第九話 師匠、静かな再会
ルミナ村の朝は静かなものだ。風が草を揺らす音と、遠くで鳴く鳥の声、そして早起きの農夫たちが畑へ向かう足音くらいしか聞こえてこない。空気も澄んでいて、朝露の匂いがどこか心地よく感じられる。
だが、王都の朝は違った。
日の光が建物の屋根を照らし始める頃には、すでに通りには多くの人の姿がある。パン屋の前には焼きたての香りが漂い、店主が看板を外へ出し、商人たちは荷車を押して通りを行き来している。鎧を着た兵士たちが巡回し、旅人たちが宿から出てきて地図を広げる。
様々な音が重なり合い、王都という大きな街が目を覚ましていくのが分かる。
俺は宿の窓からその光景を眺めながら、小さく息を吐いた。
「……やっぱり落ち着かんな」
静かな村に長く住んでいると、こういう賑やかさにはどうしても慣れない。人が多いというだけで、妙に疲れる気がしてしまう。
後ろから控えめなノックの音がした。
「師匠」
レオンの声だった。
「入れ」
扉が開き、レオンが部屋に入ってくる。相変わらず背筋の伸びた姿勢で、朝から隙のない雰囲気をしていた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
俺は窓から離れ、軽く肩を回す。
「王都の朝は早いな」
「人が多い街ですから」
レオンはそう言ってから続けた。
「朝食の準備が整っているそうです」
「そうか」
軽く頷きながら、俺はふと聞く。
「今日は何か予定はあるのか?」
レオンは少し考えるようにしてから答えた。
「特にありません。王との謁見は八日後ですので、それまでは師匠のご自由にお過ごしいただいて構いません」
その数字を聞くと、やはり少し長く感じる。
「……八日もあるのか」
「はい。王もお忙しいのでしょう」
「それはそうだろうな」
王という立場の人間が、簡単に時間を作れるとは思えない。
俺は軽く頭をかく。
「正直なところ、八日も王都にいるのは少し落ち着かんな。帰りたくなったらどうする?」
そう言うと、レオンは少しだけ困ったように笑った。
「それは困ります。王が悲しみますので」
「まだ会ったこともないのにか」
「ええ」
レオンは真顔で頷いた。
そんなやり取りをしながら、俺たちは宿を出て通りへ出た。
朝の王都は、すでにかなり賑わっている。パンを買いに来た人々、仕事へ向かう職人、荷物を運ぶ商人、鎧姿の兵士。様々な人間が入り混じりながら通りを行き交っていた。
その中を歩きながら、俺はふと足を止めた。
「……?」
何か妙な感覚があった。
誰かに見られているような、そんな気配。
振り返る。
だが、そこにいるのは普通の人たちばかりだった。商人が値段の話をしていたり、子供が走り回っていたり、旅人が荷物を背負って歩いていたりする。
怪しい人物は見当たらない。
「どうしました?」
レオンが聞く。
「いや……」
俺は少しだけ周囲を見回す。
「気のせいかもしれん」
だが、そのとき。
通りの向こう側。
人の流れの中で、一人だけ動かない人物がいた。
黒い外套を羽織った女だった。
長い黒髪を後ろで束ね、静かな目でこちらを見ている。
その視線は、人混みの中でもはっきりと感じられるほど鋭かった。
そして次の瞬間、その女はゆっくりと歩き出した。
人と人の間を、迷いなく進んでくる。
周囲の人間はほとんど気づいていないが、レオンの表情がわずかに変わる。
女は俺たちの前まで来ると、静かに足を止めた。
そして――
すっと頭を下げる。
「お久しぶりです」
その声を聞いた瞬間、俺は少し目を見開いた。
懐かしい声だった。
女が顔を上げる。
黒い瞳がまっすぐこちらを見る。
「師匠」
その呼び方をする人間は、そう多くない。
俺は少しだけ笑った。
「……セリスか」
女――セリス・ナイトレアは、静かに頷いた。
「はい。ご無沙汰しております」
俺は腕を組みながら彼女を見上げる。
昔よりも背が伸びているし、雰囲気もずいぶん変わっている。子供の頃はあまり感情を表に出さない静かな子だったが、今はそれとは違う、冷静で鋭い空気をまとっていた。
「ずいぶん立派になったな」
そう言うと、セリスはわずかに笑う。
「そうでしょうか。師匠に比べれば、まだまだです」
そのとき、横からレオンが声をかけた。
「セリス」
セリスはレオンを見る。
「騎士団長」
軽く頭を下げる。
「お久しぶりです」
「元気そうだな」
「はい」
二人の会話は短かったが、どこか仕事上の距離感のようなものがあった。
昔は同じ道場で剣を振っていたのだが、今ではそれぞれ違う立場で王国を支えている。
俺は聞く。
「しかし、よく分かったな。俺が王都にいるって」
セリスは答える。
「昨日、報告が入りました。中央ギルドでの出来事です」
俺は思わず苦笑した。
「もう広まってるのか」
「ええ」
セリスは平然と言う。
「王都の情報は、思っているより早く集まります」
それから一歩近づいた。
「それに師匠が王都に来たとなれば、確認しないわけにはいきません」
その言葉には、どこか懐かしさが混じっていた。
セリスは静かに頭を下げる。
「お会いできて嬉しいです」
その声は、昔より少し柔らかかった。
俺は頭をかく。
「……大げさだな」
だがセリスは首を横に振る。
「いいえ」
そして、まっすぐこちらを見る。
「ずっと、お会いしたかったんです」
王都の人混みの中でこうして、また一人俺の弟子が現れた。




