婚約破棄された悪役令嬢は聖女様の手を取らない
卒業記念の舞踏会は、王城の大広間で開かれていた。
魔石のシャンデリアが輝き、磨かれた床には楽の音と笑い声が満ちている。
その中心で、王太子レオンハルトは私に告げた。
「エレオノーラ・フォン・グランベル。私はこの場をもって、君との婚約を破棄する」
沈黙が落ちた大広間で、私は薄く笑いを浮かべる。
「理由を、お聞かせいただけますか」
声は思ったより落ち着いていた。
思った反応と違ったのか、殿下は苦い顔をした。
怒り。
失望。
そして困惑と悲しみ。
貴方は昔から変わりませんのね。
「君は聖女リリアに対し、度重なる嫌がらせを行った。神殿からリリアへ宛てられた召喚状を破棄し、社交界に悪意ある噂を流し、神殿への出入りまで妨害した」
私は何も言わなかった。
「それだけではない。辺境の疫病救済に向かうはずだった神官団の手配を遅らせた。聖女リリアを貶めるためだけに」
一つ一つ、罪状を確かめるように続ける。
ただ残念ながら、殿下の思うようにはならない。
「そのせいで、薬と祈りが間に合わなかった村がある。……死者も出た。何か申し開きはあるか」
できるだけ笑みを、余裕を崩さぬように静かに答える。
「そこまでの被害とは思わなかった。……と言えば、少しはマシに聞こえますか?」
周囲から小さな悲鳴が上がる。
聖女の評判に傷がつけばいいと思った。彼女が少しでも疑われて、殿下が私のもとへ帰ってくればいいと思った。
その結果、遠い村で誰かが死んだ。
それだけのことだ。
私は殿下の隣の女に目をやった。
純白のドレスを着た、聖女リリアが青ざめた顔で立っている。
平民の出でありながら神殿に選ばれ、癒やしの力を授かった娘。
「エレオノーラ様……本当なのですか」
綺麗な声。
柔らかくて。
震えていて。
心から私の身を案じているような声。
忌々しい。
「ええ」
女に向かって微笑んだ。
「すべて、わたくしがいたしました」
ざわめきが広がる。
リリアの瞳から一雫の涙がこぼれた。
「どうして……」
「勿論、あなたが憎いからですわ」
周囲の困惑が怒りに変わる。
「そんな理由で……」
「ええ、満足いただけたかしら?」
「エラ!」
殿下の怒声が響いた。
思わず体が強張る。
震える指先を悟られぬよう、拳を握った。
この方に怒鳴られたのは、初めてだった。
「そんな理由で、民まで巻き込んだのか」
「……その通りですわ」
昔の私なら泣いていた。今でも油断すると泣きそうだった。
許してほしいと縋りたい。今まで殿下の隣に立つために、どれほど努力してきたかを聞いてほしい。
だが、それを言ってどうなる。
幼い頃から王妃になるために育てられ、泣くな、怒るな、欲しがるな、嫉妬など醜いと教え込まれた。
その教えのおかげで、私はまだ微笑んでいられる。
「なぜだ」
答えなら、いくらでもあった。
殿下が私を見なかったから。
そこの村娘が聖女だったから。
貴方がリリアに惹かれたから。
彼女が私のすべてを持っていったから。
これまでの努力も、我慢も、研鑽も、全部が無駄になってしまったから。
私が弱かったから。
でも言葉を並べても、もう結末は変わらないのです。
「……この期に及んで、その質問は意味がありませんわ」
殿下は目を閉じた。
私はドレスをつまみ、深く礼をする。
「どのような処分も、お受けいたします」
最後まで美しく。
そう思った自分に、うっかり表情を崩しそうになった。
美しくなど、あるはずがない。
私はただの悪女なのだから。
◇
処分が決まるまでの数日、私は王城の北塔に置かれた。
机の上には紙とペンがある。
謝罪文を書け、ということなのだろう。
王家へ。
神殿へ。
リリアへ。
そして、私のせいで家族を失った者たちへ。
私はペンを取った。
申し訳ございません。
そう書けばいい。
たったそれだけのことが、できなかった。
涙ながらに謝れば、リリアはきっと許すだろう。
殿下は『君も苦しんでいたのだな』と言ってくださるかもしれない。
悪女にも人の心があったのだと、誰かが勝手に私を薄めてくれるかもしれない。
だからといって失ったものはもう、戻らない。
私は紙に一行だけ書いた。
その時、扉が叩かれた。
「エレオノーラ様」
リリアだった。
白い外套をまとった彼女は、一人で私の前に立つ。顔色は悪い。それでも真っ直ぐに私を見ていた。
「ごきげんよう。よく一人で顔を出せたものね」
リリアの肩が揺れた。
私は笑った。
少しだけ愉快だった。
「何かしら? こっそりここから出してくださるの?」
「私は……あなたを許します」
その瞬間。
作り笑いが崩れ、胸の奥が冷える。
「生きてください。罪は償えます。神殿で働くこともできます。私から殿下にお願いしました。エレオノーラ様を助けてほしいと」
立派なことだ。
美しいことだ。
隣の衛兵すら、聖女を見る目をしている。
冗談じゃない。
「控えなさい、村娘風情が」
リリアの顔がこわばる。
「罪は償える? 殿下にお願いした? 勘違いも甚だしい。平民の分際で聖女に選ばれて、神様にでもなったおつもりかしら」
「そんなつもりじゃありません」
「なら出てお行きなさい。これ以上、貴女と話すことはありませんわ」
震える体を無理やり押さえつけて村娘を見た。
こんな女に負けた。どうしようもない惨めさが胸を刺す。
「なぜですか! 私はエレオノーラ様を助けたいだけなのです」
リリアの瞳が揺れた。
傷ついた顔だった。
それを見て、少しだけ平静を取り戻す。
「貴女が私を助けようと思うのが、そもそも烏滸がましいと言っているの。わたくしは全てを受け入れる。誰に赦しを乞う必要もありませんわ」
「そんな……!」
「何を言っているのか分からない、といった顔ね。結構。さて……そろそろご退室願おうかしら。衛兵、この田舎者を連れて行きなさい」
「貴様!」
激昂した衛兵が鉄格子越しに凄む。
実にくだらない。
平民同士で好き合っていればいいものを。
「あなたが死んだら、私はきっと一生忘れられません」
去り際にリリアが振り返って、言った。
「死ね」
間髪入れずに返す。
どうせもうすぐ死ぬんですもの。
淑女としては最低ですが、これくらいの悪態は許されますよね。
机の上の紙には、たった一行だけ。
——すべて、わたくしがやったことです。
それで十分だった。
◇
翌朝、処分が下された。
公爵家の名誉を守るため、表向きは病による急死。
実際には、毒杯。
最後の支度をする間、手が震えた。
死にたくない。
ここから逃げ出したい。
誰でもいいから助けてほしい。
リリアを呼んで、赦しを乞えばまだ助かるかもしれない。
けれど、その道の先で、私はきっと何度も思う。
許されてよかった。
生きていてよかった。
聖女様は優しい方だった。
そして少しずつ、殿下への想いも解けていくのだろう。
そんなの、私は許さない。
銀の杯が置かれた机の前に座る。
部屋には何人かの執行官の他、レオンハルト殿下もいた。
数日前より、ずっと疲れた顔をしている。
「最後に、言うことはないか」
「わざわざ私の最期に立ち会ってくださり、ありがとうございます」
「……謝罪、弁明はないかと訊いている」
「そういうことでしたら、ございません」
殿下は答えなかった。
「……リリアは泣いていた」
「そうですか」
「君は彼女に残酷なことをした。今もだ」
「そうらしいですね」
殿下の拳が震えていた。
「なぜ最後までそうなんだ。君はそんなことをする人ではなかったはずだ」
その声は怒りではなかった。
痛みだった。
本当は聞きたかった。
一度でも、私を好きだったことはありますか。
私が隣に立とうとしていたことを、少しでも嬉しいと思ったことはありますか。
「わたくしを、可哀想な女にしないでくださいませ」
殿下の表情が歪む。
「わたくしはリリア様に負けました。ですが、自分の気持ちと最期くらいは誰の好きにもさせませんわ。殿下、ずっとお慕いしていました。愛しています。そして、さようなら。どうかお元気で」
殿下の答えを聞く前に杯を持ち上げ、一息に飲み干した。
苦くはなかった。
ただ、喉の奥が焼けるように熱い
息が詰まり視界が揺れる
綺麗になど死ねるはずがない
怖い
怖い
殿下が駆け寄る気配がした。
誰かが体を受け止めたが、もう何も見えなかった。
気配の方に顔を向ける。
きっと今、ひどい顔をしている。
それでも笑った。
「レオン」
声はかすれていた。
「どうか、よい王に」
遠くからレオンの声が響いた。それは王太子のものではなく、幼い日の彼の声のように聞こえた。
私が悪かった。
私が間違った。
でも、私は最後まで抗った。
最後に胸に残ったのは勝利でも、救いでもない。
ただずっと必死で守ってきた、ほんの小さな意地だけだった。




