12節 思わぬところに伏兵(ライバル)
前回のあらすじ
「家に入れて下さい」
目の覚めるような真っ青なリボンで一つに編んだ、ブルネットの髪。
なめらかな白磁で出来ているかのような吸血鬼の肌。
東欧系らしいくっきりとした眉。
笑みに細めた人魚の瞳は、今はアレクと同じ琥珀色だ。
「Bună seara!(こんばんは)」
「開けるのに何をモタついておったのだ人間風情が!」
美しい乙女の形をかたどったこの厄介者、プラス使い魔のしたり顔の目前で、早々に今からでも扉を閉めてやりたい衝動に駆られる。が、アレクはそこを何とかグッと堪えた。
「言っとくが」
「分かってます! お茶一杯飲んだら帰りますんで!」
ニコッと笑った口元からちらりと牙が覗く。
釘を刺す前に先手を打たれたアレクは、顔をしかめたもののまた無駄なやり取りをするのも体力の浪費だと、それ以上言葉を継がず、踵を返した。
「お邪魔します」と、先程までの押しの強さはどこへやら、やっぱり何故かそこだけ礼儀正しい挨拶をして部屋に入ってくるオペラ。その後を、黒い翼をはためかせながらフェンリルもついてくる。
それにしても、“魔”の侵入をまさか2回も許す羽目になろうとは。痛みに悩まされる頭痛患者のように額に手を当てて、アレクはうなだれる。
この何の気ない行動に当てられた混血魔が若干一名いることなど、つゆほども知らず。
そう。
一方のオペラはというと――。
さっさとリビングに戻っていくアレク。警戒、煩労、冷淡……。その背中は、そんな言葉に近からずも遠からぬ、双方の間を隔てる鉄扉のようにもオペラには思えた。
押しの姿勢に隠れているが、落ち込んだり傷ついたりといった人間らしい感情が、不意によぎることがないかといえばそうではない。ずっと恋焦がれていた、いつか振り向いてもらいたい、ただ一人の人であるから尚更。
弱気になっちゃダメよ――ブンブンと頭を振る。ついしぼみそうになる気持ちを振り払い、己を叱咤する。
知り直す時間は、これからだってまだまだたくさんある筈だ。
最初の出逢い方こそ間違ってしまったものの、少しずつでも、自分が他の悪魔とは違うと分かっていってくれたら。
それまでは、前みたいな“共血”は下手にしないようにしなければ、と思い当たる。その一件が、アレクの不興を買った一番の原因と言えなくもないのだから。
「ヤマトナデシコ」。あくまで慎み深く、おしとやかに。
そう気を取り直してオペラが顔を上げれば。
何やら額に手を当てて、うなだれているアレク。
自宅のためか、緩められた教団服の詰襟。
俯いているせいで、いつもは鉄壁の防御とも言うべきその団服の合間から覗く、逞しい太い首元。
…………“共血”は、下手に、しないように。
首筋。うなじ。側頚部。
ヤマト、ナデシ、コ。
うっすらと汗ばんだ人の皮膚越しに感じる、呼吸の動き、脈動、血の流れ。
あくまで慎み深く、おしとや
無理。
「隙ありぃいいいいいいいいっ!!」
「――!?」
瞬間。
アレクの背に両手を広げて飛びつく。
いただきます、と心の中で合掌。
ところが、その寸前。
「ギャンッ?!」
直撃したのは、突然の体当たり。
衝撃でオペラは廊下をゴロゴロと転がっていく。ようやく停止できたのは玄関口のドアのおかげだろう。
「………………テメェ」
ひっくり返って上下逆さまになった世界で見えるのは、胡乱気な顔をしたアレクのジト目。
「今、何しようとしやがった?」
あともうちょっとだったのにと、すっ転げたままで足は使えないため、地団駄を踏むかわりに手でフローリングをバンバン叩いていたオペラは、刹那、固まった。
「……」
「……」
「…………これはその……」
「……」
「ち、違うんですっ! 誤解です違うんです! これにはその、深い、海よりも深い理由がございまして!!」
必死に弁明する。
「何が違う」
ばっさり切り捨てられた。
「……」
「……」
「……だってだってー! こんな美味しそうなビフテキを前に我慢しろっていう方が酷だよ!?」
「オイテメェ、まさかとは思うが俺をたとえて言ってンじゃねぇだろうな」
「あと一歩でアレクにダイブできたのにーー!」
「やってみろ。やれるモンならな」
「え?」
飛びつこうとした時には気づいていなかったが、いつの間に忍ばぜたのか、アレクの手中には既に武器が。
一見すれば、ただのアイスピック。
否、刺し所によっては十分武器とも呼べるだろうが。
しかし、ハンターやエクソシストなら分かる。それが、“霊具”――神の加護を受け、霊力を秘めた特殊な武器――だということに。それも“マスターピース”級の。強力故に人間界の法則に影響が出るため、自らの“異世界”でしか真の姿に変われない代物だ。
「命拾いしたな」
「あ、危ないところだったんデスネ……」
あのまま行っていたらと考えると、サア、と吸血鬼故に冷たい血の気が更に引くのが感じられた。
「……ん?」
それはそうと。
今さっきの体当たりの犯人――せっかくのチャンスを邪魔したとも言えるし、むしろ命の恩人とも言える――は、一体何だったのか。
「…………それって――」
視線を周囲に巡らせれば、すぐに正体を突き止められた。
一番に目に飛び込んできたのは、赤。
冠を戴くかのような頭部の羽毛の、鮮やかな真紅。
それは胸部から羽にかけて赤紫に、そして尾羽の青へと美しいグラデーションを遂げる。
まるで、宝石の糸で編み込んだ、一枚の天上の織り布を見ているような気分だ。
だがそう比喩されるモノは、実際のところは鷲に似た姿をしており、今現在廊下に立ちはだかっているわけなのだが。
「――不死鳥?」
間違いない。不死鳥だ。
おとぎ話の挿絵の中、でなければ、闇オークションで目玉の飛び出るような値段で羽根やらが出品されているのを見たことはあったが、人間界で生きた実物を見るのは、オペラにとってもこれが初めてであった。
「え? え? 何その子?」
急いでオペラは身を起こす。
「こいつはルチェ」
「……光?」
ソファに腰を下ろしたアレクが呼べば、フェンリルと何だかよく分からない牽制のし合いをしていた――なまじポメラニアンの姿のせいでシリアスに見えないが、光の不死鳥と闇の悪魔が闘っていると思えばなかなかに壮大な画と言えなくもない――不死鳥が、ふわりと飛び立つ。
そして、差し出したアレクの腕に、大樹の止まり木で羽を休めるかのように静かに舞い降りた。
その一連の様は、さながら朝焼けのベールのゆらめき、神秘的な炎の舞いだ。オペラの瞳が、赤紫色へと変わる。
「ペットなんか飼ってたのー?」
「エイデンのだ。あいつすぐ寝込むからな。時々こいつを預かってるだけだ」
「なんか……ファンタジーなやり取りしてるんだね」
「半吸血鬼と人魚だァ? テメェこそ75%はファンタジーで構成されてンだろうが」
「む……」とオペラが口を尖らせる。
「まあ、いいわ。直接行使が失敗した今次はペットから手懐けてアレクとの距離を縮めるのも手ねさあおいで坊や」
「脳内ダダ漏れだぞ。あと、こいつはメスだ」
「何ですって!?」
「ンだそのリアクションは」
「男と女が一つ屋根の下で同棲生活を送ってるっていうの!?」
「いやらしい言い方すんじゃねぇ」
無意識にしているのであろう頭を撫でる手を止めないでとルチェに催促され、応えてやるアレクの常時の眉間の皺が、心なしか和らいでいる気がする。
アレクみたいな強面で無愛想なタイプが、意外と子供や小動物に優しかったりするのだ。慈善団体に寄付なんかしたりもして。
「悪いか」
どうやら声に出てしまっていたようだ。
「過ぎた金があったところで、今の俺に使い道はねぇよ。生きていくに困らねぇ程度ありゃあ十分だ」
未だ警戒態勢のフェンリルを従えて、膝歩きながらも下手に近づき、いそいそとテーブルにお土産のティラミスとエスプレッソを置いていたオペラが、すかさず食い下がる。
「その優しさの1パーセントでも私に分けていただけな」
「持ち合わせてねぇ。人に喰いかかってくるような奴にやる優しさなんぞ」
「そんなぁ……」
「現に外敵だと思われてンだろ。でかした、ルチェ」
心得たりといった様子で鳴くルチェの声は、カナリアとフルートを合わせたかのような不思議な、それでいて耳に心地よい音であった。その細められた目に浮かぶのは、余裕と愉悦。
――何なの、この小娘?
――私に勝てるとでも思ってるのかしら? ホント笑えちゃう。
――見なさいこのアレクの表情。
――あなたが逆立ちしたって、彼にこんな顔させること出来ないんじゃなくて?
――聖水で顔でも洗って出直していらっしゃい!
「ううううううううおのれぇいいいいっ!!」
「勝手にアフレコするな」
「離れてアレクそのビッチから早く!!」
「『余裕と愉悦』のあたりからテメェの妄想劇場だからな」
「うかうかしてらんない、こんな近くに恋のライバルがいるなんて! 次の手にいかなくちゃ!」
「何!? では迅速にプランBへ移行し始動すると云うことだな!!」
「おい!? ここ3階――」
突如身を翻したかと思うと、大凡人間の目では捉えられぬ素早さでベランダの外へと飛び降りた一人と一匹に、それまで取り合っていなかったアレクも流石に、咄嗟に振り向いた。
が、見えたのは、オペラの三つ編みの先のリボンと、フェンリルの尻尾だけ。
ベランダへと駆け寄るも、眼下に望むランヘルの夜街に、既にオペラたちの姿はなかった。
「……まあ、混血魔なら、3階くらい問題ねぇか」
逆に3階程度で両足を複雑骨折する悪魔がいるのなら、それはそれで見てみたい気もする。
「ていうか玄関の扉を使えよ……」
溜息を吐いて室内へと戻ったアレクの目に止まったのは、テーブルに置き去りのままのケーキとコーヒー。
少しばかりの逡巡の後、アレクはコーヒーを流しに全部捨てた――魔の持ってきた食物を口に入れるエクソシストがどこにいる。
それからケーキをダストボックスに、と思ったが、何故だか微かに躊躇っていた。そんな己の行動が苦々しい。
結局、そう遠くない内に腐らせて無駄にするのは変わりないのに、アレクはそれを冷蔵庫に入れるのであった。
その光景を眺めていたルチェが、首を傾げ、クルル……と小さく鳴いた。
人は時に、恋するあまり突っ走ります。