第二話 師匠、王都へ
ルミナ村を出発したのは、翌日の朝だった。
高原の朝は相変わらず空気が澄んでいて、遠くまで見渡せる草原の上をゆるやかな風が流れ、朝日が丘の斜面を少しずつ照らしていく様子を眺めていると、王都へ向かうという話がどこか現実味のない出来事のようにも思えてくる。
村の入口には、道場に通っている子どもたちが集まっていた。
いつも朝の稽古が終わるとすぐ帰ってしまう連中なのに、今日はやけに早い時間から集まっていて、どうやら俺を見送りに来てくれたらしい。
「師匠、本当に行くの?」
腕を組みながら、少し不満そうな顔でそう言ったのはリナだった。
年のわりにしっかりしていて、道場の中でもまとめ役みたいな存在のやつだが、今日は珍しく不安そうな表情をしている。
「まあ、少し顔を出すだけだ」
俺は肩をすくめながら答える。
王都に呼ばれる理由なんて正直よく分からないが、レオンがわざわざここまで迎えに来た以上、完全に無視するわけにもいかない。
とはいえ、長く滞在するつもりはない。用事が終わればさっさと村に戻るつもりだ。
「師匠がいないと稽古どうするの?」
別の子どもが言う。
「ちゃんと素振りしとけ」
「絶対サボるでしょ!」
「サボらない!」
子どもたちが一斉に騒ぎ始める。
そのやり取りを見ながら、俺は思わず苦笑した。
この道場を始めてからもう十五年になるが、こうして子どもたちに囲まれている時間は、なんだかんだで嫌いじゃない。
「大丈夫だ」
俺は荷物を肩に担ぎながら言う。
といっても、大したものは持っていない。着替えと簡単な道具、それにいつも使っている木刀くらいだ。
「すぐ戻るさ」
たぶん。
そう心の中で付け加えながら、俺は村の外へ続く道へ視線を向ける。
その横では、レオンが馬の手綱を整えていた。
黒いマントを羽織り、腰には長剣。村の中では少し浮いて見える格好だが、本人は特に気にしていないらしく、いつものように落ち着いた様子で馬の様子を確かめている。
「準備はよろしいですか、師匠」
レオンが静かに言った。
「まあな」
俺は軽く答えながら馬にまたがる。
こうして村の外へ出るのは、いつ以来だろうか。
昔は弟子たちを連れて遠くの町へ行ったり、森の中で稽古をしたりすることもあったが、ここ十数年はほとんどルミナ村の外に出ることがなかった。
気がつけば、俺の生活はすっかりこの村を中心に回るようになっていた。
「師匠」
後ろからリナの声がした。
振り返ると、少しだけ寂しそうな顔をしている。
「絶対帰ってきてね」
「大げさだな」
俺は笑う。
「王都なんて遠い場所でもない」
……まあ、俺からすると十分遠いが。
そんなことを考えながら、俺は馬を歩かせた。
「いってらっしゃーい!」
子どもたちの声が背中に届く。
「おみやげ!」
「おみやげはない」
そんなやり取りをしているうちに、村の家々は少しずつ小さくなり、やがて丘の向こうに隠れて見えなくなった。
ルミナ村の外へ出ると、視界いっぱいに高原が広がる。
風に揺れる草原、遠くの森、そして王都へ続く長い街道。
静かな景色だ。
俺は馬をゆっくり進めながら、深く息を吸った。
「久しぶりだな」
何が、というわけでもないが、思わずそう呟いていた。
しばらくの間、俺とレオンは無言で街道を進んだ。
レオンは昔から無駄に話すタイプではないし、俺も特に話すことがあるわけでもない。
ただ、馬の足音と風の音だけがゆっくりと流れていく。
やがて、レオンが口を開いた。
「久しぶりの遠出ですね」
「そうだな」
俺は空を見上げる。
雲がゆっくり流れている。
「村にいる方が落ち着くんだよ」
「でしょうね」
レオンが小さく笑う。
昔からこいつは、弟子の中でも特に真面目で、礼儀正しく、余計なことはあまり言わないやつだった。
「そういえば」
俺はふと思い出したように言う。
「他のやつらは元気にやってるのか?」
弟子たちの顔が、ぼんやりと頭に浮かぶ。
全員が同じ時期に道場へ通っていた連中だ。
レオンは少し考えるように前を見ながら答えた。
「ええ」
それだけだった。
まあ、それ以上聞くつもりもない。
あいつらももう大人だし、それぞれ好きな場所で好きにやっているだろう。
師匠がいちいち気にすることでもない。
そんな気楽な気持ちのまま、俺は王都へ向かう街道を進んでいった。
――数日後。
街道を進むにつれて、人の数が少しずつ増えていった。
商人の荷馬車、旅人、冒険者らしい連中。
行き交う人々の話し声や馬車の音が、だんだん賑やかになっていく。
そして遠くの地平線の向こうに、大きな石の壁が見えてきた。
「……でかいな」
思わず呟く。
王都アストリア。
王国の中心にある巨大都市だ。
高い城壁の内側には、びっしりと並んだ建物の屋根が広がり、塔や城の尖塔が空へ突き出しているのが見える。
俺が最後にここへ来たのは、もう何十年も前のことだ。
「懐かしいですか」
レオンが聞いた。
「いや」
俺は首を振る。
「やっぱり村の方がいい」
正直、人が多すぎる。
そんなことを思いながら門へ近づくと、門番たちがレオンを見るなり慌てて姿勢を正した。
「騎士団長!」
慌てて敬礼する。
レオンは軽く頷くだけで、そのまま門を通った。
俺はその後ろを、のんびりついていく。
王都の中へ入った瞬間、街の騒がしさが一気に押し寄せてきた。
露店の呼び声、馬車の音、人々の足音、遠くから聞こえる楽団の演奏。
ルミナ村とは比べ物にならないほどの活気だった。
「……疲れるな」
思わず呟く。
その時だった。
通りの向こうから、一人の男がこちらへ歩いてくるのが見えた。
背は高く、細身の体格で、長い外套を羽織っている。丸眼鏡をかけたその姿はどこか学者のような雰囲気があり、歩き方も落ち着いていて無駄がない。
男はレオンを見ると、少し目を細めた。
そしてその視線が、ゆっくりと俺へ向く。
次の瞬間――
男の目が大きく見開かれた。
「……師匠?」
懐かしい声だった。
俺は少し目を細める。
「ああ」
思わず笑った。
「エリオットじゃないか」
王立学院教官となった弟子――
エリオット・フェルディアとの再会だった。




