ。日本人なのに尺貫法に似た単位に慣れないというのはなにか情けない。
キャンプ地に杖を置いてランニングをしているので、帰り着く頃にはもうヘトヘトだ。だが最初は治癒魔術無しに走り切ることすら無理だったのだから、体力がついてきたことが実感できる。
杖にすがりついて治癒魔術を使い、水魔術で汗を流す。朝からもう何度目か分からないこの工程だが、さっぱりするので止められない。普通なら面倒な乾燥の手順が一瞬で済むのがありがたい。水魔術様様だ。
そんなことをしている間に朝食が出来上がる。とは言ってもいつもの乾燥野菜のスープと堅パンだ。旅の間は仕方ないと割り切っている。農村などに立ち寄れた日は温野菜や、果物が出てくることもあるが、いつでもそうとは限らない。
さて、ここいらで一人足りていないのでシャーリエが起こしに行くことになる。
その間はユーリアと二人きりになるわけだが、かつてのような甘い雰囲気は微塵もない。ユーリアはスープの出来具合をじっと確かめているし、なんだか近寄りがたい。俺から近寄って話しかけてもいいのだが、何を話せばいいのか分からないのだ。魔術の使い方について話を振ったこともあるが、事務的に返事をしてくれるだけだ。
かつて感じられた好意はただの演技だったと彼女は言った。フィリップはそこまで指示していないと言ったが、ユーリアが父親だと思っている男の言うことを一生懸命にこなそうとした結果だったとも考えられる。
どうしようもないほど嫌われているわけでもない。そうであればユーリアは俺の奴隷になることをなんとしても拒否しただろう。ユーリアはどちらでもいいと言った。どうなってもいいと。
それはつまり俺のことなど好きでも嫌いでもなく、どうでもいい人間なのだと、そういう意味に聞こえた。だから彼女は、彼女の居場所になりたいと言った俺に、それは無理だと告げたのだ。
そのことがひどく悲しい。
俺はどうしても彼女のことをどうでもいいとは思えない。偽物の笑顔に騙されて恋に落ちた。だが真実を告げられても、不思議と彼女への好意は消えてはくれない。かつての舞い上がるような恋慕ではなくなっていたが、彼女に幸せがあってほしいと願うし、それを与えるのが俺でありたい。
だがその思いが今のところ空回りしているのも自覚している。彼女の母親の足跡を追って、本当の父親を見つけることが本当に彼女の幸せに繋がるのかは分からない。だが他にできることが思いつかないのだ。仕方ないだろう?
「なんですか?」
俺がじっと見つめていることに気がついたのだろう? 憮然とした表情でユーリアが問うてきた。
「君を見てた」
「そうですか」
頬を染めることもなく、ぷいとユーリアは顔を背ける。
まあ、こんなもんだよ。
シャーリエの頑張りによってようやくアレリア先生が起きだしてくる。寝ぐせがついてぼさぼさになった髪を隠そうともせず、大きな欠伸をしながら、悠々と絨毯の上に腰を下ろす。
ユーリアとシャーリエが協力して配膳し、
「いただきます」
唱和して食べ始める。
最初は俺が「いただきます」と口にすることに彼女らは疑問符を浮かべていたが、これは食べ物に感謝する行為だと教えると、彼女らも納得したようだった。どうやらこの世界では奴隷が食事を与えられたことに感謝する意味で、いただきますと口にすることはあっても、主人がそうすることはないそうだ。
岩塩だけで味付けされた食事は物足りないが、それ以外の調味料を旅の間に持ち運ぶのは困難だ。こればかりはこういうものだと割り切るしかない。
朝食の後はアレリア先生からこの世界についての講義を受ける。特にこれから向かう地方についての知識だ。どういう地方で、どんな常識があって、何をしてはいけないのか。時にはユーリアの注釈が入る。アレリア先生の知識は書物から得たものだが、ユーリアの知識は実際にこの辺りの地方を旅して得てきた知識で、時折アレリア先生が自らの知識の不備を詫びることもあった。
今日はエルドキアという国の領土に入る予定だ。
神人の国で、アルゼキアほどではないが神人以外に偏見があり、天球教会の力も強い。アルゼキアでの話が伝わっているかは不明だが、俺たちは身分の偽装に一層気を使わなければならない。できれば都市部は避けて農村を渡り歩いて西に抜けてしまうつもりだ。
エルドキアを抜けると山間部に入る。なんとしても雪が降り始める前にここを抜けてしまわなければならない。山脈を抜けてそれから3つの国の領土を抜けて、それでようやくオーテルロー公国に辿り着く。
先は長いが、今のペースであれば冬期に入る前に辿り着けるだろうとのことだった。
その間にシャーリエが食事の後始末を終わらせて、俺たちは馬に乗って出発する。
この辺りの景色はアルゼキアからあまり代わり映えがしない。草原か農地か牧草地が広がっており、俺たちはただただ馬を走らせることに専念する。こまめに治癒魔術を使うので馬脚が緩むことはない。
馬の速度は地球の感覚からして時速20キロとかその辺りだろうか。
昼前に農村に辿り着き、エルドキア領に入ったことを知る。野菜や穀物を少量買ってそのまま農村を抜ける。天球教会のものと思しき教会があったので長居は無用だ。
昼飯は麦と野菜を茹でた粥だった。ドロリとしたそれを腹に詰めて、また馬を走らせる。
昼過ぎに宿場町についたが、宿を取るにはいくらなんでも早い時間だ。そのまま素通りすることにする。もう少し早く到着していればここで昼飯を食べられたのに、と思う。
西へ。西へ。
さらに2つの農村を経由して、南の空から太陽が顔を出したのでキャンプ地の選定を始める。この世界では太陽が南の空から現れたら夕刻の始まりだ。人々は仕事を終えて家路につく。俺たちも太陽が見えたら足を止めることにしている。
ちょうどいい丘地を見つけたのでそこに天幕を張る。その作業が終われば、わずかな自由時間だ。アレリア先生は天幕にこもって日記を書くし、ユーリアは刺繍をしていたり、あるいはふらりといなくなったりする。
シャーリエと俺は午後の組手の時間だ。
何十回と立ち会って、シャーリエの魔力が尽きたらそこで終了。シャーリエの魔力量は少しずつ増えている感じがする。アレリア先生の話では、魔力総量は使えば使うほど増えていくものであるらしい。ただし回復速度には個人差があるので、一日寝れば最大限まで回復すると決まっているわけでもないそうだ。今のところ、シャーリエの魔力量は日々増えているように感じられるから、回復速度より消費速度のほうが速いということはないようだ。
組手の後はシャーリエが夕食の支度を始め、俺はその時間を魔術の練習に費やす。いくらスキルがあるからといっても、実際にそれを使うのは自分自身だ。より正確に、より強く魔術を使うためには日々の鍛錬が欠かせない。それに俺には自分の魔力量を感知できないという欠点がある。また倒れてしまっては敵わないが、ある程度魔力を使って、その限界を肌で感じられるようにはなっておくべきだ。
今日は水魔術で生み出した水を凍らせる実験をしている。地竜と戦った時のように相手を濡らして感電させるのもいいが、凍らせて動きを止めることができないかと思ったのだ。思った通りに水を凍らせることはできた。だがその速度は非常に緩慢としたものだ。スマホを見ると氷系統の魔術が習得できるようになっていた。だがスキルポイントは割り振らない。なんでもかんでもスキルを取っていてはいざという時に必要なスキルを習得できないかもしれないからだ。
物体を凍らせるために氷系統のスキルが必要なのであれば、相手を凍らせて動きを止めるというのはあまりいい考えではないように思える。
アレリア先生の話では、魔術は相手の肉体に直接効果を及ぼすのは難しいとのことだった。つまり相手の肉体を直接発火させたり、凍らせたりはしにくいということだ。だから氷魔術で相手の動きを止めたければ、まず水魔術で相手を捕らえてから、その水を凍らせるしかない。はっきり言ってただの二度手間でしか無いというわけだ。
今日の収穫はあまりないままシャーリエに呼ばれて夕食になる。
麦粥と温野菜のメニューをいただく。今日は魚の干物もついてきた。
夕食が終わる頃には太陽は天球に隠れ、天球自体も青から黒へとその色彩を変えていく。
シャーリエたちが後片付けをしている間に俺はもう一仕事だ。
土魔術で地面を持ち上げ、真ん中はへこませる。それから硬質化させて、水魔術で水を張って、火魔術で温める。もはや言うまでもなく、風呂の用意だ。俺が土魔術を覚えたからできるようになった芸当である。最初はこの魔術の使い方に呆れられたものだが、旅の途中でも風呂に入れると分かった時の女性陣の喜びようは語るまでもないだろう。
一番風呂の権利はご主人様であるところの俺にあると強硬に主張されたので、服を脱いでお湯に肩まで浸かる。治癒魔術で疲れは癒されるとは言っても、手足を伸ばせる大きさの風呂にゆっくりと浸かるというのは心の贅沢だ。こればかりは労力も惜しくない。労力ってほど苦労もしていないが。
当たり前の話だが女性陣と混浴したりはしない。アレリア先生はからかい混じりに、シャーリエは生真面目に背中を流そうかと提案してくれたが丁重に断っている。これでも健全な男子だから、そういうことをされると変な欲求が暴走しないとも限らない。彼女らは俺の奴隷で、なにをしても許されてしまうからこそ、気をつけなければいけないと思うのだ。今のところ欲望を彼女らで発散するつもりはない。
だから俺の入浴が終わり、女性陣が入浴している間は俺は天幕を離れ、周辺を警備している。変に天幕にいると探知スキルで彼女らの一挙一動が分かってしまい、精神的に大変よろしくなかったからだ。
彼女らが風呂から上がり、水気を払った後は、ドライヤー術をせがまれる。アレリア先生は自分でもやってみようとしたようだが、やはり風スキル無しにはうまくいかないようだ。彼女らの髪を乾かしたら、天幕に戻って就寝だ。
この世界の人は暗くなったらもう眠くなるものらしい。
まったく、今夜も眠れない夜になりそうだ。




