第一話 気が付くと異世界
まずは落ち着いて俺の話を聞いて欲しい。
俺はなにかを考えながらぼんやり歩いていた。
なにを考えていたかとか、どこに向かっていたかとかは今はいい。正直に言うと忘れてしまったので、伝えることができない。とにかく路地を歩いていたことだけは確かだ。
それがふと気が付くと、見知らぬ場所にいた。
うっかり曲がり角を見落として行き過ぎてしまったような感覚だった。
最初に感じたことは、おや、なんだか暗いな、ということだった。
太陽が雲に遮られたような暗さではなく、もっとぼんやりとした暗さ。例えるなら誕生日ケーキにロウソクを灯して、部屋の明かりを消した時のような……、暗さで例えるより、頼りない明るさというべきかもしれない。
景色の変化についてはまったく気が付かなかった。ただ突然の明るさの変化に戸惑い、俺は顔を上げた。
するとそこには武器を構えた一団が、その切っ先を俺に向けていた。
オーケー、落ち着くのは俺の方だった。
きっと道でも間違えたんだろう。
いやぁ、現代の日本でも一本裏の路地に入り込めば危ないところだってあるもんね。都会の真ん中にある公園でもブルーシートを張って野外生活に勤しんでいる人たちがいるんだし、剣とか槍とか装備してる人がいたっておかしくはない。話に聞いた程度だが西洋甲冑を着込んで戦うスポーツだってあるらしい。秋葉原には武器屋だってあるそうだ。ここで装備していきますか? ってなもんだ。
とりあえずここは目を合わせないようにして、さっさと引き返そう。
そう思って俺は踵を返した。
そこには白い壁があった。
20メートルほど先だろうか?
暗くてよく見えないが、漆喰とも、コンクリートとも違う。学校の床とかに使われてるアレに似てる。壁に使われているのは見たことがないので違和感がものすごいが、のっぺりとしていて固そうな感じが似ている。
いかにも頑丈そうだ。
その壁はぐるりと視界の端から端まで広がっている。
というか天井がある。
ここは室内だ。
ドクン、と心臓が鳴った。
血の気が引くのが分かる。
なんで室内にいるんだ?
俺は路地を歩いているつもりだった。言うまでもなく屋外だ。
天井はやや高く、4メートルくらいはあるのではないだろうか。壁と同じ材質でできており、ところどころにスリットが入っている。換気口か、照明か、どちらにせよ今は動いていないようだ。室内を照らすのは揺らめく炎がひとつだけ、今は背後になった一団が持っていた松明だ。
なんでこんな暗い室内に今まで気づかなかった?
ぼんやり歩いていたにしろ、そんなことはありえない。これだけ暗い部屋に迷いこむほど、呆けていたわけじゃない。
そもそも俺はどこを歩いてきたんだ?
振り返った背後、今は正面、つまり俺が歩いていたのと逆方向、歩いてきたはずの道は、今は一面の白い壁だ。どこにも道は無く、通路、扉、ありとあらゆる人が通行できる空間というものが存在しない。
行き止まりだ。
どこから歩いてくることもできるはずがない。
膝に力が入らなくなって、俺は一歩よろめいた。
体を支えようと踏みつけた床は平らな基板だった。
より正確に言うのなら、基板のような模様の埋め込まれた透明な床だ。電子機器なんかに入っている緑色の基板に描かれるような模様が、平面ではなく立体的に埋め込まれているのが見える。どれくらいの深さまで続いているのかは、この暗さでははっきりとしない。
まるで奈落の上に立っているようだった。
足元がおぼつかない。現実感がない。
俺はぐるりと部屋を見回した。
再び視界に入った何人かの武器を持った人たちのことは今は考えないようにした。向こうも向こうでこちらに武器を向けているものの、何か具体的なアクションを起こそうとはしない。
触らぬ神に祟りなしとも言うし、必要に迫られるまでは放っておこう。
その部屋は学校の体育館ほどの大きさで、俺が立っているのはそのちょうど中央辺りだった。
壁や天井は白い材質でできており、全体的にゆるやかな曲面を描いている。部屋の暗さのせいもあって、どこまでが壁でどこからが天井なのかはっきりしない。
全体的には四角い箱の形状だが、角が無くなるように曲面が使われている感じだ。
逆に平面なのは俺の立っている中央部の床だけだ。
半径5メートルほどの円形の範囲が、先述した基板のような模様が埋め込まれている床ということになる。
窓すら無い。
まるで格闘ゲームのトレーニング用ステージみたいだ。ロボット対戦ゲームでアリーナとか名前がつきそうな感じでもある。
とすれば、アレは対戦相手ということになるのだろうか?
俺は努めて意識から逸らしていた彼らを直視する。
五、いや一人の影に隠れてもう一人。
15メートルほどの距離を置いて、彼らは俺に武器を向けている。
そう、武器だ。
銃ではない。ロケット砲でもない。彼らが手にしていたのは剣や槍だ。
具体的には剣を持ったのが二人。
一人は大剣、
一人は長剣と盾を構えている。
斧のような先端のついた槍を持ったのが一人。他の五人とはやや離れた場所にいる。
そして杖を抱えたのが一人。杖、杖だ。孫悟空の如意棒みたいな棒、いわゆる武器としての棒、杖とは違う。どちらかと言えば西欧の聖職者なんかが持っていそうな杖だ。
ええい、言ってしまえ。
それはいわゆる魔法使いが手にする魔法の杖に見えた。
後の二人は武器を持っていない。
一人は松明を掲げ、もう一人は紙の束に必死に何かを書き付けていた。
もはや言うまでもなく彼らの服装は現代の日本には似つかわしくないものだった。細かい描写を省いて一言で言うならば中世時代の戦士や旅人と言った風だ。
ファンタジーRPG風と言えばもっと分かりやすいに違いない。
いや、そうでもないか。最近のゲームのキャラクターは奇抜な格好をしているものだ。
それに比べれば彼らの服装は良く言えば実用的で、悪く言えば地味だった。
そして彼らの後ろにはこの部屋の唯一の出入り口がぽっかりと口を開けていた。
彼らは門番ということになるのだろうか。
ゲームで言えばチュートリアル。とりあえずはゲームに慣れて貰おうと、とりあえず勝てる敵と一戦交えてもらう。あるいはとりあえず負けイベントということもあるかもしれない。
さて、これは夢かなにかの悪い冗談だと思いたいところではある。
全感覚没入型仮想現実なんて技術がアニメやゲーム、小説などで語られることはあるが、現実の技術がそれに追い付くには程遠い。
アニメやゲームはテレビで楽しむものだし、小説は紙の本で読む。まあ、最近は電子書籍なんかも普及してきているが、街角から本屋が消えるのはまだまだ先になりそうだ。
つまりここが仮想現実かもしれないなんて仮定は無意味だ。ありえないと一蹴できる。
だとすればまず考えられるのが、これは夢の中だという線だろう。
とりあえずお約束なので自分の頬をつねってみた。
あ、痛い。夢じゃねーわ。
痛みを感じる夢かも知れないが、痛みは現実だ。痛いのは嫌だ。
とりあえず最初の方針は決まった。
できるだけ争い事は避けよう。
怪我するのもさせるのも気持ちのいいものではない。少なくとも俺は痛かったり苦しかったりするのを気持ちいいと感じるような特殊性癖は持ち合わせていない。他人を痛めつけることについても同じだ。
そもそも俺は殴り合いの喧嘩すらしたことがない。
格闘ゲームなら知っているが、その知識が実戦で役に立つとか考えるほど頭がお花畑でもない。
とすれば、当然に彼らへの対処も決まった。
とりあえずコミュニケートを試みて、危なそうなら全力で逃げる。
うん、これしかない。
出口は彼らの後ろにしかないが、武器を持っている連中は鎧なんかも着ているし、それほど速く走れるとも思えない。部屋は広く、回り込めばなんとかなるかもしれない。
話しかける前から逃げることを考えるのも後ろ向きかも知れないが、話しかけた途端襲い掛かってくるかもしれない。何故か隣に行って話しかけるまで棒立ちしている敵なんてゲームの中では珍しくもなんともない光景だ。
俺は武器を持っていないことを示すため、手のひらを見せて、両手を上げた。
さて、なんて話しかけよう。
そもそも言葉が通じるのか?
アニメなんかでは外国でも、異世界でも、なぜかみんな日本語で喋っているのが普通だが、さすがにこの状況でそれが通用するとは思えない。
じゃあ英語ならいいのか、というとそうでもないし、逆に流暢な英語で返されたら、それこそパードゥン? くらいしか返せない。かと言ってそれ以外の言語となるとさっぱりだ。
ここはとりあえずダメ元でも日本語で話しかけるしかない。
「あ、えっと、ニホンゴワカリマスカ?」
言葉に詰まった上になぜかエセ外国人みたいな口調だった。
なんで普通の日本語が出てこないの。駄目なら駄目で、普通に喋ればいいのに、バカ、俺のバカ!
「共通語がわかるのかい?」
自己嫌悪に沈む俺にそんな言葉がかけられた。
思わず顔を上げる。
「君は共通語が分かるのかな?」
さっきよりもゆっくりと確かな女性の声でそれは繰り返された。
日本語を話しているのは、一心不乱に紙にペンを走らせていた人だった。白地に朱色の模様が入ったローブを身にまとっている。輝くような金髪の西洋人にしか見えない女性から、流暢な日本語が飛び出してくるというのはなんだか妙な気分だ。
「共通語というのは分かりません。日本語ではないんですか?」
「ニホンゴというのは分からないな。ニホン、語、つまりニホンの言語という意味かな?」
「そうです! 良かった。言葉が通じなかったらどうしようかと思った」
心の底からほっとして、思わず心情がそのまま口から流れ出てしまう。
誰かと言葉を交わせることがこんなにありがたいと思ったのは初めてだ。普段から何気なく使っている日本語だが、今はそれを使えることに感謝しよう。お陰でこの訳の分からない状況について、少しは話しを聞くことができる。
「あの、ここは一体どこなんでしょうか?」
「ね、ね、それよりこっちから聞いていい!?」
女性は俺の発言を食い気味に、というか、完全に食った。完全スルーである。
他の人たちはと言うと、今にもこちらに駆け出しそうに身を乗り出している彼女の行く手を塞ぐように陣形を狭めていた。
どうやら俺のことを警戒しているようだ。
「ど、どうぞ」
彼女の勢いに若干引き気味ながら、ここで拒否して敵意を持たれても困るので、質問を促す。
まずはお互いのことを話して分かり合うことから始めるのが一番だ。
俺は戦後日本に生まれ育った身で、争い事とは無縁な人生を送ってきたのだ。
だって刃物向けられてすっげービビってるからね。
膝が震えないように我慢するので精一杯だ。
「君さ、なんで名前が無いの!? それとなんでレベル1なの!?」
「名前が、無い?」
名前を教えて、ではなく、なぜ名前が無いのかと彼女は問うてきた。
「いや、名前なら、俺の名前は――」
え、あれ?
そこで俺は呆然とした。
まさしく自失したと言っていい。
これほど言葉の意味が適正な場合も無いだろう。
「俺の、名前……」
俺は必死に記憶を掘り返した。
自分の名前だけではない。
自分のこれまでの人生。
その思い出のすべて。
両親のこと。
生まれ育った場所。
学校、友人、あるいは恋人。
好きなもの。
嫌いなもの。
――無い。
ひとつも見つからない。
すべてが抜け落ちていた。
それ以外のすべてがあるのに、自分のことが何一つとして記憶に無い。
俺は不意に気づいて懐を探った。
今着ている服はブレザーの制服のようだ。ということは俺は中学生か、高校生ということだろう。
そこらへんもまったく実感が無い。
大学生と言われても、社会人と言われても、違和感を覚えただろう。
お尻のポケットから財布を発見する。
慌ててその中身を改めるが、どうやら学生証は無くしたか、持ち歩いていないようだ。財布の中には千円札が2枚と、小銭で118円。ポイントカードや、カラオケ屋の会員カードがあったが、どれも記名が無く、身分証のようなものの持ち合わせもなかった。
他に何か持ち物はないだろうか?
ポケットの中からスマホを見つけたが、電池切れしていた。
ハンカチ、名前の刺繍もない。まあ、小学生じゃあるまいし、普通はない。
鍵、家の鍵っぽいが、見覚えはない。
無い。
何一つとして自分の手がかりになりそうなものを俺は持っていない。
俺が茫然としている間に、彼らは俺のことを無害な存在だと認識したらしい。
それぞれに武器をしまい、ほうぼうに散って部屋の探索を開始した。
質問をしてきた女性と松明を持った男性だけがこちらに近づいてくる。
「ねえ、それなにかな? 見てもいい?」
彼女は俺が探っていた財布に興味を抱いているようなので、どうぞと渡す。大した金額が入っているわけでもないし、財布自体も合皮の安物だった。
「これは、すごいな。なんだ、この紙は、こんな精巧な模様が描けるものなのか。それからこの硬い紙はなんだ? 硬いのに柔らかい――」
財布を手に持って開き、その中身になにやら感極まっている様子なので、そちらのことは努めて考えないようにしながら、俺は松明を持った男性とちらりと見た。
彼は四十代くらいだろうか。若い頃はさぞ浮名を流しただろうなという面影がある。彼は人好きのする笑みを浮かべて俺と、財布に夢中な女性を一歩離れたところから眺めている。
それにしても財布に夢中な女性ってすごい嫌な響きだな。それが自分の財布だとなるとなおさらだ。
「どうやら記憶がどうにかしてるみたいです。自分のことだけまったく思い出せなくて」
「それは興味深いね。それ以外のことは何を覚えてるの? さっきニホンって言ったけど、それはどこにあるの?」
この女性は必ず二つ質問せずにはいられないのだろうか?
とにもかくにも、俺は俺に答えられる範囲で簡潔に、自分に分かることを語った。
日本という国、地球という星、その他の国々。
しかしそれらの話に対する反応は芳しくないものだった。
「どれも聞いたことがない話だね。それに記憶が無くたって名前はあるはずだ。だけど君にはそれが無い」
「それはどういう」
「ステータスだよ」
また食い気味に断言された。
「いや、なるほど。ひょっとして君はステータスが見えてないんじゃないかい?」
「ステータスって、ゲームみたいな、つまりヒットポイントとか、筋力とか素早さとか、そういうのですか?」
分からない人もいないだろうが、ゲームにおけるステータスとはキャラクターのパラメータや状態を示す言葉である。キャラクターがどんな状態で、どんな能力を持っているのかの一覧表のようなものだ。
彼女は俺の言葉にうんうんと頷いた。
「語句に分からないところはあるけれど、大凡は理解できているようじゃないか。なるほど、レベル1だとそういうことになるのか。とにかくそれによると君の名前は空欄になっている。ついでにレベルは1だ。これはすごいことなんだぞ。普通は生まれてくるまでにレベルは3か4にはなっているからな。君はまるでまだ母親の腹の中にいるような状態だ。こんなのは見たことも聞いたこともない。知っている限り記録にもない出来事だ!」
女性はかなり盛り上がっているようだが、一方で俺は猛烈な違和感に襲われていた。レベルとかステータスだなんて、一度は否定した仮想現実説が浮上してくる。少なくとも“現実的”ではない。
「とにかく君の呼び方を決めよう。よし、決めた。レベル1だからワンだ。君はこれからワン君だ」
あ、安直だー!
あまりにも安直な決め方に俺は愕然とする。白猫にシロとか、黒猫にクロとか名付けるくらいの安易さだ。
「おっ、反映されたね。命名として認識されたみたいだ。人に名前をつけるのは初めてだよ。いやぁ、楽しいね!」
「いや、せめて自分で決めさせてくださいよ。そりゃ何か案があったわけじゃないですが」
自分の名前が分からないので、咄嗟になんて名乗ればいいかなんて思いつきもしないが、少なくとも他人に一方的に、それも安直に決められていいものでもないのではないだろうか?
「そんなことを言っても、自分で名前を決められるなんてことはないだろう? 普通は親が勝手に命名するのだし、ワン君というのは呼びやすくていいじゃないか。それにもうステータスに反映されちゃったからね。変更は無理だよ」
「マジすか」
「マジだよ」
すごい軽いノリで名前が決められてしまった。
今後、名前を呼ばれる度に俺はこのエピソードを思い出すに違いない。
俺に子どもができたらちゃんと考えて名前をつけてあげようとそう心に誓う。
少なくとも安直に決めるようなことはすまい。
俺が今後の人生に関わる重大な決意をしている間に、女性はちょっと考え込んでいるかと思うと、顔を上げてこちらを見つめてきた。
「ワン君、君はこれからどうするつもりだい? ざっと聞いた感じ、何も知らない風だけども」
確かに状況から察するにゲームの中に取り込まれたとか、あるいはそれに類似した異世界に飛ばされたってことになるんだろう。
あんまり認めたくはないが、認めずにここで不貞寝をするわけにもいかない。
彼らが武器を持っているということは、それを使う相手がいるということだ。つまりモンスターとか、そうでなくとも凶暴な獣とか。そういうのに対処する術が俺にはまったく無い。
つまり彼女らの助けを借りなければ、俺は詰んでしまう。
「一応確認しておきたいんですけど、あなた方が俺を召喚したというわけではないんですよね?」
異世界に飛ばされる話と言うと、兎を追いかけて穴に落ちるやつとか、衣装箪笥の中から行けるやつとかが思い浮かぶが、これらはどちらかというと文学の世界だ。
ゲーム的に考えると魔王を倒すために勇者を召喚とかがお約束になるのではないだろうか? ゲームだとレベル1で始まるのも当然だという気がする。
「召喚? ああ、召喚か。そういう考え方もあるのか。いや、私たちは君を召喚していない。この場にいるのはちょっとした調査に駆りだされたからだよ。召喚主がいるとすれば、この遺跡を利用している誰かということになるだろうね。けれど今のところ私たちはそういう人の痕跡は見つけていないし、遺跡を使えるような知識を持った誰かがいるとも思えないな」
「つまり?」
「現時点での個人的な推論になるが、君はこの遺跡が勝手に誤作動した結果、この場に現れたということになるね」
「マジかよ……」
それはつまり日本に帰ることができる可能性が非常に低いということだ。もっとも記憶の無い今の俺に帰る場所が認識できるかどうかは分からないが。とにかく俺がここにいる理由を説明してくれる人がいないというのは心細い。
できれば美女のお姫様とか巫女様とかが出てきて、でかいおっぱいでも揺らしながら説明を開始してくれると嬉しいのだが。
そういえば今こうして話している相手も一応女性だった。
年齢こそうら若くは無いが、金髪に西洋人っぽい整った顔立ちで、そこそこの美人だと言える。おっぱいのほうはゆったりしたローブのせいで分かりづらいが、期待はできそうにない感じだ。なにより口調のせいで中性的な感じがする。少なくともお淑やかという言葉とは対極に位置していそうだ。
そんな俺の邪な考えには気づいていない様子で彼女は考え込んでいた。
「もちろん誰かの意図があった可能性もある。だが今は君に是非とも同行してもらいたい」
「それはこちらからもお願いします。正直、どうしていいかもまったく分からないんです。せめて身の安全と生活の保障は手に入れたいので」
「ふむ、それも当然か」
彼女は少しの間、じっと黙って考え込んだ。
どうやらそうして考え込むのは彼女の癖のようだ。理知的と言うべきかもしれない。
「ウィンフィールド君、同行者が増えても構わないかな?」
「割増料金と、特別手当ってところですね。口止め料をもらっても無駄なので、その辺は分かってくださいよ」
「じゃあそれでいこう。契約しておくかい?」
「いりませんよ。先生はそういう人ではないともう分かっていますからね」
「君は人がいいな」
彼女とイケメン中年の間で話は簡単にまとまった。
どうやら彼女が依頼者で、イケメン中年たち五人は彼女に雇われているようだ。そしてその護衛対象に俺を追加するという話なのだろう。そしてそれには幾らかのお金を必要とするようだ。
だが俺の所持金は2118円で、それが使えるとも思えない。
「あの、お金を払える当てはないんですが」
「分かっているよ。私が出しておく。その代わりと言ってはなんだが、君には私と契約を結んでもらう」
「契約、ですか?」
ぱっと思い浮かんだのは携帯電話の契約だった。一番身近な契約のイメージだったのだろう。
きょとんとしている俺の反応に彼女はうんうんと頷いた。
「やはり知らないんだな。説明すると契約というのはお互いの約束事をステータスに刻み込むことだ。契約には逆らえない。強い意思を持って逆らおうとすることはできるが、それも過ぎると魂が傷ついてしまう。場合によっては死ぬことすらある」
なんだそれ。契約というより呪いみたいだ。
「そんなに怯えた顔をする必要はないよ。契約は両者の合意によってしか成立しない。例えば私は君を傷つけない。君も私を傷つけない。そう契約すれば、刃物を持って向い合っても安心できるというわけだ」
「魔法の一種のようなものですか?」
「そんな大仰なものじゃないさ。我々が一般的に使うスキルの一種だ」
スキルときたか。
ゲームっぽさに拍車がかかる。
「それでどんな契約をするんですか?」
「私は君の身の安全と生活を保証する。君は私を傷つけず、私の研究に協力する。お互いに出来る範囲で。期間は、そうだな、君がレベル30になるまでにしよう。レベルは30になれば一人前として見られるからな」
「研究、ですか」
なんだかいいイメージが分かない。なにせ現状の推測では俺は異世界人ということになる。もし日本に異世界からの来訪者が現れたとして、それを研究者が手に入れたらどうなるだろうか? そう簡単に死なせはしないだろうが、回復可能な範囲であればありとあらゆることをしそうな気がする。
「痛いこととか、苦しいこととかしませんよね?」
「できる範囲と言っただろう? ワン君が嫌がることはできない。そういう意味だよ。そして私も自分の身を挺してまで君を救うことはしなくていい。できる範囲で、というのは、しなくていいという意味でもある。しかしまったくしなくていいという意味でもない」
「やってもいいかな、くらいの範囲ってことですか?」
「そういう認識で構わない」
俺はちらりとイケメン中年の顔を見た。
「彼女の言葉に嘘は無いよ」
俺の所作の意味を汲み取ったイケメン中年がそう言った。さすがはイケメンである。顔がいいだけで信用していいかなという気がしてしまうのに、気まで利くのだ。俺が女なら今のだけで腰が砕けるかもしれない。
冗談はさておき、とりあえず今の俺には他に判断基準が無いし、信じようと信じまいと選択肢がないのも事実だ。
「よろしくお願いします」
「畏まることはない。契約は対等だ。手を出して」
そう言って彼女は俺に向かって両手を差し出した。
俺の財布がローブの内側に消えたことについては後で追求することにする。
俺は言われるがままに両手を差し出したが、それをどうしていいのかが分からなかった。すると彼女は自分の手で俺の手をぎゅっと握った。
彼女の翠色の目がじっと俺の顔を覗きこんでいる。
こんなに女性に近づかれるのはいつ以来だろうと考えて、俺はその記憶が無いことを思い出す。頬が熱を持つのを感じた。
「宣言する」
彼女がそう言った途端、なにかが体に流れこんできて、そして流れだすのを感じた。
これはひょっとして魔力とかそういうのだろうか。
風邪を引いて熱があるときのような感じだ。
体の中で異物が蠢いている。
正直に言って気持ちが悪い。
「アレリア・アートマンはできる範囲でワンの身の安全と生活を確保する。それに対し、ワンはアレリア・アートマンを傷つけず、その研究をできる範囲で協力する」
「はい」
「では承諾を。つまり承諾すると言ってくれ」
「承諾します」
そう言った途端、力の流れは輪になって不意に消えた。
気持ち悪さも同時に消えた。
今は何の違和感もない。まるでさっきのことが嘘みたいだ。それに契約がステータスに刻まれると言っても、俺にはそれを確認することができない。
その代わりに彼女がそれを確認したようだ。
「うん。契約は成立した。でもレベルあがらないんだねえ。不思議だなあ。初めての契約なんて普通はレベルいっこは上がるもんだけどねえ」
「そんなにレベルって上がりやすいものなんですか?」
モンスターとか倒さなくていいのだろうか?
ゲームの知識からはそう思ってしまう。ほとんどのRPGでは敵を倒さない限り経験値は得られない。一部のゲームではクエストをこなすことによって経験値が得られるものもあるが、少数派と言えるだろう。
それに対して彼女は頷いて言った。
「低いうちは、ね。20くらいまではさくさくあがる。30になったら一人前。ちなみに私は48だ。人にレベルを申告するというのも初めてだな。私のほうがレベルが上がってしまうかも」
そう言って彼女はあははと笑った。
それにしてもレベル48とは、どれくらいの強さなんだろう。少なくともレベル1の俺が何かして敵う相手ではないな。その彼女が護衛を依頼するくらいだから、後の五人も相当にレベルが高いに違いない。
チュートリアル戦闘だと思って挑みかからなくて本当に良かった。瞬殺なんてものじゃ済みそうにない。
しかし手とかこんなに柔らかいのに本当に強いんだろうか?
背の高さは俺と同じくらいだが、体つきは華奢な女性のそれだ。筋肉がついているということもなさそうだが、そこはレベル補正とかで一発殴られたら即死とかするんだろうか?
おお、怖い。
この世界の常識をある程度身につけるまで迂闊なことは避けたほうが良さそうだ。走ってくる子どもと衝突して即死とかありそうで、マジで怖い。
ふと彼女の手に硬い部分があることに気づいた。人差し指の先の側面。これはペンだこだろう。今は肩掛けカバンにしまっているが、彼女は最初必死に何かを書き留めていた。
なるほど、研究と言っていたことからも彼女は学者か、それに近い仕事をしているのだろう。
「ところで、契約は終わったんだが、君はいつまで私の手を握っているのかな?」
ふと顔を上げると頬を染めた彼女の顔があった。意外と初心なのだろうか? とは言え、恥ずかしかったのはこっちも同じだ。触り心地がいいのでついつい撫で回していた。
慌てて手を離し、彼女から距離を取った。
「す、すみません。とにかく何も分からないですが、よろしくお願いします」
「まあ、いいよ。契約したんだからちゃんと協力してもらうよ」
まだ朱色の抜けきらぬ顔で彼女はニコッと笑った。
こうして俺はまだ何も知らないうちにアレリア・アートマンと最初の契約を結んだ。
この選択が間違いだったと気づくのはもう少し後のことだ。
初めまして、こちらに投稿するのは初めてなので不手際などあるとは思いますが、遠慮なくご指摘等いただけたらと思います。
とりあえず一章の終わりまでは簡単にではありますが書き上がっておりますので、途中で止まる心配無くご覧いただけるように頑張ります。
次回は10月2日0時更新です。