8節 真夜中の来訪者
コン、コッココンコン、コン、コン。
真夜中に響く、間の抜けたメロディーリズム。
それは、紛れもなくドアをノックする音であった。
壁1枚を隔てた向こうに佇む気配。
逡巡の後、ダイニングテーブルの上に無造作に放っていた護身用の銃を静かに手に取り、アレクは足音を殺して玄関口に向かった。
そして、チェーンロックをちらりと確認し、僅かに扉を開ける。その隙間からすかさず銃口を――
「アーレーkきゃぁああああっ?!」
「…………テメェか」
「危ないなあ!! でも残念! 混血魔にそんなの効かな」
「銀の弾込めてるけどな」
「いやああああっ! ご、ごめんなさい調子にノリました!!」
慌てて両手を上げる少女――オペラ。
アレクは銃を下げ、けれどもドアの隙間越しに、この突然の来訪者を睨みつける。
大概の人間ならそれだけで震え上がる眼光にも怯むことなく、来訪者はとぼけたわんぱくっ子のような、はにかむ乙女のような微笑みをみせる。笑うとえくぼが出ることに、アレクはこの時初めて気がついた。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……来ちゃった♡」
「『来ちゃった♡』じゃねぇよ。どこの彼女だテメェは」
この少女は、変態どころか、とうとうストーカーにまで成り下がってしまったとみた。
常時の眉間の皺が3割増しになり、さらに凶悪な人相になるアレク。
「…………何でここが分かった」
「アルバス大司教様が」
「ジジイが?」
「5分肩揉みしたら教えてくれたよ?」
「俺の個人情報はンな安価に出回ってるのか」
一方で名と所属地に百数万ユーロも掠め取られているのかと考えると、呆れを通り越して哀れにすら思えてくる。
「もういい。何の用だ」
「さーて、何ででしょう?」
「質問を質問で返すな」
「ん~、強いて言うなら……アレクに会いたくなって♡」
「確か、そこの引き出しに銀の杭が……」
「き、吸血鬼コールド負けじゃん!? すみません本当は大司教様から伝言を預かってきました本当にすみません」
「ああ? 伝言? 明日教会で直接言えばすむだろうが」
「文句は本人に言って下さーい!」
「で、何だ。早く言え」
「まあ、立ち話もなんですから、どうぞ中へ」
「それはテメェが言う台詞じゃねぇ」
「それはそれ。お部屋の中でお茶でも飲みながら、ゆっくりまったり話してあげるから」
「そっちが本音か」
「………………な、何のこと?」
ボソリと零したアレクの言葉に対して、オペラの目が泳ぎまくる。
アルバス大司教の伝言など見え見えの建前で――大司教が一枚噛んでいる可能性も大いにあるが――街を一周半も回ったアレクの逃亡劇も虚しく、オペラは「想い人の家にお邪魔する」という計画を諦めていなかったようだった。
「……入っていい?」
「断る」
無慈悲にも、アレクはピシャリと扉を閉める。
ドア越しにオペラがわめいているが、そんなの知ったことではない。耳も思考も完全にシャットアウトし、アレクは無視を決め込む。
『酷ーい! こんな夜更けに女の子を門前払い!? ほっぽり出すのー!?』
「……」
『遊びに来ただけじゃん! 誰も泊めてなんて言ってないじゃん! 自意識過剰ー!!』
「……」
『ワタシを捨てるの!? お腹のこの子は、アナタの子なのに!!』
「――ッ!? テメェそれやめろ黙れ!!」
『せめて生まれてくる子の認知だけでもーー!!』
「あ゛あ゛~~~~っ!! 分かった早く入れ!!」
アパートの廊下でこれ以上根も葉もないことを騒ぎ立てられたらたまったものではないと、アレクは自棄糞気味にドアを開け放つ。
途端に、瞳――今はアレクと同じ琥珀の色彩だ――を輝かせるオペラ。
「本当!? いいの!?」
「ただし条件が3つある」
「は、はい! 何でございましょうか!?」
「1つ。少しでも害意や殺気を出しやがったら殺す。2つ。茶1杯飲んだらさっさと帰れ。3つ。クリス……キーパーソンのアドバイスは、今ここで全て忘れろ」
「了解であります!!」
軍人の鑑のような歯切れの良い即答と敬礼に、逆に不信感を抱くアレクではあったが、やがて大きな溜め息を吐くと、渋々オペラを招き入れる。
「お邪魔します」とそこだけは妙に礼儀正しく自室に足を踏み入れるオペラを横目に扉を閉め、アレクはキッチンへと引っ込んだ。
リビングを見回しているのだろう、オペラの楽しげな声が聞こえてくる。まるで、初めて遊園地に連れてきてもらった子供のような。
「わあー、男の人の部屋って初めて入った! アレクー、寝室どこ~?」
「俺の寝室は今この時もこれからもテメェには一切関わりはねぇから構うんじゃねぇ」
「ケチー。それはそうと……結構キレイにしてるんだね」
「こういうのは『キレイ』とは呼ばぬ。『殺風景』と云うのだ」
「そうかなぁ?」
「愚鈍で空虚な人間の中身がそのまま反映されておるのよ。だが……ふむ、このソファの座り心地はなかなか良い」
「またそうやってアレクの悪口言うー!」
「気に障ったか? 謝らぬぞ」
「――て、誰だテメェは!?」
弾かれたように慌てて見遣れば――
――座ったらどうだと勧める前にリビングの本革ソファに腰かけているオペラの横に、それはいた。
「フッ、愚かなる人間よ。誰かと聞くならば答えてやろう。我が名は――」
「…………ポメラニ、アン?」
「そう、ポメラニ――て、誰がだ誰が!?」
綿菓子のようなふわふわの被毛。
黒ガラス球を思わせるつぶらな真ん丸瞳。
おマセな蝶ネクタイとミニマムサイズのシルクハット。
アレクの呟きに器用にノリツッコミをしてみせたのは、どこをどう見ても……ポメラニアンの仔犬に他ならない。
ただひとつ――
「我が名はフェンリル! 『大地を揺るがす者』『破壊の杖』の二つ名をもつ、深淵の悪魔ぞ!!」
――その背から伸びる、猛禽類にも似た漆黒の翼が生えていることを除けば。
だが、ここでもうひとつ――
「おい、女。悪魔をソファに乗せるんじゃねぇ」
――この手のモノには、アレクはもう慣れ過ぎていた。
「犬っころとは、ななな何と無礼な!」
「事実だろうが」
「これは制約のせいだ! そうでなければ貴様のような小僧のエクソシストなど――!!」
「可愛いでしょ?」
「クゥ……己の可愛らしさが時折憎らしいわ!」
「ワタシの使い魔なの」
「何で『大地を揺るがす者』とか『破壊の杖』とか呼ばれてる深淵の悪魔が、使い魔なんかやってんだ」
「お父さんが誕生日プレゼントにくれた」
「父君に無理矢理召喚されて、無理矢理制約をかけられて、無理矢理契約させられたのだ……。気がついた時にはプレゼントボックスに入れられておったわ……グスッ」
「どんな親父さんだよ」
その父にしてこの娘ありかと内心呟く。
だが、入って来てしまったからには致し方ない、ひとまずのところポメラニアンだし害はないだろう、害があれば始末するだけのことと無理矢理己を納得させて、アレクはキッチンに取って返す。丁度、火にかけた片手鍋の水が沸騰していた。
「砂糖今切らしてるからな」
「うん、ストレートで大丈夫」
「テメェはミルクでいいな」
「犬扱いをするでない! ホットミルクを頂こう!」
「ドッグフードもつけるか?」
「カリカリ小粒タイプを所望します!」
程なくして、アレクが二度リビングに戻って来る。
「ほらよ」と押し付けるように渡した、湯気立つカップと、生温かい乳白色が揺れる深皿を受け取った各々は、ひとしきり香りを楽しんだ後、そっと唇をつけるのであった。
それから経つこと暫く、否、かなり。
アレクのイライラは、刻一刻と増しつつあった。ゲージはもうMAXだ。
その原因は――。
「……おい。いい加減本題に入れ」
「……………………あーー! アルバス大司教様のね!」
ティータイムのお楽しみ中、キョトン、と不思議そうに顔を上げたオペラが、たった今思い出したかのように声を上げる。否、実際、たった今思い出したのだろう。
「えっと、何か、『大事な要件があるから、明日儂の司教執務室へ来い』だって」
「それで?」
「それだけ」
「……それが伝言か?」
「そう」
アレクは額に手を当てて、うなだれるように小さく首を振った。
こんな伝言の伝言を聞くために、今までこの変態とおまけに悪魔を自宅に招き入れ、茶など出してもてなしてやっていたというのだろうか。
そう思った途端に、ドッと疲労感が押し寄せてきた。
「…………もう十分満喫しただろ。そろそろ帰れ」
「ええっ!?」
「エエッ!?」
「当初の目的は果たしただろうが。犬っころ。テメェは口のまわりに白いのついてンぞ」
「で、でも! ほら! お茶がまだ――」
「……テメェ、何で一滴も減ってねぇんだよ」
「だって、飲み終わったら追い出すでしょ……?」
「居座る気か」
「今夜は帰りたくないの♡」
「帰れよ」
「それか、ワタシにアナタの生き血をくれるっていう代価案もあるんですけど、いかがでしょうか!?」
「ん? オペラ、まだ『共血』をしておらんかったのか?」
「ワタシの血しかあげてないの」
「却下だ」
「それじゃあ、お茶1杯飲んでないんで、まだ帰りませーん……って、あ!」
マグカップを後生大事に抱え、屁理屈をこねようとするオペラの手から、アレクはカップをかっさらう。
そして、その冷めた液体を一気に飲み干した。
中身は数秒とかからず空になる。些か乱暴にテーブルに置かれた陶器の入れ物が、乾いた音を立てた。
「よし、茶1杯飲んだな」
「え? いや、でも今のは、アレクが飲」
「オラ、飲んだならとっとと帰れ」
呆気にとられている1人と1匹の首根っこを仔猫のように掴み、放るように外の廊下に連れ出すと、今度こそアレクは厳重に扉を閉めるのであった。
今思ったのだが、アレクこれ間接キスじゃないかい?