第十一話 師匠、過去を回想する
王都の一角、石畳の通りに面した小さな古書店は、古びた木の看板と埃をかぶった分厚い本が並ぶ窓のおかげで、昼間でもどこか静まり返った雰囲気を漂わせており、通りを歩く人間のほとんどはそこをただの古い店だと思って通り過ぎていくが、その店の奥にある目立たない扉を開け、さらに階段を下りた先には、外の様子からはまったく想像できない広い石造りの空間が広がっていた。
そこは王国諜報部が使用している拠点の一つであり、壁には王都とその周辺の詳細な地図が貼られ、机の上には各地から集められた報告書や記録が山のように積み上げられていて、普段ならば数人の諜報員たちが静かに書類を整理したり、地図を前に情報を確認したりしているはずの場所だった。
しかし今、その部屋の空気は、普段とは明らかに違う緊張を帯びていた。
理由は一つだった。
部屋の中央に立っている男――アルト・レイヴァル。
そしてその横に立つ、王国騎士団長レオン・ヴァルディス。
諜報員たちは仕事の手を止め、遠巻きにその二人を見ていた。
つい先ほどの出来事が、まだ頭から離れないのだ。
一人の諜報員が、半ば試すような気持ちで放った攻撃。
それは決して油断したものではなく、諜報員として鍛え上げられた速さと正確さを持った一撃だったが、アルトは振り返ることすらなく、手に持っていたただの木の棒をわずかに動かしただけでその攻撃を弾き落とし、その後の動きもまるで水が流れるように自然で、まるで最初から相手の動きが分かっていたかのように攻撃を完全に封じてしまったのである。
諜報員たちは言葉を失っていた。
そして沈黙が続く中、当の本人が困ったように笑いながら口を開いた。
「そんなに警戒するな」
アルトは肩に木の棒を乗せながら、どこか申し訳なさそうにそう言った。
「ちょっと体が動いただけだ」
その言葉に、部屋の空気がさらに微妙なものになる。
諜報員たちは顔を見合わせた。
体が動いただけ。
それであれなのか。
そんな疑問が、全員の頭の中に浮かんでいた。
その空気を見て、レオンが小さく苦笑する。
「師匠、それはさすがに無理があります」
アルトは首をかしげた。
「そうか?」
その何気ないやり取りを、少し離れた場所から静かに見ていた人物がいた。
セリス・ナイトレア。
王国諜報部隊長。
長い黒髪を後ろで束ね、落ち着いた目でアルトを見つめている。
しばらくして、セリスはゆっくりと歩き出した。
石の床に靴音が静かに響く。
アルトの前で立ち止まると、ほんのわずかに微笑んだ。
「相変わらずですね」
アルトが顔を向ける。
その返事は、昔と変わらない静かな声だった。
アルトは少しだけ周囲を見回しながら言う。
「しかし驚いたな。お前がこんなところで働いてるとは思わなかった」
セリスは軽く肩をすくめる。
「私も、こうなるとは思っていませんでした」
彼女は机の上の地図に視線を落とした。
王都の地図にはいくつもの印がつけられており、それぞれが諜報活動の重要な地点を示している。
「気づいたら、ここにいました」
アルトは腕を組みながら頷く。
「昔から、人の動きをよく見てたからな」
その言葉に、セリスは少し目を丸くした。
「覚えていたんですね」
アルトは軽く笑う。
「そりゃ覚えてる。お前は剣を振るより先に、人を見てたからな」
その言葉を聞いて、セリスの頭の中に一つの光景が浮かんだ。
高原の上にある小さな村。
ルミナ村。
木で作られた道場。
そこで毎日剣を振っていた子供たち。
セリスはその中で、いつも周囲を観察していた。
誰がどんな動きをするのか。
どうすれば相手の動きを読めるのか。
その癖を、アルトはずっと見ていたのだ。
セリスは静かに言った。
「師匠」
「ん?」
「久しぶりですね」
アルトはゆっくりと頷いた。
「そうだな」
「何年ぶりだろうな」
「かなり経ちました」
セリスはほんの少しだけ微笑んだ。
その表情を見て、近くにいた諜報員たちは密かに驚いていた。
部隊長が笑っている。
しかも、こんな柔らかい表情で。
それは誰も見たことがないものだった。
アルトはその空気に気づいたのか、少し肩をすくめる。
「なんか見られてるな」
レオンが苦笑する。
「当然です」
「王国騎士団長の師匠ですから」
「やめろ」
アルトはすぐに言った。
「そんな大げさなもんじゃない」
セリスはそのやり取りを見て、静かに目を細めた。
やはり、この人は変わらない。
どれだけ強くても。
どれだけ周囲が騒いでも。
本人はまったく気にしていない。
セリスはゆっくりと口を開いた。
「師匠」
「はい?」
「王都にはしばらく滞在するんですよね」
アルトは頷く。
「八日後に王様と会うらしい。それまでは暇だ」
セリスは少し考え、そして言った。
「でしたらまた来てください」
アルトは周りを見回す。
「ここにか?」
「ええ」
セリスは静かに答える。
「話したいことが、まだたくさんあります」
アルトは少し考えたが、すぐに頷いた。
「分かった。また来る」
セリスは小さく頭を下げた。
その様子を見ていた諜報員たちは、改めて思う。
あの男は、一体何者なのか。
その日の夜、王都から遠く離れた街道では、月明かりに照らされた草原の中を一人の女が静かに歩いており、長い銀髪を風に揺らしながら迷いのない足取りで進むその姿は、まるで長い旅に慣れきった剣士のようだった。
女はふと足を止める。
遠くの地平線の向こうに、王都の灯りが見えていた。
「……王都」
小さく呟く。
風が銀髪を揺らす。
女は腰の剣の柄に触れた。
懐かしい光景が浮かぶ。
小さな村。
木造の道場。
そこで剣を振っていた日々。
女は静かに笑う。
「いるんでしょう」
「師匠」
そして再び歩き出す。
流浪の剣士。
王国八傑の一人――
フィリア・ルーヴェル。
彼女もまた、王都へ向かっていた。




