2節 マーメイド・イン・ブルー
ゴミ投棄場。
悪臭。
酷い雨。
すっぽり被った黒いゴミ袋。
凍死するくらいに寒くても、寒さ程度で死にはしない。
怪我だって、心臓を串刺しにされるか首を切り落とされるかでもしない限り、死なない。
勿論のこと、悲しいからといって、孤独だからといって、死になどするものか。
けれど、このままでは死んでしまうのではないかと怖くなるくらいに、体か、あるいは心のどこかが、痛くて、悼くて……。
ゴミ投棄場。
悪臭。
酷い雨。
すっぽり被った黒いゴミ袋。
小さな子供が、泣いていた。
† † †
ヴェネツィア湾に面する、数多の海岸の中の、とある1つの場所にて。
夜空と水面に、チーズオムレットのような月が浮かんでいることを除けば、それ以外は完全な闇色に包まれていた。
元より、人気のビーチでもなければ「知る人ぞ知る」でもないこの海岸には人っ子ひとりおらず、夜のしじまだけが海辺を満たしている。例外があるとすれば、それは静寂をあやすさざ波の子守唄だけ。
そんな中に、チラチラと動く、眩いばかりのブルーライト。
厳密にいうところの、iPadの液晶画面の光。
その持ち主である少女は岩礁に腰掛け、真剣な表情で画面を見つめながら、指でスライドを繰り返していた。近代的な機器さえなければ、その姿はさながら人魚姫のブロンズ像のようでもある。
「明日の今頃には…………もう会ってるかな」
期待と不安に高鳴る胸と連動して、海につけた両足をパタパタと揺らす。
それを足と呼んでいいのは定かではないが――水に浸かった足首から下が、魚にも似たウロコとひれで覆われ、その上、水底に沈む水晶のように、水に溶けて幾分透けてみえているのだから。
「飛んでいけば、今日の内に会えたのではないか?」
そこに、地に響くような、低く重い声が降ってくる。
「ダメダメ。人目につきやすいことはするなって、お父さんに言われてるもん」
「まあ……実体になるにしても、“イデア界”を張るのは骨が折れるか……。わざわざその男のためだけに」
「ちょっとー! だけって何よだけって!」
「気に障ったか? 謝らぬぞ」
少女は唇を尖らせる。
「ときに、その例の男だが――」
「今度はなに、フェンリル?」
「――会ったところで、覚えておらぬのではないか? 否、分からぬと言った方が正しいか……」
「……」
「それなのに会って……何になる?」
「……別にいいの! そんなの端から分かってることなんだし。ずっとずっと会いたいと思ってて、そして今やっと会いに行ける。それでいいでしょ? 悪魔みたいに損得の感情だけで動いてないの!」
この話はこれでおしまいと、少女は視線を画面に戻した。
暫くはフェンリルも口をつぐんでいたが、やがて少女の手の中の物に興味を引かれ、翼をはためかせて近くまで寄っていく。
「先刻から、何を見ているのだ?」
「んー? これ? あっちからしたら『初めまして』なわけでしょ? だったら尚更、第一印象って大切だと思うの」
「一理あるな」
「第一印象はものの数秒で決まる、ていうし」
「そこで一度抱かれた印象は後々覆すのが難しい、とも聞くな」
「そう! だから、もっとこう……印象の良い服を着ていこうかなって。ネットで検索中」
「なるほど」
「これなんてどう? 清楚で可憐でフォーマルな洋服」
そうやって差し出されたiPad。
ハイクオリティと送料無料を謳うどこぞの怪しい通販サイトのページに映し出されているのは――純白のウェディングドレス。
「………………フォーマル過ぎやしないか?」
「えー!? だったら……これとかは? 今流行りの肉食系女子」
女剣闘士のコスチューム。
何を肉食するつもりだ。
「何故敢えてこれを選んだ」
「ワタシの燃えるような気持ちの表れ」
「『殺したいほど愛している』という表れか?」
「もー! それか……女らしさを意識して、これ」
真っ赤なセクシー・ボンテージ。
「……父君が悲しむぞ」
「ダメ?」
「その男を調教でもするつもりなら話は別だがな」
「じゃあ、そうだなぁ……萌え系で、メイド――」
「もう今の格好で良いのではないか。うむ、そのままで可愛い。十分可愛い」
このままいけば、第一印象が地の底に落ちる。
そして二度と這い上がってこれない。
「そう!? 本当にそう思う!?」
しかし、棒読みもいいところの上っ面の言葉を真に受けた少女は、目を輝かせてピョンと立ち上がる。水から上がった足は、普通の人間の足だ。
そうして大きく伸びをして、目一杯に空気を吸い込めば――空も海も波も風も真っ暗な夜色であるのは残念だったが、それでもその全てから――自由の匂いを感じ取れた。
「よし! それじゃあ、そろそろ行こうか――」
「――目指すは、ランヘルの“クオレヴィア教団”!」
検索したら、真っ赤なボンテージ、通販してました。初心者用のSMボンテージ……いやん(/ω\*)しかもなかなかリーズナブル。便利な世の中になったものです。