7節 モーニングカフェはテラスで人外と
「父」の死後、「母」と呼ぶべき女は、他の男と出て行った。
それが女が「子」を捨てた直接の原因なのか、今となっては確かめる術もないが、アレクには物心ついた時から、本来なら視えるはずのないモノが視えた。
悪魔や悪霊も、そして、それに相対するモノもまた同様に――。
† † †
アレクはすぐにその人物を見止めた。
きっと、ごった返した人波の中でも、一目で見つけられたことだろう。
当然だ。
観光客が思い描くであろう洒落たイタリアンカフェとは180度違う、裏通りの寂れたカフェテラスにおいて、そこだけがまるで、澱んだ雲の切れ間から一条の光の帯が降り注ぐかのように際立っているのだから。
そこにいたのは――まさに、神が創り給うたと言うべき、否、それ自身が美の女神と言うべき、絶世の美貌の持ち主。
眩い金糸のウェーブショートヘア。
男性にしては細身、女性にしては長身の、その黄金比率のとれた肢体を、テーラードジャケットで隠すのは何とも口惜しい。
サングラスをもってしても、その整いすぎた美しさに覆いはかけれない。神々しく、いっそ恐れすら抱かせる。
しかし、アレクはそれに心奪われる様子もなく、スタスタと歩を進めて、その人物のいるテーブルの向かいの席に腰を下ろした。
『聞いたぞ。半謹慎になったんだって?』
『うるせぇ。放っとけ』
愛想の欠片もないウェイターに、こちらも同じく愛想の欠片もなく、アレクは端的に注文を済ませる。
『これも何かしらのお導き、神の深いお考えあってのことだろう。ご愁傷様』
『文の前後で言ってることが矛盾してるぞ』
『私はただ、汝を案じてやっているだけだ』
白々しく新聞の紙面から顔を上げた相手。
その人物――通り名は「鍵を握る人物」らしいが、アレクは専ら「クリス」という表の顔の名で呼んでいる――は、肩をすくめ、コーヒーカップに柔く唇をつけた。その所作ひとつをとっても、サロンに憩う上流貴族にも似て、洗練されたものがある。
『心にもねぇことを』
『いや、おおよそ本心だぞ。汝も一応は顧客の一人に入っている』
『で。そっちはそれから何か掴めたか?』
『呼び名は“ラグナ”。人間界にいる数少ない上級悪魔の一体。あらゆる姿に擬態し、人心を惑わし、争いや死の種を植え付ける。特に“一族”絡みでそれが顕著だ。人間、天使、はたまた悪魔も喰らう。それと……“支配者”だ』
『ンなことはとっくに知ってる』
既に買った情報の羅列に、アレクは不機嫌そうに眉根をしかめた。
『そんなことは私もとっくに知っている。つまり、変わらず進展なしということだ』
『もっと他にねぇのかよ』
『簡単に言ってくれるな。あれは神出鬼没。明確に姿を確認されたのは、汝のファミリーの一件が最後だ。とんだ厄介者だよ』
アレクにエスプレッソを運んできたウェイターが、接客業にあるまじき怪訝な表情を露わにして下がっていく。正確には、この珍妙な組み合わせの2人から滔々と紡がれる、不可解な言語――“天界語”に。
『もう一人、知り合いにあの悪魔を探している者がいるが……もう随分長いこと追っている。とんだ長期戦になりそうだな』
『……チッ』
『まあ、ここのところあれと思しき者の動きが活発になっているのも事実だが』
『……また何か企んでやがんのか』
『さあ……。それはそれで、汝の望む「奴の所在」も探しやすくて結構ではないか。報酬は分割払いで組んでやる。ありがたく思えよ』
クリスは悪戯っぽく、けれど溜息が零れるほどに完璧な口角のカーブを描いた、艶やかな笑みを浮かべると、優雅に席を立って、その場を後にしようとする。
収穫はなしといった淡白な様子のアレクも、引き止めなどはしない。
ただ。
そのしなやかな背を視線で追って、スっと目を細めれば、そこに浮かび上がるものはあった――雄々しい大雲色の両翼。
霊視を閉ざせば、たちどころに見えなくなってしまうものではあったが。
『それはそうと――』
と、クリスがピタリと立ち止まる。
『――もう会ったのか?』
『誰に?』
『何を言っている。あの混血魔の娘だ。オペラとかいう』
『…………………………会ってな』
『会ったんだな。それは良かった』
『……知り合いか?』
『知り合いというか……汝の情報を売ったからな』
『……何?』
『探してほしいと言うからな。キーワードが少なくてなかなか骨が折れた。といっても、教えたのは汝の名前と教団のことくらいだ。知人の養女だからまけてやったんだぞ?』
『……今度はいくらふっかけやがった』
『140万ユーロほど』
『っ、悪魔かテメェは!?』
『安心しろ。ローンにしてやっている』
『ンなぼったくり、今時の悪徳業者でもやらねぇよ!!』
法外な額を請求したクリスにも、それを飲んだオペラとかいう少女にもほとほと呆れ果て、アレクは背もたれに身を預け、天を仰ぐ。
道の左右の建物によって切り取られた細長く狭い空は、それでも蒼く澄んでいた。
『第一よくそんなむしり取れるな、金の亡者が』
『何に重きを置くか、人の価値はそれぞれ違う。彼女にとってはそれほどの価値があっただけのこと。これもビジネスさ』
『価値も何も、あんな女、俺は知らねぇぞ……』
『んー……、女というか……それは……、まあ、私が口を出すことではないが……』
珍しく、クリスの返答は歯切れが悪い。
『とはいえ、私もそこまで非道ではない。きちんとアフターサービスもつけてやった』
『……サービス?』
『ああ、汝と会ったとして、まず何をどうしたらいいのか相談されたのでな』
『……それで?』
『押して駄目なら押し倒せ。反撃の暇を与えるな。既成事実を作ってしまえばあとはこっちのもの、と助言しておいた』
『事の発端はテメェかああああああああああっ?!』
思わずテーブルを叩き上げた。
例の混血魔の少女に遭遇してから今に至るまでの一連全ての諸悪の根源が、まさかこんな身近なところに潜んでいようとは。
『冗談のつもりだったんだが……。何だ? 貞操でも奪われたのか?』
『テメェ、あと一言でも喋ったらその羽もぐぞ』
※140万ユーロ:大体2億円……くらい?