プロローグ
昨日はちょっと興奮してたのか、それとも長い休みのせいで生活リズムを崩してしまったせいか夜更かしをしてしまい、眠ったのは午前二時になったあたりだったと思う。携帯のアラームをセットしていたけど、それでは起きずに部屋にある目覚まし時計の音で目が覚めた。とはいえ、やはりまだ若干眠っているような感じがする。春の柔らかな日差しが心地よく部屋を明るくしてくれて、まだ夢の余韻に浸りながらまどろんでいたかったが、どうやら目覚ましはそれを許してはくれないらしい。
仕方ないなと徐々に頭を覚醒させていったはいいが、目覚ましのベルの音を止めるよりも早く、階段を猛スピードで駆け上がってくる「何か」の音で俺の眠りは覚醒のスピードを一気に跳ね上るのを感じた。
その「何か」は俺の部屋の前まで来ると、扉を壊すんじゃないかというぐらいの勢いでバーンと開け放ち。そして文字通り、飛び込んできた。
「春くん、おーきー、てーっ!」
かん高いアニメ声が聞こえてきたなと思い目を開けようとした瞬間の事だ。腹に猛烈な衝撃が走って、思わず声が出てしまう。
「ぐほっお」
「きゃはは、春くん「ぐほっお」だって。おっもしろーい」
なんか出ちゃったんじゃないかなと思う衝撃に、完全に目は覚めたが目覚めの気分は最悪だ。あと、口の中が若干酸っぱい味がする。
「あのなぁ心、朝から兄のお腹にダイビングするのは止めろって言ってるだろ」
「えー、だってだってー。春くんいっつもお寝坊さんだよ?今日は遅刻しちゃマズいんじゃないの」
「だからって……はぁ、まぁいいや。ほら、俺は着替えるから下に行ってろ。ったく」
「はーい」
今俺の腹にボディブローの如き衝撃を与えてパタパタと降りていったのが妹の心。小学六年生。向日葵みたいに明るい笑顔と性格で、ロケット花火みたいに勢いのある奴だ。で、その兄である俺の名前は月宮春人。この春、私立藤ヶ先高等学校の二年生となる。
このあたりじゃ有数の私立校で自由な校風と綺麗な校舎でそこそこ人気がある。伝統を重んじる古風なところが俺は気に入っている。
なんでも学校の創始者の人は結構有名な財閥の人らしく、その家は江戸時代から続く名家なんだとか。確かりゅう……なんだっけ?その人の教育方針が「古きものを尊い、新しいものを重んじる」といったないようで、最新設備は整っているものの、学校はどこか芸術作品のような、しいていうならば美術館をそのまま学校にしたようなところになっている。
妹にやられた腹の痛みを抑えつつ、制服に腕を通す。ネクタイを締め鏡を前に深呼吸。「よし」と、自分の顔を両手でパンッと叩いてから洗面所へ向かった。朝は先ずは歯磨きからである。
『心様、お兄様がいらっしゃいましたよ』
「あ、春くんだ。改めて、おはよーございますっ」
「ん、おはよう」
『春人様、お顔色が優れないようですが、ご気分でも悪いのでしょうか?』
「あぁ、大丈夫。ちょっとお前のマスターにダメージ負わされただけだから」
顔も洗ったのでもう大丈夫かと思ってはいたが、いささかダメージは大きかったようだ。我が妹ながら、恐るべしといったところか。
リビングに入ると、既にテーブルの上には朝食が二人分。可愛らしい、いかにも女の子っぽい食器に盛り付けられていた。あと、やったら甘ったるい匂いもする。
先ほどの活発な行動を見せるものの、このあたりはホントよく出来た妹だなと思う。我ながら情けない部分ではあるが、どうも朝起きてから何かをするという習慣が中々身に付かず、結局こうして妹に頼ったままでいる。
心自身はそれを別に気にしていない。というか、むしろ楽しみながらやっている。彼女の中では「花嫁修業」というのだが、兄の心情からすると複雑な気持ちになるのは否めない。
『心様、妹が兄を起こすというシチュエーションは王道を攻めなくてはと何度も申し上げているではありませんか』
「おうどーって何ー?」
『王道というのは演劇、ドラマ、コントの筋書きなどにおける、いわば「ベタな展開」を意味するわけです。いいですか?この場合の王道、つまり「妹が兄を起こす」というシチュエーションの場合は優しく身体を揺らした後にキスをする、というのが王道です』
「おい、お前今すぐアンインストールしてやろうか」
さっきから話している「コイツ」の正体。それは超高性能AIによって生み出された感情プログラムを持つアプリケーション。『アプリロイド』通称ARである。
近年、普及したスマートフォンのアプリケーションは様々で、スケジュールを音声で知らせるものやSNSのアプリなど様々。中でもこの『アプリロイド』は格別である。
現在ではすべての携帯に備わっている機能で、性別や姿等を細かく設定でき、超高性能AIによる感情プログラムにとって持ち主と今のように会話できるのが特徴だ。基本的な設定ではあるが、アプリロイドは大体がマスターと逆の性別に設定される事が多いらしいんだが、そのあたりの事情は興味がない。
心のARの名前は『カエデ』。基本設定で執事?が設定されていて、画面上のデフォルトも執事の格好をしている。さっき俺の顔色が分ったのは単純にカメラ機能でこちら側の情報を読み取っているからだ。
ホログラム機能により実際にそこにいるかのように姿を映し出すことも出来、大きさはせいぜい文庫本ぐらいのサイズ。ただ、こいつらがこんな風に姿を投影できるのはその機能を備えた器械の置いてある施設の有効範囲内に限定されるので、四六時中見えるわけではない。まぁ、携帯のディスプレイから浮き上がるわけだからある意味四六時中とはいえるのかもしれないけど。
『ところで春人様』
「ん、なんだ」
『春人様はアプリロイドはお持ちにならないのですか?』
「俺はどうも苦手なんだよ、そういう機械じみたもんってのがさ」
またこの会話か。と、少々うんざりしながら頭をガシガシと掻く。
今じゃ普及率九十九・九パーセントというこの「アプリロイド」ではあるが、俺はその0・一パーセントに属する希少人種という訳だ。
別にスマート・フォンが使えないわけじゃないし、パソコンだって使える。単に必要最低限でいいってだけで、深くは知る必要を感じないんだ。
携帯なんて、電話とメールが出来ればそれでいい。
俺の家は現在、妹の心と二人暮しだ。両親は二人とも海外を飛び回ってる仕事をしている。科学技術が発達した世の中とは行っても、別にタイムマシーンも無けりゃ車も空を飛んじゃいない。空を飛ぶ時点でそれはもう飛行機だ。このARの普及により人の生活は格段に便利になった、というわけではないにしろ、それなりに豊かにはなっているらしい。
SNSの飛躍でそのネットワーク内で行われる仕事なんかもあって、それを人工知能を保有するARが引き受けている。
例えば電車の運行はこのARがやってるし、今まで人がコンピューターを操作してって作業が必要なライフワークはこいつらARがとって代わってやっている。それに伴って色々な事業の展開されてるし、逆に弊害も生まれた。とはいえ、担い手がコンピューターか人かってだけで、この世界はそこまで大きな飛躍を遂げたわけじゃない。普通に学校はあるし、大人達は会社や職場に行って仕事をしている。
「春くんはどーして機械が苦手なのー?」
「んんー機械っつか、二次的なもんが苦手なんだよ」
くるくると俺の周りをまるでお月様みたいに回りながら訊ねてくる妹の心。ちっこい頭をくしゃくしゃと撫でてやると、きゃーきゃーと言いながら喜ぶ様はまだまだ幼いなと感じるし、見ていて微笑ましい。小学六年生になっといっても見た目はまだまだ少女そのもので、実の兄から見ても可愛らしい外見であるのは自信を持って言えると思う。どことなくアニメ声っぽいところとか、笑った時にちらっと見える八重歯とか。
心の小学校は俺の高校の分校になっていて、当然私立ということもあってか制服がある。六年生になったから胸のリボンの色は赤でスカートは白いフリルが付いている仕様だ。朝食はハニートーストだったせいか、今絶賛回転中の心からは蜂蜜と、どことなく桃みたいないい香りが漂ってくる。
その様子をカエデのが録画していたので、後でデリートしておこう。
俺がアプリロイドが苦手な理由の一つがこの「感情プログラム」の存在だ。行動パターンはある程度デフォルトされてるとはいえ、カエデの取る行動はどこか人間じみている。機械なのに人間っぽいところに、どうも俺は嫌悪感を抱いているんだと思う。
ARの開発ルーツは俺から言わせるととてもくだらない内容だった。
人伝いに聞いた内容なので詳しくは分らないけど、恋愛シュミレーションゲームが発端だとか。そもそもゲーム、こと大型のデバイスを使ってのゲームなんてのは持ち運ぶのは困難だ。従来の恋愛シュミレーションゲームの場合、せいぜい携帯ゲームに移植する程度が関の山だし、ああいうゲームは結局選択肢を選んでいって最終的にエンディングを向えるもんだから、誰だってクリアできるし、バーチャルがゆえにそこにリアリティーはない。何故そんなものに興味が惹かれるんだろうと疑問に思った時期、興味を持った時期もあったが、それが後に俺のトラウマとなってしまう。
その恋愛シュミレーションゲームによりリアリティを追求する為に産まれたもの、それがこのARの基盤となる感情プログラムだ。当時このシステムは人の思考パターンを解析し、何万人という個人データを元に作られたもので、先ほどの話の続きで言えば選択肢を選ぶタイミングや、現在までの交友関係。また、そのゲームをプレイする時間までもが選択範囲に含まれているというのだから驚きだ。
つまりこの感情プログラムの基礎となるものが組み込まれたゲームは二十四時間どこでもプレイ出来るもの、ではなく、リアルタイムで話が進行していくゲームとなった。
簡単に言えば、従来のゲームでいえば一時間だけプレイして、一ヵ月後に始めたってそのゲームのプレイ時間は一時間しか経っていない訳だが、そのゲームに関しては始めた時間からエンディングを迎えるまでに経過した実際の日数がプレイ時間としてカウントされる。だからセーブも出来なければやり直しも簡単には出来ない、まさにリアリティ極まりないものだ。
どうしてこんなものを作ったのか、天才の考えることはわからない。そして、その天才が天才故に馬鹿な考えを起こし、さらにそのゲームを進化させた事によりARが産まれたんだ。
思い出すだけでも頭痛がしてきた。そこで「?」と、何かを忘れてるような気がした。
ふと時計に目をやると、午前八時。
「うわ……、やっばい」
「わーわー、遅刻しちゃうー」
「その割には随分と楽しそうだな、心」
「ほえ?」
『はい、実に可愛らしくて。心様マジ天使』
「お前ほんと一回黙れ」
慌てて家を出て、妹を自転車の後ろに乗せて思いっきりペダルに力を込めて漕いだ。ちょっと危ないかもしれないけど、心を始業式で遅刻させるわけにはいかない。
心の小学校は俺の通う高校の近くなのでたまにこうして送ってやる事もある。時間に余裕がある心の方が家を後に出ることがほとんどだったが、別に本当に時間に余裕があるからというわけではなかった。両親が仕事の都合で家を空けだしてから二人で住むようになり一年ぐらい経ったある日、心は学校に行かなくなってしまった。いわゆる不登校というやつで……
「いっけー、春くん号ー!駆け抜けろー!きゃははは」
別に世界が便利になったとか、環境がどう変わるだとかは俺自身はどうでもいいことだけど、心の変化だけは、こいつが今ではこんな風に笑ってくれるのが、何よりも嬉しい。その変化に対してだけは感謝出来る。ずっとこんな風に、心が幸せそうにしていてくれる事が何よりも今は尊いものだと感じれているからだ。春の心地よい風が頬に優しく当たるのを感じながら、俺は心と一緒に学校までの道のりを急いで、でも……ちょっとゆっくり走っていった。